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火涙の少女  作者:
9/12

第六章 『別れの涙』

 くらい。

 くらい。

 暗い。 


 うっすらと、閉じていた瞼を開く。けれど、なにも見えない。

 この場所に光は無く、在るのは無限の闇。


 ……ひどく、懐かしい夢を見ていた。

 昔日の記憶、決意の記憶。総てを喪い彼女に尽くすと決意した、あの日の記憶。

 だがそれも、もはや無に帰そうとしている。


「――――」


 光が無い場所。そんな場所に幽閉され、どれほどの時間が過ぎたのだろうか。

 どれだけ、彼女を想ったのだろうか。


「……リン」


 掠れる声で、その名を呼ぶ。

 もう二度と、会えない少女。

 もう一度だけ会いたい少女。

 僕は、もうすぐ死ぬ(きえる)


 それは「彼」にこの忌々しい文字を刻まれた――いや、再会した瞬間に、確定された事項だ。

 そのことに対して僕は何の恐怖も抱いていない。

 ただ一つ、残っているのは――――、


(後悔、だけだ)


 彼女に、この想いを告げられなかったことへの後悔。

 彼女に、もう少し積極的に行けば良かったと思う後悔。


 ――彼女に、幸せを返してあげられなかったことへの、後悔。


 僕はこの想いを自ら封じた。

 僕には幸せになる権利などないし、そもそも僕と彼女じゃ未来永劫結ばれることはない。


「――――――、」


 カツンカツンと、虚空に音が響く。


『やぁ、気分はどうだい』

「……アミー……」


 そして今日もまた、その顔を視る。


 僕と瓜二つの顔。違うのは髪色と、眼の色。

 僕は灰色と茜色の眼。

 彼は赤色と紅色の眼。

 しかしそれも、本来ならば一緒のハズなのだ。


 それが違うのは、ひとえに僕が、同格の存在から下の存在へと成り下がったから。

 限りなくヒトの身に近い存在に、成ったから。


『君の身体にその文字を刻んで一週間だ。そろそろ君も消える頃だろう』

「―――――ッ」

『ダンマリ、か。……じゃあ、そんな君に、彼女の近況を見せてあげよう』

「……え?」


 パチン、とアミーが指を鳴らす。すると、真っ赤な炎が現れ、その中にある映像が浮かびあがってくる。

 そこには、彼女の姿があって。


「…………、ぁ」


 彼女が笑う姿。

 彼女が楽しそうに過ごす姿。

 彼女がいつものように本を読む姿。

 彼女が、誰かの名を、愛おしそうに呼ぶ姿。

 

 ――そのすべてが、無性に、愛おしい。


 けれども、その映像は永遠ではなく、さながら夏の陽炎のように、ゆらゆらと揺れて、やがて元の虚空へと戻っていった。


『どうだい、現在いまのリンは? あんなにも笑っていて、彼女はとても幸せそうだ。君と一緒に居た半年の間に、あの笑顔はあったかい?』


 アミーは言う。

 ああ、確かに、彼女はこの上なく幸せそうだ。僕との半年間には無かったモノだ。

 けど、僕はそれを許容することはできない。 


「……ち、がうだろ、アミー」

『違わなくなんかない。これは、彼女の幸せ。君はリンに、リンの幸せを返すって言っていたけど、何もできなかったじゃないか』

「確かにそうさ……でもこれはやり方が間違っている。これは夢だ。偽物だ。そんなもので、真に彼女を幸せにしたと言えるのか」

『確かにこれは夢だ。彼女が視ている夢に過ぎない。けれど、偽物ではない。これは本物――いや、これから本物になる、彼女の、本来の幸せ。僕はそのための、舞台を創っただけに過ぎないさ。もっとも、それを創るのに僕一人の力じゃ足りない。だから――』


