心臓が盗られた話【名無しの墓守視点】
名前のない……特に呼ぶ者がなく、愛着もなかった姓名など忘れた少年は、元は貴族の5男であった。
他に兄弟が何人いたのかは覚えていない。名ばかりの貧しい貴族であったので、きっと子供が死ぬだろうと、跡継ぎになりそうなのを何人も用意していたのだ。
しかし親の当てが外れて全員がしぶとくすくすくと育ち、金を食うようになったから方々へ養子だのに出されていった。
彼もまた文字が書けるようになった辺りで、医学を教えるからと養子に一人乞うた男に、つつがなく引き渡されたのだった。
およそろくでもない両親とつき合いのある男だ。案の定目隠しで連れ去られたのはまともな家ではなく、見たこともない薄汚い広場だ。そこかしこに死体が放置され、腐臭が漂ってくる。その他にあったのは、雨風をようやくしのげる小屋と、口も利けないほどに弱った老人だけだった。
教会の敬虔な信徒に、うつくしく整えられた墓場しか知らない彼が目を剥く有り様である。泣くよりは唖然とした彼を気に入ったらしい。上機嫌に難儀していたのだ、とその男は言った。ただ死体を捨てても臭うからと、処理役を探していたらしい。
少年が、異常を察して何もかも諦めるまでは早い。彼のすぐ後に連れてこられた男が、仕事もせず散々騒いで、夕方にはそいつの死体を埋葬する羽目になったからだ。
どうせ真面目に働きさえすればどこかの木戸が開き、食い物と水の入った革袋が落ちてくる。運悪くつく羽目になったろくでもない仕事でしかないと、割り切ることにしていたのだ。
最初の仕事は単純だった。洗って、消毒して、正しく死体が土に馴染むように処理するだけだ。後は日に一回、寝込む老人に、水と食えそうなものを与えるだけである。それも、すぐに必要なくなった。
すぐにおかしくなっていなくなったけれど。後にも何人か大人がきた。自分を連れてきた男から、何か受け取った後は声をかけるのをためらわれる程に幸せそうに、熱中して働いていたのに。気が付けば方々を荒らして何かを探し回り、終いには足腰が立たぬ有り様で、水も取れずに死んでいくのだ。
死体が増えるばかりで、彼以外のような人手などあってないようなものだった。結局彼が一手に担った仕事の中、日に日に磨かれた技術で始末も早くなれば、娯楽のない奈落では、当然暇を持て余したのである。
傍目には従順に仕事を全うする彼が、いらぬ信頼を得るまでは早い。これからは新入りを連れてくるとさらった男が言って、その時に気が楽になるから飲ませてやれと、よくわからぬ物品の管理まで任されるようになったほどだ。
そんな中にまた連れてこられたのは、やたら愛想のいいひょろいガキだ。どうも自分のようにガキから教え直せば、多少はもつとでも思ったらしい。
まだ幼いが、死体洗いくらいには役立つかもしれない。
そう思って慣れないながらも新人教育を始めたのだが、今度は人選が良かったようだ。少なくとも、騒ぎ立てて死にに行かないという点においてはだ。
やけに整ったナリをしたヤンというガキは、家に帰せと騒ぎ立てることもなかった。抜け目なく周囲の状況を掴み、彼の仕事に怯むどころか、やけに熱が入ったように見入っていたのである。
こんな死体いじりの記録に感心したように、感嘆の熱を含んで自分を見たのが、何だか嫌な予感がしたものだ。気持ち悪いなとさえ感じていた。
死体の服を解いて作った糸で傷を縫い合わせ、ヒトの形に修理し、記録するのを始めたのも単純なヒマつぶしであった。酷い有り様で死んだのを、気の毒に思ったわけですらない。これも何度も繰り返す内に勝手を掴んでいく内に、趣味のようなものになっていただけだ。うまくできれば記録に取ったし、違う方法が思いつけば試行する。それだけだった。
そして彼の中に残っていた道徳は、やたらきらきらしい視線が、面白半分に死体を弄る男に向けられていいものじゃないと冷静に判じていたのである。
この時点でそいつが紛れもない異物で、新しい面倒事で、ろくでもない変化でも連れてきそうだと。無意識に分かっていたのかもしれない。
なにせ直後に新入りを酔わせるために入れた茶に、自身が魅入られる失態でもって、予想は早々に現実となったのだから。
鎖だ。四肢を戒めて寝台に彼を縫いとめるのは、ひとかけも重い鉄鎖であった。
何か酷く幸せな夢を見ていた気もするのだが、詳細を全く思い出せない。
今や醒めた彼に残されているのは、ぐずぐずとした背中の痛みと、馴染みある肉の腐る臭い、耐えがたい空腹。そして、そして。
確かめて数える度に、新しい苦痛を見つけてしまう。発見は何一つも解決を得ず、丁寧に積み重なる苦痛が絶え間なく彼を苛んだ。
ああ、と呻いた声は喉でこごって、やや余裕があるはずの鎖すら持ち上がらない。
なんでオレは、こんな目に。なんで、なんで。
「薬の用法用量を守らないからです!どんな聖人であれど、破ればもたらされる症状にしかすぎません!」
一部の隙もない両断でもって、疑問だけは即座に解決した。
ただ、かすれる嘆きを拾ったのが、断固として涼やかな声が、カン、と軽やかな音が、一体何かも分からなかった。
彼の視界へにじんだのは、霞んだ目にも主張の激しい赤だけだ。
よく冷えた管のようなものを口元に宛がわれると、少量の水が舌先に当たった。
