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火涙の少女  作者:
2/12

第一章 『燃ゆる火の獄、少女の罪』

 人というのは、そう簡単には、変われない。


「きゃっ……!」


 冷水を頭から被る。いくら春とは言え、流石に冷水を頭から被れば寒い。


「はっ、ざまぁないわね」


 わたしを蔑む声。それが、耳朶に響く。

 見上げれば、そこには茶色の髪をした少女がわたしを見下ろしていた。


「――――っぅ」


 視線が恐い。顔を上げるのが怖い。


「ほらッ、なに座ってんの!!」

「~~~~っ」


 少女の掌が、わたしの頬を目掛けて振るわれる。

 パンッ、と綺麗な、そして乾いた音が響いた。


「そこまでで、やめておきなさい、カナン。痣が残ってしまってはバレてしまいます」

「チッ……レイ、あんたは何もしないの」

「私は……そうですね」


 少女の後ろの方で黙して立っていた、亜麻色の髪の少女が、わたしの前へとやってくる。


「貴女……ここに居るだけ、邪魔ですよ? もっと言えば、目障りです」

「ぁ――――」


 そして、さっきの冷水よりも遥かに冷たい言葉を、わたしに浴びせた。


「うわぁ~~、えぐいねぇ」

「私、言いたいことはハッキリ言わないと気がすまない性分なので」


 そして、その二人はケタケタと嗤いながら、わたしの視界から消えていく。


「………」


 夕焼けの世界に、独り、取り残される。

「……うぁ」


 声が、漏れた。

 髪から滴る水が落ち、ぴちょんと地に触れた。

 ――わたしの、涙と、一緒に。


「っ、ひっく……うぅ、あぁぁぁ……!!」

 

 わたしは――泣き虫だ。


 ***


 わたし――リン・アストロアートという少女を形容するのに相応しい言葉は、『泣き虫』だろう。というより、それ以外ありえない。

 内面的な性格のせいか、人見知りのせいか、他人に話しかけられては泣き、ドジしては泣き、動揺しては泣くなど、とにかく事あるごとに泣いていた。

 だから、わたしはいじめられていた。幼い時から、ずっと。毎日、毎日。


 そうして付けられた渾名が、『泣き虫リン』。まったく持って、その通りだ。比喩など何でもない、そのままの意味。

 事実としてその通りだから、わたしはそれを否定しなかったし、かと言って抗うこともしなかった。自分がいじめられているのは、紛れもなく自分のせいなのだし、これは仕方の無いことだと何処か諦めて、割り切って、受け入れていたのかもしれない。


 本音を言えば、みんなと仲良くしたい。こんな泣き虫な性格を直して、友達と仲良く過ごす、そんな当たり前の日常を送りたい。それがわたしの――ささやかだけれど――叶えたいと願い続けてる望み。

 けど、泣いてしまう。どう頑張っても、わたしという人間の性格が変わることは無かった。



「うぅ……ぐすっ……」


 現状は変わらないまま、わたしはクラスメイトにいじめられ、そしてこうやって独り、いつものように泣く日々を送っていた。

 窓から夕日が差し込む、夕暮れの図書館。その最奥の一角。この時間帯のこの場所は、人見知りなわたしにとって唯一の居場所だった。この時間帯は、人が誰もいない。司書さんも、奥の部屋に籠っている。 


