見ている
気付けばそばに、君がいた。
心から愛した君。
すれ違えば誰もが振り返る。とまでは言わないが、人懐っこく、愛嬌があって、誰からも好かれる君が好きだった。
自分の事はろくに思い出せやしないのに、君と過ごした日々だけは、繰り返し見た映画みたいに、色褪せることなく心に焼き付いていた。
もっとも、心という抽象的な響きは、今の自分にとっては少し滑稽に思えたが。
手のひらを見つめる。何かを確かめるように、握ってみて、また開いた。
視線を移す。見慣れたはずの君の部屋が、なんだか懐かしく見えた。赤みがかったオレンジ色が、真新しいフローリングの床と、君がお気に入りだと言っていた、白い柄付きの壁紙を染める。テレビ台に置かれたデジタル時計を見ると、時刻は4時半を過ぎたところだった。
いつものように君を待つ。
割と大手の出版社で、女性ファッション誌の編集をしているらしい。それもあってか、帰りはいつも日付けが変わる頃だ。
いつだったか、自分が企画したアイドルの特集記事を、とても嬉しそうに見せてくれた事を覚えている。いずれは編集長かと囃し立てる僕に、照れ笑いしながら頷いていた君。何かできる事は無いかと、あれこれ手立てを講じる僕に、申し訳無さそうにしながらも、あなたしか頼りがいないのだと礼を言う君が、何よりも愛おしく思えた。
『ガチャ』鍵を開ける音。帰って来たようだ。
「ただいまー」君の声。
「おかえり。お疲れ様」僕はいつかみたいに、そう答えた。
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今日もほんと疲れた。バカな上司のご機嫌を伺いながら、そう変わらないバカさ加減の顧客を相手に頭を下げる。心の中ではそう思わなかったとしても、それなりの声色と、それなりの所作を行えば、それなりに満足はしてくれる。
日本とはそういう国だ。
自分の見てくれも、それには一役かっていた。
自分で言うのもなんだけれど、まあまあ容姿には自信があった。めちゃくちゃ美人とは言わないけれど、見せ方というか、どう見せればより効果的なのかわかっている。
これまでの人生で身につけたそんな術は、フルに活用する事にしている。そうでなければ。
ようやく家にたどり着いた。本当なら休みだって言うのに、平気で人を駆り出す。その神経が理解出来ない。
帰ったらまずどうしようか。元々は買い物に行くつもりだったのに…。
買ってテレビ台に積んだままの、DVDでも見ようかな。それとも、次に買うご褒美なんかを探して、ネットを漁るのも悪くない。
バッグの中から家の鍵を探し当て、よっと取り出す。馬鹿みたいなキャラの、馬鹿みたいなキーホルダー。本当は付けたく無かったのに、止むを得ず付けていた。でも、もう取ってしまっても良いか。付けておく理由も無くなった。
その場で外して、カバンにそれだけ放り込んだ。これで良し。
鍵を開け家に入る。綺麗な夕日が差し込んでいた。
「ただいまー」
誰もいない部屋へ呼びかける。いつもの光景。
虚しいとは思いながらも、ついやってしまう。
「おかえ…」
『カタン!』
セットで言う《セルフおかえり》は、何かの音に遮られた。
放り投げるようにパンプスを脱いで、部屋にあがる。
テレビ台のすぐ下に、DVDが落ちている。
(置き方が悪かったかな)
拾い上げようとした姿勢で固まった。
「あれ?」
見ようと思って一番上に積んでいたのは、割と最近の洋画だったはずなのに。
手に取ってみる。少し気分が暗くなった。例のキーホルダーの送り主が、どうしてもと進めてきた恋愛映画。ありきたりなストーリーと、旬の若手俳優のそれほど上手くもない演技。必要だったとはいえ、これを見せられた時の苦痛というか、退屈さ加減を思い出した。
(それにしても、こんなとこに置いたっけ?)
そんな心の声と同時に、あの男の顔が脳裏に浮かぶ。頭を振り、定まりかけたイメージを頭の片隅へ追いやった。つまらない事をいつまでも覚えておかない。これは私の信条だ。
『パタン』
後ろのタンスから聞こえた音に飛び上がる。恐る恐る振り返っても、もちろん誰もいしない。 音の出所を探す。すると、タンスの一番上、写真立てが倒れていた。
「何これ…」(こんなの、そうそう倒れる?)