 そう言って、彼は僕に刻まれた文字を指差す。

 これは悪魔の文字。悪魔にしか読めない、魔術を行使するためのモノ。魔力を奪う魔術のための、文字。


『――君の魔力……君自身が封じた、悪魔の力を使って、彼女に夢を見せた。彼女の記憶の断片を繋ぎ合わせた、彼女の本来の『幸せユメ』をね。その夢は、君の魔力が尽きるまで見続けるだろう。そして彼女が眼を覚ましたとき――夢が現実となり、現実が夢となる。そのための準備は、こちら側(現実)でももう出来ている』

「――っ、それが、セラ先生だっていうのか」


 視線を、アミーの横へ。そこには、幽霊のように佇む――文字通り、傀儡となったセラ・ユーベルが立っていた。


『そうさ? 彼女には現実で――クロエ・アストロアートの代わりになってもらう。流石に死者を蘇らせることは禁忌に触れる。故に、代替品を用意するしかなかった。でもまぁ、彼女はリンの姉に容姿が似ている。だから、いまリンが見ている夢でも、クロエの立ち位置はセラのものにした。――帳尻が、合うように。矛盾が、できないように、ね』


 喜々として、彼は、その理想郷を語る。


『既にマリア・クロードとその一族の洗脳は完了している。まぁ彼らは、君がなにか細工してたみたいだけどね。おかげですぐに洗脳できた』

「……ッ!」


 愕然とする。まさか、ここでリンの為に仕組んだ、あの『地獄』を公表しないための仕掛けが仇になるとは。

 クツクツと、悪魔は嗤う。

 そこに悪意はなく、純然たる想いのみ。

 なまじ同じ存在だからこそ――その想いは痛いくらいに理解できる。 


「今すぐ、元に戻せ……」


 だから、僕は彼に言う。

 同じ存在で、けれども対極に位置する存在だからこそ、彼を止めるのは僕しかいないから。


『――――』


 アミーは何も言わない。その沈黙と、冷めた視線は、いったい何を意味するのか。


「こんなもの、ただの君のエゴの押し付けじゃないか……リンの考えを、想いを、まったく考慮していない。そんなものでリンが幸せになるわけ、」

『じゃあ聞くけど、君も同じことをしたじゃないか。それでも僕にそんなことが言えるのかい?』

「――え?」


 口を閉ざしていたアミーが、口を開く。


『あの日、君はリンに、火の性質を与えた。彼女の中にある願望を、自分勝手に解釈して、その手段として涙を、火涙にしてしまった。それがエゴ――君の理想の押し付けと言わずして何という?』

「………っ。そんなこと、」


 わかっている、そう言おうとした。

 そして気付いた。

 どちらが悪で、どちらが善なのか――否。

 ――そこに、善悪などないということに。


『君のせいで、本来のリンの幸せが喪くなった。君のせいで、無くてもいい犠牲が生まれた。対して僕は、犠牲を生んでいない。ほら、どっちがい?』


 悪魔は嗤う。

 僕のエゴは地獄を創り、彼のエゴは天国を創った。

 純粋、故に残酷な天国。それは、リンの記憶を弄り、記憶と記憶の欠片を繋いだ、ひとつの『幸せウソ』の夢。

 それは全部が全部嘘なのではなく、所々に『真実』を混ぜている。元から在る真実に嘘を織り交ぜ、『最も真実に近い嘘』と為している。


 現実は夢に、夢は現実に。


 少女が目を覚ましたとき、少女の世界は、彼女が視ていた夢そのものになる。

 リンの為だけに創られた、純粋で残酷な幸せ。他人のことなど顧みない。天使的で悪魔的な行動。つくられた、偽りのものだということに気付かず、彼女はその日常(しあわせ)を過ごすことになるだろう。


 それは許されることではない、決して、断じて。それは、現実に確かに在ったリンの日常を奪うということと同義だから。そして彼は、そのことに気付かない。悪魔故に、悪行こそが善だと思っているから。

 けど、それを責める資格が僕には――ない。

 何故なら僕は――いや僕も――奪った側だからだ


 ただ一人、自分勝手にリンのことを想い、自分の正義のまま行動した挙句、リンの幸せを奪った。

 そして、免罪の為に、贖う為にもう一度――今度は奪った幸せを返すために、僕はリンの前に現れた。


 ――けどそれで、僕は彼女に何かをして上げられただろうか?