「どうして……泣いちゃうんだろう」


 理由なんて明白だ。わかってはいても、変えられない。

 こうやって泣いている自分に嫌気が差す。『泣き虫リン』なんて呼ばれている自分が嫌だ。わたしは、みんなと仲良くなりたい。ただそれだけ。


 それだけが、わたしの願い。


 静かに、わたしの啜り泣く声だけがこの図書館に響く。それは小さく、そして儚いモノで、わたし自身の心の叫びだった。

 その叫びが聴こえたのかどうかはわからない。


『――泣かないように、なりたいかい?』


 けれど確かに、わたしの耳はその声を聞いた。


「……だ、れ……?」


 恐る恐る、虚空に向かって声を発する。しかし、それに反応する声はない。


「気のせい、かな……?」

『ねぇ、』


 今度ははっきり、その声を聴いた。


「だ、誰……? そこに誰かいるの?」

『僕はここにいるよ』


 その声は、隣から聞こえた。ゆっくり、隣を向く。そこに居たのは、


「――ひっ」

『ああゴメン。驚かせたかな。安心して、君に手を出すつもりなんて全く無いから』


 そこには、わたしと然して年齢は変わらない、一人の少年がいた。身長はわたしより少し上。赤い髪に、紅い瞳。どこにでも居そうな、そんな少年。だが、彼を普通の少年と呼ぶには、少しだけ問題があった。

 姿形は間違いなく人のそれ。しかし、人と決定的に違うのは、彼が身体に纏っているだった。

 煌々と燃える炎。それは意思を持った生物のように彼の周りに漂っている。その姿は、とてつもなく異様だった。


「あなたは……だれ?」

『僕は……そうだね、俗に【悪魔】なんて呼ばれている者さ』

「あく……ま?」


 悪魔……、お伽噺や英雄譚などに出てくる、あの悪魔のことかな。確かに、悪魔だと言うのならこの姿は納得できる。

 悪魔などという非現実な存在を前にして、わたしの精神はやけに落ち着いていた。いや、この非現実(あくま)のことより、優先すべきことがあったからかもしれない。優先すべきことがあったから、わたしは冷静なままでいられた。

 眼前の悪魔に、問う。


「あの、悪魔さん。さっき、」

『ああそうだった。……ねぇ、リン。リン・アストロアート。君は、泣かないようになりたいかい?』


 どうしてわたしの名前を、なんて聞くことじゃない。


「――泣かないように、なれるの?」

『ああ。君がそれを真に望むのならね』


 心が震えた。相手は悪魔だということはすでにどうでもいいことになっていた。

『泣かないようになれる』この事実だけで、わたしは充分だった。


 ――みんなと、仲良くできるかもしれない。 


 このことだけが、わたしの頭の中を占めていた。


「うん。わたしは――泣かないように、なりたい」

『その願い、僕が叶えよう。さぁ、目を閉じて』


 そう言われ、目を閉じる。悪魔さんの手が、わたしの頬に触れる。そしてその指が、わたしの両眼にいたる。

 熱い何かが、わたしの眼に流れ込むのを感じる。それは不思議と心地いいもので、嫌悪感などは一切無かった。


『――はい、終わったよ』

「これで………泣かないようになったの? 何も感じないけど」

『まぁ、そのうちわかるよ。これで君は、もう泣かない』

「――――っ」


 やった。ついにやったんだ。これでわたしは……。


「そうだ、悪魔さん。あなた悪魔なら、何か代償が必要なんじゃ……」

『いや、それは気にしなくていい。……そうだね、強いて言えば、代償は君が喜ぶ姿かな』


 そう言って悪魔さんは、笑みを浮かべた。その笑みに偽りはない。それでわたしは、この人は、いい悪魔なのだと理解した。


「あの、ありがとう悪魔さ――」

 お礼の言葉を言おうとしたが、わたしがお辞儀をして顔を上げた瞬間には、既に悪魔さんの姿は無かった。


(……ありがとう)


 心の中で、彼に礼を言う。そしてわたしは、先程と打って変わって、晴れやかな気持ちで、図書館を出た。


 図書館を出ると、辺りは既に夕焼けで染まっていた。石畳で造られた街道を歩く。この地域はほとんどの街が木組みの街だ。街の中心には大きな河が流れており、それは他の街にも続いているため、船を使って荷物の運搬が行われていたりする。


