第三章 『揺れ動く心』
夢を、視た。
それは、幼き日の記憶。
わたしの中に在る、とても大切な記憶の、一幕。
一面に広がる花畑。その場所を、無邪気に走り回る、幼い、黒髪赤眼の少女。
――あれは、たぶん、わたし。
その傍らには、その少女より一回りほど年齢が離れた、長い黒髪紫眼の女性が立っている。
――その人は、わたしが最も愛する人。
わたしの、お姉ちゃん。
『お姉ちゃん、早く早く!』
『慌てるとコケるわよー、リン』
『大丈夫だよーぅだ! それよりほら、クロエお姉ちゃんもはやくー!』
幼いわたしは、姉であるクロエに笑みを向けながら走っている。
太陽に照らされて、その色彩を鮮やかにしている眼前の花畑は、まるで幸福を表しているかのよう。
世界は美しく、そこに穢れなど何もない。
少女の笑みは、見ているこっちも幸せになりそうな、そんな笑み。
少女の姉の前でしか見せない、彼女の笑顔。
『まったく……その様子を、学校の友達の前で見せてあげたら、もっと仲良くなれると思うんだけどなぁ』
『う……だって、お姉ちゃんは家族だからいいけど、学校のみんなの前だと、何考えてるかわかんないし、それにわたし、泣き虫だし……』
『お姉ちゃんは、リンの笑顔はとても素敵だから、それを見せたら仲良くなれるんじゃないかって言ってるの』
『うぅ……でもぉ』
『ああもう、そうやって泣かないの。もう八歳でしょ』
『うぅ~~! ………あ、』
ポン、と頭の上に乗せられる柔らかい手のひら。触れたら壊れそうな、華奢な手だけれど、それは他のなによりも、わたしを安心させてくれた。
ふわり、と風が吹く。その風で、お姉ちゃんの髪がなびく。
それは綺麗な、どこまでも深い黒。闇のような色だけれど、でも優しい黒色。
涙を拭ったわたしは、先程までの様子とは打って変わって、元気な様子でそこにある花畑の方へ走っていく。そんなわたしの様子に肩をすくめながら、お姉ちゃんはわたしの後ろを歩いていく。
「――――――、ぁ」
だんだんと、遠ざかっていくその姿に、手を伸ばす。
でも、届かない。
どんなに頑張っても、姉の背中は遠ざかる一方。
「…………って」
待って。行かないで。
わたしを置いて、いかないで。
寂しい、さみしいの。
――ひとりに、しないで。
そして、何度目か解らないくらい手を伸ばした、そのとき。
視界が、赤に染まった。
「あ――――」
視界に映るは、何処までも広がる赤一色。それはつまり、炎。
あの日の、地獄。わたしが忘れてはいけない、背負い続けなければいけない罪の記憶。
わたしは、あの街の人々を殺し、自分だけ生き延びた。ぜんぶ、わたしが泣き虫だったせい。
だから、まるで忘れるなと言わんばかりに、こうして夢に見る。
夢の中のわたしは、ひとり、その地獄を歩く。
彼女に救いはなく、ただ罪を背負いながら歩く。
わたしの心にまたひとつ、傷跡を付け、
そして、目は覚める。
***
「――、はぁっ、はぁ!」
ガバッ、と跳ねるようにして起きる。ぐっしょりと、身体は汗で濡れている。
「また……この、ゆめ」
忘れるなと言わんばかりに頻繁に見る夢。最近は見ていなかったから、少しだけ安心していたのに、それは束の間の安心だったみたいだ。
けど、少なくとも今日この夢を見た原因はわかっている。あの、灰色の少年のせいだ。
悪魔と瓜二つの顔を持つ少年――アレン・ファルシュ。
わたしは昨日、その人物に失礼なことをした。それが尾を引いているのもあるし、なにより彼の顔が、悪魔を想起させた。
「――は、ぁ」
息を吐く。時計を見れば、そろそろ準備をする時間だ。
支度を済ませ、いつもより早く家を出る。今日は、昨日のように気まぐれではなく、ちゃんとした意志を持ってだ。
わたしは、ファルシュくんとはなるべく関わりたくない。だけど、昨日わたしは彼を置き去りにして帰ってしまったから、それはきちんと謝っておかないといけない。たとえそれが、彼に近付く行為だったとしても、そうしないとわたしが居た堪れないからだ。こういう時、自分のこんな性格が嫌になってしまう。他人を、完全に突き放すことができないのだから。
そんなわたしが取れる行動など、ひとつしかない。
朝早く、学校に行って、彼の机に置き手紙を残す。これできちんと謝ったことになるし、会話もせずに済む。うん、我ながら完璧。
――と、そう思っていたのに。
「……うそ、でしょ」
「ん。あれ、アストロアートさん。おはよう、今日も早いね」
教室の扉を開けると、そこに居たのは、灰色の髪の少年――アレン・ファルシュだった。
(なんでこんな朝早くにいるの……!? いや、わたしも人のことは言えないけど!)
