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火涙の少女  作者:
6/12

第四章 『想いと、救い』

 ファルシュくんとの一件から、数日が経った。

 わたしは変わらず、独りだ。


 教室の片隅。そこでわたしは独り、本を読んでいた。外を見れば雨が降っていて、空はどんよりと曇っている。灰色の雲が空を覆い尽くし、雨がザァザァと降っている。

 静かに、文字を目で追う。けど、その内容が頭に入ってこない。つい、思考が別の方向へと逸れてしまっている。

 その思考は、あの日のこと。

 あの日以来、ファルシュくんはわたしに話しかけようとはしてこない。それはそれで、間違ってはいないのに、わたしの心は晴れないまま。

 あの日、彼が言った言葉。

 あの日、わたしの中を埋め尽くしていた感情。

 全部、解らなかった。

 わたしは彼を拒絶した。あの人の優しさを拒んだ。

 それは正しいハズなのに、わたしは間違っていないハズなのに。みんなの幸せを――彼の幸せを守ったハズなのに。


 ――どうして、こんなに胸が苦しいのだろう?


 解らない。判らない。わからない。

 どれが正しくて、どれが間違っていて。

 どれが幸せなのか、どれが罰なのか。

 わたしにはわからない。

 彼に向けるべき感情が、わからない。

 心の中にぽっかりと、大きな穴が開いたようで、でもその埋め方がわたしにはわからなくて。

 底の見えないその虚は、いったい何を意味しているのかわからなくて。

 何よりも、自分の心がわからなくて。

 わたしは――怖かった。

 彼を拒絶したのがいけなかったの? でもそうしなきゃ、わたしが救われないのは明らかだったじゃない。


(……わたしはいったい、どうすればよかったの?)


 考えても考えても、わからない。


 ――わからないから、考えないことにした。


 だんだんと、世界から色が失われていく。ついさっきまで多彩な色に彩られていた世界は、黒と白のモノクロな世界に変わっていった。

 ああ、いまの私には、これが似合っているのかもしれない。

 世界から音が無くなっていって、色も消えていって、ついにわたしは独りになった。

 けど、そうしている間にも、時間は進んでいく。孤独の世界でも、時は進む。

 隣に、彼が来た。わたしに挨拶をしてきたみたいだったけど、よく聞こえなかった。

 モノクロの世界の中で、ただ時間だけが過ぎていく。

 いつもなら聞こえるはずのクラスメイト達の喧騒が、今は聞こえない。

 教室の扉が開いた。セラ先生が、わたし達に挨拶をする。それは一見、いつものセラ先生。

 けど、どうしてかな、あのセラ先生は、セラ先生であってセラ先生じゃない気がする。

 だって、『悪意』が無いから。

 本物(・・)の悪意が、無いから。

 セラ先生が、ジッとわたしを見る。いつもならその視線には、何も感じないけど、今日に限って、それが気持ち悪いと感じた。

 あのセラ先生から感じられるのは、張りぼての悪意。だけど、それすらも、張りぼてに成りきれていない。張りぼてで隠しているのに、その隠した何かが、そっと漏れ出しているかのよう。


