#02 イカロスとテンマ その弐
時は流れた。
ここはシチリアのカミコス。イカロスはようやく目的地にたどり着いたのだ。船から下りるとその先に父ダイダロスが待っていた。
「父上!」
「イカロス、よく来たな!」
2人は迷宮脱出後、空ではぐれて以来の再会であった。
そしてイカロスの後ろには・・
「父上、紹介します。僕の妻のテンマと子供たちです」
後ろに控えていたテンマはダイダロスに深々とお辞儀をした。その足元には3人の子供がテンマの足にしがみついていた。
「おお、手紙で聞いておりました。ようこそおいで下さいました」
ダイダロスはテンマの両手をとり深い感謝の念を伝え、孫たちを次々に抱きしめた。
こうしてイカロスはダイダロスと再会した。あの日から10年の歳月が流れていた。
◇
ダイダロスはあの後予定どおりシチリアのカミコスに到着した。現地の王コカロスは彼を歓待し匿った。
しかし、話はそれでは終わらなかった。
ミーノース王は逃げたダイダロス父子を捕まえるため、各国を放浪した。なぜ自身で探しに出たのか理由はわからない。彼は「糸を巻き貝の中に通したいんだが、どうすればよいか」と訊ねて回っていた。そしてここカミコスに辿り着くと、彼はコカロス王に同じ質問をした。コカロスはダイダロスなら良い方法を思い付くのではないかと、ダイダロスを連れてきた。ダイダロスは蟻に糸をくくりつけ、蜂蜜で誘導し、見事巻き貝の中に糸を通すことに成功したのだった。だがこの一件で、彼はコカロス王の連れてきた男がダイダロスであることを確信し、引き渡しを要求してきたのだった。しかし、ダイダロスを渡したくなかったコカロス王は、彼に先に風呂に入ることを勧めた。そして彼が風呂に入っている内に、コカロス王の娘が彼を殺したのだった。
それ以来、クレタの影響力は弱まった。そのせいで各地が物騒になってきたのだ。今回イカロスたちがここカミコスに来たのも、自分たちの住む地域が政情不安定なため、こちらに移住するためだったのだ。
「ここで暮らすのが一番安全じゃ」
ダイダロスは、家族が増えたことを大変喜んだ。
こうして、イカロスとテンマはここカミコスで新たな生活を始めたのだった。
◇
さらに時が流れた。
すでにダイダロスは亡くなり、子供たちも独立し、この地を離れていた。
ベッドには年老いたイカロスが最後のときを迎えようとしていた。
「テンマ、いるか?」
ベッドのそばにはテンマが寄り添っていた。
「はい、あなた」
応えるテンマ。
「いままでずっといわないでいたことがある。君と会ってから何度となく夢を見ていたんだ。その中で僕は恐ろしい怪物を倒した。そのとき、切り落とした怪物の首から滴り落ちた血がいつの間にか翼のある白い馬へと変わっていった。その美しい姿は心に焼き付いている。その目はどこまでも純粋で吸い寄せられるようだった。そしてその目は、君とソックリだった。君はもしかしてその生まれ変わりなんじゃないのか?」
イカロスはこれまで心に溜めていた疑問を彼女にぶつけてみた。もっとはやくぶつけてみたかった。だが、
彼女が怪物の血からできたなどと言ったら、怒るかもしれない。それでいままで話さなかったのだ。
彼女はこの話を聞いても驚きも怒りもしなかった。
「やっぱり、思い出していてくれたんですね。前世を思い出すのはとても難しいのですが・・・。仰せの通り、私があのときの白い有翼聖馬です。ずっとあなたを探していたんですよ」
テンマは事情を話し出した。
◇
「あなたが前世で倒した怪物が私の母メドゥーサです。母は正気を失っておりました。本当の彼女の心は心の奥底に閉じ込められていたのです。元々母はとても美しい方でした。しかし、海神ポセイドンと密通したことで女神アテナの怒りを買いました。そして、その美貌を身の毛のよだつような醜さに変えられ、讃えられるほどの美しい髪も、1本1本を蛇に変えられてしまったのです。その姿にショックを受けた母は心の中でいつも泣いておりました。身ごもった私もその姿では産むことができず、ただただ開放される日を待ち望んでいました。そんなときに現れたのがあなたです。怪物となった母を倒し、母と私を解放してくれました。そのときのことは忘れてはいません。生まれて初めて見た人があなたなのです。その瞬間からあなたは私にとって特別な存在になったのです。付いて行きたかった。でも、生まれたばかりでうまく動けない状態でした。あなたはその後すぐにその場を立ち去ってしまいました。以来、私はあなたを捜して各地を放浪していたのです。