内心焦る。どうしよう、計画が滅茶苦茶になっちゃった。
(落ち着こう、わたし。大丈夫、大丈夫)
まずは、冷静を装って、席に着こう。そして、何事も無かったのように本を読み始めてしまえばこっちのものなんだから。
瞬時の間にそこまで考え、実行。彼の横を通る時に「おはようございます」とだけ言って、席に着く。
「ところでアストロアートさん。昨日、どうしていきなり走り出したんだい?
本をカバンから出し、さぁ読むぞという時になって、タイミングを狙ったかのようにファルシュくんはわたしに声をかけてきた。
「……それ、は」
そして、当然だけど、わたしはそれに答えきれない。
――あなたに、関わりたくなかったから。
なんて、言えるわけがない。
「……言えないなら、無理に聞かないよ。ごめんね」
わたしが何も言えないままでいると、ファルシュくんは申し訳ない、といった表情で自分の席に着く。
――まただ。なんで、理由を聞かないの。
その気遣いが、優しさが、苦しい。
それは遠慮なく、わたしの胸を、締め付ける。
「…………」
けど、そんなこと口に出せるわけもなく。
わたしも席に着いて、本を読み始めた。
――『ごめんなさい』と書かれた、手紙は渡せないまま。
***
「リーンーちゃーんっ!」
「マリアさん……」
昼休み。わたしは昼食を摂ろうと、屋上へ向かう途中――彼がいる場所には、なるべく居たくない――廊下でばったりとマリアさんに会った。
「えへへー。最近どう? 何か変わったことでもあった?」
「……別に、なにも」
「うそ。ほら、最近とびっきりのイベントがあったでしょ?」
「……もしかして、ファルシュくんのことを言ってるんですか」
「ふぅん……。ファルシュくん、ねぇ」
「な、なんですか。わたし、何か変なことでも言いましたか」
「ううん。ただ、私以外の人の名前を全然覚えようとしてなかったのに、アレン・ファルシュくん……だっけ。その人の名前はちゃんと覚えてるから、ちょっとビックリしちゃって」
「それ、は」
それは、ただ彼があの悪魔と同じ顔だったから。ただそれだけ。マリアさんだって、わたしの命の恩人だから覚えただけ。
そう言いたかったけど、もちろんそれが声に出ることはない。
「どしたの?」
「……ううん。それじゃわたし、行く場所あるから、これで」
マリアさんにそう告げ、背を向ける。そして、人気のない方――屋上へ向かう。本来なら屋上は立ち入り禁止だけど、校舎自体が古いせいか、ドアを施錠している南京錠が壊れてしまっていて、実質誰でも入れるようになっている。だからと言って、ほとんどの人はここに立ち寄ったりなんかしない。屋上に繋がる階段は、教室棟から結構離れた場所にあるため、そこに足を運ぶくらいなら教室か、中庭で食べた方が早いからだ。
つまり、屋上は誰も居ない空間となる。
だからこそ、わたしはいつもここで昼食を摂る。
錆びた扉を開け、屋上に出る。今日も昨日と同じように、空は眩いほどの晴天だ。日差しがぽかぽかして気持ちいい。
わたしは、屋上の隅っこにあるスペースに座り、後ろにある壁に寄りかかる。そして、お弁当を食べ始める。
サァァ、と。風が吹いて木が揺れる音が聞こえる。この木は多分、中庭に生えている大きい木かな。
それから程なくして、弁当を食べ終える。わたしは飲み物を飲みながら、ひとつ、思考する。
(どうやって、彼に謝ろう)
午前の授業の間も、ずっとそれを考えていた。もちろん、彼が言わなくていいと言っていた以上、別に無理して謝る必要は無くなったのだけれど、それだと本当にわたしがいやなのだ。
わかっている。それが彼に近付く行為だということは。
けど――――、
(……いったい、どうしたいんだろう。わたしは)
ファルシュくんが来てから、自分の心が解らなくなってきている。
まだ、彼が転校してきて一日程度だ。でも、その一日は、わたしの心を掻き乱すのに充分すぎた。
最初の出会い。微妙な距離感でのやり取り。放課後の図書館への案内。
――そして何よりも、あの悪魔と同じ顔ということ。
――そして、わたしに対する、優しさ。
それらは全て、時間というものを関係なしにわたしの心を掻き乱した。
それはわたしの心に、遠慮なく、踏み込んでくる。
踏み込んできて、わたしの心をわからなくしている。
優しくしないで欲しい。わたしの心に触れて欲しくない。触れられたら、その優しさに甘えてしまう。それだけはダメだ。
だってわたしは、幸せになっちゃいけない存在だから。
わたしのせいでつくられた、あの日の地獄。あれで死んでいった人達を差し置いて、わたしだけ幸せになることなんてできない。
だからわたしは、独りになるんだ。他人の優しさに甘えちゃいけないし、触れてもいけない。
それがわたし。リン・アストロアートの生き方。
「あ……」