 先程も感じた後悔。

 この半年間、僕は『アレン・ファルシュ』としてずっと彼女の傍に居た。

 他人と接することを拒んでいた彼女に対し、誰よりも近くにいた。

 逆に言えば――ただ、それだけ。

 何も、していない。


『僕であって、僕じゃない存在、アレン・ファルシュ。君はここで――退場だ』


 判決を告げるかのような言葉。僕は顔を上げることすらできない。

 彼の言うとおりだ。僕では、彼女を幸せにすることはできない。いや、僕達では、幸せにすることはできない。そしてそれに、アミーは気付かない。気付けない。

 僕は死にゆく者。彼を止められるのは僕しかいないのに、死にゆく者にはソレを止めることができない。

アミーがリンを『幸せ』にさせたとしても、それは仮初で、偽物で、虚構で、そこにリンの意志が入る余地なんて無い。彼女にとっての、真の幸せではない。


 結局僕達は、奪うことしかできなかった。それが、悪魔という存在の、本質だから。


「………ッ!!!!」


 歯が砕けてしまいそうなくらい、噛み締める。

 僕は、無力だ。愛した人さえ、救うこともできない。

 しかし――もう、そう思うことさえ、無意味。


「――――――」


 脱力する。思考の海へ溺れる。

 ……でも、でもだ。

 彼女との未来を願うのは、夢を見ることくらいは、しても、いいだろうか。

 後悔なんて、たくさんある。思い返すだけ無駄だ。だから、夢を見たい。


(せめて――お別れくらい、言いたかったな)


 そして僕は――総てを諦めるかのように、瞼を閉じた。


 ***


 ……眼を開けると、知らない場所に、立っていた。


 それがあまりにも非現実すぎるから、きっとこれは夢なんだなと思った。でも同時に、これは夢じゃないとも確信していた。


 正確に言えば――これは夢の中の、夢。

 漠然と、終わりを感じた。


 パチパチと、火が燃える音がする。

 建物は焼き崩れ、草花は塵となり、そして人々でさえ燃えている。

 無数の燃える屍の前で、涙を流しながら進む少女。その少女を中心に、火が燃えている。

 少女の流した涙が、炎の花となり燃えている。


 ――これはわたしの知らない記憶。けれど、確かに知っている記憶。


 決して忘れてはいけない記憶。わたしが背負い続けないといけないモノ。

 あの日、その涙で総てを燃やし、地獄を歩いた、わたしの罪。


(……わたし、は)


 赤い地獄の景色が不鮮明になり、別の情景が現れる。

 雲一つない、蒼穹の空。容赦なく大地を照らす太陽の陽射し。憎たらしいくらい暑かった、とある夏の日の記憶。


『アストロアートさん!』


 わたしを呼ぶ知らない声――知っているハズの声――が聴こえた。何度も何度も拒絶したのに、遠慮なく踏み込んできた、不躾で、不器用で、そしてとても優しい、少年の声。


『幸せになってくれ。僕はただ、それだけを願っている』


 灰色があった。

 赤色があった。

 想いがあった。

 忘れてはいけないモノ、忘れたくないモノがあった。

 大事な人、大事な存在だと思えるような――思えていけたらいいなと感じた人が居た。


 ――けど、どうしてわたしはそれを忘れてしまったのだろう?