 ――けど、そんなこと、もうどうでもいいか。


 思考を切り替える。

 関わらなければ、こんなこと、関係ないじゃないか。


「……さん。……ートさん」


 誰かが、わたしを呼んでいる気がする。いや、呼んでいるのだろう。

 そしてわたしは、それが誰なのか知っている。

 知っているけど、聞こえないフリをした。

 その人物は、反応しないわたしを見て諦めたのか、わたしを呼ぶのをやめた。

 いろんな感情が、わたしの中で渦巻く。わたしはそれを、必死に押しとどめた。


 再び、外を見る。

 雨は、止まないままだった。


 ***


 一週間が経った。心の虚は大きくなっていく一方だった。なんだか、怖い。

 何度か、彼が話しかけてくれたけど、相変わらず疎遠のままだ。明日も、きっとこんな感じだろう。

 それと、先生の様子がなぜかおかしい。まるで何かに取り憑かれているみたいだ。


 ***


 一ヶ月が経った。数週間前から、何故かあの日の感情がわたしの心を再び埋め尽くしていた。

 いったい、なんなのだろう。苦しいけど、心地よくもある。

 数日経っても、謎の感情は、増す一方だ。そのせいで、わたしの心は満たされているのか、失われているのか、よくわからなくなってくる。

 彼とは、何も変わらない。

 この壁が、壊れることはない。


 ***


 三ヶ月が経った。時間が経つにつれ、虚と感情――総じて、『想い』は強くなっていた。けど、彼とは話せないまま。

 とても、苦しい。

 ねぇ、誰か、教えてよ。

 教えてくれるのなら、誰か。

 いったい、これは何なの。


「――――、」


 淡々と過ぎていく日々。

 わたしは独り、別の世界にいる。

 後悔はない。これはわたしが望んだモノ。

 ああ――でも、苦しいな、泣いてしまいたいな。


「――――、?」


 何かが、このモノクロの世界を照らした気がした。声が聞こえた気がした。

 いや、もしかするとそれは、ずっと前からあったのかもしれない。

 その声は、あの人の声に聞こえた。そう思った自分が、バカだと感じた。

 けど、その声に誘われるかのように。

 わたしは、顔を上げた。


 ***


「…………暑い」


 気付いたら、夏になっていた。時間の感覚さえも、よくわからなくなっていた。漠然と、ただ時間が過ぎているとしか、認識できなかった。

 ひどく、曖昧な日々を送っていた気がする。記憶はノイズがかかったように何も思い出せない。確かなのは、その日々に彼の姿は無く、幸せも無く、ただ灰色で飾られていたことだけ。

 空を見上げれば、青空が広がっている。澄んだ青が、とても目障りだ。太陽がギラギラと地を照らしていて、とても眩しい。


「――――、――――」


 声が聞こえる。

 あぁ、五月蝿いな。

 隣を見ればそこにはマリアさんが居た。この声は、マリアさんのものだったらしい。けど、彼女が何を言っているのか、わからない。

 いや、わかろうとしていないんだ、わたしが。

 何を言ったかよく覚えてないけど、とにかくわたしはすぐにその場から離れた。

 学校前に差し掛かった時、わたしは今日がいったい何の日だったか思い出した。

 今日は、終業式だった。

 俯いていた顔を上げる。そして、嗤う。


 ――ああ、世界は変わらず、モノクロのままだ。


 わたしはそのまま、校舎へと歩を進めた。

 昇降口は、生徒達で溢れかえっている。わたしはその人混みを縫って歩いて、教室を目指す。誰もわたしを気に留める人なんかいない、いつもの光景。


「――おはよう、アストロアートさん」


 だから、その挨拶が自分へ向けられたものだということに、気付かなかった。


「ぇ……?」

「おはようっ、アストロアートさん!」


 目の前の女子生徒――たぶん、わたしのクラスメイト、だった気がする――は、わたしが挨拶を聞き取れなかったと思ったのか、もう一度挨拶してくる。


「あ、えと。その……おはよう、ございます」


 ぎこちなく、挨拶を返す。すると、その女子生徒は「やたっ、挨拶してれたっ」と小さく呟き、それじゃあ、と言って教室の方へ向かっていった。


(なんだったの、いまの……)


 いままで無かった経験に、ひどく戸惑う。あの返答で、よかったのかな。


「あ……」


 そうやって思考しながら歩き、教室は目前という所。そこでわたしは、ファルシュくんに出会った。彼も、わたしに気付いたようで、顔に笑みを浮かべて、わたしに話しかけてくる。


「おはよう、アストロアートさん。今日は、顔を上げてるね」

「え……?」

「あの日から、ずっと君は顔が俯いたままだったんだよ。うん、やっぱり顔を上げた方がずっと良い」


 ファルシュくんは笑いながら、そう言う。そしてそのまま教室に入ると、何事も無かったかのように席に座る。

 なぜかわたしは、その所作にひどく苛立った。


(なんで?)


 なんで、苛立ったのだろう。彼が関わってこないのは、いいことじゃない。

 これじゃまるで――――。


(わたしが、彼に構って欲しいって思ってるみたいじゃないか)


 またしても、自分の心がわからなくなってしまった。


 ***


 気が付けば、わたしは図書館の中に居た。時計を見れば、まだお昼すぎ。そっか、今日は終業式だったから午前で学校が終わったんだっけ。それすらも、なんだかあいまいだ

 図書館は、相変わらず閑散としている。ここに来た経緯が、イマイチ思い出せない。けど、わたしのことだ。たぶん、無意識のうちにここに足を運んだのだろう。

 ここには、誰もいないから。

 誰も、来ないから。

 本棚をぼんやりと眺めながら歩く。特に目的はない。ただ、こうするだけでも気は紛れた。

 本の一冊一冊の背表紙を丁寧に見ていたからだろうか。


「――――?」


 ふと、周囲の本とは明らかに雰囲気が違う、古びた本が目に入った。


(こんな本、あったっけ……?)


