第二章 『出逢い』
……小鳥の鳴き声が聞こえる。瞼をそっと開ければ、カーテンから朝日が零れているのが見えた。
「ん……。あ、さ……?」
寝惚けたまま声を出す。むくりと起き上がって、ぼーっとしたまま宙を見つめる。
わたしは、朝がとても弱い。こんなところを他人に見られでもしたら、恥ずかしくて死んでしまう。
「起き、なきゃ」
ベッドから降りる。季節は麗らかな春を迎えたとは言え、まだ朝は寒さがある。
洗面所で顔を洗う。それで多少は目が覚める。再び部屋に戻り、タンスから制服一式を取り出す。そして、パジャマから制服へと着替える。
着替え終わったら、次は朝食の準備をする。エプロンを付けながらキッチンに向かう。今日は、玉子焼きでも作ってみようかな。
頭の中でメニューを考え、そして実行。十分もすれば、付け合わせのサラダも加えて完成した。
できた朝食をテーブルの上に並べ、食べ始める。当たり前だけど、その間は、とても静かだった。
それから少しして、わたしは朝食を食べ終わった。手早く洗い物を済ませ、学校へ行く準備をする。そして部屋へカバンを取りに行った際、部屋に置かれている鏡を見た。
そこに映っているのは、わたしの長く伸ばされた黒髪と、赤い瞳。一年前までは、肩口までしかなかった髪が、いつの間にかこんなに伸びていた。
――ううん、伸ばしていた、か。
視線は鏡から隣の棚へ。その棚の上に置かれているのは、一枚の写真立て。そこに入れられている写真は、わたしとお姉ちゃんが一緒に並んだ――けれど、そのほとんどが燃えていて、やっとそれが誰なのか、識別できるくらいの状態の写真だった。
「……行ってきます、お姉ちゃん」
そう言って、わたしは部屋を出た。
***
「あ……。もう、この花が咲く季節なんだ」
通学の途中、道端に咲いていた花を見つける。その花は風に揺れ、逞しく、その生命の証を刻んでいる。
花は好きだ。見ているだけで、心が落ち着く。小さい頃から花が好きだったせいか、いろんな花の名前や種類をいつの間にか覚えていた。いつか、お花畑を自分で作れたら素敵だなと思う。思ってるだけだけど。
その花をひとしきり眺めたあと、わたしは再び学校へ歩みを進める。
新しく住み始めた街は、前に住んでいた街と変わらず、木組みの街だ。というより、この地域は、ほとんどの街がそうなっている。
木造の建物。石畳の街道。街の中心を流れる河。それら全てが、前に住んでいた街を彷彿とさせる。
けど、この街と前の街では、決定的に欠けているものがある。
そんなことを考えてるうちに、学校へ着く。この学校も、前の校舎と特に変わりはない。強いていえば、前よりも人が多いってところかな。
「あっ! おはよう、リンちゃん!」
「っ……。おはよう、マリアさん」
下駄箱で靴を履き替えてる最中、不意に名前を呼ばれる。声のした方を見れば、金髪のボブヘアの女の子が立っていた。
彼女の名はマリア・クロード。半年前にこの学校に転入してきた時のクラスメイトで、学年が変わってクラスは離れたけど、それでも何かと理由をつけてわたしに声をかけてくれている。
――もっとも、マリアさんは、ただのクラスメイトじゃない。わたしにとってマリアさんは、それ以上の存在だった。
それ以上の存在だけど、今のわたしにとって、マリアさんがこうやって接してくることは、嬉しくもある反面、煩わしいモノでもあった。
「それじゃ、わたし先に行くね」
「あっ、ちょっと待ってよー!」
わたしを呼び止めようとするマリアさんの声を無視して、わたしは教室へ向かう。
長い廊下を――決して走ることはしないが――それでもかなりの速さで歩く。やがて、わたしは教室に着き、そしてその扉を開ける。
開けた瞬間、いくつかの視線がわたしに向けられる。その光景は、いつの日かと、全く変わらない。
わたしは無言のまま、自分の席に着く。すると、学年が変わってまだ日が浅いからか、わたしのことをよく知らない人達の視線がわたしに向く。けど、わたしはそれを徹底して無視した。
カバンから本を取り出し、それを読む。
本はいい。読むだけで、その世界に入り込める。
誰にも邪魔されない、独りの世界。それが本だとするなら、いまのわたしの環境は、本そのものだと思う。
他人の介入を許さず、他人と一線を置き、他者との間に情を作ることを封じる。それを、わたしは望んだ。他者との接触なんて要らない。他人と触れれば触れるだけ、後から苦しい思いをするだけだとわかってしまったから。
いつ燃えて――燃やしてしまうか――わからないから。
だから、泣かないように、他者との接触を自分ら封じた。こうすれば、わたしが泣く要因は無くなる。形は違っても、それはあの悪魔の言った通りだった。
