幕 裏 『出逢い/ハジマリ』
始まりは偶然だった。
『………あ………』
僕が、あてもなく人間界を彷徨っていた時、偶然その人物を見かけた。
肩口まで伸ばされた髪。それは夜のように深い黒。その黒に対し、眼は鮮やかな赤色なのだから、とても綺麗だった。
彼女は、彼女の姉らしき人物と一緒に並んで、とても楽しそうに歩いている。
風が吹き、花が揺れる。そのことに気付き、ふと周りを見渡せば、そこは花畑だった。どうやら、彼女を追いかけている内に、こんな場所にまで来てしまったらしい。
彼女は、美しく咲いた花達を見て、実に嬉しそうに、楽しそうにしている。
しばらくして、彼女が僕の方を向く。もちろん、彼女には僕の姿は見えていない。ただの偶然だ。
しかし、それによって僕は見てしまった。
そこに咲いている花達と同じくらい美しい、彼女の笑顔を。
『――――ッ』
目を奪われた。
心臓が激しく動悸する。自分の鼓動が、ここまで聞こえてくるようだった。
――この感情は、いったいなんだ。
未知の感情に対し、動揺する。目を閉じても、あの子の笑顔が脳裏に焼き付いてしまって、僕から離れようとしない。
再び、あの子を見る。そこには、変わらず花のような、眩しいほどの笑顔がある。幸せというのは、あの少女のことを言うのではないかと、柄にもなく思ってしまう。
心臓の鼓動がうるさい。うるさくはあるが、なぜかそれが心地よくもあった。
彼女を見ていると、心が満たされるとでも言えばいいのか。そんな事を言うのは柄じゃないと判っていても、この心は満たされていくいっぽうだ。
ふと、この未知の感情に、ひとつ思い当たるモノを思い出した。
これはいつだったか、誰かに聞いた言葉。
絶対に、自分とは関わりのない言葉だと決めつけていたモノ。
(この感情は、確か――)
――恋、と言ったか。
どうやら僕は、あの子に恋をしてしまったらしい。俗に言う一目惚れという奴だ。今までこんなことに全く縁が無かった為に、それを理解するのに時間を要した。
一度自覚してしまったら、後はどうしようもない。
僕は、姿を消したまま、じっと彼女を見る。
「ほらリン、帰るわよー」
「あっ。待ってよ、お姉ちゃん!」
『……リン……』
彼女の姉らしき人物が、彼女を呼ぶ。
あの子の名前は、リンというのか。恋をしたのに、相手の名前も知らないのでは格好がつかなかったので、ここで名前が知れたのは嬉しい。
リンの後ろ姿を、じっと見つめる。
――もし、自分が人間だったら。なんて考えるだけ無駄だ。
この恋は、叶うことは無いだろう。僕とあの子は、住む世界が違う。
僕は、悪魔だ。それは、変わることはない。
わかっている。わかっているとも。
だけど、許されるのなら。許してくれるのなら。
あの子の笑う姿を、幸せに過ごす姿を、この眼でずっと見守り続けたい。
それくらいは、願ってもいいだろうか。
そして僕はそのまま、リンがこの場から遠ざかっていくのをずっと眺めていた。
***
それから、僕は密かにリンを見守り続けた。それがどれくらいの月日だったのかはもう忘れたけれど、その間、魔界に帰ることはしなかった。帰ったとしても、僕は独りだからだ。それなら、人間界で彼女を見守り続ける方がよっぽど良い。そう思いながら、僕は毎日を過ごしていた。
そんな日々がしばらく続いたある日、僕は何処かに向かうリンを追いかけて、その先で見てしまった。
「ひっく……ぐすっ……」
リンが、泣いている姿を。
『……リン』
静寂に包まれた図書館。そこに人は誰ひとりとしておらず、まるでリンだけを世界から切り離したようだ。
リンの啜り泣く声が聞こえる。窓から差し込む夕焼けがやけに眩しい。
『…………ぁ』
声を発しようとした喉が僅かに震える。けど、声が出ることはない。
――どうして、泣いているんだい?