「あれ、リンじゃない」

「あ、クロエお姉ちゃん」


 図書館を出てしばらく歩いていると、その道中である人物に出会った。

 クロエ・アストロアート。わたしの姉だ。

 長く伸ばされた黒髪。わたしが紅い瞳なのに対し、お姉ちゃんは紫色の瞳をしている。その瞳は長い黒髪とあいまって、よりお姉ちゃんが美人だということを引き立てている。


(やっぱりお姉ちゃん、とても綺麗だなぁ……)


 眉目秀麗。才色兼備。そんな言葉が、お姉ちゃんにはとても似合うと、わたしは思う。実際、お姉ちゃんは、わたしと違って凄く優秀で、学校の成績はいつもトップらしい。

 わたしの家族は姉だけだ。お母さんはわたしが生まれてすぐに亡くなり、お父さんも、数年前に他界した。それ以来、わたしはお姉ちゃんと二人で暮らしている。両親が居なくてさみしさや悲しさはあるが、それでも、わたしはお姉ちゃんさえ居れば寂しくなんてなかった。

 小さい頃からずっと遊んでくれた、何かあっても、わたしを守ってくれたお姉ちゃんは、いつしか、わたしの憧れの存在になっていた。

 だからわたしは、そんな姉がとても大好きだった。


「また図書館に行ってたの? リンも好きだね」

「うんっ」

「あれ、やけに嬉しそうだね、リン。何かいい事でもあった?」

「ちょっと、ね」

「良かったね。うん、リンはやっぱり、笑ってる方がずっと可愛いよ」

「え……? わたし、笑ってた?」


 意識してなかったから、そう言われるまで気付きもしなかった。


「うん、私はリンの笑顔好きよ」

「えへへ。ありがと、お姉ちゃん」


 お姉ちゃんが、わたしの頭を撫でる。お姉ちゃんは何かあると、いつもわたしの頭を撫でてくれる。わたしもそれが嫌ではなかったし、むしろそうされることが好きだった。


「――ねぇリン。黄昏時の夕方を見ると、なんだか切なくならない?」


 お姉ちゃんと二人、並んで歩く。しばらくして、ふとお姉ちゃんが口を開いた。


「え……? 言われてみれば、そう、思うけど」


 どうしてそんなことを聞いてくるのか、と姉に視線だけで問う。すると姉は、はにかみながらなんてことのないように、その言葉を口にする。


「それはね、まだこの世に未練を残す死者達の想いが、夕焼けを介して伝えてくるからなの。だから、黄昏時は寂しく感じて、そして切なくなるの」


 風が吹き、お姉ちゃんの長い黒髪がなびく。

 お姉ちゃんのその言葉は、確かにわたしに向けられていたけど、でもどこか、違う誰かに向けられていた気がした。


「……もし死んでも、夢でもいいから、また会いたいな」


 小さく、お姉ちゃんが何か呟いた気がしたけど、風に阻まれ、聞き取れなかった。

 お姉ちゃんと肩を並べて歩く。そして、そっと手を繋ぐ。繋いだ手が、とても暖かい。

 顔を上げて、周りの景色を見渡す。見慣れた風景も、今はとても輝いて見える。世界はこんなにも美しくて、色づいていたんだ。

 そしてわたしは、見慣れた木組みの街を、お姉ちゃんと一緒に歩いて行った。


 ***


 次の日、わたしは普段と違って、晴れやかな気持ちで学校に登校した。

 今日から、みんなと仲良くなれる。わたしは、泣かないようになったんだと、早くみんなに知らせたかった。言ってしまえば、今日はわたしの再スタートだ。


「お、おはよう!」


 いつもより少し大きく、声を出す。既に教室の中にいた何人かは、少し驚いた様子でこちらを見る。その視線に若干萎縮しいてしまう。


「お、おう。おはよう、アストロアート」

「おはよう、アストロアートさん」

「う、うん。おはよう」


 クラスの良心的な人達――わたしへのいじめへ加担していない人達――は、こうやって挨拶してくれる。けど、今こうやって挨拶をするということは、どうやらいじめの主犯はまだ来ていないらしい。