 それが、どうしてもわからない。


(――――――)


 わたしの中に居る、別のわたしが言う。


 ――忘れたままでいい。偽りしあわせを享受して、と。


 確かに、わたしは幸せだ。最愛の姉クロエが居て、親友マリアが居て、好きな人が居る。幸せなら、それを受け止めればいいだけの話なのだ。そう、理解している。


(……でも、)


 でも、これは理屈じゃないんだと、思う。


『――貴女にとっての「本当の幸せ」を考えなさい――』


 司書さんの言葉を思い出す。

 わたしの幸せ、本当の幸せ。それはいったい、なんだっただろう。


「―――………あ」


 目まぐるしく変わる情景の中、不意にひとりの少年の姿が、目に留まった。

 赤い髪に、紅い瞳。少年の名前は、アミー。


『ほら、リン。一緒に行こう?』


 アミーが、わたしに向かって手を差し出す、これを握ってしまうのも、いいかもしれない。そう思って、手を伸ばそうとしたとき――視界に、灰色の少年が、映った。


「――――――――、ぁ」


 どくん、と鼓動が鳴った。身体が熱くなるのが感じた。そして確信した。


 ――この人じゃ、ない。


 記憶が消えても――身体は、覚えている。


「……ごめんね、わたしは、いっしょに行けない」


 だから、わたしはそれを拒否した。

 アミーの顔が、絶望に染まる。どうして、と口が動いた。


「……わたしね、好きな人がいるの。その人のところに行かなきゃ。ううん、わたしが、行きたいの」


 いまのままでは、思い出すことはできないけれど、だからこそ、わたしはその人のところまで行かないといけないの。



「だから――わたしは、進むよ。わたしの幸せを、わたし自身の手で見つけるために」



「ばいばい」と、言って、アミーに背を向ける。彼の声が、聴こえた気がした。


 ……景色が変わる。新しく現れた景色は、先ほどの地獄とは打って変わって、たくさんの花々が咲く、美しい花畑だった。


「…………」


 ひとりの、女性が立っていた。

 長く伸ばされた、黒い髪の女性。紫色の瞳が、とても美しい。

 大好きな人、たったひとりの家族だった人。


『行くの?』

「うん」

『……じゃあ、もう大丈夫ね』

「うん――だから、もう、安心して、いいんだよ?」


 声を振り絞る。


 泣いてはいけない、泣いてはいけない。


 本当は我慢なんて、できなかった。けど、我慢するしかなかった。

 だって泣いたら――この人は、安心して、行けないから。

 笑おうとするけど、笑い方を忘れてしまったかのように、上手く笑うことができない。引きつった笑みしか、浮かべられない。

 必死に上を向いて、涙を堪える。そうしていると、不意に、身体を抱きしめられた。


『――リン』

「な、に?」

『――あなたのこと、愛してるわ。いままでも、これからも』

「……っ」

『もう視えないし、会えないけど、この想いだけは、ずっと残るわ』

「っ、ぁ……」

『リン――』



『私の妹でいてくれて、ありがとう』



「~~~~~~~ッ!!」


 堤防が、壊れた。堰を切ったかのように溢れ出す涙。地に触れた涙は、燃える。

 燃えて、この世界ユメを壊す。


「……し、も」


 震える声で――泣きながら――呟く。


「……わたしも、おねえちゃんが、だいすき、だよ……っ!」


 これは、地獄での別れあのときの焼き直し。


 あのとき、不完全なまま告げてしまった言葉。たとえ夢だったとしても、面と面を向かって言える、ということだけで、あの時の別れとは意味は一緒でも本質が違う。


『……うん、ありがとう』


 泣きながら、最愛の人は笑う。

 わたしも、笑う。安心して、行けるように。


『幸せに、なってね』


 燃える花畑。総てを燃やす炎。本当なら、憎むべきはずの存在。

 けれど――いま、この時だけは、それは祝福――ううん、送り出しているかのようにも、見えた。


 葬送の炎。弔いの炎。


 ――別れの、(なみだ)


 過去に、別れを。未来へ、祝福を。

 最後に、その景色を目に焼き付ける。大好きな姉と駆け回った、この景色を、幸せの象徴を、情景を。

 覚えておけるように――焼き付ける。


「――――」


 夢はいつか覚めるモノ。だから、幸せユメはこれでおしまい。

 たとえ、この先に、なにが待っていようと、

 わたしは、わたしの幸せを、見つける。

 