わたしの願ったモノは、歪なカタチで叶えられた。
時間が過ぎる。変わらず、クラスメイトからの視線は絶えない。だがそれも、予鈴を表す鐘の音が鳴れば消える。鐘の音が鳴ると同時に、わたしは本をカバンにしまった。
ガラッと、教室の扉が開いて、担任の先生が入ってくる。そして、ホームルームが始まる。わたしはそれを聞きながら、自然と視線は窓の外へ向いていた。
遠い彼方を見つめる。見つめながらふと、思い返す。
忘れもしない、あの日のことを。
***
あの日から、一年が経った。
わたしは、独りになった。
あの地獄を乗り越え、独りになったわたしは、ただあてもなく歩いた。
お姉ちゃんが死んで、天涯孤独の身となったわたしには、頼れる人などいなかった。けど、ただ歩けば、このまま歩いていれば、いつか誰か助けてくれると思った。だからわたしは、泣くことを堪えながら、ただ、ただ、歩いた。
そしてその途中で、倒れた。単純に、体力と精神が尽きたのだ。
最後の瞬間に覚えていたことは、あの時の景色――そして、誰かに抱えられる感覚。
次に目を覚ました時、わたしは寝台の上に横たわっていた。本当に、誰かに助けられたのだ。
『あっ、大丈夫? 私のこと、ちゃんとわかる?』
その、わたしを助けてくれた人物こそが、先のクラスメイト――マリア・クロードだった。マリアさんが、わたしにとってクラスメイト以上の存在というのは、そういうことだ。有り体に言えば、『命の恩人』というやつ。
それから後のことは、トントン拍子に話が進んでいった。
わたしの身に何が起きたのか。
なんで街が燃えたのか。
それら全てについて、クロード家の人に聞かれた。聞かれた上で、わたしはすべてを話さなかった。
これは、わたしの罪。わたしの罪を、他人になんか話すべきじゃないと、そう判断したのだ。
そしてわたしは、『偶然起きた大規模な火災によって故郷が失くなった、不幸な少女』としてクロード家の庇護を受けた。
クロード家は、ここら一帯の地主の家系らしい。つまり、お金は沢山あった。
だからわたしは、クロード家を出て、彼らが用意してくれた家で、一人暮らしを始めた。彼らに迷惑をかけたくないというのもあったけど、それ以上にわたし自身が『独り』になることを望んだから。
他人と触れ合えば、失った時に辛いという感情を、あの日知ったから。
もう、失いたくないから。
そしてわたしは、この街で一年を過ごした。前と同じように、学校に通い、本を読んで、そして家に帰って過ごす日々。
少し違う点は、マリアさんっていう存在がいること。けど、他人と触れ合うことを禁じたわたしにとってそれは、わたしを苦しめるだけのモノだった。
――。
――――。
―――――。
記憶の海から、意識は再び現実へ。まだ、ホームルームは終わっていなかった。
「…………」
わたしの罪は消えない。消えることはない。
わたしは死ぬまで、この罪の十字架を背負っていかなきゃいけない。
そんなこと、わかりきったことだった。
ホームールームが終わる。また今日も、一日が始まる。
――孤独な、一日が。
***
「リーンちゃん! 一緒に帰ろ!」
「……マリアさん」
放課後。わたしは図書館に行こうと教室を出た際、ばったりマリアさんに出会う。
「……ごめんなさい。わたし、図書館に用があるから」
「そっか……。あっでも! まだ私あと少しは学校にいるから! もし時間が合ったら、その時は一緒に帰ろ!」
「うん……その時は、ね」
マリアさんの誘いを断り、わたしは昇降口に向かう生徒達の流れに逆らって、ひとり図書館へ足を向ける。
これまでも、マリアさんがわたしを下校に誘ってくれることはたびたびあった。けど、わたしはそれをいつも断ってきた。何回か、一緒に帰ったことはあるけれど、それでも会話は極力しなかった。
彼女がわたしを気にかけてくれているのはわかる。わかっているからこそ、つらい。
マリアさんから逃げるように、わたしは足早に図書館へ向かう。
「……はぁ」
夕暮れの図書館。そこにわたしは独り、座っている。
どうやら、わたしという人間は、『泣き虫』じゃなくとも図書館という場所が好きらしい。ここに転校してからも、放課後は自然とここに足を運んでいる。
鼻腔には紙とインクの匂い。視界には沢山の本。
それら全てが、わたしを落ち着かせてくれる。
「……今日も、」
――今日も、一日が終わった。
誰とも接することなく、ただ独りの一日が終わった。
あの『泣き虫リン』だった頃の独りとは違う。この独りは、わたしが望んだ独り。
あの頃のわたしには、隣に人がいた。支えがいた。
けど、いまのわたしには、誰も居ない。
窓から差し込む夕焼けが眩しい。いつだったかな、前にもこんな光景を目にした気がする。
(ああ、そうだ――)