訝しみながら、今度は倒れないようにと、半ば押さえつけるようにして立て直す。
これでよし。写真の中の私と、その隣に立つ男。薄っすらと被った埃を、ふっと息を掛け取り去る。これはまだまだ必要。
片手に持ったままのDVDを、もう一度戸棚にしまいかけて考え直す。なんとなく、気持ちが悪い。なので、今度はゴミ箱へ放り込んだ。これでよし。
カバンをソファに放り投げる。晩御飯はどうしようかな。少しの間悩んで、決めた。
有名シェフが近所に、新しく店をオープンしたんだった。そこにしよう。ちょっと高いけど、どうにでもなる。
やっぱりバッグを掴んで、玄関へ。パンプスを履いて、ドアに手を掛けた。
なんだか気になって、部屋の中を振り返る。いつもと変わらないはずの部屋が、そこにあった。
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『バタン』玄関のドアが閉まる。
帰ってきたばかりだと言うのに、君はまた出て行ってしまった。まだ仕事があるんだろうか。
そういえば、曜日や時間に関係無く、突然、仕事が入ったり、呼び出しを受けることも珍しくは無かった。
そんな時は、決まって電話をかけてきた。今にも泣き出しそうな声で、何度も謝る君。
内心寂しく思いはしたが、ひたむきに夢を追うその姿に対して、大丈夫と背中を押す事に、何の疑問も持たなかった。
ゴミ箱を見つめていた。
いつか君にプレゼントした、恋愛映画のDVD。主人公は、末期ガンを患った余命数ヶ月の青年と、青年行きつけの喫茶店でバイトをする、画家志望の女子大生だ。
自分の命の灯火が、日に日に消えつつあることを知りながら、青年は彼女に恋をする。彼女もまた、そんな青年に次第に心惹かれていくが…。
海辺の町を舞台に描かれる美しいストーリー。最初に観たのは劇場だったが、二人に僕と君を重ね、ぜひ見てくれとプレゼントしたものだった。
余計なことをしたかも知れないと、少しだけ後悔した。
玄関に君の気配を感じた時、テレビ台横の戸棚の隅に、大事そうにしまわれていたそれを見つけてしまった。ジャケットは、あの青年と女の子が波打ち際で向き合い、お互いの手を取り合っているもので、青年が女の子へ、自身の病状と別れを告げる印象的なシーンだ。
それが視界に入った時、思わず手を伸ばしてしまった。何か君に僕の存在を知らせることは出来やしないか。触れる事が出来るとは微塵も思わなかったが、そんな気持ちが僕を突き動かした。
結果、DVDは戸棚から滑り落ち、君の目に留まった。それを手に取り、何かを考える君の顔は、正直見ていられなかった。僕を思い出したのだろう。悲しげな表情に、胸が締め付けられる。
そんな君の肩越しに、あるものが目に入った。僕と君の写真が入っていたフォトフレーム。今、そこに君と並ぶのは、別の男だった。今の交際相手だろうか。いや、そんなはずは無い。デジタル時計が示している日付に間違いがなければ、あの日からまだ一月と経っていない。
(きっと、弟か何かだろう)
そう思ってもう一度見てみると、何となく目元も似ているような気がする。でも、あまりいい気がしないのも事実。さっきのDVDと同じ要領で、フォトフレームを倒した。しかし、自分がこれほど嫉妬深かったとは。こうなってみて初めて、わかることもあるものだ。
君は少し驚いた様子で、すぐに音の出どころを見つける。そして、フォトフレームは元の場所へ立て直されてしまった。まあいいだろう。
そしてもう一度、手に持ったDVDを見つめる。少しだけためらいがちに、ゴミ箱へ捨ててしまった。それが良い。いつまでも手元に置いていては、僕を思い出してしまう。 きっと君もそう考えたのだろう。気持ちは痛いほどわかっている。
たまらず部屋を出る君が、名残惜しそうに振り返り、ゴミ箱を見つめる。
こんな時は、一人にしてはいけない。君に付いていく事にしよう。そして、やっぱり気に入らなかったので、写真が見えないよう、フォトフレームは倒しておいた。
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部屋を出た後も、背後になんだか嫌な気配を感じていた。なんか落ち着かない。
歩きながら、時折後ろを振り返る。もちろん、跡をつけて来る人影はいない。
