私の貴方へ【ローエングリン視点】
ローエングリンは、街の鍛冶屋の次男として生まれた少年である。
この一族にはない黄色い目の色をもっていたが、妖精の取り換え子は昔からよくあることだったし。子どもながらに親の手伝いも、街での下働きも熱心にしたから、邪険にされることもなく普通に育っていた。
……そうでもなければもっと、ずっと早くに追い出されていたかもしれない。
管理の甘い助産院では、赤ん坊の取り違えは良く起きたことだし。子を亡くした親による誘拐だってざらにある。それを妖精の取り換え子なんてごまかして、口当たりのいいおとぎ話として折り合いをつけている。
だから即座に浮気とは糾弾されないが、それでも血の縁がない子どもまで育てる余裕のある家はない。両親のよそよそしさが、自分に起因するものだとは気付いていたのである。
ある日、店に貴族からの使者が迎えに来た時、ローエンは自分の知らない間に養子の話が進んでいたのを知った。大量の支度金を受け取った両親に、名誉なことだと喜ばれ、送り出されたのはその日のうちだ。
両親はこれから幸せになれると彼に言い含めたけど。仲の良い兄弟は全員自分を見ず、足元の小石を靴の先でつつくばかり。それをどうして、と訊けるほど、聡いローエンは幼くなれなかった。余所にやらないで、と泣くには、彼らに情もないのだと悟ってもいた。
助産院の都合を知っていても、口さがなく母の不貞をなじる者は多い。同情をしても、外れくじだとローエンを扱う者が大半だ。決して直接何も言われはしなかったけど。自分の目を苦い顔で見つめる両親を知っていた。煩わしい空気を家に持ち込むローエンを、気に入らないと睨む兄弟に何度詫びたか知らない。
両親も使者も何も言わなかったから。結局以前の名を捨てて、ローエングリン・ウィンステンと名乗ることになった経緯は養子先の家で語られることになった。
自分と入れ違いに家を出て、辺境の別荘まで避難するのだというウィンステン夫人お付きの侍女が、酷く自分に同情してくれたのだ。
可哀想に。親から授かった名前を捨てて、金で婦人の息子の身代わりとして買われるだなんて。この国に仕えたら最後だから、長男は既に隣国に留学と言う形で逃がしている。きっとあなたを最大限利用するだろうあの男には気をつけて。
ローエンを気遣って、冷えた両手をやわらかに包んだその人は決して悪く見えなかった。大きな帽子のつばで隠すように泣いていた。だから、真実なのだなと受け入れざるを得ない。親の分からない取り換え子にも、何がしかの使い道を見出す連中はいるということだ。それが裏の仕事じゃなかっただけ十分じゃないか。
それでもその直後に挨拶したウィンステン伯爵の顔を、まともにみれなかったのは言うまでもない。【商品】に満足したのか、それとも失望したのか。二言三言、よく来たねと声をかけられて、忙しい男はそれからも顔を見る機会もないまま、ローエンは詰め込まれた習い事に忙殺された。
借りものの名前、身代わりの生。
それを良しと出来るほど、ウィンステン家の連中を知らない。けれどいつか、もしかしてまた使うことがあるかもしれないと。大切にしていた名前も、もう彼の物じゃない。
こっそりと習い事の合間に見に行ったあの家には、両親と兄弟の他に見覚えない子どもが増えていた。
鍛冶の手伝いをしていたらしい。かわるがわる兄弟に構われて、父にぶっきらぼうに頭を撫でられ、母に顔の煤を拭われている。みんな幸せそうだ。ローエングリンがそこにいた時よりも、ずっと気楽に笑っている。
自分と同じ年の、自分の前の名前で呼ばれる子どもは、彼らと同じ色をしているから。きっと新しく、必要なのを買ったんだろう。ウィンステン伯爵と同様に。