 終わりの始まり。


 わたしはここから――――歩き出す。


 ***


 ――眼を覚ますと、そこは、自分の部屋だった。


「っぅ……」


 寝かされていたのか、よくわからない。覚えているのは、自分が、夢を視ていたということだけ。

 偽りの幸せ。わたしの中に在る、「もしも」が具現化した、そんな夢。

 別れを告げた、夢。

 記憶を思い出す。この一年――マリアさんや、セラ先生――のこと、あの日の地獄のこと、悪魔のこと。ちゃんと、覚えている。

 そして、あの人のことを――思い出す。

 顔を覚えている、声も覚えている、彼との記憶もちゃんと在る。

 ぜんぶ、ぜんぶ、覚えている。

 大事な人、愛しい人だと思いたいと願った。わたしの――好きな人の、名前。


「――――、」


 ほぼ無意識に、外に出る。

 空は曇天、まるで、わたしの心境を表しているみたいだった。それでも、わたしは走り出す。


 ――向かう場所なんて、ひとつしかなかった。

 

 ***


『そんな――『夢』から、覚めた……!?』


 次に僕が瞼を開けたのは、アミーの困惑する声を聞いたときだった。


(『夢』から、覚めて……?)


 それはいったい、どういうことなのか。


『クソッ、なんでだ。なんで、計画は完璧だったハズ。なんでだ、なにが狂った……ッ!?』


 困惑する彼の声は、どこか焦りを感じる。そして僕も、身体に魔力が戻るのを感じていた。


(これ、なら……ッ)


 再び、鎖が外れないか試みる。ジャラジャラと音が鳴っているのに気付いたのか、アミーは僕の方を見ると、


『くっ……いまは、リンが先だ……ッ』


 と、忌々しげに悪態を吐いて、この地下室から出て行った。


「――――っ」

 身体の内に意識を向ける。自らの身体に残った、僅かな『力』を使い、この鉄に熱を与える。加熱され続けた箇所は、やがて溶け始める。


「はああああああァァァァァ――――ッ!!」


 一声。そして勢いのまま、鎖を溶かし、分裂する。


「よしっ」


 そしてそのまま、両足の鎖を――同じく、人外の力を以って――外す。アミーがこの場から出て行って七、八分くらいだろうか。ひとまず、立ち尽くしていたセラ先生の引っ張り、地下室から出る。


「ここ、は――」


 地下室の階段を上がった先には、倉庫に繋がっていた。そこにあった棚の中身から察するに、どうやら僕がいた場所は――もっとも、たぶんあまり使われていないのだろうけど――ワインセラーのようだった。倉庫の出口を見つけ、外に出る。


「なるほど――クロード家の地下室、か」


 疑問がひとつ氷解する。セラ先生を、とりあえず倉庫の中にあったイスに座らせ、現状を再確認する。


「まだ――間に合う」


 走る。

 その決断に、迷いはない。

 アミーの言っていたこと――リンが『夢』から覚めたということ――が本当なら、僕はアミーより先に、彼女に会わなければならない。

 一度は諦めた。けどそれは、そうするしかなかったから。

 諦めなくていいのなら――僕は、何度だって彼女の力になろう。彼女の、助けになろう。彼女に、幸せを返そう。

 今度こそ、後悔しないために。

 走るスピードを上げる。

 向かう場所は、ひとつしかない。


「ハァっ、は、づぅ――ッ」


 人の身体というのは脆い。怪我をすれば、ただでは済まないし、こうやってすぐ体力に限界が来る。けどそうなったことに、後悔なんて生まれない。自分から望んで、こうなったのだから。