――君は、笑っている方がずっと綺麗だ。
そう、言ってあげたかった。でも、無理だった。
僕が姿を現したら、この日々は崩れる。それは他ならぬ僕自身が恐れていたことだった。こうやって、彼女を見守り続けることが、僕の恋なのだから。
でも、でもだ。
僕は、このまま彼女が苦しむ姿を見続けたいと思うだろうか?
僕は、彼女が笑う姿を見たいんじゃないのか?
『――――っ、』
悪魔だから、人の願いがわかる。
彼女の願いが、わかる。彼女が望む願いが。
彼女の願いと、僕の欲望。それを天秤にかけたら、誰でも自分を優先するだろう。
けれど、真に彼女を想うのなら――、
『――泣かないように、なりたいかい?』
彼女の願いを、叶えてあげるべきじゃないのか。
リンの怯えた表情が僕の目に映る。
――怖がらないで、リン。
僕は、君の願いを叶えるから。
君を、救うから。
『僕は……そうだね、俗に【悪魔】なんて呼ばれている者さ』
名は明かさない。僕の名を明かす意味が無いからだ。
僕の名は階位の高い悪魔と違って名称が知れ渡っていない。明かしたところで知らないと言われるのがオチだ。
これが終われば、僕とリンの道が交わることは無い。闇に生きる者が、光に生きる者と触れ合うこと自体が、そもそも間違っている。
それでも僕は、彼女の願いを叶えたいと思った。
「うん。わたしは――泣かないように、なりたい」
『その願い、僕が叶えよう。さぁ、目を閉じて』
彼女の願いは、泣かないようになること。
僕は考えた。
彼女が泣く理由は、すべて周りのせいだ。つまり、その周りさえ排除できれば、彼女は泣かなくなる。
なら僕がすることは――出来ることは――ひとつしかない。
元よりこの身は悪魔。出来ることなど、限られている。
リンのきめ細やかな肌に触れる。触れて、その手は彼女の両目へ。その両目に、僕の魔力を通す。
僕は、炎の悪魔。故にその力は炎。
だから僕はこの力を、彼女の涙に与える――。
「これで………泣かないようになったの? 何も感じないけど」
『まぁ、そのうちわかるよ。これで君は、もう泣かない』
そう。これで君はもう泣かない。泣く原因が無くなるのだから。
僕がそう告げると、リンはとても嬉しそうな顔をする。
その顔は、あの時と同じ顔だった。
「そうだ、悪魔さん。あなた悪魔なら、何か代償が必要なんじゃ……」
『いや、それは気にしなくていい。……そうだね、強いて言えば、代償は君が喜ぶ姿かな』
僕は、君の幸せな姿を見たいだけ。代償など、本当にそれだけで充分なのだ。
月並みな言い方だが、彼女の幸せが、僕の幸せ。心の底から、そう思える。
リンが僕に向かってお辞儀をする。その間に僕は肉体を消す。
やがて顔を上げたリンが面食らった表情をしていたが、それも束の間。数秒後には、実に晴れやかそうな顔でこの場所を後にした。
その姿を、僕はいつの日かの再現のように見つめる。
『これで……彼女は……』
――救われる。
これで彼女は泣かなくなる。正確には、彼女がもう一度泣いて、その涙に込められた炎が全てを焼き尽くした時、彼女は泣かなくなる。彼女を脅かす要因が無くなるのだから。
これで良かったのだ。もう僕とリンの道は交わることはないだろうが、それでも好きな人の助けになれたのだ。それは彼女に恋する者として、この上なく嬉しいことだ。
実ることのない恋ではあるが、それでもこの恋に救済を求めるのなら、それは自分自身で与えるしかない。エゴと言われるかもしれないが、僕にとってはこの行動こそがそうだったのだ。
『――――――』
いま僕の中に溢れるこの気持ちは、今まで僕が知らなかったモノだ。
知らない感情だった。
初めて知った感情だった。
恋というものは、こんなにも心を満たすモノだったのか。
『僕は、リンの力になれたかな』
そう呟きながら、僕もこの場を後にした。
***
――その翌日、彼女の涙が、街を燃やした。
***
眼前に広がる焦土を見て、息を漏らす。
