第一章 『燃ゆる火の獄、少女の罪』
人というのは、そう簡単には、変われない。
「きゃっ……!」
冷水を頭から被る。いくら春とは言え、流石に冷水を頭から被れば寒い。
「はっ、ざまぁないわね」
わたしを蔑む声。それが、耳朶に響く。
見上げれば、そこには茶色の髪をした少女がわたしを見下ろしていた。
「――――っぅ」
視線が恐い。顔を上げるのが怖い。
「ほらッ、なに座ってんの!!」
「~~~~っ」
少女の掌が、わたしの頬を目掛けて振るわれる。
パンッ、と綺麗な、そして乾いた音が響いた。
「そこまでで、やめておきなさい、カナン。痣が残ってしまってはバレてしまいます」
「チッ……レイ、あんたは何もしないの」
「私は……そうですね」
少女の後ろの方で黙して立っていた、亜麻色の髪の少女が、わたしの前へとやってくる。
「貴女……ここに居るだけ、邪魔ですよ? もっと言えば、目障りです」
「ぁ――――」
そして、さっきの冷水よりも遥かに冷たい言葉を、わたしに浴びせた。
「うわぁ~~、えぐいねぇ」
「私、言いたいことはハッキリ言わないと気がすまない性分なので」
そして、その二人はケタケタと嗤いながら、わたしの視界から消えていく。
「………」
夕焼けの世界に、独り、取り残される。
「……うぁ」
声が、漏れた。
髪から滴る水が落ち、ぴちょんと地に触れた。
――わたしの、涙と、一緒に。
「っ、ひっく……うぅ、あぁぁぁ……!!」
わたしは――泣き虫だ。
***
わたし――リン・アストロアートという少女を形容するのに相応しい言葉は、『泣き虫』だろう。というより、それ以外ありえない。
内面的な性格のせいか、人見知りのせいか、他人に話しかけられては泣き、ドジしては泣き、動揺しては泣くなど、とにかく事あるごとに泣いていた。
だから、わたしはいじめられていた。幼い時から、ずっと。毎日、毎日。
そうして付けられた渾名が、『泣き虫リン』。まったく持って、その通りだ。比喩など何でもない、そのままの意味。
事実としてその通りだから、わたしはそれを否定しなかったし、かと言って抗うこともしなかった。自分がいじめられているのは、紛れもなく自分のせいなのだし、これは仕方の無いことだと何処か諦めて、割り切って、受け入れていたのかもしれない。
本音を言えば、みんなと仲良くしたい。こんな泣き虫な性格を直して、友達と仲良く過ごす、そんな当たり前の日常を送りたい。それがわたしの――ささやかだけれど――叶えたいと願い続けてる望み。
けど、泣いてしまう。どう頑張っても、わたしという人間の性格が変わることは無かった。
「うぅ……ぐすっ……」
現状は変わらないまま、わたしはクラスメイトにいじめられ、そしてこうやって独り、いつものように泣く日々を送っていた。
窓から夕日が差し込む、夕暮れの図書館。その最奥の一角。この時間帯のこの場所は、人見知りなわたしにとって唯一の居場所だった。この時間帯は、人が誰もいない。司書さんも、奥の部屋に籠っている。
「どうして……泣いちゃうんだろう」
理由なんて明白だ。わかってはいても、変えられない。
こうやって泣いている自分に嫌気が差す。『泣き虫リン』なんて呼ばれている自分が嫌だ。わたしは、みんなと仲良くなりたい。ただそれだけ。
それだけが、わたしの願い。
静かに、わたしの啜り泣く声だけがこの図書館に響く。それは小さく、そして儚いモノで、わたし自身の心の叫びだった。
その叫びが聴こえたのかどうかはわからない。
『――泣かないように、なりたいかい?』
けれど確かに、わたしの耳はその声を聞いた。
「……だ、れ……?」
恐る恐る、虚空に向かって声を発する。しかし、それに反応する声はない。
「気のせい、かな……?」
『ねぇ、』
今度ははっきり、その声を聴いた。
「だ、誰……? そこに誰かいるの?」
『僕はここにいるよ』
その声は、隣から聞こえた。ゆっくり、隣を向く。そこに居たのは、
「――ひっ」
『ああゴメン。驚かせたかな。安心して、君に手を出すつもりなんて全く無いから』
そこには、わたしと然して年齢は変わらない、一人の少年がいた。身長はわたしより少し上。赤い髪に、紅い瞳。どこにでも居そうな、そんな少年。だが、彼を普通の少年と呼ぶには、少しだけ問題があった。
姿形は間違いなく人のそれ。しかし、人と決定的に違うのは、彼が身体に纏っている炎だった。
煌々と燃える炎。それは意思を持った生物のように彼の周りに漂っている。その姿は、とてつもなく異様だった。
「あなたは……だれ?」
『僕は……そうだね、俗に【悪魔】なんて呼ばれている者さ』
「あく……ま?」
悪魔……、お伽噺や英雄譚などに出てくる、あの悪魔のことかな。確かに、悪魔だと言うのならこの姿は納得できる。