思考の最中、ふと耳に鐘の音が聞こえた。もう、教室に戻らないと。
(……放課後、でいいかな)
でも、せめて。
彼に謝ることだけは、しておこう。
つくづく、わたしは優柔不断で、矛盾した人間だと自嘲しながら、固めた決意を胸に、わたしは少し小走りになりながら教室へ戻った。
***
「……であるからして、この地域は昔ながらの風習が強く根付いており、かつて都市部では蒸気機関といった新しい技術を用いて開発が進められていた時代もありましたが、距離的な問題もあって、ここはその影響をそこまで受けてはいないのです。もちろん、まったく無いというわけではありませんが……」
午後一番の授業は歴史だった。歴史担当であり、担任のセラ・ユーベル先生が、内容を細かく説明している。黒板には、この地域のことについて、年表形式で書かれていた。わたしはそれをノートに写しながら、隣をこっそり伺う。隣のファルシュくんも、真面目にノートを取っていた。
(……悪魔の顔でこんな風に授業受けてる姿見ると、なんか違和感あるなぁ)
何でもかんでも悪魔に結びつけるのは良くないと解っていても、自然とそういう感想を抱いてしまう。
そんな風に、彼の姿を――と言っても、ほんの数秒程度だ――見ていると、突然、
「そこでボーッとしてるアストロアートさん。ここの文章、読んでくれるかしら?」
と、セラ先生から当てられてしまった。
「…………はい」
いきなり名前で呼ばれビックリする。けど、いつものことだと思いなおし、わたしは席を立つ。
――なぜかはわからないけど、わたしはセラ先生によく思われていない。こういったあからさまな名指しも、よくあることだ。教師という立場にありながら、生徒を選り好みするのは正直どうかとわたしは思うけど、それを口にはしない。別に、担任からどう思われようと、わたしにとってはどうでもいいこと。逆に、必要以上に先生と関わらなくて済むと思えば、これは良いことだとも言える。
でも――この人は、
お姉ちゃんに、よく似ている。
「――と、いうわけです」
「……よろしい。座って結構です」
淡々と、教科書に記された文章を読む。先生はそれを聴き終えると、少し不満気な顔をすると、わたし
に着席を促した。
――この先生は、わたしが授業を真面目に聞いてないとでも思ったのだろうか。そうだとしたら、少し心外だ。そう思ったけど、やっぱりどうでもいいことだ。
席に戻る。すると今度は、
『アストロアートさん、先生に何かした……というより、何かされてるの?』
と、書かれた紙を、隣のファルシュ君から手渡された。
その言葉に、わたしは目を見開く。そしてすぐに返事を書いて渡した。
『どうして、わかったんですか』
セラ先生も馬鹿じゃない。わたしに対するあの『悪意』は、教室に座っているクラスメイトからは絶対に見えない、絶妙な位置に立って放っているものなのだ。いまここにいるクラスメイトでさえ気づいている素振りはないのに昨日転校してきたばかりで、クラスのことをまだよく知らないファルシュくんが気付くなんて、無理なはず。
だから、わたしは聞いた。なぜわかったのか。
『うーん。なんて言えばいいかな。僕は人のそういったモノによく気付くんだ。ちょっとした仕草、声色からね。だから、セラ先生が君のことをよく思っていないのもわかったんだけど……、いったい何があったんだい?』
――人の悪の部分によく気付く。
それはどこか、『悪魔』を連想させた。あの悪魔ではなく、単純に、悪魔のようだという意味で。
『そう、なんですね。でも、安心してください。ファルシュくんが思っているようなことはされてませんし』
『ならいいんだけど……。でも、何かあったら僕に何か言ってくれると嬉しい。力になれるかもしれない』
そう書かれた紙に、わたしは返事はせず、ただ曖昧な表情を浮かべて、ファルシュくんに会釈した。
すると、何を思ったのか、ファルシュくんはまた新たにノートの端を破りメモを書くと、またわたしに手渡してきた。
『――ところで、話は変わるんだけど。もし良かったら今日の放課後、街を案内してくれないかな?』
思わず、二度見してしまった。
***
緩やかに、放課後のときが始まる。クラスメイト達は、みんな自分のすべきこと、やりたいことを胸に教室を出て行く。いつもなら、わたしはこのまま図書館へ行くか、まっすぐ家に帰るのだけれど……
「じゃあ、行こうか」
「はっ、はい!」
今日に限って、わたしはファルシュくんと街の方まで出てきていた。
……いや、断りきれなかったわたしが悪いんですけども。
昨日の負い目があるせいか、ファルシュくんの申し出をスパッと断ることができず、そのまま流されるようにオーケーしてしまい、そして今に至る……のだけど。ことここに至って、わたしは重大な事実に気付いてしまう。
(これって、俗に言うデートってやつなんじゃ……?)
