侍対吸血鬼 アルプス決戦
1867年 パリ万博時の出来事である。
仰々しい表題を付けてはみたが、活劇要素はあまり無い。埋もれた記録の発掘である。
と言っても、何ら公式記録が残っている訳ではなく、中原某という人物が書いた覚書にのみ(筆者が知る限り)記載されている。
その覚書は、1874年に江藤新平が起こした「佐賀の乱」の夜に、当時まだ少年であった中原氏が、武士を辞め教師になった祖父から聞いた話を、後日思い出して記した物とされている。
佐賀の乱では、反乱軍の手によって佐賀城が落とされ、鎮台兵は一時撤退を余儀なくされたが、反乱軍も憂国党と征韓党とに分裂しており、一枚板ではなかった。
憂国党も征韓党も、自軍の兵を増やすべく勧誘・動員を積極的に行っていたが、中原氏の祖父はどちらからの勧誘にも応じず、終始苦虫を噛み潰した様な顔をしていたが、銃声に怯える中原少年に、淡々と話して聞かせた昔話だそうだ
1867年の万国博覧会には、日本からは江戸幕府、佐賀藩と薩摩藩が展示を行っている。
江戸幕府の代表は、将軍徳川慶喜の弟 徳川昭武であったが、薩摩藩は幕府とは別個に展示場を設け、独立国家であるかのように振る舞っていた。
幕府としては、苦々しい思いでこれを見ていたが、国際博覧会の場で騒ぎを起こす事はご法度であり、手を出せないでいた。
そんな時に飛び込んできたのが、「アルプス西端に近い山村で、吸血鬼騒ぎ」の新聞報道であった。
今であれば、ゴシップ紙に有り勝ちな、ヨタ記事や飛ばし記事の類と考えるところであるが、当時の幕府派遣団は、真に受けた様である。
21世紀に入った現在でも、吸血鬼の俗信がらみの話題は、度々新聞紙面を賑わす事があるくらいだから、当時の西欧社会としては、それほど奇異な内容とは取られなかったのかも知れない。
「『をれいる』という山村で、血を抜かれた動物や家畜の死骸が相次いで発見され、村人は自警団を作って警戒に当たっているが、被害は尚も継続中である。吸血鬼は巨大な蝙蝠のような外見をしていて、聖水や十字架を恐れない。ニンニクも嫌わない。聖職者がミサを行ったが効果が無く、猟師は山へ入れず農民は畑を耕せず、付近を恐慌状態に陥れている。」
と言った内容の記事であった。
幕府派遣団は、随行していた幕臣の平田某に、吸血鬼討伐を命じた。
西洋の吸血鬼の概念に、今一つ馴染みの無い武士団だから、「被害の状況から鑑みて『野衾』の類であろう。居合の達人である平田であれば、近寄ってきた『野衾』など一刀両断で切り伏せるに違いない。日本国と幕府の名を西洋列強に知らしめる良い機会である。」との意向であった。
日本では、『野衾』というのは、年を経たムササビ若しくはコウモリの変化であり、人を押し包んで血を吸う化け物であると考えられていた時代である。
平田は、案内人、通辞、小者各一名の四名でパリを出立した。
当時のヨーロッパでは、既に鉄道網が発達していたから、パリから件の地域の最寄りの駅までは、蒸気機関車を利用したものと思われる。
パリ万博時の幕府派遣団の写真を見ると和装である。案内人と通辞は洋装だったかもしれないが、平田は羽織袴に丁髷姿で汽車に乗っていたのに違いなく、フランス人の目を引いたものと思われるが、特にそれらしき資料は無い。
駅から『をれいる』の村までは、馬を使用したものか、馬車を使用したものかは分からない。アルプス越えの主要な峠道は、古くから馬車道が作られていたから、騎乗をしない小者を含む一行は、馬車を使用したのではないか、とも考えらえる。
馬車だとすると、小者は客席に同席していたものか、あるいは馭者席に乗っていたものか。
『をれいる』に着くと、平田の一行は一軒の農家に金を払って宿とした。宿場など無い寒村である。
関東平野生まれの平田が、峩々たるアルプスの山容を見て何を感じたか、また食べ慣れない食事をどう思ったかなど、興味をそそられる処ではあるが、残念ながら何の記録も残っていない。
化け物討伐を命ぜられる程の剣士であるから、何もかも「平常心」で乗り切ってしまったのかもしれない。
吸血鬼退治にやって来た東洋の剣士の一行は、怯えていた村人達から熱い歓迎を受けた。
俗信としての常識の通じない吸血鬼であるから、村人たちは東洋の神秘を感じさせる「武士」というものに、一縷の望みを託したのかも知れない。
もっとも、現地の住民に話を聞くと、新聞の記事には誇張があり、日中に被害が出る事は無いため、農耕は平常通り行われている事が分かった。 しかし、吸血鬼が跋扈する日没後には固く戸締りをして、家屋に籠る生活を余儀なくされるため、猟師や牧童は困窮し始めていた。
陽のある内に、平田は猟師や牧童を案内に立て、野生動物や家畜の死骸の発見された場所をつぶさに検分した。
発見場所は、山と村との間に有る、森と牧場に点在しており、村から先には今の所被害が出ていない事が分かった。