 席に着く。顔を上げれば、時計の針が動くのが見える。

 ひとつ、ふたつ。それが三〇〇を超える頃に、不意に教室の扉が開いた。

 二人続けて、人が入ってくる。一人は茶髪の、長髪の女の子。もう一人は亜麻色の、短髪の女の子。彼女達が教室へ入ってきた瞬間、それまで喧騒に包まれていた教室が静まり返る。

 そう、彼女たちこそ、わたしのいじめの主犯格だ。わたしは主に、この人達によっていじめられていた。


「おっ。リン、もう来てるじゃん。今日も早いねぇ」

「ほんっと、何されるかわかってるのに、よく来ますね、リン」

「お、おはよう。カナンちゃん、レイちゃん」


 長髪の子――カナンちゃんと、短髪の子――レイちゃんがわたしを蔑むように笑う。事実、さげすんでいるのだ。

 そんな二人の様子に、思わず足が竦む。恐怖で震えようとする体を、なんとかおさえる。

 いつもなら、彼女たちに抗おうとする意志もここで消える。だけど、


(大丈夫、大丈夫……! 悪魔さんを、信じなきゃ)


 だけど、今日のわたしは違う。


「あ、あのね。カナンちゃん、レイちゃん。わ、わたしね、もう泣かなくなったんだよ」 


 意を決して、彼女達に話しかける。

 これが最初の一歩だ。


「はぁ? リン、アンタ、何言ってんの。泣き虫リンのアンタが、泣かなくなったなんて、冗談でも下手すぎでしょ」

「う、嘘じゃないよ。ほんとだよ!」

「じゃあ、証拠か何か見せてみなさいよ」

「しょ、証拠って言われても………」


 そんな物、持ち合わせてない。そもそも、悪魔さんの言葉を疑うことなく信じてたから、いざそういう風に言われると対応に困ってしまう。だって悪魔さんは、もうわたしは泣かないとそう言ってくれたから。

 わたしは、彼の言葉を信じるしかない。

 だけど、彼女達はそう思ってはくれないようだった。

 カナンちゃんが、何か思いついたように不敵に笑う。あれは、いつもの笑い方だ。

 けれど、その笑みに含まれた真意に気付いたのは、彼女が行動を起こした後だった。


「じゃあ、本当にアンタが泣かなくなったのか、試してあげよっか」

「え?」


 バシャッ。


 ――冷たい。体に冷たさを感じる。ぽたぽたと、髪から水が滴り落ちる。そこでわたしは、自分の身体が濡れていることに気付いた。


「アハハ! 似合ってるわよ、その姿! ねぇレイ!」

「ええ、とてもお似合いだわ、リン」


 カナンちゃんの手には、水筒が握られていた。お茶ではなく、単なる水であったことから元々そうするつもりだったのだろう。などと、頭は勝手に現状を分析する。


「う、うぇ……」


 ――あれ。どうしてだろう。


 どうして、視界が滲んでるんだろう。

 どうしてこんなに、目頭が熱いんだろう。


 まるで、わたしが泣いているみたいじゃない。


「あはっ、ほら見てレイ! リンの奴、ちっとも変わってないじゃない!」

「あらほんと。泣かなくなったなんて、ただの嘘だったんですね。全く、見損ないましたよ」


 二人の声が聞こえる。


 ――わたし、泣い、てるの?


 なんで。わたしは、泣かなくなったんじゃ。

 悪魔さんは、「もう泣かない」って、言ってたのに。

 なんで、なんで――。


「――――ぁ」


 そこでわたしは、ようやくある可能性に気付いた。


(そっか。わたし……)


 騙されてたんだ。


 あの悪魔は「もう泣かない」なんて言ってわたしを騙していたんだ。よく考えたら、すぐにわかることじゃない。

 だって、悪魔だよ。悪魔が、何の見返りも無く優しいことをするはずが無い。きっといまごろ、あの悪魔はわたしの醜態を見て楽しんでるに違いない。


 ――――ああ。


 結局、わたしは変わることなんて出来ないのだ。わたしはこのままずっと、『泣き虫リン』として、過ごしていく。

 涙が頬を伝うのを感じる。そしてそのまま、わたしはその場に崩れ落ちる。

 その際にきらきらと、何かが零れ、雨粒のように彼女達の方へ落ちていく。あれは、わたしの涙かな。

 もう、何も信じられない。夢が叶うと、あの悪魔を信じたわたしが馬鹿だった。

 なんであの悪魔は、わたしに希望を持たせるようなことをしたの?