 まだこの学校に来て一年と少しだけど、その間に、この図書館の本をほとんど読んだ。

 だって、それしかすることが無かったから。確かに、まだ読んでいない本はいくらかある。けど、こんな古びたな本が、記憶に残らないハズがない。

 気になったわたしは、それに手を伸ばす。全体的に古びており、背表紙も、表紙も、全部真っ黒な本。表紙の方に小さく、白い文字で『悪魔大全』とだけ書かれていた。


「悪魔……大全?」


『悪魔』。そのワードが、どくんと、わたしの心を揺らす。

 数百ページはあろうかという分厚い本。いくら本好きなわたしでも、全部読もうと思ったら二、三時間はかかりそうなくらいの厚さ。

 それに恐る恐る、表紙に触れ、開く。きっと、かなり昔に書かれた本なのだろう。ページは色褪せ、所々破けている。けど、読めないことはない。


「――っ」


 その本には、全てが書かれていた。――悪魔の全てが。

 名前。特性。権能。象徴。悪魔に関わる全てが、この本には記されていた。

 そのひとつひとつを、じっくり、隈無く読む。無我夢中になって、ある記述を探す。

 時間を忘れ、没頭する。途中、立っているのが辛くなり、いつものスペースに行って、イスに座って読んだ。


「――あ」


 そして、見付けた。見付けてしまった。

 それは本のかなり後ろの方に載っていた。他の悪魔は数ページにわたり記述されているのに、この悪魔だけは見開きで二ページのみ。それはつまり、この悪魔の知名度――もしくは、(くらい)が低いということを、意味していた。

 炎の悪魔。右端に記載された画には、抽象的ながらも、それが描かれていた。

 その悪魔の名は――――。


「っ……!? なに……?」


 唐突に、ガタン、という音が聞こえた。驚いて、顔を上げて辺りを見渡せば、いつの間にかもう夕方になっていた。

 窓から夕日が差し込む。その緋い光が、まるで炎のように眩しくて、目が焼けてしまいそうだ。

 ああ、なんだろう。この光景、いつかも見たな。


「――――、ぁ」


 そうだ。これは、『彼』と出会った日の光景だ。

 そして、彼に出会う前に、思い出した光景だ。


「う、そ」


 震える声で、呟く。

 窓から夕日が差し込む、夕暮れの図書館。その最奥の一角。

 人は誰も居ない、わたしだけ場所。そこに、


『――やぁ、リン』


 いつかと同じように笑いながら、彼はそこに居た。

 暑い暑い、夏の日。

 そんな日の、出来事だった。

 

 ***


 なんで、ここに。そう思った。

 もう、わたしの前に現れないでと、そう告げたのに、どうして。


『やっと君に会えたよ、リン。ずっと、会いたかった』

「……わたしは、会いたくなかった。なんで今更、わたしの前に来たの。もう来ないでって言ったはず」


 思わず、声に刺々しさが増す。無理もない。この悪魔のせいで、わたしはこうなっているのだ。わたしは、この悪魔を許せない。


(だけど、)


 許せないけど、許してしまう。

 だって、悪魔が善意でわたしをこうしたということが、わかっているから。そのおかげでわたしは『泣き虫リン』じゃなくなった。そう、泣けなくなった(泣かなくなった)んだ。