夜になると、平田は大小を腰に差したのみで松明も持たず、星明りの下、死骸発見場所の一つに向かった。家々は固く扉を閉ざし、寒村は死に絶えたように静まり返っている。
平田は、自らを囮とし、寄り来った化け物を一刀両断する算段であった。
小者が同行を願い出たが、気配が乱れると居合に支障が出る、という理由で、平田は同行を許さなかった。
蹲踞の姿勢で呼吸を整え、化け物の来襲を待った平田だが、何事も無く夜が明けた。
無事に戻った平田の姿を見て村は沸いたが、平田は「気配を殺し過ぎて、化け物が自分の所在を掴めなかったのやも知れぬ。」と反省し、今宵は謡でも吟じて化け物を誘うか、と心に決めた。
その時『をれいる』に、新しい一団が到着した。
薩摩藩士 井戸某他三名である。
本来なら、お互い化け物退治の主命を奉じて、この寒村にやって来た者、口をきく訳にはいかない競争相手である。しかし、異郷の地で出会った同胞同士、礼を失する事は出来ない。
また、平田は正々堂々を良しとする漢であり、尚且つ化け物を一刻も早く退治して、住人の安寧を回復する事こそ、日本国の国威発揚に貢献すると信じていたから、井戸に自分の知り得た情報の全てを詳らかにした。
井戸もまた気持ちの良い漢で、平田の親切に深く感謝すると、「自分は平田殿の邪魔に成らぬ様、村の境までしか出向き申さぬ。その代り、大篝火を焚き山羊を屠って血の匂いで、化け物を誘き出し申す。化け物を討ち取るのが、平田殿に成るか自分に成るかは、時の運。」と、自らの計略を明かした。
夕刻、平田と井戸は村外れで落ち合った。
井戸が篝火に点火し、村で購った仔山羊一頭を小柄で屠ると、二人は目礼を交わして別れた。
平田は星明りの中、森と牧場の境に至り、愛刀の鯉口を切ると「竹生島」を吟じた。
吟じながら、殺気を発さぬよう緩々と逍遥した。
牧場の家畜は、化け物の被害を恐れて家畜小屋に込めてある。
山も森も、生き物の気配は無い。
静寂の中、己が吟じる謡だけが響いている。
この日も何事も無く、東の空が白み始めた。
平田は村への帰路を急いだ。
平田は、村境に人々が集っているのを見た。
井戸が平田の姿を認め、一礼した。
井戸の傍らには、身の丈三尺を超える大蝙蝠が、頭蓋から真っ二つに断ち切られ、骸を晒していた。
朝日が蝙蝠の骸に降り注いだが、特に変化は起きなかった。
聖職者が死骸に聖水を振り撒き、猟師が胸に杭を打ち込んだ。
その後、骸は大量の薪で荼毘に付された。
現在の知識では、翼長2mに達するオオコウモリ科に属する生物は実在するが、熱帯地方に偏在している。またオオコウモリは主に果実を食し、吸血行動をとることは無い。
この時退治された大蝙蝠が、如何なる分類に属する生物なのかは判らない。
山村は祝祭の喜びに溢れたが、二人の英雄はそれぞれの宿に取って返し、日暮れまでの時間を睡眠と休養に充てた。
退治した大蝙蝠が、吸血鬼騒ぎを引き起こした生き物であったのか、また、一匹だけであったのかが、確認されていない為である。
夕刻、二人はまた村境へ向かった。
今度は二人きりではなく、牧童、猟師、農民の有志も同行を願い出たので、大所帯となってしまっていた。
二人は迷惑に感じてはいたが、二人への称賛を惜しまない人々の好意を拒む事は出来なかった。
家々の窓や扉は開け放たれ、笑い声と暖かい灯が漏れていた。
討伐隊が通ると、歓声が沸いた。
何事も無く三夜が過ぎたところで、二人は無事主命を成し遂げた事を確信した。
村の主だった者に、その旨を伝えると、平田と井戸の一行はそれぞれ村を後にした。
パリに戻ると、平田は上役に今回の首尾を報告した。
大蝙蝠を討ち取るのを、薩摩藩士 井戸某に先んじられた事も、包み隠さず話をした。
平田は、報告を済ませたら、直ぐに腹を切る心算であった。薩摩に名を成さしめる事は、即ち幕府の顔に泥を塗った事になるからである。
しかし、平田に切腹は許されなかった。
「井戸某は陪臣に当たるとはいえ日本国の武士。平田が井戸某を使役して化け物を退治した事は、日本武士の誉れ。」という理屈からである。
切腹は禁じられたが、賞される事も無かった。平田は帰国までの間、腫物に触る様な扱いを受けた。
薩摩藩も徒に幕府を刺激する事を避けたのか、手柄を吹聴するような事は無かった。
斯くして「アルプスの吸血鬼退治」は、歴史に埋もれる事となった。
その後、徳川将軍家は大政を奉還し、幕府は瓦解した。
切腹を許されなかった平田某は、上野戦争の際に彰義隊に与力して行方不明になった。
佐賀藩兵の使用したアームストロング砲によって爆散したとも、会津へ向かったとも噂されたが、本当の所は分からない。
井戸某は、西郷隆盛に同調して鹿児島へ向かった、と伝え聞く。
人々は去り、記憶は薄れて行く。今や、二人の英雄譚を知る者は、遠いアルプスの寒村に住む、僅かな村人だけであろう。
そういった記録の断片である。