『……これで、リンは』
救われた。彼女を脅かす要因は全てあの炎の中へ消え去った。
街を一望出来る丘。僕はそこで、リンの様子を、一部始終見ていた。
彼女が泣き、その涙が業火になり全てを燃やしていくその様を、ここで見ていた。
『さて……リンの所に行かなきゃ』
彼女はどんな顔をするだろうか。
喜んでくれたら、いいな。
丘から飛び降りて着地する。そして焦土と化した街へ歩を進めた。
街を見渡せば、幾つもの死体が燃えていた。そこに救いは無く、あるのは無数の死だけ。
それを、何の感情もなく視る。感じた唯一の感情が、ただ、邪魔だな、ということのみ。
『あ……居た』
進み始めて十分。学校から数一〇〇メートル離れた場所に、リンは居た。
彼女の足下には血の水溜りがある。
誰か、そこで死んだのだろうか。
「ああああ――――ッ!!」
突然、彼女が泣いた。零れ落ちた涙は炎になり、燃え上がる。そして、何を血迷ったか、リンは燃え盛る炎の中に手を伸ばしていた。
だが、それは無駄なこと。あの炎は、彼女の涙だ。自分の涙で燃える者がいる訳がない。
僕が彼女にしたこと。それは、彼女の涙の性質を『炎』へ変えたのだ。涙の成分は体液――つまりは水だ。僕はそれを『炎』へと変えただけ。しかしその本質は『涙』である以上、その涙を流す自分自身は燃えはしない。
――だが、他人は、燃える。僕が、そうしたから。
案の定、彼女は燃えない自分の体に戸惑っている様子だった。その間に、僕はリンに話しかける。
『やぁ、リン』
「あく……ま……!」
声をかければ、リンはやけに恨みがこもった視線で僕を睨みつける。
なんだろう。僕、何かしたかな。
昨日は僕に対して、さん付けだったのに、今日は呼び捨てになっている。
『どうだい? これで君の願いは叶うだろう?』
「ふざけ、ないで……! あなたはっ、わたしを、騙して……!」
――騙した? 僕が、リンを?
いったい何を言っているんだろう。僕はただ、リンが泣かないようになるために、僕の力を与えただけなのに。事実、これでリンは泣かなくなるはずなのに。
なのに、なんで彼女の眼はあんなにも、悲しい色をしているんだろう。
なんで彼女は、僕を憎むように視ているのだろう。
『……っ? 何を言ってるんだい? 僕は、君を騙してなんかないよ』
震える声で、その真意を問う。
「嘘をつかないでっ! 泣かないようになるなんて言って、ただわたしの無様な姿を見たかっただけでしょ!」
『騙してなんかないさ。僕はちゃんと、約束は守る。だってほら、それを見てごらんよ』
そう言って、僕は彼女の流した涙を指さす。そうだ、実際に事実を理解してもらった方が早い。
「なに、これ……」
リンは、それを呆然とした様子で見つめる。
『僕はあの時、君にある力を与えた。それは、君の涙が炎になるというものさ』
「涙が……炎に、なる」
リンは、何か重大な事実に気付いたかのように、僕の言葉を反芻する。
『これで君は泣かなくなるよ。だって、全部燃えたんだもん。君をいじめる奴も、物も、環境も、ぜーんぶ燃えた。これで君は、泣かなくなる。ほら、君の願い通りだろう、リン?』
そこに追い討ちをかけるように、僕は言葉を重ねる。
これでリンも、気付いてくれたはず。
だからきっと、すぐに、あの時のような笑顔を僕に見せて――、
「……って」
『え?』
「どこか行って! もうわたしの前に来ないで!!」
――けれどリンは、その笑顔を見せてはくれなかった。
代わりに告げられたのは、僕を拒否する、冷たい言葉。
『――――ぇ?』
その言葉の意味が、よく解らなかった。理解したくなかった。
僕の戸惑いが顔に出ているのがわかる。その戸惑いを、必死になって隠す。
そして僕は、その言葉を理解するより先に、この場から姿を消した。
だって、見てしまったから。
今にも泣きそうな、リンの顔を。
――なんで? 僕は、何か間違えたのか?