 わたしの小さな、けど確かな幸せを、代償に。

 だからこそ、目の前に現れて欲しくなかった。


『っ――あの地獄、アイツのせいで起きた、忌まわしい地獄。アイツと違って、僕ならリンを……』


 ブツブツと呟くと、悪魔は薄く笑う。その笑みは、あの日の笑みと全く異なるものだった。


「……いったい、なんのこと?」

『別に、こっちのことさ。それより、リン。それは、読んでくれたかい?』


 悪魔はそう言うと、わたしの持つ本――『悪魔大全』を指差す。


「……うん、読んだよ。これには悪魔――あなた達のことが、全て書かれていた」

『そう。それは数百年前――僕達が人間界に闊歩していた時代に書かれた本だからね。今は必要ないし、必要とされない。そんな本だ。それを用意するのは大変だったよ』


 悪魔は嗤いながら、そう言う。

 ……まただ。また、いつかの笑みとは違う笑みだ。


『それで? 知ったんだろう、僕のことを』

「……うん。全部知った。あなたは、炎を司る悪魔。だから、あなたに与えられた魔力のせいで、わたしの涙は炎になる。炎の悪魔、あなたの名は――」


 ひと呼吸。そして、その名前を告げる。



「アミー。それが、あなたの名前」



『悪魔大全』には、そう書かれていた。


『ああ……ようやく、リンが、僕の名を』


 三度みたび、悪魔――アミーは、嬉しそうに嗤う。

 その笑みは、先の二回の笑みと同じモノで、そして歪な笑いで、どこか不気味で、わたしは怖かった。

 内からくる恐怖を押さえつけながら、わたしは悪魔に聞いた。 


「……もう一度聞くね。アミー、あなたは、何をしに来たの?」

『おっと、そうだった。僕はね、リン。君を幸せにするために来たんだ。だから、僕についてきてほしい』

「……え?」


 言葉が出ないとは、多分このことを言うんだろう。そう思ってしまうくらい、彼が何を言いたいのかよくわからなかった。


「いったい……どういう意味?」


 それでも、震える声でその真意を聞く。


『そのままの意味さ。この一年、ずっと君を見ていた。今の君は、あんまりにも不幸だ。報われていない。だから僕が、君にとっての、最高の幸せを用意した。僕についてくれば、それで君はいつかの日々に戻れる(・・・)


 けど、聞いてもわかることはなかった。


「……どういう、こと、なの」

『だから、言ってるだろう? 君を幸せにするのさ。だからほら、僕の手を取って。僕について来てくれ』


 屈託のない笑みを浮かべながら、アミーはわたしに手を差し伸べる。

 アミーが何を言っているのか、全然理解できない。この数ヶ月、理解することを拒んでいたわたしだけど、そうでなくても、彼の言っていることが何なのか、わかることはできなかっただろう。

 ただひとつ、わかったことが、彼の眼には、何の迷いも、濁りも、悪意は無く。

 ただ、心の底から、こう言っているのだということだけ。

 だからこそ、わたしは。


「……いやだ」


 この悪魔(アミー)を拒絶した。


『……え? いや、なんで、だい……?』


 断られると思ってなかったんだろう、アミーはひどく驚いた――それでいて、どこか悲しげな――顔をする。


「アミー。あなたが心の底からそう言っているのは解る。けど、わたしは今のままでいい。これは、わたしの罰なの。それになにより――」


 わたしはそのまま、言葉を重ねる。それが、アミーを傷付ける一言だとわかっていても、


「――わたしは、あなたを信用できない。あなたの行動が善意だと解っていても、わたしはあなたを許せない」


 その言葉を、告げた。

 矛盾だということはわかっている。確かに、わたしはアミーを許すという気持ちはある。けどそれ以上に、わたしはやっぱり、心のどこかで彼を憎んでいる。

 だからあの時、わたしは『もう現れないで』と言ったのだ。許すと許さないの中間、『関わらない』を表すために。そして、【火涙】の性質を持ったわたしが、いつまた燃やしてしまうかわからなかったから、そうならないために――感情を制御するために――自ら他人との境界をつくったのだ。そうやって徹底して他人と一線を置いてきたから、他の人達は次第にわたしに関わらなくなっていった。そうなるまで、時間はたいしてかからなかった。あのマリアさんでさえ、今でも関わってはくるけど、その頻度は減ったのだから。


 ――けど、あの人だけは、違ったな。


 一瞬、そう思った。でも、すぐにそれを打ち消す。

 わたしは、この人を、もう一度、拒絶する。

 関わってこないで、その意志を表すために。

 その瞬間、アミーの両眼が見開く。

 まるで、信じられない、とでも言うかのように。


『はは……なんだよ、アイツは良くて、僕は駄目だっていうのか……!?』


 そして、独り言を呟く。


(『アイツ』……?)


 そう言えば、さっきもそう言っていた気がする。『アイツ』とはいったい、誰のことだろう。


『……リン』

「……なに?」

『僕じゃ、駄目なのか……? どうしても、アイツの方がいいのか……?』

「ねぇアミー。『アイツ』って誰なの? そんな曖昧な言い方じゃ、わかんない」

『あくまで言わないつもりか……。なぁ、リン。もう一度考えてくれ。君は幸せになっていいんだ。あの日の幸せを、取り戻せるんだ。いいことじゃないか』

「……言ったでしょ、これはわたしの罪。わたしは、幸せになっちゃいけないの」

『リン!!』


 刹那。ボワッと、アミーの周りを漂っていた炎が燃え上がった。そして、気付いた。

 アミーの炎が、あの煌々と燃える赤い炎ではなく、まるで闇のように深い黒い炎だということに。


「……ひっ」 


 思わず、小さな悲鳴が出た。

 そして、アミーはわたしに近付いたかと思うと、わたしの手を掴んだ。


『リン、僕について来てくれ。ただ、それだけでいいんだ。お願いだ』


 その表情は鬼気迫るモノで、ただひたすら、怖かった。

 彼の紅い眼は、わたししか映っておらず、そしてわたしは、その真っ直ぐな眼だからこそ、狂っていると感じた。


「あなた……だれ、なの……?」

『僕はアミー。炎の悪魔。それ以外の何でもない』


 無意識に、そう問う。


 ――違う。ちがう違うッ!!