「まぁ、いっか」
気にしない、気にしない。一休さんだってそう言ってる。
「さあて、何食べよっかな〜」創作フレンチを出すその店は、テレビの取材を受けたり、人気の女性誌にも取り上げられたりした事もあって、なかなか予約が取れない事でも有名だった。
本来ならこんな風に、思いつきでふらっと行けるようなお店では無い。
でも、私には作戦があった。
15分ほど歩いて、やっと店が見えてきた。少し早い時間なのもあってか、店はまだ準備中のようだ。ステンドグラスがはめ込まれた、おしゃれな扉を開ける。金属製の鳴子が、シャラシャラと優しい音色を奏でる。
店の中は、モダンで落ち着いた雰囲気で、小ぶりのシャンデリアがキラキラと輝いている。
赤い絨毯が、一層映える。そこかしこに、オープン祝いの花が飾られている。
自分のことのように、鼻が高くなった。
「お客様、申し訳ありません。ただ今当店は…。なんだ、菜穂子さんか」
ギャルソンの田中が出迎える。職業柄、人懐っこく、笑顔を絶やさないが、言ってみればチャラい。
「何だとは何よ。裕人に言いつけるよ」
「勘弁してくださいよ〜」
おきまりのやり取り。
「裕人は?厨房?」そう聞く私に、田中がお辞儀しながら、店の奥を仰々しく指し示す。
「準備中ですから」いやみなやつ。
遠慮なく店の奥へと進む。厨房を覗くと、下ごしらえに勤しむ、彼の姿があった。
「やっほ」声をかける。
彼は顔を上げてニカっと笑った。この笑顔がたまらなく好きだった。
「やあ、いらっしゃい。やっと来てくれた。今日は休みだった?」ちょうど支度も終わったようで、手を洗い店内へ移る。
「ごめんね?すぐに来れなくて。せっかく近くに、お店出してくれたのに」さりげなく腕を取る。
「いいよ。看護師って忙しいんだろ?わかってる。それに、ここもたまたまテナントに空きがあったからだし、気にしないで」相変わらずとても優しい。
「じゃあ、座って待ってて。じきに店、開けるから」彼が近くの椅子を引きながら、そう言う。
「あ!違うよ?今日はお祝いに来ただけで、すぐに帰るつもりだったの。ちょうど近く通っただけだし」大げさに、胸の前で手を振ってみせる。
「え、そうなの?せっかく来てくれたのにな。待ってたんだぜ?」心から残念そうに彼は言ってくれた。
私はすかさず続けた。
「それに…ほら。私なんかじゃ、こんな立派なお店、手が出ないよ」出来るだけ言いにくそうに、そう言ってみる。すると、
「あ…。なんだ、そんな事か!バカな事言うなよ。俺が君に支払いなんか、させる訳無いだろ」
(そうだよね)
「え…ほんと?いいの?」ここは上目遣いだろう。
「ほら、座って」おずおずと座る。ふりをする。
「何が食べたい?」どうしようか。どれも普段は手が出せない程高価なものだ。本心を言えば、一番高いディナーコースだけど、彼にいやしく思われるのは避けたい。
「これ…」遠慮がちに、一番安いパスタを指差す。
「これだけ?ほかには?」と聞かれ。
「ううん…」と答えた。彼は一体どうするだろう。
「あっ、バカ。やっぱり気遣ってるだろ?遠慮すんなって」本当に扱い易い。
「じゃあさ、これにしなよ。彼の指差したのは、大本命のディナーコース。私の住むアパートの家賃より高い。
「え、だってこれ、一番高いやつじゃん。悪いよ」心の中で、ガッツポーズする。
「良いんだよ。ちょうど新しいソースを使って、アレンジしたりしてさ。誰かに食べてもらって、感想聞きたかったんだ」彼は照れ臭そうにはにかんだ。ここまでくれば、こっちのものだ。
「ありがと!」私史上、最高の笑顔でそう言ってあげた。
彼は照れた様子で目をそらす。
(もう、そろそろね)
これまでの経験で身につけた嗅覚のようなものが、そう告げていた。
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君の後ろをついて歩いた。時折後ろを振り返る様子に、もしかすると僕を感じ取ってくれているのかと、少しだけ胸が熱くなる。いや、都合のいい考えはよそう。いずれは忘れ去られるべき身だ。