 希望を持つくらいなら、こんなこと、して欲しくなかった。

 あの時の悪魔の笑顔が嘘だと、そう思いたくなかった。できることなら、彼を信じていたかった。けど、現実は残酷だった。

 わたしはもう、変われない。変わることは、出来ない。

 思い描いた理想ユメは叶うことなく、この涙と一緒に流れていく。

 ほら、こうやっていつものように、わたしは――――、


「きゃっ!」

「熱っ!」


 突如、目の前の二人が悲鳴を上げた。

 けどわたしは、それを見ない。


 聞こえない、聴こえない。

 彼女達のことなんて、どうでもいい。


「!? も、燃えてる! 床が燃えてるぞ!」

「な、なんでよ!? なんで床が燃えるの!?」


 止めどなく溢れる涙。それは、つーっと、わたしの頬を伝う。


「うっ、うわぁ……ん」


 漏れる嗚咽。抑えきれないそれは、まるで歪に奏でられる音楽のよう。


「炎が広がってきた! 誰か水を! はやく!」

「だめ、消えない! なんで、なんで消えないの!?」


 やけに、周りがさわがしい。またわたしを見て笑っているのかな。


「避難だ、外に避難しろ!」

「アストロアートさん! 泣いてないで早く! ほら、火が貴女のすぐそばまで!」


 誰かがわたしの名前を呼んでいる。


「……火?」


 ――そこでようやく、わたしは顔を上げた。


「なに、これ」


 すべてが、燃えていた。

 紅く、緋く、あかく。


 それは灼熱の太陽の如く、教室を燃やしていた。その火はとどまる所を知らず、その手を学校の至る所に伸ばしている。わたしの周りは既に、火で囲まれていた。


「あ……ぁ、あ」


 恐怖。それがわたしを縛り付けた。さっきわたしを呼んでいた誰かも、もう居ない。


「――――!」

 声は出ない。代わりに、涙が出る。ボロボロと、頬を伝って落ちていく。

 その行為に何も関係無いのに、なぜか火の勢いが強まる。

 そう――まるで、わたしの涙がこの炎の原因のような。


「行か、なきゃ……」


 勇気を出して、立ち上がる。幸いなことに、わたしの体に火は燃え移っていなかった。あんなに火に囲まれていたというのに、もはや奇跡だ。

 教室を出る。木造ということが災いしたのか、廊下の至るところが燃えており、壁に穴があいている部分もある。窓は割れ、そこから脱出したと思われるあとが残っている。学校全体が燃えるのも、このままでは時間の問題だ。


「いったい、なんで……」


 煤と灰が制服に付く。煙を吸わないよう必死に堪える。涙は止まる気配をみせない。


 ――こわい、こわいよ。


 わたしは泣きながら歩き、やがて昇降口までたどり着いた。

 靴に履き替え、外に出る。そしてわたしは、その景色を目の当たりにした。


「――――、え?」


 そこには、地獄が在った。

 正真正銘、それは地獄そのものだった。


「ひっ……」


 校庭には、無数の黒い塊が炎の中で燃え、そこら中に落ちていた。銅像のように立っているものもあった。まだ、火の中で動いているモノもあった。

 遠くを見れば、赤い光が見える。あの方角は、街の方。こんな短い時間で、あそこまで火が。

 後ろで大きな音がした。振り向けば、校舎が崩れ始めている。悲鳴が、中から聴こえた。


「あ、」


 奥に、人が見えた。その人は必死に何かから逃げ回っている。


「――――ッ!!」


 奥の方で走り回っている人。それはさっきまでわたしをいじめていた人の一人――カナンちゃんだった。


「あっ、リン! リン、助けて! ねぇ、お願いッ!! この炎、なんでか生き物みたいに追っかけてくるの! 水ッ、水でもなんでもいいから、早くそれをこの炎にかけてッ!!」