 この悪魔は、あの日の悪魔じゃない。

 怖い。怖いよ。


「――――っ!」

『――! リン、どこへ行くんだッ!!』


 アミーが掴んでいた手を振り払い、わたしは一目散に走り出す。目的の場所は無い。ただ、ここから離れるべきだと思った。

 入口から出る際、司書さんの居るカウンターをチラと見たが、そこに司書さんは居なかった。アミーのせい、なのかな。


「はぁっ、はっ、はぁ」


 走る。夏の青空が、ひどく目障りだ。太陽の日差しが、ひどく眩しい。走り続ける度に揺れる黒髪が、途中で邪魔だということに気付いて、持っていたゴムで後ろで一つにして結った。

 運動なんて得意じゃないわたしの身体が、音を上げたのはすぐだった。ズキズキと、横腹が痛い。肺が酸素を求めてる。けど、苦しいと訴える身体を必死に叱咤し、走る。

 何も考えず、走る。走り続けた先に着いた場所は、


「――ここ、は」


 以前、わたしが住んでいた街。その跡地が見える、小さな丘だった。

 わたしの故郷は、今わたしが住んでいる街からそう距離は遠くない。確かに、全力で走り続ければ、そう時間はかからずに着くだろう。

 その、何も無くなった、街だった場所には今、一本の大きい十字架が、建っていた。


「……みんなの、お墓」


 それはクロード家が造った、わたしの故郷の人達みんなのお墓。さすがに、全員分を造るのは難しかったから、慰霊碑として一本の大きい十字架を、クロード家が造ってくれたのだ。

 あの日以来、わたしはここに定期的に足を運んでお墓参りをしている。

 けど今は、今だけは、ここを見たくなかった。

 だって、不安定なわたしが、今、ここを見てしまったら――――。


「……、ぁ」


 ポタリ、と。

 一滴の涙が、地に触れた。


 ――それは、始まりを告げる音だった。


 今まで抑えてきたモノ。それが、一気に解き放たれた瞬間だった。


「あ、ぁ……!」


 涙が地に触れた瞬間、まるで花が咲き開くかのように炎が燃え上がる。

 ひとつ、またひとつ。ヒガンバナの形をした炎の花が咲き、その花弁を辺りへ散らしていく。それがひどく幻想的で、心のどこかで綺麗と感じている自分が嫌で嫌で仕方なかった。

 止めなきゃ、止めなきゃ。そう思って必死に涙を堪えようとしても、それは無駄な足掻きで、涙は止まらない。今まで溜めに溜め込んできたモノが、わたしの内から全て吐き出されていく。

 最初に燃えた炎は留まるところを知らず、どんどんどんどんその手を伸ばしていく。その炎の暖かな煌きは、太陽のように輝いて、眩しくて、さっきの禍々しい黒い炎とは似ても似つかなかった。


 咲いて(もえて)咲いて(もえて)、赫(アカ)に染まっていく。


 幾つもの涙が、ボロボロわたしの頬を伝って行って、そして何もないこの場所に花を咲かせ。

 ジリジリと鳴くセミの声がだんだん止んでいって、何も聴こえなくなって。


 そうしてできたのは、ひとつの花園。

 炎の花だけが咲く、赫色あかいろの花畑。


「やだぁ……やだよぉ……」


 まるで花畑のように炎の花で埋め尽くされたその丘は、わたしの呟きなんか意にも介さず、そしてわたしだけを燃やさず、無慈悲に辺りを赤色に染めていく。


「やめて、やめて……燃えないで、燃やさないで……! お願いだから、ねぇってばぁ……っ!」


 ああ、こうなるんだったらいっそ、アミーについて行った方が良かったのかもしれないな、なんて、そんなことを考える。

 この炎を消すには、わたしが泣き止めばいい。だって、これはわたしの涙だから。けど、それができないのは、ひとえにわたしが「泣き虫」という性格だから。それに、今回は一年分の涙。もう、衝動に身を任せてしまったいま、自分の意志で泣き止むことなんてできない。