悪魔などという非現実な存在を前にして、わたしの精神はやけに落ち着いていた。いや、この非現実のことより、優先すべきことがあったからかもしれない。優先すべきことがあったから、わたしは冷静なままでいられた。
眼前の悪魔に、問う。
「あの、悪魔さん。さっき、」
『ああそうだった。……ねぇ、リン。リン・アストロアート。君は、泣かないようになりたいかい?』
どうしてわたしの名前を、なんて聞くことじゃない。
「――泣かないように、なれるの?」
『ああ。君がそれを真に望むのならね』
心が震えた。相手は悪魔だということはすでにどうでもいいことになっていた。
『泣かないようになれる』この事実だけで、わたしは充分だった。
――みんなと、仲良くできるかもしれない。
このことだけが、わたしの頭の中を占めていた。
「うん。わたしは――泣かないように、なりたい」
『その願い、僕が叶えよう。さぁ、目を閉じて』
そう言われ、目を閉じる。悪魔さんの手が、わたしの頬に触れる。そしてその指が、わたしの両眼にいたる。
熱い何かが、わたしの眼に流れ込むのを感じる。それは不思議と心地いいもので、嫌悪感などは一切無かった。
『――はい、終わったよ』
「これで………泣かないようになったの? 何も感じないけど」
『まぁ、そのうちわかるよ。これで君は、もう泣かない』
「――――っ」
やった。ついにやったんだ。これでわたしは……。
「そうだ、悪魔さん。あなた悪魔なら、何か代償が必要なんじゃ……」
『いや、それは気にしなくていい。……そうだね、強いて言えば、代償は君が喜ぶ姿かな』
そう言って悪魔さんは、笑みを浮かべた。その笑みに偽りはない。それでわたしは、この人は、いい悪魔なのだと理解した。
「あの、ありがとう悪魔さ――」
お礼の言葉を言おうとしたが、わたしがお辞儀をして顔を上げた瞬間には、既に悪魔さんの姿は無かった。
(……ありがとう)
心の中で、彼に礼を言う。そしてわたしは、先程と打って変わって、晴れやかな気持ちで、図書館を出た。
図書館を出ると、辺りは既に夕焼けで染まっていた。石畳で造られた街道を歩く。この地域はほとんどの街が木組みの街だ。街の中心には大きな河が流れており、それは他の街にも続いているため、船を使って荷物の運搬が行われていたりする。
「あれ、リンじゃない」
「あ、クロエお姉ちゃん」
図書館を出てしばらく歩いていると、その道中である人物に出会った。
クロエ・アストロアート。わたしの姉だ。
長く伸ばされた黒髪。わたしが紅い瞳なのに対し、お姉ちゃんは紫色の瞳をしている。その瞳は長い黒髪とあいまって、よりお姉ちゃんが美人だということを引き立てている。
(やっぱりお姉ちゃん、とても綺麗だなぁ……)
眉目秀麗。才色兼備。そんな言葉が、お姉ちゃんにはとても似合うと、わたしは思う。実際、お姉ちゃんは、わたしと違って凄く優秀で、学校の成績はいつもトップらしい。
わたしの家族は姉だけだ。お母さんはわたしが生まれてすぐに亡くなり、お父さんも、数年前に他界した。それ以来、わたしはお姉ちゃんと二人で暮らしている。両親が居なくてさみしさや悲しさはあるが、それでも、わたしはお姉ちゃんさえ居れば寂しくなんてなかった。
小さい頃からずっと遊んでくれた、何かあっても、わたしを守ってくれたお姉ちゃんは、いつしか、わたしの憧れの存在になっていた。
だからわたしは、そんな姉がとても大好きだった。
「また図書館に行ってたの? リンも好きだね」
「うんっ」
「あれ、やけに嬉しそうだね、リン。何かいい事でもあった?」
「ちょっと、ね」
「良かったね。うん、リンはやっぱり、笑ってる方がずっと可愛いよ」
「え……? わたし、笑ってた?」
意識してなかったから、そう言われるまで気付きもしなかった。
「うん、私はリンの笑顔好きよ」
「えへへ。ありがと、お姉ちゃん」
お姉ちゃんが、わたしの頭を撫でる。お姉ちゃんは何かあると、いつもわたしの頭を撫でてくれる。わたしもそれが嫌ではなかったし、むしろそうされることが好きだった。
「――ねぇリン。黄昏時の夕方を見ると、なんだか切なくならない?」
お姉ちゃんと二人、並んで歩く。しばらくして、ふとお姉ちゃんが口を開いた。
「え……? 言われてみれば、そう、思うけど」
どうしてそんなことを聞いてくるのか、と姉に視線だけで問う。すると姉は、はにかみながらなんてことのないように、その言葉を口にする。
「それはね、まだこの世に未練を残す死者達の想いが、夕焼けを介して伝えてくるからなの。だから、黄昏時は寂しく感じて、そして切なくなるの」
風が吹き、お姉ちゃんの長い黒髪がなびく。
お姉ちゃんのその言葉は、確かにわたしに向けられていたけど、でもどこか、違う誰かに向けられていた気がした。