その何かに思い当たることを思い出し、そっと振り向く。
「――――――――ぁ」
幻影を見た。
赤色のソレが、いつかと同じように、笑ってそこに立っている幻を。
「……あは、は」
乾いた笑いが出る。その小さな笑いは、誰も居ない図書館に響く。
なぜかわかんないけど、涙が出そうになった。
心が、ギュって締め付けられる感覚だった。
「……わたしの、ばか」
わたしの根底に眠る事実に、わたしは気付く。そのことに対し、思わず笑う。笑って、嗤う。
ガタリ、と席を立つ。そしてそのまま、図書館を出る。街大通りの方へと全速で走った。
息を切らしながら大通りへと辿り着き、肩で息をしながら顔を上げると、視界一面に、夕日に照らされる街並みが映った。行き交う人々の顔は、みんな幸せそうだ。その人達はみんな一様に、愛する人が待つ家に帰っている。
そんな幸せに満ちた世界に、わたしは独り、切り離されているかのよう。
「――――あ」
ふと、遠くに二人の姉妹が見えた。傍から見ても、とても仲が良さそうだ。その姉妹は、手を繋ぎながら街を歩いている。
「……っ」
情景が蘇る。
いつも隣にいた、最愛の人。
いつもわたしを守ってくれた、大事な人。
(やめ、よう。そんなこと、思うだけ無駄なんだから……)
蘇った情景に蓋をしめる。それでおしまい。
ここにはもう、何もない。ここは、空っぽの街。
あそこに詰まった思い出は全て、あの時に燃えた。わたしはそれを、ちゃんと受け入れなきゃいけない。そして、決して忘れちゃいけない。それが、生き残った者の責任だから。
歩き始める。家に、帰らなきゃ。
意識しているわけでもないのに、歩く速さはただ増す一方。数分もしないうちに、わたしの家の前まで着いた。
ガチャリと、家の鍵を開け、その扉を開く。
「――――」
呆然と、玄関に佇む。
ドアを開けた瞬間、『お帰り、リン』と聞こえたかのような気がしたから。
もちろん、それはただの幻聴。わたしが創り出した、勝手なモノだ。
ドアを閉め、一目散に部屋に駆け込む。そして部屋に入った瞬間、わたしはその場に崩れ落ちた。
「……おねえ、ちゃん」
声を漏らす。名を、呼ぶ。
最愛の人の名を。今はもう、居ない人の名を。
「――やだ、よ」
ずっと背けてきた事実。それに気付いたわたしは、その気持ちを吐き出す。
「独りは、もう、やだよっ……!」
ああ、そうだ。
わたしは、独りが嫌なんだ。
独りぼっちは、寂しいの。
誰も失いたくないから、他人と一線を置くわたしと、
独りは寂しいと、隣に誰か居てほしいと願うわたし。
この二人は、矛盾した存在。決して相容れない存在。
マリアさんがそのいい例だ。あの人は、わたしにとって『友達』になれたかもしれない人。わたしは、そんなマリアさんを失いたくなかったから、わざと一線を置いた。だけど心の何処かでは、友達になりたいと願っていた。
馬鹿な話だと思う。自分で境界をつくっておきながら、その境界に自分で苦しんでいる。
それでもわたしは、その境界を崩すことはしない。それだけは、してはいけないの。
だってわたしは、とても弱くて泣き虫な、火涙の少女だから。
燃やさないように、失くさないように。
わたしは、これからも、生きていく。
独りのまま、生きていく。
(でもどうして――)
わたしは、彼の幻影を見て、このことに気付いたんだろう。
それだけが、頭に残った。
***
その日も、いつもと変わらない朝だった。
いつもと変わらない日だった。
「……ん……」
眠りから目覚める。時計を見れば、普段の起床時刻より少し早い。
「……まぁ、こんな日があってもいいよね」
そう言って、ベッドから降りる。後は、いつもの行動と変わらない。着替えて、朝食を作って、片付けて、学校へ行く。
何の、変わりもない光景だ。
家を出て、朝の光に包まれた街を歩く。通学路には、わたしと同じ学校へ向かう生徒達。その在り方は、三者三様だ。わたしと同じように、一人で行く者もいれば、友達と一緒に行く人もいる。もしくは、恋人同士と。
(……なに考えてるんだろ、わたし)
突然『恋人』というワードが頭の中に出てきて、困惑するより前に呆れてしまう。そんな縁のないことを考えたって、何の意味もないとわかっているのに。
そんな風に、思考の海を漂っていると、やがて学校が見えてくる。考え事をしていると、あっという間だ。
校門をくぐり、昇降口へ。下駄箱で靴を履き替え、廊下に出る。そして、木造の廊下を歩く。ギシギシと音を軋ませながら、教室へ向かう。
また今日も、一日が始まろうとしていた。
「…………」
無言のまま、教室に入る。今日は――人が少ないというのもあるが――昨日みたいに視線を向けられない。