 わたしの存在に気付いたカナンちゃんが、追いかけてくる炎から逃げながら、わたしを呼ぶ。その姿はまるで、罪を裁かれている罪人のようだ。


「はやく! ねぇリン、お願いだから!! 今までのことは全部謝るから、私を助けて!! 助けなさいよぉッ!!」

「あ、ぅ……」


 足が竦んで動くどころか、まともに声を出すことすらできない。

 そんなわたしを見てカナンちゃんは無駄だとわかったのか、すぐに切り替えた様子で炎から逃げ回る。


「あっ……!」


 けど、それは無駄な足掻きで、数秒もしない内にまるで生き物のように動いていた炎に呑まれた。


 彼女の断末魔が聞こえる。


 その声が、まるでわたしを恨んでいるかのように聞こえた。


「あぁ、あ、」


 走り出す。一刻も早くこの場から、この地獄から立ち去りたかった。

 街を目指して走る。その途中で、街の惨状を知った。

 不幸にも木組みの街だったことが災いしてしまった。ひとたびどこかが燃えれば、後は連鎖的に、他の建物へ燃え移っていく。

 そうすれば、地獄の完成だ。


「はあ、はぁっ、はっ」


 行けども行けども、続くのは地獄。それに終わりは見えない。

 黒い塊がそこら中に転がっている。いくつもの呻き声が聞こえる。

 それらは確かに、救いを求める声。それらをぜんぶ無視して、わたしは走る。


「なんでっ、こんな、ことにっ……!」


 わからない。わからない。

 頭はすでに理解の許容を越え、理解するのを拒んでいる。それと同じくらい、涙が出る。


「お姉ちゃん――!」

 それでも走るのは、たったひとりの家族の安否を知りたいという想いがあったから。

 そしてようやく、わたしは家の前に着いた。

 


 お姉ちゃんは、倒壊した家の下敷きになっていた。



「――お姉ちゃんっ!」

「……リ、ン」

「待っててね、いま助けるから!」

「だめ……逃げなさい。せめて、リンだけでも……」

「いやだよっ! わたしを独りにしないで!! わたしは、お姉ちゃんが居なくちゃダメなのっ!」

「はやく、逃げなさい、リン……!」

「いやだっ。嫌だイヤだいやだっ!」


 お姉ちゃんを下敷きにしている柱を必死にどかそうとする。しかし、ビクともしない。そうしている間にも、炎はその手を伸ばし続けている。


「もうすこ、し……」

「! 危ない、リンっ!」

「え? ――あ」


 頭上を見れば、隣の建物が崩れ、その一部がわたしの頭を目掛けて降ってきていた。どう考えても、避けきれない。

 ドン、と。瞬きした次の瞬間には、わたしは突き飛ばされていた。


「おねえ――」


 その時見たお姉ちゃんの表情(かお)は、静かに笑っていた。


 眼前に炎を纏った幾つもの瓦礫が降り注ぐ。

 ぐちゃり、と。何かを潰す音が聴こえた。


「――――ぁ」


 ぴちゃっ、と。赤い何かが顔に付いた。それが血だと理解するのに、少しだけ、時間がかかった。

 真っ赤な血が水溜まりのようにその場に広がる。その赤色は、まるでわたしの瞳のよう。

 とても、きれいな色だった。


「ぁ……、ぇ?」


 喉から出たのは、声にならない声。目の前に広がる光景を認めたくない。

 そして瞬きした次の瞬間には、完全に家が燃えていた。

 それはつまり、わたしのたった一人の家族が死んだということを意味していて。

 ぷつりと。糸が切れる音が、わたしの中から聞こえた。

「あ――あ、ああッ。あああああアアアアアッッ!!!!」


 抑えきれない涙。泣きたいという衝動。ぼろぼろと、いままで以上に涙が零れる。

 心の中には果てしない空洞。事実を認めようとしない心と、冷静にすべてを理解している頭の二律背反。


 ――限界だった。


「どぉ……してぇっ……」


 なんで、どうして?