そうこうしているうちに、一軒のレストランにたどり着いた。小洒落た外観だ。道路に面したスペースは、オープンテラス風になっている。よくある木の丸テーブルなんかじゃなく、真っ白なテーブルクロスを敷いたディナーテーブルに、色とりどりの花と、キャンドルを並べてあるのをみて、こだわりのようなものを感じた。
君は、《Getting Ready》と書かれた札を無視して、ステンドグラスの美しい扉を開ける。昔からそそっかしいところがあるのを思い出して、口元が緩んだ。
君について店内に入る。すると、一人の男が何かを言いながら近づいて来た。ほら、言わんこっちゃない。慌てて引き返す君の姿を想像して、少しだけわくわくした。
しかし、予想とは裏腹に、君は店の奥へと進む。
ここでようやく合点がいった。この店には取材に訪れたのだろう。そのまま奥の厨房らしき場所へ向かう君に、ついて行くことにした。
オーナーシェフらしき男がそこにいた。何やら下拵え中のようだったが、君の呼びかけで顔を上げる。三十過ぎと言ったところだろうか。君とそう変わらないであろう年齢で、自分の店を持ったのなら大したものだ。それに、君の取材で特集でも組まれた日には、大繁盛は約束されたも同然だ。何だか自分の事のように嬉しくなる。
そして、二人は店内に戻って来た。君はあの男の腕を取り歩いている。なんとなくモヤモヤしたが、仕事の一環と考えれば仕方がない。仕事の付き合い上致し方なく、そうやって媚を売ることに感情的になる程子供では無い。そう思うことにした。
しかし、しばらく様子を見ていると、君と男の間にどことなく親密な空気を感じた。
はたから見れば、メニューを指差しながら、何かやりとりをする様子は、さながら恋人のようにも思えた。もしかして…。
早とちりかも知れないが、もしそうであれば喜ばしい事だ。もちろん、いつまでも一緒になんて、そんなにうまくいくはずないと分かってもいる。
仲睦まじく会話を続ける二人を後にして店を出る。どこへ行くあてもなく、空を仰ぐ。
(このまますっかり消えてしまえたら)
しばらく悩んだ末に、心を決めた。ゆっくりと、一歩一歩を踏みしめて、また歩き出した。
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やっぱり、新進気鋭の若手シェフと話題になるだけあって、彼の料理は最高だった。美味しい料理とお酒を堪能して、とても満足。
幸せいっぱいの頭で、出会ってから3ヶ月程でよくここまでの関係を気付けたものだと、自分で自分を褒めたくなった。元はと言えば、田中が本店の方で私にワインをぶち撒けたのがきっかけだったが、取っ掛かりを決して逃さない事にしていた私にとっては、ただのチャンスとも言える出来事だった。
(そう言えば、あの時一緒に店に行った男はそろそろ仕上げだったな)
今思い出す必要もないのに。プロ根性かもと、少し笑えた。
「美味しかった?」
突然後ろから声を掛けられ、内心、慌てた。前からじゃ無くて良かった。こんな顔、とても見せられない。
「裕人。ありがとう。すっごく、美味しかった」
「そう。良かった」
どこと無く、元気が無さそうに見える。
「ねぇ…。お店もう終わりでしょ?この後のご予定は?」
いかにも酔っちゃいましたとばかりに、彼の手を取る。なのに、彼はぼ〜っと店の外を見ている。
「ねぇ…裕人!」腕を揺する。
「あ、あぁ…。店、片付けたら、家に帰るつもり」仕掛けるなら今だろう。
「行っちゃダメかな?一緒に飲みたくて」束の間の沈黙。
「じゃあ、もう少しだけ待ってて」そういって彼は厨房へ戻った。よし。
彼は去り際に田中へ何か伝えたようで、田中も一緒に奥へと消えた。そして、すぐに田中だけ戻って来た。手にはワインのボトルを持っている。
「こちら、オーナーシェフからのサービスです」田中は、またも大げさなリアクションでコルクを抜く。
「ま、今日はぜ〜んぶサービスなんですけどね」こいつはいつも、一言多い。
「うっさい」
「で、一体どんな方法を使ったんです?女嫌いで、相手が女優だろうがアイドルだろうが、言いよってくる女、み〜んな振りまくってたのに。ヒロトさん」尚も続ける。
「さあね。私の溢れる母性じゃない?」おどけてみせる私に、まるで欧米人のようにも肩をすくめて、田中も彼の手伝いに向かった。顔もノリも悪くはない。むしろタイプとも言えたが、私が選ぶ人種としては、圧倒的に足りないものがあった。金だ。