「誰か……たす、けて……」


 無意識にそう呟いた、その瞬間。


「もう、大丈夫だよ、アストロアートさん」


 わたしを中心にできた炎の壁――と言っても、わたしのすぐ傍でも炎は燃えている――の外から、その声が聞こえた。

 わたしは、この声を知っている。

 ずっとわたしが拒んでも、頑なにわたしに踏み込んできた、その声の主。


「……ファルシュ、くん……」


 振り向いたその先にはアミーと同じ顔の、灰色の髪の少年――アレン・ファルシュが立っていた。


 ***


(間に合ってよかった……。また繰り返すことだけは避けなきゃいけなかったから)


 アストロアートさんは、炎で出来た壁の中で蹲っていた。僕が呼んだ声に反応して上げた彼女の顔を見ると、その顔は泣いていた。

 そんな彼女を安心させるように、僕は笑う。


「大丈夫、アストロアートさん? 待ってて、すぐそっちに行くから」

「来ちゃダメ、ファルシュくん……! 来ないで!!」


 笑いながら、彼女にそう言う。けど、アストロアートさんはそんな僕を拒絶するかのように――いや、事実、拒絶しているのだろう。これまでと、同じように――僕に来るなと言った。

 けど、だからどうした。



「大丈夫だから。――すぐに、君を救う」



 ああ、救ってみせるさ。

 だって、あの時そう決意したから。

 そして僕は、その炎の壁に迷いなく、一気に突っ込む。その瞬間、炎が僕を燃やす。


「あぐっ……」


 熱い。まさか、こうやって僕が炎に焼かれる日が来るなんて、思ってもみなかった。

 炎を一気に突き抜けて、そのまま火で燃えていない地面の部分に転がり込む。そして、現状を確認する。

 皮膚が火傷している。爛れる、というところまでにはなっていないが、それでもかなり痛い。幸い制服の方は、一気に突っ切った為、燃えてはいるが、焦げるの範疇で収まっていた。身体に燃え移った火も、運良く既に消えかかっている。本当に、運が良かったとしか言えない。


「ファルシュくん、そんなにならなくてこっちに来なくても……!」


 アストロアートさんが、僕を心の底から心配するように、僕に声をかける。

 その声がとても嬉しくて、やっぱりこの子は優しいなと、そう思わずにはいられなかった。


「はは……これくらい、大丈夫、だよ」

「でも、そんなに火傷して……!」

「君が背負ってきた痛みに比べたら、これくらい……どうってこと、ないッ!!」

「――――っ!」


 そうだ。これまでこの子が、アストロアートさんが、どれだけ苦しんだ。

 この子は、何も悪くない。あの日のことだって、彼女に全て非があるわけではない。罪を背負うべきは決して彼女じゃない。

 だから彼女は、新しい地で幸せになってよかった。そうするだけの権利があった。

 だけど彼女は、その手に掴めたはずの幸せを自ら拒んだ。

 彼女が、あまりにも優しすぎたから。全て自分が悪いと背負い込んで、これは罪だと、罰だと自分に言い聞かせ、目の前にあった幸せを拒んだ。

 得てしまった性質のせいで他人の優しさを拒み続け、満足に胸の内のモノを吐き出すこともできず、ただ溜め続けていった。


 そうやって、優しすぎる少女はずっと苦しんできた。


「だから――ほら。安心して。もう、泣かなくていい」


 僕にとって大切なもの。

 守りたいと、救いたいと願ったもの。

 それを、泣かせたくないと想い、願うのならば。

 

「――君は、何も悪くない」


 誰かが、言ってあげなくちゃいけない。

 彼女が抱えてきたモノを、否定しなくちゃいけない。


「――――あ、ぁ」

「泣かないで、リン(・・)。君に、涙は似合わない。君にはやっぱり、笑顔が似合うよ」


 笑顔を絶やさず、僕は手をリンの頬に触れ、そこに伝う涙を拭う。

 リンは、雷でも打たれたように動かない。けど、微かにその体は震えていて、弱々しく、その手で僕の身体を押し返そうとしていた。


「ちが、うの……だめ、なの。はなれてよ、ファルシュくん……!」

「僕は離れない。君がどれだけ自分が有罪だと言おうと、僕はそれ以上に、それを否定する」

「~~っ、ファルシュくんに何が解るって言うのッ!! わたしは故郷を燃やした! わたしが泣き虫だから!! 心が弱いから、涙を止められなかったからッ! だからみんな死んだ! クラスメイトも、街のみんなも、――お姉ちゃんもッ!! これが罪と言わずしてなんだって言うの!!」