席に着く。わたしの席は、一番後ろの窓際なので、教室全体を見渡せる。そしてこの位置は、一番話しかけられにくい位置でもある。今のわたしにとってこの席は、まさに天恵とも言える位置だった。しかも幸運なことに、隣の席は空席。
「……あれ、本がない」
本を読もうとカバンを開けた際、その中に本が入ってないことに気付く。
(……しまった。昨日、夜に部屋で読んで、机の上に置きっぱなしにしちゃったのか……)
うっかりしていた。これではホームルームまでの時間を持て余すことになる。それならまだいいけど、それから後の、放課後までの時間何もしないとなると、時間の無駄になってしまうし、何より他の人達に話すキッカケを与えてしまう。
「……うーん……」
時計を見る。今日は普段より少し早く来たので、ホームルームまではかなり時間があった。
(――よし)
席を立つ。思い立ったが吉日って言葉が東洋にあるって前に本で読んだし、わたしもそれに倣うとしましょう。
わたしはそのまま、廊下に出る。廊下には、人はまだ疎らにしかいない。それならそれで、好都合。わたしは図書館の方へ、歩みを進める。
この学校の図書館は、校舎とは別の建物になっている。そこへ向かうには、校舎の東側から出ている渡り廊下を経由しないといけない。
誰もいない、閑散とした廊下を歩く。なんだか少し、独占している気分。
渡り廊下を通り、図書館に着く。ギギィ…と扉を開けば、そこには変わらず、大量の本で埋め尽くされている光景があった。
適当に数冊見繕い、まだ司書さんは来ていなかったので、自分で手続きする。
そしてわたしは図書館を出て、数冊の本を手に再び教室へ向かう。これで、今日一日を過ごせるかな。
ひとり、渡り廊下を歩く。吹いた風が少し冷たい。
(早く教室に戻ろう……。戻って、借りた本を読まなきゃ)
そんなことを考えながら、わたしは歩く。
考えごとをしていたせいか、わたしは、廊下の角から出てきた人物に対し、対処することが出来なかった。
「きゃっ!」
「うわっ! ゴメン、大丈夫かい?」
ドン、と。正面から誰かにぶつかる。意外と鼻が痛い。
鼻を押さえながら、わたしはぶつかった人物の顔を見る。
「え……?」
その人物の顔を見て、わたしは驚く。
――嘘だ、そんなはずはない。
困惑と疑問が頭の中を埋め尽くす。いま起きている出来事が、よくわからなかった。
これは違う、これは違うとわかっていながらも、おそるおそる、再び目の前の人物の顔を見る。
「君は……」
目の前の少年が呟く。
灰色の髪と、茜の眼をしたこの人物は、
「あく、ま……?」
いつの日かの彼と、同じ顔をしていた。
***
「えっと。今日から転校してきた、アレン・ファルシュって言います。アレンでも、ファルシュでも、呼び方はなんでもいいです。好きなように呼んでください。これから、よろしくお願いします」
ファルシュくんが微笑みながらそう言うと、教室内に彼を歓迎する拍手が起きる。わたしはそれを、周りの人達とは違う意味で見ていた。
(なんで……悪魔と同じ顔をしているんだろ)
ファルシュくんが『悪魔』じゃないということは既に確認済みだ。本人にそれとなく、以前会ったかどうか聞いてみたが、「会ったことない」と言われたので、別人で間違いないだろう。
それ以前に、ファルシュくんは、悪魔と髪色が違う。瞳の色は同じ――と言っても、ファルシュくんの瞳は、悪魔の純色の赤ではなく、茜色の瞳――だけど、ファルシュくんの髪は灰色だ。悪魔は確か、赤色だった。
けど、そんな違いから別人だということはわかっていても、顔が同じというだけで、わたしを動揺させるには充分すぎた。
(……でも、ファルシュくんが悪魔でもそうじゃなくても、わたしにはどうでもいいことか。どちらにしても、わたしとファルシュくんが関わることはないだろうし。……それにしても、ファルシュくんに『悪魔』って呟いたの聞かれてなくてよかったぁ……)
予想外の出来事があったが、おそらくそれっきりだろう。仮に、向こうから話しかけてきたとしても、無視することには変わりないし。
「じゃあ、ファルシュくんの席は……、アストロアートさんの隣ね」
「はい、わかりました」
なんて、少々楽観的に考えていると、突然担任のセラ先生がとんでもないことを言った。
「えっ……」
考えてみれば、わたしの隣は空席なのだ。転校生であるファルシュくんがここに来るのも当然だ。
頭ではちゃんとわかっているので、このことに対して文句は言わない。そもそも、言ったところで変わるわけじゃないし、ただ無意味に、わたしへの注目を集めてしまうだけだ。
ファルシュくんが近付いてくるのが見える。彼は、微笑みを崩さずわたしの隣まで来ると、
「さっきぶりだね。まさかクラスメイトとは思わなかったよ。よろしく、アストロアートさん」