 街を出て、平坦な道を走る。草木が風に吹かれさざめいている。

 冷たい風が、頬を吹き付ける。

 だが、この身体が止まることはない。感情に突き動かされるように、走り続ける。


 この感情は使命だ。

 あの日、君に全てを賭して償うと決めたあの日から、決まっていた。


 だから、何としてでも――僕は行かねばならない。

 ――リンに、逢うために。


「リ、ン――――っ!」


 彼女の名前を呼ぶ。呼ぶたびに心がざわめくのを感じる。

 胸が、締め付けられる。

 この感情を知ったときから、それは止まることを知らなかった。


 だから、この感情をくれた彼女に対し、力になりたいと思ったし、奪ってしまった幸せを返すために、総てを捨てると決意した。

 奪ってしまったから、返したいと思った。それが僕のエゴだったとしても、そう願った。


 この恋は報われなくても――それで、いい。


 だから、速く。もっと速く走れ。彼女に逢うために。


 ***


「はぁっ、ハァ、っ――――!」


 走る。

 そうやって、いったいどれくらい走り続けたのだろう。

 身体は悲鳴を上げているのに、止まれない。あの夏の日もそうだった。

 身体は止まりたいと嘆いているのに、心がそれを許さない。心と身体の不一致が、わたしを動かしている。無意識に、始まりの場所を目指している。


 始まりの場所。あの地獄が起こった場所――つまり、わたしが元々住んでいた街。そこに彼はいると、確信にも似た予感があるから。


 ――逢いたい。


 はやく、あの人に。

 名前も、顔も、ちゃんと覚えてる。

 だからはやく逢いたいの。あなたの顔を見たいの。

 痛い、苦しい。もし二度と会えないっていう想像をしてしまうだけで、涙が出そうになる。

 心が、締め付けられる。

 この胸の苦しみや痛みは、きっと彼に逢わなければ味わわずに済んだのだろう。


 けど、わたしはもう、後悔していない。

 だって、彼に逢わなければ、この胸を満たす暖かな想いを知ることは、できなかったから。

 もっとあなたと話したいことがたくさんある。伝えたいこともある。

 いままでは、わたしが拒んでしまっていたから、その分あなたと話がしたい。

 今度は……わたしからあなたに近づきたい。

 溢れる想いは止まらない。



 この感情は運命だ。

 あの日、彼に対する想いに気付いたあの日から、決まっていた。


 

 だから。ねえ――アレンくん(・・・・・)

 

 別れは、もういや。そんなのは嫌だから――

 走る。ただひたすらに、突き動かされるように。


 そうして、わたしは辿り着く。

 始まりの場所。

 かつてのものは何も無く、いま在るのは、慰霊碑としてそびえ立つ、ひとつの十字架。

 全てが終わって、始まった……わたしの、故郷。

 その場所に、きっと彼はいると信じていたから、わたしはここまで走ってきた。

 だけど。

 そこに、


「――――」


 彼は――いなかった。


「ああ……」


 胸が、苦しい。

 もう逢えない、彼はもう居ない――そんな思考が、頭をよぎった。

 脳裏に浮かぶのは、彼の顔。彼の姿。彼の全て。

 視界が、滲む。

 彼のことを想うだけで、泣きそうになってしまう。


「……ぃ、たい」


 震える声が、喉から出る。

 彼を求める声が、零れる。


「逢いたいよ……アレン、くん……っ!」


 ――――リン!


 声が、聞こえた。

 わたしを呼ぶ、声が。


「――――――――……………、あ」


 これは幻なのだろうか。それとも夢?