男女が二人、街中を歩けばそれすなわちデートなり――みたいな一文を、何かの本で読んだ気がする。
(いやいや! デートじゃないですから!)
けど、二人きりで出かけることには変わりない。
一度そうだと意識すると、妙に緊張してしまう。もともと人付き合いが得意な方ではないのに、出会って間もない人とこうして街中を歩く事態になったとなれば、それはもう恥ずかしさと緊張で死んでしまいそうな気分になる。
(ファルシュくんはこのことに気付いているのかな……)
胸の鼓動を抑えつつ、わたしはファルシュくんの隣を歩く。彼の横顔を盗み見るも、その表情から何を考えているかは読めない。強いて言うなら、いたって普通といった感じ。
「……………………………むぅ」
わたしだって女の子だ。なし崩し的にとは言え、この状況に少しは感じるものがあるわけで。
「? どうかしたの、アストロアートさん」
こんな風に、澄ました顔でそんなこと言われると、なんだかわたしだけ勝手に舞い上がってるみたいで、少し腹が立った。
「……べつに、なんでもないです。はやく行きましょう」
「あ、ちょっと待ってよ!」
ファルシュくんを置いて、先に歩く。すぐ彼は追いついてきて、わたしの隣に並んで、一緒に歩き始める。
「それで……これからどこに向かうんだい?」
「とりあえず、市場の方に行こうかと。わたしもついでに、夕飯の食材を買いたいですし」
そう言って、わたし達は市場の方へと向かう。そして十分もしないうちに、市場へと着いた。
人々の喧騒が、少しだけうるさい。けどそれも仕方ない。この市場はこの街唯一の商いの場なのだから。
「へぇ……すごく賑わってるね。とても人が多い」
「この街唯一の市場ですから。人が多くなるのも仕方ないです。都市部の方だと、こことは比べものにならないと思いますよ」
「いやいや。だとしても、これは充分多いって」
「いつもこんな感じですよ」
この街……というか、ここら一帯の地域は、かなり都市部から離れていることもあり、わりと閉鎖的な傾向がある。全体的に人口は少なく、そして街の面積も狭い。消費と生産はこの枠組みの中で完結し、外との関わりはそれこそ、この地域の人間が都市部へ出て行くときや、この街で生産できないものを輸入するときくらいだ。かつての開発も、あまり影響を受けておらず、昔ながらの木組みの街並みが今でもそのまま残っている。
……だからこそ、一度燃えると、連鎖的に全てが燃える。
「アストロアートさん?」
「ぁ……いえ、すみません。少し考え事してました。行きましょう、こっちです」
「うん、わかったよ」
思考を断ち切る。いま考えるべきことは、これじゃない。
気持ちを切り替え、食材を買うべく足を進める。
けど、しばらく進んだところであることに気付く。
(……確かに、今日はやけに人が多い気がする)
なんでだろう――と思ったとき、ふと視界にある張り紙が貼ってあるのが目に入る。
(あ……今日って、特売の日か)
張り紙には今日が特売である旨が記載されており、だから今日は人がいつもより多いのだということに気付く。ファルシュくんが感じたことは間違いではなかったようだ。
「きゃっ……!」
「おっと」
不意に、通行人の肩がぶつかり、体勢が崩れる。けど、倒れかけたわたしを、ファルシュくんが優しく抱き留めてくれる。
互いの視線が、絡み合う。たった一秒くらいの出来事かもしれないけど、わたしを再び緊張させるには充分すぎた。
「大丈夫?」
「だ、だいじょうぶ……です……」
顔が熱い。赤くなってるのが自分でもわかる。
だけど、いつまでもそうしているわけにもいかないので、わたしはファルシュくんに一言お礼を言い、体勢を立て直す。
すると、
「はい」
「……? あの、ファルシュくん。この手は何ですか?」
「手を繋ごうと思って」
「…………すみません、もう一度いいですか?」
「だから、手を繋ごうと思ってさ。こんな人混みだとはぐれたりしたら危ないからね」
「…………、~~っ!」
手を繋ぐ――その言葉を三回ほど反芻したところで、ようやく理解する。
「い、いやですっ! なんで手を繋がなきゃいけないんですか!」
「でも、はぐれたりしたら危ないだろう? 僕はこの街の地理をよく知らないんだし」
「うっ……」
ごもっともな論を言われ、言葉に詰まる。
(手を繋ぐだなんてそんな。まだ出会って少しししか経ってないのに……この人、少しおかしくないですか……!?)