一時期、ある英雄をあなたと間違えて、そばに身を寄せたこともありました。しかし、その方は次第に増長し、その姿からあなたではないとわかり見放しました。そしてそれからもあなたを捜して各地を廻っていたのです。とても長い時間が過ぎました。私はあなたが人間として転生を繰り返していると知りました。半神であったあなたがなぜはわかりませんが・・・私もあなたと同じ生を共に生きたいと思い何度も転生しました。そしてついにあなたと巡り合えたのです。空の中であなたを見つけたときは、うれしくて胸が張り裂けそうでした。それからあなたの妻となり子をなし、ここでこうして添い遂げることできました。あなたには感謝しかありません」
そういうとテンマはポロポロ泣き出した。
「そうだったのか。長く苦労をかけたんだね。君は僕にはもったいないくらいの女性だったよ。僕は君の夫として恥ずかしくないようにと常に言い聞かせてきた。僕が頑張り続けられたのも君のおかげだよ。心より礼をいう」
そういうとイカロスは咳き込んだ。最期の時が近づいてきたのだ。
「最期に疑問が解けてよかった。胸がスッとしたよ。これで心置きなく旅立てる」
「あなた、寂しいことをいわないで」
「なあに、またすぐ会えるさ。先に行ってるよ」
そういうとテンマの頭を撫でる。彼女は目に涙を溜めて彼を見つめている。
「いい人生だった。君と共に生きられたこと。それが私の今生の宝だ」
そういうとイカロスは静かに目を閉じ、この世を去った。
テンマもイカロスを失った悲しみと老齢で、この数ヵ月後には息を引き取った。
2人の人生は何の変哲もないものだった。
だが、その何の変哲もない時間を2人で過ごすことができたことが2人にとっての宝であった。
◇
ここは天界。神族の住む世界。
1人の少女が、巨大な3つ首の怪物に追い詰められていた。少女は震え身動きが取れないようだ。
怪物は怒っているようだった。顔に果物をぶつけられた跡がある。おそらく少女がいたずらでもしたのだろう。しかし、その代償は高くつきそうだ。怪物はこの少女程度なら軽くひと飲みできる大きさである。ここは草原のど真ん中である。どう考えても少女が逃れる術はなかった。
「ユニー」
遠くから呼ぶ声がする。おそらくこの少女を捜す声だろう。しかし、もう遅い。この少女『ユニ』はこれからこの3つ首の怪物に襲われてしまうのだ。
ケルベロスはその大きな口を開き少女を噛み砕こうとした。
その瞬間であった。
ケルベロスは後方に吹っ飛んでいた。そのケルベロスに誰かが上空からキックを喰らわした。そしてそのまま馬乗りになり、ボコボコ殴りだした。
一瞬のことで何が起こったのかわからないユニ。ただ目の前にはケルベロスをボコる小さな少年の姿があるだけだった。
「はい、そこまで。そこまででいいよ,坊や」
そういいながらひとりの男がその少年をすくい上げる。
「こいつは元々おとなしい奴なんだ。そのくらいにしておいてくれ」
男は少年にそう話しかけたが、少年は何を言ってるのかわからないという感じでキョトンとしていた。
「ユニ、怪我は無いか!」
もうひとりの男がユニを後ろから抱き上げた。
「叔父様!」
ユニは抱きつき泣き出した。
「離れるなといったろう。ここには野良の神獣もたくさんいる。色々な世界から来ているから意思が通じない奴だってたくさんいるんだ」
叔父にあたる男はユニの無事を確認すると一安心した様子だった。
「兄者、そっちはどうです?」
彼が呼んだ『兄者』とは、さっき少年をすくい上げた男のことである。
「ああ、大丈夫だ。だが、なんかこの子、様子がおかしいんだ。おい、坊や、名前は?」
そういってもなんの反応もない。
「もしかして野良転生じゃないですか?最近めずらしいですが・・・」
叔父にあたる男が近づいてきて
「坊主、な・ま・え・は?」
今度はわかりやすく念入りに聞いてみる。
少年は言葉はわからなくても、なにか言ってるのかは伝わったようだ。ようやく口を開いた。
「イカロス」
そう言った。
「そうか、お前イカロスっていうのか・・・」
男たちは少年がようやくしゃべったことで安心したようで、少年とユニをそれぞれ抱っこしつつ引き上げていった。
「坊や、少し調べなければならないから、役所まで来てもらうぞ。なあに、心配ない。素性を少し調べるだけだ」
そういうと男は『がははははっ!』と笑い出した。
(こいつ、なかなかの大物かもしれん。転生直後でケルベロスをボコッたんだからな)
そんなことを思いつつ彼らは草原から消えていった。