 わたしが何かした? どうしてわたしは、こんな地獄(ばしょ)にいるの?

 そうやって問いを投げても、当然答える人なんかここにはいない。愛すべき家族もたった今死んだ。こんな場所、一秒もいたくない。

 だから――。


 涙で歪んだ視界の中、煌々と燃える赤い炎に手をのばす。

 それでお姉ちゃんの後を追える。


 ――追えるはず、だったのに、


「なん、で………燃えない、の……?」


 いくら待っても、わたしの体が燃えることはなかった。

 混乱と動揺が脳内を埋め尽くす中、不意に、


『やぁ、リン』


 どこからか、あの悪魔の声が聞こえた。

 振り向くと、昨日と同じように悪魔はそこに立っていた。


「あく、ま……!」

『どうだい? これで君の願いは叶うだろう?』

「ふざけ、ないで……!」


 違う。こんなの、わたしは望んでない。

 わたしはただ、泣かないようになって、みんなと仲良くしたかった。ただそれだけ。

 間違っても、こんな地獄をつくることなんかじゃない。


「あなたはっ、わたしを、だまして……!」

『? 何を言ってるんだい? 僕は君を騙してなんかないよ』

「嘘をつかないでっ! 泣かないようになるなんて言って、ただわたしの無様な姿を見たかっただけでしょ!」

『騙してなんかないさ。僕はちゃんと、約束は守る。だってほら、それを見てごらんよ』

 

 そう言って、悪魔はわたしを――正確には、わたしの頬を伝って落ちていく涙を――指差す。

 わたしは、それを言われるがままに見ていた。

 そして、その瞬間を見てしまった。


「う、そ……」

 


 ――地に触れた涙が炎になり、燃え上がるその瞬間を。


 それはまるで、炎の花。わたしの目からこぼれた涙が地に触れたとき、それは開花するように、燃え上がる。

 はじかれたように、周りを見渡す。そこには変わらず、燃え盛る地獄があったけれど、地面をよく見れば、ヒガンバナのような形をした炎の花がいくつも咲いていた。

 激しく咲く(もえる)炎の花。花は増殖するように、建物や木々に燃え移っている。けれどそれはあくまで炎。炎である以上、ただ燃やすしかない。


 炎花が咲き乱れる花園(じごく)。そう形容するのが、一番相応しかった。


「なに、これ……」

『僕はあの時、君にある(せいしつ)を与えた。それは、君の涙が炎になる・・・・・・というものさ』

「涙が……炎に、なる」


 その言葉を聞いて、わたしはすべてを理解した。同時に、罪悪感が心を潰した。

 炎の悪魔との邂逅。意思を持ったように燃える炎。燃えない体。――炎になる涙。

 不安はやがて確信へ。認めたくないその事実に、わたしは震えた。泣きたくなった。


(ああ、そっか……)


 ――この地獄は、わたしがつくったんだ。


『これで君は泣かなくなるよ。だって、全部燃えたんだもん。君をいじめる奴も、物も、環境も、ぜーんぶ燃えた。これで君は、泣かなくなる。ほら、君の願い通りだろう、リン?』