言っても仕方ないけど、ついファルシュくんに向かって悪態をついてしまう。
ぐるぐると、思考が堂々巡りを繰り返す。そのまま、五分ほど悩み、そしてひとつの結論が出る。
……そう、これはあくまで事故を未然に防ぐため。万が一のことを考えてなのだ。
決して、わたしが繋ぎたいからじゃない。繋ぎたいと思っているのは彼だけ。
だからこれは、仕方なく。そう、仕方のないことなの。
そう結論付けて――
「……………………ふ、ふつつかものですが。よろしくおねがいします」
俯きつつ、呟くような小さな声でそう言いながら、おずおずと、ファルシュくんに手を差し出した。
「――うん。こちらこそ」
俯いていたから、返事をしてくれたファルシュくんの顔がどんなだったのかわからなかったけど、
ファルシュくんはたぶん、いつもの笑みを浮かべているような気がした。
* * *
――それから。
わたしたちは、街を――もちろん、手はつないだまま――歩き回った。全部は案内できていないけれど、それでも街のほとんどは案内したと思う。
わたしの買い物を済ませ、街の名所や主要な施設を巡り、途中で買い食いしたり。
……正直な話、楽しかった。しばらく、こんなことはしていなかった――ううん、こんな風に同い年の人と歩き回ったのは、初めてだったから。しかも相手が、転校してきたばかりの男の子だなんて思ってもいなかった。
「今日はありがとう、アストロアートさん。すごく、助かったよ」
「いえ……そんな、これくらい」
いま、わたしたちが居るのは、街を一望できる高台。最後に、街を見下ろせる場所に行きたいと、ファルシュくんが言ったので、連れてきたのだ。
夕焼けが、街を照らす。緋色に染まる小さな街。その光景はとても綺麗で、けれど何処か、街が燃えているようにも見えて仕方なかった。
……そう思ってしまうのは、たぶんわたしの罪の意識のせいなのだろう。
こんな些細なことでさえ、わたしはこの意識から逃れることはできない。
自分を赦すことが、できない。
「…………」
――楽しい、だなんて、思ってはいけない。
それは、わたしの罪を忘れることと同じだから。
わたしは、幸せになってはいけない。罪を償わなければならない。あの地獄の日からの誓いを、破るわけにはいかないから。
今日の日のことは、一度きりの例外として、記憶に蓋をする。
そして、リン・アストロアートは孤独な日常に戻る。
「それじゃあ……わたしは、これで失礼します」
だから、一刻も早く、ここから立ち去らないといけなかった。
本来なら、この時間は無かったはずのもの。他人と距離を置くと決めたわたしが、こうして関わりを持つことはありえないはずだった。
それがなんで、こうなっているのか――その原因を思い出したとき。
カサリ、と音がした。
おそらく、はみ出していたのだろう。ポケットに入れていたあるモノが、不意に落ちてしまう。
――それは、彼へ宛てた、一通の手紙。
優柔不断で、矛盾した心を持つわたしの現われというべきもの。
「あ―――――」
手紙は、そのままゆらゆらと落下していき、不運にも、ファルシュくんの足下へ落ちていった。そして当然、彼は手紙を拾い上げてしまう。
手紙の封には彼への宛名が綴られている。だから、ファルシュくんへ書いた手紙だということは、一目瞭然だった。
「これは……」
「ファルシュくん! それ、今すぐ離して!!」
柄にもなく、大声を上げて彼に近づく。けれど時はすでに遅く、彼はもう手紙を読み始めていた。
「あ、あ……」
顔が真っ赤になっていくのを感じる。
――なんですか、これ。何かの罰ですか。
何が悲しくて、自分の書いた手紙を、目の前で読まれなきゃいけないのだろう。確かに、読んでもらうために書いたのだけれど、よりにもよって今だなんて。
そんなことを考えていると、ファルシュくんはもう手紙を読み終わったようで、その顔に驚きを浮かべながら、わたしに声をかけた。
「えっと、アストロアートさん。これは……」
「……見ての通りです。昨日は、すみませんでした」
開き直って、彼に謝る。
すると彼は、面食らったかのようにきょとん、とした顔をしたあと、
「僕としては全然気にしてなかったんだけど……そっか。気にしてくれてたんだ」
「嬉しいな」と。
そう言って、彼は照れながら笑った。
(~~~~~っ!!)