と言って、席に着いた。
(……悪魔の顔で、そんな風に言わないでほしい)
ファルシュくんに悪意を持って言ったわけじゃないけど、心の中でそう呟くわたしだった。
***
「ねぇねぇアレンくん! アレンくんはさ、どこから来たの?」
「アレン、お前運動は得意か?」
「ちょ、ちょっと。そんないっぺんに質問されても答えきれないよ」
時刻は一限目の休み時間。教室の中心にいるファルシュくんの周りには、ちょっとした集まりが出来ていた。理由は明白。転校生と言ったら生徒達からの質問攻めというのがお約束なのだ。
わたしは読書をしつつ、その光景を見る。いや、見るというより、見てしまう、か。
ファルシュくんは、端的に言って容姿が整っていることと――もっとも、わたしが彼を見るのはそのせいじゃないんだけれど――転校生ということも相まってか、他人から注目を集めてしまうのは仕方ないことだと言える。
人気者だな、とわたしは思う。その証拠に、既にクラスメイト達からは『ファルシュ』ではなく『アレン』と呼ばれている。
どちらにせよ、わたしの態度は変わらない。視線を再び、本のページへ戻す。数十ページを読み終える頃には、予鈴が鳴った。それを聞いたクラスメイト達も、慌てて自分の席に戻っている。ファルシュくんも、席に戻ってきた。
そして先生が教室に入ってきて、授業が始まる。
黒板に文字を書くチョークの音と、先生の話す声が教室に響く。
授業開始から三〇分くらいが経った頃だろうか。ふと、隣から視線を感じて見てみれば、ファルシュくんがわたしに何か渡そうとしていた。不思議に思いながら、わたしはそれを受け取る。
『アストロアートさん。よかったら放課後、学校を案内してくれないかな?』
「…………は?」
その文面を見て、思わず素っ頓狂な声が出てしまった。
(……なんでわたしにそういうことを頼むかなぁ……。他の人達に頼めばいいのに……)
でも、ファルシュくんがどんなことを頼もうと、わたしがすることは変わらない。疑問と不満を混ぜながら、手渡された紙の空いたスペースに、断りの返事を書く。
『ごめんなさい。わたし放課後は図書館に用があるから』
『じゃあ、その図書館に僕を案内してよ。それくらいなら、いいでしょ?』
「…………むむ」
なかなか食い下がらないな、この人。
チラ、とファルシュくんを盗み見れば、彼は満面の笑みで返事を待っている。
(……だから、悪魔の顔でそんな風に笑わないで欲しい……)
皮肉なことに、その笑みは、いつか彼が見せてくれたものと同じだったけど、それは別の話。今は、どうやってこの窮地を脱出するかだ。
(図書館に行くって言わなきゃ良かったな……。でもまぁ、図書館に連れて行くくらいだったら、いっか)
よくよく考えれば、たったそれだけのことじゃないか。隣の席だから、こうなることは半ば予想していたことなんだし。だから、これくらいはしてあげてもいいだろう。
『わかりました。でも図書館に案内するだけ。それ以降はわたしに関わってこないでください』
了承の旨を伝えると同時に、強く、念を押す。
『うーん……。僕としてはまだ君と色々話したいことがあるんだけど、今はいいか。それじゃあ放課後、よろしくね』
と、実にあっさりとした返事が返ってきて、わたしの方が面食らっている。
(理由は、聞かないんだね……。その方が、わたしとしては嬉しいんだけど)
何を考えているかわからない転校生だと思いながら、わたしは再びノートを取るのを再開した。
***
「……ふぅ」
ホームルームが終わり、時は放課後。帰路につく生徒がほとんどの中、わたしはひとり、教室に残って、先生に呼び出されたファルシュくんを待っている。
「お待たせ。それじゃ、案内してくれるかな。アストロアートさん」
「ん……。わかりました」
しばらくして、ファルシュくんがやってきた。そして約束の通り、図書館へと向かう。
「へぇ、ここから行くのか。あっ、じゃあもしかして。今朝、君は図書館から戻ってきてたのかい?」
「……はい。本を、借りに行ってたんです」
「そうなのか。とすると、君は今から図書館に行って何をするつもりなのさ?」
「今朝借りた本を返しに行くんです。もう読んだから」
そう言って、わたしは手に抱えた数冊の本をファルシュくんに見せる。
「読んだって……。それ、全部?」
「ぜんぶです」
「す、すごい速読なんだね」
ファルシュくんはそう言うと「僕はあまり本を読まないから、素直に尊敬するよ」と言った。
「……そんなにすごいことですか? これくらい普通だと思うんですけど」
「でも、学生だと普通は一日一冊とかが限度だと思うよ」
「え……」
うそ、わたし、実は普通じゃない……?