 ううん違う――まぎれもない、本物。

 だって、わたしは知っている。ひどく優しさに満ちた、その声を。

 溢れる。彼への想いが。

 溢れる。彼を求める声が。

 溢れる――その感情に突き動かされ、わたしは彼の許へと走る。

 走って走って――そのまま、彼の胸の中へ、飛び込む。

 求めていた場所。願った場所。決して離さないよう、しがみつく。彼も、抱き返してくれる。

 心が満たされていくのがわかる。とても、暖かい。


 刹那――記憶が、抜けていたピースを埋めて、蘇る。


 彼との記憶が、ぜんぶ、頭の中をよぎる。

 記憶の中の顔と一致する、記憶の中の声と同じ。

 灰色の髪に、茜色の瞳。

 あの蒼穹の空の下、わたしはこの感情に気付いた。

 あの時は、どの『好き』か、わからなかったけど、いまならちゃんと、わかる。

 わたしが視ていた『夢』の中で、わたしはそれに気付いた。他人を好きになる、という感情がどれほど尊くて、心地よくて、そして、こんなにも、心が高鳴るということを。

 気付いた以上、隠すことなんてできなかった。


「……っ」


 そしてもう一つ。

 わたしは、気付いたことがある。いや、気付こうとしなかっただけで、ずっと気付いていた。単に、わたしが認めたくなかっただけ。こうであればいい、こうであってほしい。そう思って、思考することを放棄した、わたしの、ワガママ。

 本当は出会った時から気付いていたのに、でもそれが本当だと思いたくなくて、たまたまそこに、アミーという存在が現れてしまったから、アミーを当てはめていただけ。


 あの日の悪魔は、最初から――わたしの前にいた。

 悪魔(アミー)とは別の、悪魔(アレン)


 ――悪魔は、二人居た。


 気付いてしまえば、あとは簡単だった。

 わたしに火の性質を与えたのがアレン・ファルシュ。『夢』を創ったのが、アミー。

 わたしが悪意を抱いていたのは、あの日の悪魔――ファルシュくんだ。しかしそれも、厳密に言えば『悪意に成りきれていない悪意』。あの日以降の悪魔には、確かに許せない気持ちはあったけど、本当にちっぽけな憎しみしか抱いていない。だから、許すと許さないの中間『関わらない』という選択をした。


 矛盾した思考だと、自分でも思う。

 結局のところ――わたしには、他人を憎むことなんて、できないということだから。

 どんなにうわべを取り繕っても、言葉を並べても、わたしに他者を憎むことはできない。憎み方を知らない。

 張りぼての悪意は、暖かく優しい言葉で、呆気なく、壊されてしまう。

 だから、わたしがいま、口にするべき言葉は――――。

 


「悪魔さん。わたしの為に、ありがとう」



 謝罪ではなく、感謝。

 半年間、傍に居てくれたことへの感謝。

 あの日、罪の十字架を背負ったわたしを否定し、わたしの可能性を示唆してくれたことへの感謝。

 

 ――わたしと、出会ってくれたことへの、感謝。


 彼の眼が、驚きで見開く。


「リン……君は、」

「ほんとは、気付いてた。けど気付こうとしなかった」 


 だって、悪魔だと決め付けるのに、あなたは、あまりにも優しすぎたから。

 なにより、他の誰でもないわたしが、そう思いたくなかったから。


「いつだって、あなたは優しかった。ここに転校して来て一緒にいた日々も、あの日わたしを肯定してくれた時も、なにより、すべての始まりの、あの時だって、あなたは優しさからわたしに火涙を与えてくれた」


 声が震える。視界が滲む。

 悲しくないのに、泣いてはいけないのに。

 すごく、泣きたくなってしまう。

 暖かな想いが、溢れて止まらない。


「だから……ありがとう。わたしを、救けようとしてくれて」


 涙の衝動を飲み下し、わたしは、笑う。

 それは、心の底からの笑み。

 ユメの時に見せた笑みではなく、ここにいるわたしの、本心の笑み。


「――――………ぁ」


 彼は、何も言わない。けど、その数秒後、彼は目尻に、小さな涙を浮かべながら、口元を緩ませ、いつものわたしが安心するあの笑みを浮かべた。

 感情が昂ぶる。嬉しさなのか、よくわからないけど、また涙が出そうになる。

 言いたいことは、たくさんあった。でもいまは、言わなきゃいけないことがある。

 もう、忘れないように。ここにいると、証を、刻むように。

 その名前を、呼ぼう。



「――ただいま、アレンくん」

「――おかえり、リン」



 リン・アストロアートとアレン・ファルシュは、永い長い遠回りを経て、再会した。



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