錬金術師①
「美味しい」
ワインがこれほど美味しいものとは知らなかった。
やはり余計なわだかまりがなくなり、心に余裕ができたおかげだろうか。
ほろ酔いの感覚もあまり好きではなかったのに、今夜は心地よく感じる。
「長かったな」
錬金術師トラップ。年齢は29。
史上最年少記録9歳で資格を取り、大人たちからは天才と呼ばれた。
きっと歴史に名を残すような偉大な功績を遺すだろうと、周囲からは期待を一身に受けていた。
プレッシャーも凄かったし、また自惚れもあった。けれど仕事の依頼を受ければきちんとこなしたし、信頼もされていた。
16歳だったろうか。この頃から露骨に仕事が減ってきた。同年代が年齢に見合った活躍をするようになったからだろう。
対してトラップの錬金術師としての実力はほとんど上がっていなかった。
自分が早熟なだけの凡人だったことにようやく気付いた。
それからすぐに研究職に移った。もう他人と比較されるのは嫌だったので、誰もやらないような難しい研究を選んだ。
その研究テーマは『モンスターの進化と応用』。
もうこのときには誰も自分が天才と呼ばれていたことを覚えていないし、自分に興味を持つ者もいなかった。
だが、それが却ってよかったのか、研究に専念できた。
何度も失敗を繰り返したが、それを真摯に受け止め、改良を繰り返した。
そして、つい先日、ひとつの完成品を生み出した。
正直、自分は成功者にはなれないと心のどこかで諦めていたのだが。
この薬の開発だけは、完全な成功だった。
誇張ではなく、本当に世界を変えてしまうほどの大発明であった。
「うん。美しい」
薬瓶を月にかざした。その中は赤い液体で満たされている。
彼はこの発明品に『エボルンジェン』と名前を付けた。
進化薬を意味する言葉だ。
「どうだい、セレーネ。美しいだろう」
「にゃあ」
傍らにいるのは飼い猫のセレーネだ。どこにでもいるような黒猫だが、普通の猫より体が大きい。
立ち姿が綺麗だったので、一目惚れして数年前から飼い始めた。
いつも近くにいてくれて、苦しさも悲しさも分かち合ってきた。彼にとって唯一無二の友と呼べる存在である。
満月の夜、月明かりの差し込むテラスで最愛の友と夢や理想を語り合う。これはトラップが幼い頃から抱いていた憧れのシチュエーションだった。
友は「にゃあ」としか答えないし、向こうから話を切り出して来ないが、何年も一緒にいたトラップには分かっている。
彼女は喜んでいる。
別に拘束しているわけではないし、嫌なら逃げ出せばいいが、彼女はそれをしない。
それに微妙な変化だが、鳴き声のトーンも高い。いつも以上に瞳も澄んでいる。
他の人には気付けないだろうが、トラップだけは気付いている。
セレーネは傍らにいる錬金術師の理想を真に理解し、心からの祝福を送ってくれているのだ。
彼女の前でなら気持ちよく自分の考えを披露できる。
「これはね。美しいだけじゃないんだ。夢のクスリなんだ。凄い効果を秘めているんだよ」
「にゃあ」
「え? どんな効果か知りたいって? 簡単に説明すると、モンスターを進化させる薬なんだけど、これだと漠然としすぎかな」
トラップは彼女にも理解しやすいように噛み砕いて説明することにした。
机の引き出しから書類を取り出すと、猫の視線から見やすいように紙を開いた。
そこには奇妙な生物の図が描かれていた。
毛むくじゃらの球体で、目も鼻も耳も口も存在しない。手足もない。
代わりに下方向だけに根っこのようなものが無数に生えている。
「これは世界最古のモンスター。私たちは便宜的にⅩと呼んでいる。かつてこの世界にはモンスターが一匹しかいなかったんだ。それがこのⅩなんだよ」
「にゃあ」
「うん。それでね。Ⅹは環境に適応するために進化を繰り返し、数を増やしていったわけだけど、どんなに形を変えても、決して変わらないものが存在したんだ。それが…」
トラップはⅩの図にペンで書き足した。体の中心に菱形のマーク。
「Ⅹ器官。これは全てのモンスターが持っている。分類学上モンスターと動物を区別するときに使われていて、モンスターの始祖がⅩである証拠にもなっている。でも、こんな重要な器官なのに、その詳細は謎に包まれている。モンスター進化のカギになるとは昔から言われ続けているんだけどね。というよりもⅩ自体が今の技術力では解明不可能と言ってもいい」
セレーネが難しそうな顔をしている。ここでひと呼吸おくことにする。
「前置きが長くなってしまったけど、この薬『エボルンジェン」はⅩ器官に働きかけることを目的に作られている。大きな刺激を与えることで、機能が促進される。普段は使う必要がないから眠っているⅩ器官が活発に動き出すことで、モンスター本来の力を発揮できるようになる」
「にゃあ」
「そうだね。厳密には進化じゃない。覚醒や成長促進と言った方が近いかも。でも、進化薬って言った方が凄そうに聞こえるだろう?」
「にゃあ」
「ありがとう。君ならそう言ってくれると思ったよ……ん? どうしたの」
セレーネは急に本棚に飛び乗ると、足元を爪で引っ掻いた。
彼女は理由もなく会話の流れを切ることはしないので、この行動にも何か意味があるのだろう。
本棚にあるのは研究記録などすぐに必要になってくるもの。
それを考慮に入れれば、すぐに答えが分かる。
「君が知りたかったことは理論じゃないんだね」
言われてみれば、実験のときは興味深そうに眺めていた気がする。実際に手を動かしているほうが見ている分にも楽しいのだろう。
レシピを選んであげた。
材料や触媒、構成比などが事細かに書かれている。
これには彼女も大満足のようで、声も上げずに眼を動かしている。
レシピは文字と数字の羅列で埋められており、挿絵などは一切ない。
見ているだけで面白いのかは疑問だが、きっと彼女にしかわからない面白さを見出しているのだろう。
「今度は実験過程を記したこちらの書物を見せてあげよう」
「にゃあ」
それからもトラップはセレーネとの親交を深めた。
一緒に食事をして、一緒にくだらないゲームをした。
彼女は嘘を吐かない。見栄を張らないし、偉そうにしない。見下しても来ないし、くだらないお世辞も言わない。陰で悪口も言わない。
いつも自然体で自分に接してくれて、自分の話を文句の一つも言わずに聞いてくれる。
理想的な相手だった。
世界中が彼女のような女性ばかりなら、世界はもっと美しいのに。
「セレーネ。好きだよ。愛してる」
「にゃあ」
「ほんとうだよ。君だけなんだ。ずっと私と一緒に……」
ダメだ。今夜は飲み過ぎてしまった。もう眠ることにしよう。