わたしの中で衝撃が走る。まさか、普通の学生は一日一冊が限度だなんて……。
「まあそこが、アストロアートさんの長所なんだろうけど」と、ファルシュくんが何か言っているけれど、いまはそれどころじゃない。
確かに、前の街でもずっと本ばっかり読んでるねって周りから言われてたけど……いま思うと、おかしな人って思われてたのかもしれない。
ううん。でもそんなこと言ったって仕方ないじゃない。だって、本読むことしかすること無かったんだし……
うう、自分で言って悲しくなってきた。
「アストロアートさん?」
「ひゃい!」
…………噛んだ。
「くっ……はは」
「……笑わないでください」
「い、いやごめん。そうじゃなくて、どうしたのさ。急に黙り込んで」
「……べつに、ファルシュくんには関係ないことです」
「えぇ……気になるなあ」
「それより、ほら」
そんな他愛もない会話をしていると、やがて図書館の前まで着く。
「ここが、図書館です」
「意外と大きいな。なのに、人は誰も居ない」
「……だからこそ、わたしはこの場所が好きなんです」
「えっ……?」
わたしがそう言うと、ファルシュくんの疑問の声が聞こえた気がしたけど、それを無視して図書館の扉を開ける。
「……返しに来ました」
カウンターに座っていた司書さんに一声かけ、返却手続きをする。顔を上げれば、そこにはとても綺麗な顔立ちをした女性が座っていた。
(……また、このひとだ)
腰まで伸ばされた、黒い髪。銀縁の眼鏡の奥にあるのは、ひどく美しい紫紺の瞳。ぱっと見では解らないが、ずっと見ていれば気付く――気づかない方がおかしい――、非の打ち所のない美人だった。
夕方、この時間帯に来ると、いつも居るこの司書さん。その人はいつも無言で無表情のまま、淡々と仕事をする。そのせいか、顔を思い出そうとしてもなかなか思い出せない。
「アストロアートさん」
「……なんですか、ファルシュくん。わたし、図書館に案内するだけって言いましたよね。もう何もしませんよ」
「いや、そうじゃなくて。ちょっと本について聞きたいことがあるんだけど」
「それはわたしじゃなくて、司書さんに聞いてください。わたしより何倍も詳しいです」
すると、カウンターの方から「面倒なことを押し付けるな」といったニュアンスの鋭い視線が、わたしに向かって突き刺さったような気がしたが、気にしない。
「……? そうは言っても……僕は君のオススメを知りたいんだけど」
司書さんの方へ視線を向け、少し困ったようにファルシュくんは言う。本当なら、これ以上関わりたくないんだけど……。
「……そこの、右端の本棚にわたしのオススメが沢山あります。あの赤のハードカバーの本とか、良いですよ」
「右端……、そこか。うん、ありがと。アストロアートさん」
「それじゃ、本当にこれで失礼します」
ファルシュくんがわたしが示した本棚に向かうのを横目で見ながら、わたしは幾つもの本棚の間を縫って歩いて、この図書館の最奥――誰も来ない、わたしの居場所に行く。ここだったら、今日が来るのが初めてのファルシュくんだと見付けきれないはず。
そこにポツンと用意されているイスに座る。特に本を読むことはしなくても、ここにいるだけで落ち着く。
その、世界から隔絶された場所で、ひとり、思考する。
「……アレン・ファルシュ……」
今日から転校してきた灰色の髪の少年。
あの炎の悪魔と、同じ顔の少年。
いったい彼が何者なのかは判らない。なんで悪魔と同じ顔をしているのか、それ以外にも、聞きたいことはあった。あったけど、それは聞かなきゃいけないことではない。
これ以上、彼に踏み込んじゃいけない。他人に踏み込んではいけないと、自ら戒めたから。
それは、あの日からずっと自分に言い聞かせてきたもの。わたしを守るためのもの。それを破ってしまったら、これまでの日々の意味が失くなる。
昨日、わたしは、わたしの本音に気付いた。気付いたけど、そうするしか道は無いとわかっているから、わたしはこれまで通りに生きるしかない。
「……そう。これで、いいの」