「確かに、あれはもう、どうにも出来なかった。今更言っても、どうしようもない」

「だったら……!」

「けど――たとえそうだったとして、生き延びた君が幸せになっちゃいけないなんて誰が決めたッ!!」

「……え?」


 何度でも、僕は自らを卑下する彼女を否定する。

 そして、彼女の幸せが在るということを肯定する。 


「あの日のことは、君が悪いんじゃない。悪いのは、君の涙に性質を与えた者だけ。もう一度言うよ。君は悪くない。――何も、悪くないんだ」

「……どうして、あの日のことを」

「っ――君がしなくちゃいけなかったことは、自らに罪を課して、それを償うことじゃない。生き残った者の責任として、その人達の分まで生きることだったんだ。普通に生きるのではなく、自分が幸せだと思いながら生きるということをね。そのキッカケは、いつでも目の前にあったじゃないか」

「……マリア、さん」

「君があの日、悪魔に願ったのはなんでだ? ただ普通に、友達と過ごしたかったからだろう? その願いは、いつでも叶えられたじゃないか。君がそのことに意識を向けなかっただけで、掴み取るべき幸せはいつでも目の前にあった。君が苦しむ姿を……君が幸せじゃない姿を、君のお姉さんは喜ぶと思うのか……!?」


 ずっと、彼女を見てきた。どうすれば、彼女に償いができるかずっと考えていた。

 そして、この一年で彼女が変わってしまったことを知った。


 ――()が変えてしまったことを、知った。


 目の前には、掴みとれるはずの、確かな幸せがあるのに、優しすぎるが故にそれを拒んだ少女。

 僕は、その背中を押してあげたかった。それが償いになるんじゃないかと、そう思った。


 だから、ここに来た。『アレン・ファルシュ』として。


 彼女に拒まれることは解っていた。けど、だからと言って、それが止める理由にはならない。

 どんなに拒まれても、僕は彼女の心に入り込む。この数ヶ月だって、毎日話しかけた。

 クラスメイト達にリン・アストロアートという少女について話した。マリア・クロードにも、協力を仰いだ。

 全部、全部、リンのために。リンに、リンの幸せを返すために。


 ――『アレン・ファルシュ』は、ただそれだけの為に存在している。


 そしてその「幸せ」に、僕という存在は要らない。そこに僕は、存在しちゃいけない。

 僕は、彼女の笑顔が、もう一度見たいだけ。

 あの日、あの幸せの象徴とも言えた、花畑で見せた、彼女の笑顔を。

 ただ――それだけなのだ。


「だから――」


 震える彼女を抱きしめる。安心させるように、その存在を肯定するように。


「ぁ……」


 呟く彼女の声がきこえる。それすらも愛おしく感じる。

 離したくない。この小さな身体をずっと、ずっと抱きしめいていたいと思う。彼女が好きだ、という嘘偽りない気持ちが、溢れて止まらない。

 けれど――それは、許されない感情(おもい)


「リン」


 抱きしめた身体を離し、彼女の顔を正面から見る。

 そして、笑いながらこう言う。


「笑って、幸せになってくれ。僕はそれだけを、願っている」

「――――ッ!!」


 だんだんと、炎が収まっていく。伝っていた涙が、地に落ちなくなったのだ。けど、彼女は目尻に涙を浮かべている。顔はすでに涙でぐちゃぐちゃで、正直人には見せられない顔だなとか思ってしまったけど、ここには僕しかいない。それに何より、その顔が愛おしいと感じた。

 そしてリンは、そんな顔を、笑い方なんて知らないと言わんばかりに、不器用な笑顔を見せながら、


「……う、んっ……!」


 と、そう言ったのだった。


 ***


 だんだんと、炎が収まっていく。周囲はわたしの(ほのお)で燃えた丘で、草々など一つも残っておらず、焼け跡だけが残っていた。そんなに被害が甚大じゃないということが、不幸中の幸いだった。

 目の前にはファルシュくんが居て、わたしを安心させるかのように笑って、わたしのことを待っている。

 アミーと同じ顔なのに、けどアミーのあの笑顔とは全く違うモノ。

 それは多分、あの日のモノと同じモノで。

 そして、彼が転校してきたその日から、ずっとわたしに見せ続けてくれたモノ。

 この数ヶ月のモノクロの日々の中でも感じていた、暖かな光。それは多分、きっとコレだ。思えば、彼はその間もずっとわたしに話しかけていた。


 出会ったその日から、ずっと拒んできたのに、それでもわたしに踏み入ろうとする不躾な人。けどわたしは、多分それが嬉しいとも感じていたんだ。だから、今日――朝、学校で会った時、何も言ってくれないことに苛立ちを感じた。

 他の人達とは違う、拒んでも拒んでも、わたしに関わってきた唯一の人。そんな彼にわたしは、どこかで心を許していた。だから、こんなにも心が揺らいだ。


(わたしは……幸せになっても、いいのかな?)