それに比べると、裕人は最高の優良物件と言って良かった。中学卒業後、田舎を飛び出し、東京で厳しい下積みを経て、誰の手も借りず海を渡り、本場のフレンチを習得して帰国。瞬く間に、その名を業界に轟かせた。逆境をものとのせず乗り越える情熱にも惹かれたし、何より、今や都内に5店舗も店を出し、一躍時の人となったのである。
年も私と変わらない30手前で、総資産ウン億というのだから。ある意味では田中様様とも言える。一時は彼で三人目のつもりだったが、正直、これまでの方法に内心辟易していたのもあって、普通の家庭を持つのも悪くないと、方向転換したのだった。
「行こうか」着替えを済ませた彼が現れる。見た目だって悪くない。
「ゆうき、あと頼むわ」田中にそう言って、二人で店を出た。
「車、回すよ」そう言ってから少しして、ベンツのSクラスで戻って来た。
うまくいきすぎて怖いくらいだ。助手席に颯爽と乗り込み、意気揚々と店を後にした。
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「・・・・・・・・・・・・・・・か」
「もう・・・・・・・・・・・・・ね」
「・・・・・・一緒に・・・・・・ね」
ーーーーーーーーーーーーーーー
あれから彼の家に行って、二人で夜を過ごした。これでもう、勝ったも同然と言える。やはりこうして、地道な努力と下準備は怠ってはならない。これも、彼から学んだ事だった。真面目に生きよう。
食材の仕入れのために、朝早くに出て行く彼を見送ってから、10時過ぎまでたっぷり二度寝までして、鼻歌交じりに家路についた。玄関の鍵を開ける。
今日は日曜日、着替えて病院へ行かなければ。本当に面倒だけど、それもじきに終わる。《悲劇の婚約者》を演じるのも、飽きてきたところだ。
家を出ようとして気がついた。
いっけない。あれをしないと。
一応ふりといっても、リアリティは大事。あいつにもらった婚約指輪は、タンスの上にあったはず。近づいて、ゾッとした。
「倒れてる…」
写真立てがまた倒されていた。まるで、その写真を見るなとでも言うように。
もう一度立て直す。指先は少し、震えていた。写真は最初の男と撮ったものだ。これから見舞いに行く相手が、写真の中で笑顔をこちらに向けている。
(空き巣?誰?)
他に異変が無いか、部屋を見渡した。カレンダーに違和感を感じて近づいてみる。気がついた。今月は9月のはずなのに、なぜか8月に戻されたカレンダー。それに…。
ある日付から目が離せなくなった。
(あの日だ…)心臓が激しく脈打つ。
二番目の男の死んだ日が、何かでぐちゃぐちゃに塗り潰されている。よく見ると乾いた泥のようで、血が混じっているようにも見える。
違う。塗りつぶしてるんじゃない…。
「ひっ…」
それは、何度も何度も繰り返し、同じ言葉を書いたものだった。
“しってる”
(知ってる…?何を…?)
そんなの、決まりきっていた。八月のあの日にあった事は、忘れるはずもない。
(誰が…?まさか、あいつが…?)
そんなはずは無い、確かめた訳じゃないけど、それは有り得ない。
だって、ちゃんと殺したもの。
転がるようにして家を飛び出した。そのまま、近くの駐車場へ向かい車へ乗りこむ。最初の男に貢がせた車、乗ってから気が付いた。
(もしかして、最初の?)
その可能性は全くゼロではなかったが、それには幾つかの条件が必要だ。まず、あの男がいる場所はここから飛行機で行く距離だ。わざわざこんな事をしに来る訳がない。
それに…。
キーを回し、アクセルを踏み、そしてすぐにブレーキをかける。ダメだ。カーナビに目的地を入れなければ。軽いパニック。住所なんていちいち覚えてはいない。なので、履歴を漁る。いや、もしもの為に消したんだった。
(あいつ、何て言ってた?)
確か、何とかって言う天文台がある山だった。
(あの時確か、ダッシュボードに…)
あった。〇〇天文台のパンフレット。住所を打ち込む。
先ほどの推測を続ける。最初の男が?どうやって?
違う!違う!そうじゃない!
違う!違う!違う!違う!違う!違う!違う!違う!違う!違う!
叫びたいのを、握りしめた拳の人差し指を噛む事でようやく堪える。
(最初の男が?飛行機で?馬鹿じゃないの?)