猛烈なのどの渇きを思い出した彼は、無我夢中で吸い込んだ。甘さすら感じる冷たいのはゆっくりと喉に馴染んで、いくら飲んでも足りない心地がする。
「かっ…けふっ…!!」
「ほら、ゆっくり飲みなさい。また吐き戻しても知りませんよ」
急いて吸い込んでむせた彼の肩を、労わるように撫でて宥められる。渇いた、どこまでも冷静な声だ。耳鳴りがするような中でも、どっしりと響く。
何だろう、何なんだろう。終ぞ母親にすら向けられなかった親切をくれるこれは。
「ぇ、あみ…?」
「……何でしょう。もう一度、一音をゆっくりと……」
顔を寄せられたようだ。息遣いが近い。死体の処理に使っていた酒のような匂いが薄く、わずかに柔らかい花に似た香りが入り混じる。
「あん、た、め、がみ…か?」
「………眼鏡も用立てねばなりませんね。貴方の視力は異常です。ああ、顔が汚れていて目が開かないのですか。であれば妄言も仕方ありません。許しましょう」
たっぷり黙ってから、呆れたような調子でこぼす。湯で湿らせたらしい布で、顔の汚れを拭われた。その手つきが優しい。
「まったく、酷いものでした。貴方ときたら、一体何を飲めばそうなるんです?死なずに狂う分、毒より余程質が悪い」
手慣れた調子で、固まった眼脂をふやかして、綺麗になったと満足げに呟いた彼女の手が離れる。見えますか、と問われて何度か瞬きしたあと、ようやく鮮明に像を結んだ。
そこには真っ赤な髪の一筋も落とさぬよう固くまとめた、まだ幼い少女がいた。
きりりと細い眉、真白い簡素な装いで、清潔な気高さでもって少年を見ている。唇は引き結ばれ、やや頬がほの赤く染まっていた。
……その時。過酷な生活で時折神に祈る程度だった彼の語彙に、好ましいとか、きれいだとかは既に生き残っちゃいなかった。
「やっぱり、女神じゃねェか……」
彼は胸を掴んで、締めつけるものの正体を知らない。
だから辛うじて、以前みた最も尊くて、神々しくて、いくらでも見ていられそうなものに例えたのだった。彼にとっては即ち、協会のステンドグラスに映し取られた女神である。
目を奪って離さない少女をそう判じたところで、一体何が異常なんだ。
そうぼやいた少年に、少女はため息を吐いてベルを鳴らした。
「貴方、水差しでいいわ。いくらか水を入れて持って来てくれない?ああ、もしかしたら眼医者も必要になるかもしれない」
「……それを、どうなさるおつもりですかお嬢様」
吸い飲みを持つ少女に、呼ばれてやってきた使用人の女性は多少の嫌な予感と共に尋ねた。
返答は少年の頭上で、景気よく何かをひっくり返す仕草でもって行われる。
「どうも薬がまだおかしな効き方しているから、早く眼をさまさせないと。この量では足りないでしょう?」
「お嬢様がそこまで言うなんて何があったのですか?!」
「だってこの人、言うに事欠いて…………」
簡潔で明瞭な少女が、この時ばかりはたっぷりと一分言いよどんで、酷く恥ずかし気にようやく絞り出す。
「私なんかのこと、め、がみだなんて言ったのよ」
事態を察した使用人のため息が落ちる。ベッドに転がる彼からも、そっと使用人が眉間を揉むのが見えた。
使用人がそっと2本指を立て、何本見えるか聞いてきたので答えると、眼は見えていますねと適当なことを言った。女神、と聞きながら少女を指差す使用人の方が普通に無礼だと思うのだが、よほど普段から近しい関係なのだろうか。少女に腹を立てる様子はない。
それ以外に例えようがないだろうと言えば、そっと一つ頷いて使用人は少女に向き直っている。
「お言葉ですがお嬢様。偽りない心情の吐露を根拠なく異常と呼ぶのは、私情を挟んだ誤診では?医師として最も許されざる行為です。世の中にはお嬢様の如く偏屈で、他人の好意をまず否定しにかかる面倒な方でも、よく分からない点で心底惚れ込むような奇特な御仁はいくらでもいらっしゃいます。一々動揺なされないように、おかしな男に引っかかりやすくなります」
「いませんよそんな方!ほんっとうに無礼ですねミモザは!」
「…………………いや、ここにいるだロ」
「貴方は……!貴方は、その……おかしい薬で、判断がおかしくなっているだけよ。信じられるものですか!いいから眠りなさい!……鎖は、明日お父様の診断の後で外すことになっています。外してほしければ、これ以上そのような妄言を吐かないことです」
そう言った顔がやけに苦し気で、もう彼に重ねられる言葉の持ち合わせはない。何を言えば伝わるのかと、難解な少女に悩めば、泣きそうになって走っていってしまった。一礼して、ミモザと言われた女もまた引き下がる。
おい、とか細く呼んだ声も、分厚い壁が吸い込んでいくようだった。仕方なく少年も、再び目を閉じることにした。
結局、助けられたことは分かったが、何故あの赤毛の少女が、ここまでしてくれたのかが分からない。
自分の死に際にはまた新しい死体処理の人間が送り込まれて、これまでの連中同様に葬られるとばかり思っていたのに。
不愉快な症状ばかりが苛んで、次々と解決しない疑問も積み重なり、それすらどうでもよくなるほど。
「ナマエ……教えていけよ…」
じゃないとお前のことを考えるにも難儀するじゃねェかとぼやいたところで、誰が返す訳でもなかった。
数年後、この一件を妻との馴れ初めとして聞いた腐れ縁の吟遊詩人からは、さてはつんでれ萌えだったかとよくわからない総評を得ることになる。