今日は、ファルシュくんと色々あったが、明日からそうはいかない。今日彼と接した分、今後は徹底してファルシュくんを避けなきゃいけない。さっきの会話だって、必要なものじゃなかった。
「――っ」
他人を拒絶するたびに、胸の内にモヤモヤとしたものが溜まっていく。これは多分、泣きたいという衝動。わたしは、他人を拒むことなどできない。それを、無理に拒絶しようとしているから、わたしの心が苦しむ。
深呼吸して、心を落ち着かせる。この隔絶された世界で進むのは、時間だけ。顔を上げて外を見た時には、もう夕日が沈みかけていた。時計を見れば、六時を過ぎている。
(もうこんな時間……帰らなきゃ)
席を立って、急いで図書館の外へ出る。早くしないと、校門が閉まってしまう。
司書さんにお辞儀だけして、図書館を出る。どうやら、ファルシュくんは先に帰ったみたいだ。
本校舎を経由して、昇降口へ。もう、流石に生徒は誰ひとり居ない。靴を履き替えて、校門に向かう。
(あれ――?)
その途中、誰かが校門の前に立っていることに気付いた。
「――――」
太陽が沈む。同時に、校門のすぐそばにある街灯が点き、彼を照らす。その光に照らされた灰色は、どこか銀色に見える。
「……あ。アストロアートさん。よかった、入れ違いになったのかと思ったよ」
彼――ファルシュくんは、近付いて来たわたしに気付くと、笑いながら、わたしに話しかける。
「……ファルシュくん。図書館に居ないから、てっきり帰ったのかと思ってました」
「そう思ったんだけどさ。もう暗くなるし、今日案内してくれたお礼に家まで送ってあげようと思って」
「……別に、要らない気遣いです。一人で帰れます。それに、お礼を言われるほどのことはしてません」
「まぁそんなこと言わずに。僕なりのお礼なんだ。君のおかげで、面白そうな本も見つけられたしね」
ファルシュくんがそう言うと、彼は手に持っていた、赤のハードカバーの本をわたしに見せる。それは、わたしが薦めた本だった。
「僕は本はあまり読まないから、正直本の良さなんてものはわからないけど、これは面白そうだと感じた。だから、読んでみるよ。君が薦めてくれた本だしね」
「だからこの好意は、お礼だ」と言って、彼は笑う。
……めちゃくちゃな話だ。確かに、わたしはあの本を薦めはしたけども、それは彼に感謝されるためじゃない。自然と「あの本は良いよ」と、口にしてしまっただけ。
ただそれだけなのに、彼は、お礼をしたいと言っている。
「…………」
心がかき混ぜられる感覚。彼の好意が、わたしの心を壊そうとする。
「――――っ」
「ちょ、アストロアートさん!!」
だから逃げた。これ以上、わたしに踏み込まれないために。彼に、踏み込まないために。
「はぁっ、はっ」
夜の街を駆ける。長く伸びた黒髪が揺れる。その黒は、闇夜に溶け込んでいる。それはまるで、今のわたしを表しているかのようだった。
逃げるように、隠れるように、わたしは夜を走る。転がるように家の中に入って、玄関のドアに鍵をかける。そしてそのまま、わたしは座り込んだ。
自分の心が解らない。なんで、こんなに鼓動が激しいんだろう。
ドクドクと、心臓が鳴る。その激しい鼓動が収まるまで、また時間がかかった。
(思わず逃げてきちゃった……。明日謝らなきゃ……)
後先考えずに走ってしまった。悪いことをしたな、と少し反省する。けど「そうするしか無かったでしょ」と考える自分も居る。
明日、彼に謝って、それからはもう関わらないようにしようと、心に決める。
立ち上がって、部屋へ向かう。制服から部屋着に着替え、そしてリビングへ。
静寂に包まれたリビング。誰も居ない、ただ独りの家。
これが、正しい姿。こう在らないといけない姿。
そしてわたしは、いつもの通り、その後を過ごした。
***
「……アストロアートさん……」
走り去っていく少女の後ろ姿を見ながら、僕は呟く。
(……なんで、逃げてしまったんだろう)
夕日が沈み、だんだんと夜の帳が落ちていく街。その街にある学校の校門で、僕は一人取り残されていた。