 彼の言葉に嘘も悪意もない。

 彼は、善意でわたしの涙に性質を与えた。

 ただ少し、お互いの願ったモノがすれ違っただけ。


「……って」

『え?』

「どこか行って! もうわたしの前に来ないで!!」


 声を荒げる。すると、悪魔は少し戸惑った表情を見せる。けれど、しばらくするとこの場から消え去った。もう二度と、会うことはないだろう。


 近くの炎に触れる。だけど、その手が燃えることはない。

 あたりまえのことだ。これはわたしの涙。自分の涙で燃えるわけない。

 性質が炎になっただけであって、本質は涙に変わりはない。

 けれどこれは、『わたしが泣かなくなる』という願いのもとに成り立っているから、その願いを叶えるために、この(ほのお)は、わたし以外を燃やす。


「――――、っ」


 ぐっ、と溢れかけた涙を堪える。

 本当は、今すぐにでも泣きたい。もとよりわたしは泣き虫なんだから、堪えることなんて、できやしない。でも、真実を知ってしまった以上、泣くことは許されない。


 いまもなお燃える街を見る。

 燃えた。全部燃えた。人も、街も、自然も、そして家族さえも。

 その炎は、消えることなく燃やしている。

 何も無い。在るのはただの赫い炎。

 全てを燃やす、無慈悲なまでに赤く、そして綺麗な赫い炎。


「う、ぁ……ぁ」


 改めて認識した瞬間、ぷつんと、糸が切れた。もう限界だった。

 嗚咽が漏れる。涙が頬を伝う。

 そしてそれが地に触れる前に、拭う。


 泣いてはいけない。泣いてはいけない。


 泣いたらまた、燃えてしまう。それだけは、ダメ。

 けど、拭いきれなかった涙が、地に触れる。

 刹那、炎が燃え上がる。


「あぁ……ぁ、ぁあ……!」


 ――燃えた、燃えてしまった。

 ――燃やしてしまった。

 それが、決定打となった。


「――――――!」


 堤防が決壊する。

 涙が溢れる。

 燃える。


「ああああああああああ――――――ッ!!!!」


 燃えていく。全部、ぜんぶ。

 生まれ育った街も、駆け回った森も、さっきまで話していた人々も、等しく、燃えていく。

 塵ひとつ残らないくらい、激しく燃えていく。この炎は、いったいなんのために燃えるの。


「わた、しは……っ」


 ただ泣きたくないと、そう願っただけだった。

 ただ普通に、みんなの輪の中に入りたいと願っただけだった。


 そのためなら――たとえ奇妙で不思議な存在に頼ってもいいと。


 そう願ったのが、間違いだった。

 だからこれは……紛れもなく、わたしが犯した罪。


「――――――、」


 燃える街を――街だったモノを――虚ろな眼で見つめる。

 ……駄目だ。ここに居てはいけない。

 何処か遠い場所へ。

 遠く、遠く。誰も来ない場所へ。


 涙を拭う。そうすれば炎は収まる。けど、一度放たれた炎はもうどうすることもできない。


 地獄を、歩く。


 わたしがつくった地獄。その事実に、思わず涙が出てしまいそうになる。


 泣いてはいけない。泣いてはいけない。


 これ以上は、もう。

 だから、せめてもの償い。

 この光景をつくってしまった、償いを。

 この光景を、眼に。


「――――、なさい」


 呟く。


「――――ごめん、なさい」


 その呟きは、誰に向けられたモノだっただろう。


「ごめんっ……、なさい……!」


 泣いてはいけない。泣いてはいけない。

 泣いたら、燃やしてしまう。

 泣いたら、消えてしまう。


 無数の屍を超える。その中には、見慣れたモノもあった。

 いくつもの声が、わたしの耳にこびりつく。

 わたしはそれを、聴こえないフリをした。


「そう、だ」


 街の門まで差し掛かったとき、ふと思い出す。

 大事なことを、忘れていた。

 最後に、お別れを。



「――ばいばい、お姉ちゃん。大好きだよ」



 最愛の姉に、別れを。

 嗚咽を堪え、涙を拭い、償いの為に光景を眼に焼き付け、そして呟きながら、歩む。


 決して、振り返ることだけはしなかった。


 ***


 そうしてその地獄は、三日三晩燃え続けた。

 わたしは、総てを喪った。

 わたしだけが、生き延びた。

 


 そして、一年の月日が経った。


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