そう、そんな事は不可能だ。あいつに打った薬は、劇薬とまではいかないが、長い時間を掛けて繰り返し投与したことで、充分に命を削ったはず。だからあいつは今、病院のベッドの上で、指一本動かすことの出来なまま、じわじわと死を受け入れるだけの肉袋になったはず。
(だったら…だったら一体…)
馬鹿げた事をしようとしている。そんな自覚はあっても、確認せずにはいられなかった。もしかすると、もしかするかもしれない。ようやく、目的地を設定し終え、二番目の男を殺した山へ向かい走り出した。
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「もう少し…もう少し…」
「もっと近くに……」
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高速を降りたのは正午過ぎ。目的地の到着予想時刻は16:33となっていた。偶然にもあいつと最後に一緒にいた時間だ。
アクセルを強く踏む。早く、早く、早く!気持ちばかりが先走る。
目的地にたどり着く頃には、空は夕焼けで染まっていた。山道は、まだ日が暮れていないにも関わらず、ライトなしでは走るのもままならないほどの暗がりに包まれていた。
道の終着点を示す車止めを脇にどけ、5分ほど進んだその場所は、少し開けた場所を除いて、左右は背の高い木々に囲まれており、その先は切り立った崖になっていた。
あの日と変わらない風景。違うのは、蝉の声が聞こえないくらい。
車を降り、恐る恐る崖に近づく。あの日、間違いなくあいつが死んでいれば、その死体が崖下にあるはずだった。ゆっくり足を進めながら、あの日のことを思い出していた。
手っ取り早くターゲットを探したくて、婚活パーティーに参加したんだった。
そこであいつと知り合った。
国立の有名大学を卒業して、外資系の大手企業の商社マンだと自己紹介され、目もくらむような年収だけにひかれて、あいつと交際をスタートさせた。
勉強漬けの学生時代を過ごしただけあって、女性慣れしておらず、最初はとても扱いやすいと思った。交際を進める中で、気持ち悪いと思うことも多々あったが、目的さえ達成できればと、辛抱強く付き合った。適当に相手をして、ほどほどに金を引っ張れればそれでいい。
しかしあの日、その目論見が崩れ去った。
あの日、わざわざ私が車を運転して、あいつが是非見せたいという天文台へやってきた。幼い頃から、天文に興味があるらしく、一緒に見たかったと言っていたが、あいつの目的は別にあった。
天文台をあらかた見学した後に、ここへ連れてこられた。そして、車中でまさかのプロポーズ。適当にあしらって帰ろうとしたのに、しつこく食い下がってきた。潔く引き下がっていれば、笑い話にも出来たのに。
本人としては、確実にOKがもらえるプロポーズのつもりだったのだろう。
「好きだ!僕と結婚してくれ!」
しつこく言いよるあいつにウンザリして、私は車から逃げ出した。真夏の夕暮れのまとわりつくような空気。額や背中から次第に汗が噴き出す。シャツが不快にまとわりつく。
「何で!?僕と結婚するって、前に言ったじゃないか!あの映画を二人で見たときにさあ!僕たちはあの二人みたいに、引き裂かれはしないんだって!」
今までに見たことも無い形相で、口から泡を飛ばしまくし立てる。蝉の声すら、耳に届かない。ただ事でない様子に、少しずつ怖くなる。
ついには、恐怖で足がすくんで動けなくなった。ゆっくりとあいつが近付いてくる。
私は尻餅をついて、後ろへ後ろへ後ずさる。いよいよ崖の縁まで来てしまった。横目で高さを確認して後悔する。落ちれば確実に命は無い。
奇声をあげながら、あいつが飛びかかって来た。ここからはスローモーションのように時間が過ぎた。
私は上体を起こしざま、右へ身体を避ける。勢い付いたあいつは、私の膝あたりに足をとられ、バランスを崩した。こちらへ必死に身体を向けながら、目を剥き、私を睨みつけながら、静かに姿を消す。そのすぐ後。
『ごしゃっ!』終わりの音が聞こえた。
しばらくその場で息を整えた。落ち着きを取り戻すにつれ、未だかつてない怒りを覚えた私は、近くにあった人の頭ほどの石を、もつれる足に気をつけながら、あいつ目掛けて投げ落とした。
改めて思い出すおぞましい記憶に、呼吸が乱れる。腰を落とした状態で、崖下を覗き込む。あった。もはやヒトの形は留めてはいないが、きっとあれだろう。胸のあたりに命中したあの石も、あの時のままだ。
万が一を想定していた私は、膝に手をつきため息を漏らした。その時、蝉の声が聞こえた気がした。
違う。蝉じゃ無い。それを理解した時、全身の皮膚が粟立つのを感じた。
“菜穂子さん”
声がした。二度と聞くはずのないあの声。
ゆっくりと振り向く。恐怖に手足がブルブルと震える。カチカチと聞こえるのは、きっと噛み合わない私の歯が鳴らす音だろう。
私の真後ろに《あれ》はいた。さっきまで崖下にいたはずの《あれ》が。
ゆっくりゆっくりと近付いてくる。
口らしき穴から、空気がひゅうひゅう漏れては、言葉のようなものを吐き出している。
“しって・。・・てる・だ・”
“菜穂子・さ・・はやっぱ・・と居たい・・”
“・・ら戻っ・来た・・・ょう?”