 他人を拒絶するのが苦しくて、でも他人の優しさが欲しくて、けど結局は拒み続けてきたわたし。でも彼は、彼なら、こんなわたしでも、隣に居てくれるんじゃないかって、淡い期待を持ってしまった。わたしは、一人で生きるにはあまりにも弱い人間だから。


 お姉ちゃんという絶対的な存在を――心の拠り所を無くしたわたしは、あまりにも弱かったから。

 誰かに、隣にいて、一緒に歩いて欲しいって、思ってしまったから。


 あの夕方の教室の邂逅から今日に至るまで、ずっと感じていた謎の感情。その正体はきっと、心の中にある大きな虚を埋める何か。そしてそれが何なのか、わたしは思い出した。

 久しく忘れていた、ある感情。それはあの日から心の奥底に仕舞っていた、美しくて、尊い感情。


(ああ、わたしは――)


 ――この人のことが、好きなんだな。


 その『好き』が、果たしてどの『好き』なのかは解らないけど、それでもリン・アストロアートがアレン・ファルシュのことが好きだということに間違いはない。

 顔を上げる。そこには、モノクロの世界……ではなく。


 色彩に溢れた、カラフルな世界。 


 ああ、この光景は、いつかも見た気がする。あれは、いつだったかな。

 そうだ、あの日――悪魔に出会った日。あの悪魔から、【火涙】の性質を貰ったとき、わたしはこれでみんなと仲良くなれる、そう思っていた。だから、あの日お姉ちゃんと見た夕景は、とても綺麗だった。鮮やかだった。

 世界が、美しく見えた。


 夏の日差しが眩しい。けど、それが煩わしいと感じることは無かった。

 ファルシュくんを正面から見据える。そして、聞かなきゃいけないことを、聞こう。

 彼と、話をしよう。この感情のことは、それから。


「あのね、ファルシュくん――」


 口を開いたその瞬間。


「――ッ! リン!!」

「え?」


 ――黒い炎に、包まれた。


「な、に……!? なんなのっ!?」


 突如現れた黒い炎は、わたしだけを包み、まるで大きな箱の中に入れられたかのようにわたしを世界から隔絶する。


『やっと……見付けたよ、リン』


 炎の監獄の後ろから、先程も聞いた声を聞く。この声は間違いなく――。


(アミー……!)


 ついに追いつかれた。いや、今の今まで見つからなかったことの方が奇跡だった。アミーが来るのは時間の問題だった。


『久しぶりだね。今はアレン・ファルシュだっけ』

「君は……アミー!?」


 けれどアミーはそんなわたしをよそに、この場にいるもう一人の人物――ファルシュ君に声をかけた。


(ファルシュくんとアミーは知り合い……!? 顔が同じだけど、ということやっぱり……)


 その予測を確信へと近付けるために、耳を澄ませる。でも、炎越しのせいか、よく聞こえない。


「……どうして君がここに居る。ここは人間界だ。君が居ていい場所じゃない」

『それは君もだろう、アレン。僕らはここに居ちゃいけない存在だ。けれど、』


 アミーが言葉を区切ったのか、くぐもってはいたけど、聞こえていた声が突然途切れる。そして――。



『僕は、リンを幸せにする(もらう)



 炎が、わたしを燃やした。


「~~~~っ!?」


 身体は燃えない。燃やされるのは意識。遠慮なく、わたしの意識に入り込んで、何かを燃やしていく。


(やめて……来ないで……!)


 感じるのは恐怖と嫌悪感。わたしを燃やそうとするこの炎が気持ち悪いと感じた。そして、その炎を操るアミーも。

 けど、炎は燃やしていく。それが何なのか、気付いた時には既に遅かった。


(やめて、それだけは……!)


 燃やされているのは、ある感情と、記憶。その感情は、先ほど気付いたあの感情。そして記憶は、この一年の記憶。まだ思い出せる。思い出せるけど、部分的に欠落してしまっている。

 忘れていって、そしてだんだんとぼやけていく。

 揺れた水面のようにはっきりとしない情景。彼と、彼に関する記憶が、曖昧になっていく。

 曖昧になったそれは、まるで夢のように映り、次第に別の情景と混合していく。


(ファルシュ、くん……!)


 彼の名を呼ぶ。大事な存在だということに気付いた、彼の名を。

 忘れたくない、忘れたくない。


 ――だけど、現実は無慈悲だ。


「あ――――」


 わたしの意識がだんだんと途切れていく。その最後が途切れるその瞬間、彼の声が聞こえた。そんな気がした。
































 …………彼って、誰だっけ?





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