弟が自分を見つけて、何か言おうとして結局顔をしかめた。様子のおかしい弟を訝しんでこちらに目を向けた母が、自分の名前で呼ばれた少年をかばいながら怯えている。それからローエンの視線を振り切って、殊更明るい声を出して昼食だと家の中へ兄弟を追い立てていった。最後に家に入ろうとした父が、脅すように砥いでいたらしい斧をローエンに向けて振り下ろすような真似をする。
こうしてローエングリンは、そもお前に情を与えていたのが間違いだったのだと、言葉もなく丁寧に告げられたのである。
密かに抱えていた名前も取り上げられて、簡単に挿げ替えられる『誰でもいい』存在になった少年は、何一つ自分の物がないのをこの日に改めて知ることとなった。
それからは呆然と生きて、いつの間にかあの侍女が言ったように、彼は騎士団の見習いとして席を置くことになった。平民には過ぎた職だ。上司に言い聞かせられるような忠心など、その日を生き延びるだけで十分な人間が抱くようなことはない。元より、仕えるに値しない、と評された王になど。
それでも彼には、槍を振るう素質だけはあった。
彼のものだと差し出された簡素な槍は、思いの外彼の手に馴染んだ。少し年上の連中と試合をしても負けなしだったから、特別目をかけられて訓練が増えたのは参ったけど。よく眠れるようになったので問題はない。
もしかしたら、あのまま家を手伝って、炉で鉄を錬るよりは向いていたのかもしれない。幸いである。またいついらぬからと、売られるかもわからない。知らぬ人の為に死ぬ気もないから、腕を磨いておけば有事に逃げ出すこともできるだろう。
人を殺す術だけは、きっとどこでだって重宝される。せいぜい磨いておかなければ。また誰かの気まぐれで、ローエングリンでなくなる前に。
◇
門番から世話を押し付けられたそのひとに、兄貴と呼ばれて懐かれたのが嬉しかった。
酷い言葉で先行きを呪われたのを、共に踏みつぶすのは楽しかった。
染みのついたシャツとズボンを纏ったそのひとが、月よりも燦然と輝いたのに見惚れた。
「ありがとう、ローエングリンさん。貴方の心遣いに私が差し出せるのは、最大の感謝しかありませんけれど」
だから礼を言われることなどないのだ。
店を案内して、別れることも出来たのに。兄貴、と拙く呼んで、懐いてくるのが心地よかっただけなのに。結局あの男から助けることも出来ないで、彼女に言われるまま手を貸すだけで。
それでも、『彼だけ』に向けられたそれに、心臓が壊れたように跳ね上がったのを感じた。ずっとくすぶっていた不満が、今ここで止めを刺されたのを感じていた。
シャロン・キルケーリア。薄幸を踏みつぶす靴の君。軽やかに祭りの鐘を蹴り飛ばす貴方。
思いもよらなかった心からの感謝が、何一つ寄る辺のないローエングリンには、望外の褒美だったなんて知らないんだろう。
叩き込まれた騎士としての礼を取ったのは、淑女に対しては当然のことだ。すぐに照れ臭くなって笑み崩れたその人と、月も隠れる木陰に潜んで笑い合った。
門前の木箱に作った寝床に入っても、門番の騎士共にどうだった、と興奮して聞かれるのは参ったけど。埃臭い木箱の中でも、いつまでもふわふわとした高揚感だけがある。
ああ。上等な酒で酔った時は、きっとこんな心地がするのだろう。どうしようもない時に、手を伸ばしたくなる理由も分かる。酒場の酔っぱらいが、ジョッキを手放すまい、一滴でも酒を手に入れようと、あがく気持ちが今なら分かりそうだった。
何も憂えることなどないと心から信じさせた幸福な夜に、ローエンは自分が騎士として生まれついたのを知り、己が生涯仕えるべき主を定めたのである。
◇
もう前の自分ではないからと、以前下働きをした酒場の連中は、決してローエンを忘れていなかった。シャロン…ヤンと芸名を名乗る王女の付き添いで顔を出すことも増えて、その都度顔見知りも親しく話す人も増える。
案外、彼の名が変わったのを気にした連中はいない。皆が自然にローエンと呼んで、彼を気楽に輪の中に招き入れる。護衛に忙しい彼を、他愛ない言葉遊びに巻き込んでは笑い、もう少し甲斐性をなと説教して旨い飯を奢られる。