『ジャッ、ジャッ』足を引きずりながら、尚も近づく。
「違う…違うの…」
『ジャッ、ジャッ』止まる様子は無い。
「お願い………許して…」
あと二、三歩のところまで来ている。よりはっきりと、その声が聞こえる。
“もう…離さな…いからね…”
「いや……いやあっ…!」これ以上後ろへは下がれない。どうすれば…。
その時、一筋の光を見つけた。あの時と同じように、十分に引きつけてから落とす。それしか無い。そうと決めたら、怖がってばかりもいられなかった。
冷静に…冷静に…。
そして、ゆっくりと伸ばして来た腕を掴んで、崖へ向かって思い切りひいた。
あいつはあの時と同じように、ゆっくり、ゆっくりと落ちていった。
『べしゃっ…』
乾いた音が、やけに大きく聞こえた。やった、助かった…?
極限の緊張から解放された私は、涙を流しながら…笑っていた。
「あははははははははははははははははははは」
(馬鹿みたい!馬鹿みたい!これじゃあ結局、二度殺されに来たようなもんじゃない!)
「あははははははははははははははははははは」
今度は本当に可笑しくなって、お腹の底から笑った。帰ろう。後ろを振り向いた。
“ずっ…と…緒にいよ…うね…”
鼻と鼻がくっつく距離に《あれ》がいた。目玉のない眼孔からは、蛆が這いずり出て来ている。
そして、ゆっくりと後ろ向きに倒れる。それと同時に、身体が宙を浮く感覚がした。
(嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ)
声にならない声があたりに響く。目線を前に向けると、まだ《あれ》がいた。そして今度ははっきりとこう言った。
「怖かったら僕だけを見ていればいい」
ーーーーーーーーーーーーーーー
裕人が二日ぶりに家に帰ると、部屋の様子を見回した。あの日、朝まで一緒にいた女の痕跡が、ベッドやそのほかに見てとれた。
「何であの女なんすか?」ゆうきから言われた事を思い出していた。
「言っちゃ何ですけど、あいつ、絶対ヒロトさんの金目当てっすよ?」
「そうだな」そう言うと、まだ何か言いたそうにしていたが、何も言わないのでそのままにしておいた。
あいつには一生理解できないだろう。俺が抱える過去と、それがもたらしたある種の《嗜好》めいたものなど。
女の狙いは、割と早い段階で見すけていた。それでも、距離を縮めていったのは、自分に見せる表情とは別の、真っ黒に塗り潰し続けた、狂気めいた何かを感じ取っていたから。そうしたものにしか、乾き続ける心は満たされないでいた。
また、あの日、あの夏に経験した事のおかげで、見なくても良いものを感じ取れるようになっていた。
あの日の夜、あの女に家に行って良いかと尋ねられた時に気づいた。店のガラスに映る、底のない闇のような、ヒトの形をしたなにかが、あの女に負ぶさっているように見えた。
テレビをつける。ちょうど夜のニュースが流れていた。昨日、どこかの山で、二人の死体が見つかったらしい。一緒に発見されたにもかかわらず、死んだ時期に差があるとかで、おかしな事件だとキャスターも首をひねる。
〈昨日、〇〇天文台近くの崖下で、遺体で発見された保育士の〇〇ナオコさんと、同じく遺体で発見された、〇〇トシヤさんについて…〉
二人のうち一人には見覚えがあった。いつ頃の写真だろうか。
そこには、まだあどけなさの残る無垢な笑顔で、こちらを見つめる菜穂子がいた。