ドクンドクンと、心臓が鳴る。
――やめて、来ないで。
これ以上、わたしの心に入って来ないで。
わたしの心を、迷わせないで。
「……? どうしたの、アストロアートさん? 顔色、悪いけど……」
突然黙ったわたしを不審に思ったのか、ファルシュくんが近付いて来る。
「来ないでッ!!!!」
けれど、わたしはそれを、明確な意志をもって拒絶した。
「……え?」
「来ないで……。お願いだから、もう……!」
彼がわたしを慮ってくれていることはわかる。
そこに打算など何もない。純粋な善意。思えば、彼の行動は全て善意で出来ていた。
心臓は鳴り止まない。それどころか、時間の経過につれ増していっている。ドクドクとうるさい。お願いだから、静かにしててよ。
声が震える。ジワリ、と目頭が熱くなっていく。ぼやける視界。それに気付いたわたしは、必死にそれを押し止めようとする。
いまにも壊れてしまうかもしれない、そんな状態でファルシュくんを見ると、彼は戸惑った顔でわたしを見ていた。
(――――ぁ)
その様子は、いつかの『彼』と重なった。
わたしと彼の間にまるで大きな壁が出来たかのように、わたしたちは動けずにいた。
夕焼けが、ファルシュくんを照らす。その姿は、彼自身が燃えているようでもあった。
そしてわたし自身も、この燃えそうな衝動を抑えるのに必死だった。
この衝動を、いっそ全部吐き出してしまえたらどれだけ楽かなと。そう、思ってしまう。
けれど、それはダメ。それだけはしてはいけない。
泣いてはいけない。泣いてはいけない。
泣いたら、またあの日の繰り返しになってしまう。
だから、泣いてはいけない。そう自分に言い聞かせる。
「お願いだから……。もう、わたしに近付かないで……!」
声を絞り出して、彼を拒絶する。
そうしないと、いつこの堤防が決壊するかわからないから。
壊れた時に、彼を巻き込んでしまうのだけは、避けたかったから。
だから、拒絶する。
心の底から、拒絶する。
彼を――悪魔と同じ顔をした、心の優しい少年を、拒絶する。
視界が滲む。そろそろ、ダメかもしれない。
依然として、心臓の鼓動は止まない。
わたしの心は、彼の優しさに蝕まれながら、正体不明の感情に襲われていた。
「……わかったよ。今日はもう、これで帰る」
そう言って、ファルシュくんはわたしの横を通りすぎる。
「―――、――、――」
ファルシュくんがわたしの横を通った瞬間、彼は何かを呟いた。
「……ぇ?」
けど、わたしがその意味を確かめる前に、彼はもうこの場から姿を消していた。
「…………っ、はぁ」
ようやく、感情の波が引いていく。心臓の鼓動も静まり、溢れそうだった涙も収まっていった。
思わず、その場に座り込む。そうせずには居られなかった。
けど、今度わたしの心を襲ったのは、彼に対する罪悪感だった。
そうしないと自分を――そして、彼を救えないとわかっていながら、わたしはこのジレンマに苦しむ。
「……帰ろう」
立ち上がり、おぼつかない足取りで帰路につく。
家に着くまで考えていたのは、最後の彼の言葉。
『――絶対に、君に、君の幸せを返すから』
あれはいったい、どういう意味だったんだろう。
その言葉だけが、わたしの脳内を占めていた。