僕は姿を消したまま――と言っても、リンから見えなくしただけだ。今も、リンの傍にいる――、先の言葉について考える。
――何を間違えた? いったいなぜ、リンはあんな顔をしている?
理解が追いつかない。
理解したくない。
それでも、僕の頭はそれを理解しようと思考する。
止まらない思考の中、ふと僕はリンの姿が目に入った。
リンはただ、そこに佇んでいるだけ。そこに立って、燃える街を見ているだけ。ただそれだけなのに、彼女は。
「う、ぁ……ぁ」
その地獄を見て、泣いた。
『――――ッ!!』
それを見て、僕も気付いた。
ぐるぐると、思考の末に導き出された答えが、僕の頭を回る。
もし、僕が考えてることが本当だとしたら、
『僕は……僕は……!』
――なんてことを、してしまったんだ。
僕はリンに、取り返しのつかないことをしてしまった。
僕はリンをいじめる要因を排除するだけでなく――リンの幸せをも、排除してしまったのだ。
他ならぬ、僕の力で。
『あぁ……ぁ……!』
声にならない声が出る。
気持ち悪い。吐き気がする。
自己嫌悪で自分自身を殺したくなる。
何が、リンを救うだ。
救うどころか、奪ってしまっているじゃないか。
(そうだよ……僕は)
――悪魔なんだ。悪魔に、人を救うことは出来ない。
悪魔が人に対して出来ることは唯一つ。契約を交わし、奪うことだけだ。ただ、その過程で人を救うだけのこと。最終的には、奪うしかない。
その絶対的な悪魔のルールを、どうして僕は忘れていた。
知っていながら、なんでリンに、力を与えた。
僕はただ、リンを救いたかっただけだ。それだけだったら、他にもやりようはあった。
僕は、アイツらとは違う存在になると決めたじゃないか。
アイツらのような、非道な存在にはならないと決めたのに、なのにどうして、僕は、悪魔のような考え方をした。
善の心を持ったとしても所詮、悪魔は、悪魔でしかないのか。
『――めん、よ』
呟く。
視界が滲む。なぜかは、わからない。
それでも、言葉を、紡がなければならない。
『――ごめん、よっ。リン……!』
最愛の人への、償いの言葉を。
燃える街を歩く、火涙の少女。
僕のせいでそう成ってしまった、独りの少女。
こうやって、リンの後ろ姿を見るのは三度目だ。
一度目は恋をしたとき。
二度目は彼女を救ったつもりだったとき。
そして三度目は、彼女から奪ってしまった、いま。
リンの後ろ姿に手を伸ばす。
でも、届かない。届くはずはない。そう解っていても、僕は伸ばす。伸ばし続ける。
今すぐにでも謝りたい。憎まれて、殺されてもいいから、謝りたい。
けど、それは叶わないだろう。リンは優しい子だ。あの子は、たとえ悪魔であろうと、殺すことは出来ない。
『――僕、は』
僕は、リンから奪ってしまった。
リンの大事なモノを。リンの幸せを。
その責任は、取らなきゃいけない。
たとえ僕が、異端な悪魔だったとしても。
僕は、リンが好きだから。
リンの助けに、なりたいから。
だから――、
『待っててくれ、リン』
今度は間違わない。
絶対に、君を独りになんかさせない。
許されなくていい。許してもらおうなんて思ってない。けど、これからすることが、彼女に対する僕の償いだ。
燃える地獄を見る。
ある意味、僕のせいでつくられた地獄。
何が起きたのか理解できないまま死んでいった、名も知らない人々。
その人々に、祈りを。
僕は、この光景を目に焼き付け、ここを後にした。
***
そうして、その地獄は燃え続けた。
僕は、総てを喪う決意をした。
彼女の助けになると、誓ったんだ。