彼女に、何か悪いことでもしてしまっただろうか。そんなことは無いと信じたいけど、でも現に、彼女は明確な意志を持って僕から逃げた。理由は判らないが、何だか僕を恐れているように思えた。
(うーん……落ち込むなぁ)
やっと、会えたと思ったのに。
転校初日で、勇気を振り絞って、隣の席である彼女に話しかけてみたというのに、こんなことでは先が思いやられる。
けど、そんな泣き言は言ってられない。明日からも、もっと彼女に声をかけてみよう。
(いきなり『リン』って呼ぶのは失礼だよなぁ……。まずは、仲良くなるところから始めなきゃ)
まだ転校初日だ。隣の席である以上、彼女と接する機会と時間はまだまだある。焦らず、少しずつ積み重ねていこう。
そう決意しながら、僕も帰路につくことにする。
夜の街を歩く。まだ日が落ちたばかりだから、人はそこそこ居る。
すれ違う人々に挨拶を交わしながら、その通りを抜け、そのまま歩いていると、ふと視線を感じた。
(――――?)
振り返っても、誰も居ない。
気のせいか、そう思って再び歩き始めると、今度は明確に視線を感じた。
「――――ッ!!」
射殺すような、鋭い視線。それを感じて振り向いたが、またしても誰も居なかった。
「なんなんだ……いったい」
警戒しつつ、周りを見渡すと、何かが落ちていることに気付いた。
それの方に近づき、拾い上げる。
「これは……」
それは、一枚の葉っぱ。ただの葉っぱだが、その見た目は普通のそれとは違った。
その葉は、新緑のそれではなく、黒く焼け焦げた色をしていた。だがその形も、徐々に崩れていっている。それはやがて完全に崩れ、灰になった。
「燃えた、葉っぱ……?」
灰と化した葉っぱだったモノを見つめながら呟く。
――なんでこんな物がここに。誰かが、火遊びでもしたんだろうか。
そんな呑気なことを思うのとは裏腹に、頭は冷静に、このことについて思考する。
思考が極端に偏りすぎないよう、努めて、冷静に考える。
「……まぁ、いいか」
だけど、一分が経ったところで、その思考を断ち切る。いま考えるべきはこれではない。優先すべきは彼女のことだ。
そう思い、僕はこの場を後にした。
――三度目の視線には、気付くことが出来ないまま。
◆◇◆◇
僕はこの場から立ち去っていくソイツを見ていた。
灰色の髪。赤色ではあるが、純色のそれとは違う、茜色の瞳。
そして、僕と同じ顔の人物。
――不愉快だった。なんでアイツが、ここに居るんだ。
アイツを見ていると、非常に不愉快だった。だから、思わず視線に殺気が篭った。炎が燃えて、近くにあった葉を燃やしてしまった。そのことに気付いたヤツが、僕のことに気付きそうになった時は、不可視の状態になっているにもかかわらず、柄にもなく焦ってしまった。
何よりも許せなかったのは、アイツが彼女の近くに居たこと。
なんで、僕じゃなくて、アイツが横に居るんだ。
『――――、』
これは嫉妬というのだろうか。彼女を知ってから、新たに得た感情が幾つもある。得た感情全てに驚愕し、胸が高鳴り、初めて知ったはずなのに、その感情にどこか懐かしささえ感じられた。
だから僕は感情の制御を知らない。いや、知ってはいるが、抑えきれないとでも言えばいいか。
僕の炎が燃える。この、やり場のない感情の行きどころを炎が表しているかのようだ。
『……リン』
呟く。少女の名を。
最後に見たときよりも、ずっと綺麗になっていた。最も変わった部分は、肩口までしか無かった髪が、今では腰まで届くくらいのロングヘアになっていたことだ。その赤い瞳と相まって、とても美しかった。
やっと、ここに来れたというのに。
今、彼女の隣にはアイツが居る。
なんで、なんで。
僕も、隣に居たいのに。
隣に居るのは、僕だけでいいのに。
黒く、澱んだ何かが僕の内に溜まる。
アイツに対し、明確な『何か』が生まれる。
『待ってて……リン』
ほぼ無意識に、呟く。
周りに漂う炎を揺らめかせ、さながら蜃気楼のように、僕はこの場から消えた。