彼の働きを評価していたのは、前の家族ではなかったなどと。ひとりふて腐れていては、決して気付かぬままだった。それでまた少しシャロンに感謝して、武器は持てないその人の助けになる気持ちが強くなる。
だから最近、トルドー以外にうろつくことが増えた不審者への対応にも余念はない。
「き、君はローエングリン君って言うのかい?!はじ、はじめまして!」
興奮してまくし立てるのは、顔の造作も分からぬ色眼鏡に、深く被った帽子が怪しい男である。
ユトリロで吟遊詩人テアドールにマンドリンを習う彼の主…シャロン・キルケーリアの背後を、うろついていたのを捕獲した。……かと思えばやたらもじもじとこちらを見るので、問い詰めていたら不躾にもローエンの話を聞きたがったのだ。
曰く、何故ここにいるのか。あの子は何だ、とか。あの子とどういう関係だ、とか。
断る前にとめどなく質問が降るので、止めるのも面倒になってくる。何を突っ込んでやれば黙るか検討を始めると、不穏な気配を察した連中が自分の皿の腸詰肉だの、香草をあしらった芋団子だのを隠していく。舌打ちした途端、他の常連にがばりと肩を抱かれた。落ち着けよと宥められて、これでも食えと飴玉を口へと放られる。
ガキ扱いかよ、と思ったが。確かにここの連中から言わせれば、ローエンもシャロンも等しくガキだ。様子のおかしい連中から、総出で庇う理由には足りるらしい。
「あーおいおい。ローエンはちょーっと人見知りだからな。それもねぶかーい理由ってもんがある。聞きたいかい旦那ぁ!」
一人で三人分はうるさい男を、酒場の常連どもは知っていたらしい。ローエンが不機嫌にむっつりと押し黙ったのを面白がって、彼のこれまでの生い立ちを勝手に語ってしまった。
結果としては、椅子に座ったまま飛び上がる男を初めて見たと言っておこう。
男が持つエールの入ったジョッキは手の震えが空にして、しきりに空いた手で上等そうなハンカチで汗をぬぐい始めた。きたねーなばか、と誰かが投げた台拭きが顔に当たって、ようやく正気付いたようだ。
「えっちっ……違うんだけど!!愛してた前妻との子を、助産院で勝手に似てない子に取り換えられてたんだよね?!ずっと前妻が浮気してたと言われてて、後妻が手を引いてたのも分かって、やっと街で見つけたって引き取ったって……!やっと、自分の子を妻と決めた名前で呼べるって……!!」
「……は?」
何とちくるったことを言ってるんだ、とは十分に伝わったらしい。わたわたと手をばたつかせている男の顔に見覚えは……そも、ウィンステン伯の顔も十分に覚えていないローエンである。
もっとはっきりくっきり分かるように話せと、順調に苛立ちを募らせた。
………恐らく、この男が口下手なあまりに、いらぬ苦労をしたようだと一瞬で分かったからだ。事情を知っていたらしい常連共が、にやにやと乾杯しているのを見て気付いていたからだ。
「だって君の目、ぼっ……ウィンステン伯と同じ黄色だよ!そこの家系にしかない特徴で……あっいけないよローエン君!眼鏡に指紋をつけちゃいけない!わ、割れたぁ!」
「さっきから俺の主につきまとっておいて何ぬかしてやがる……ここで殺さないまでも、いつかのために顔は覚えなきゃならないだろ……」
「いけない!まぶたに指をかけちゃいけない!」
「ローエン、それウィンステン伯爵だぞ一応」
分かっている。だからこそ、うっぷん晴らしはこの男が名乗らない今の内にとも思っている。
もっと早くに、と思っても、きっと聞いても信じなかった。シャロンがいなければ、前の自分が濃く色づくこの店に来ることもなかっただろう。
散々レンズの表面を指紋で埋め尽くして満足したので、話は次の非番だと家に帰したが。翌日から父より怒涛の枚数の手紙を受け取ることになった彼が、上司に許されて父に殴り込みをかけるまではそうかからなかった。