「……もし死んでも、夢でもいいから、また会いたいな」
小さく、お姉ちゃんが何か呟いた気がしたけど、風に阻まれ、聞き取れなかった。
お姉ちゃんと肩を並べて歩く。そして、そっと手を繋ぐ。繋いだ手が、とても暖かい。
顔を上げて、周りの景色を見渡す。見慣れた風景も、今はとても輝いて見える。世界はこんなにも美しくて、色づいていたんだ。
そしてわたしは、見慣れた木組みの街を、お姉ちゃんと一緒に歩いて行った。
***
次の日、わたしは普段と違って、晴れやかな気持ちで学校に登校した。
今日から、みんなと仲良くなれる。わたしは、泣かないようになったんだと、早くみんなに知らせたかった。言ってしまえば、今日はわたしの再スタートだ。
「お、おはよう!」
いつもより少し大きく、声を出す。既に教室の中にいた何人かは、少し驚いた様子でこちらを見る。その視線に若干萎縮しいてしまう。
「お、おう。おはよう、アストロアート」
「おはよう、アストロアートさん」
「う、うん。おはよう」
クラスの良心的な人達――わたしへのいじめへ加担していない人達――は、こうやって挨拶してくれる。けど、今こうやって挨拶をするということは、どうやらいじめの主犯はまだ来ていないらしい。
席に着く。顔を上げれば、時計の針が動くのが見える。
ひとつ、ふたつ。それが三〇〇を超える頃に、不意に教室の扉が開いた。
二人続けて、人が入ってくる。一人は茶髪の、長髪の女の子。もう一人は亜麻色の、短髪の女の子。彼女達が教室へ入ってきた瞬間、それまで喧騒に包まれていた教室が静まり返る。
そう、彼女たちこそ、わたしのいじめの主犯格だ。わたしは主に、この人達によっていじめられていた。
「おっ。リン、もう来てるじゃん。今日も早いねぇ」
「ほんっと、何されるかわかってるのに、よく来ますね、リン」
「お、おはよう。カナンちゃん、レイちゃん」
長髪の子――カナンちゃんと、短髪の子――レイちゃんがわたしを蔑むように笑う。事実、さげすんでいるのだ。
そんな二人の様子に、思わず足が竦む。恐怖で震えようとする体を、なんとかおさえる。
いつもなら、彼女たちに抗おうとする意志もここで消える。だけど、
(大丈夫、大丈夫……! 悪魔さんを、信じなきゃ)
だけど、今日のわたしは違う。
「あ、あのね。カナンちゃん、レイちゃん。わ、わたしね、もう泣かなくなったんだよ」
意を決して、彼女達に話しかける。
これが最初の一歩だ。
「はぁ? リン、アンタ、何言ってんの。泣き虫リンのアンタが、泣かなくなったなんて、冗談でも下手すぎでしょ」
「う、嘘じゃないよ。ほんとだよ!」
「じゃあ、証拠か何か見せてみなさいよ」
「しょ、証拠って言われても………」
そんな物、持ち合わせてない。そもそも、悪魔さんの言葉を疑うことなく信じてたから、いざそういう風に言われると対応に困ってしまう。だって悪魔さんは、もうわたしは泣かないとそう言ってくれたから。
わたしは、彼の言葉を信じるしかない。
だけど、彼女達はそう思ってはくれないようだった。
カナンちゃんが、何か思いついたように不敵に笑う。あれは、いつもの笑い方だ。
けれど、その笑みに含まれた真意に気付いたのは、彼女が行動を起こした後だった。
「じゃあ、本当にアンタが泣かなくなったのか、試してあげよっか」
「え?」
バシャッ。
――冷たい。体に冷たさを感じる。ぽたぽたと、髪から水が滴り落ちる。そこでわたしは、自分の身体が濡れていることに気付いた。
「アハハ! 似合ってるわよ、その姿! ねぇレイ!」
「ええ、とてもお似合いだわ、リン」
カナンちゃんの手には、水筒が握られていた。お茶ではなく、単なる水であったことから元々そうするつもりだったのだろう。などと、頭は勝手に現状を分析する。
「う、うぇ……」
――あれ。どうしてだろう。
どうして、視界が滲んでるんだろう。
どうしてこんなに、目頭が熱いんだろう。
まるで、わたしが泣いているみたいじゃない。
「あはっ、ほら見てレイ! リンの奴、ちっとも変わってないじゃない!」
「あらほんと。泣かなくなったなんて、ただの嘘だったんですね。全く、見損ないましたよ」
二人の声が聞こえる。
――わたし、泣い、てるの?
なんで。わたしは、泣かなくなったんじゃ。
悪魔さんは、「もう泣かない」って、言ってたのに。
なんで、なんで――。
「――――ぁ」
そこでわたしは、ようやくある可能性に気付いた。
(そっか。わたし……)
騙されてたんだ。
あの悪魔は「もう泣かない」なんて言ってわたしを騙していたんだ。よく考えたら、すぐにわかることじゃない。
だって、悪魔だよ。悪魔が、何の見返りも無く優しいことをするはずが無い。きっといまごろ、あの悪魔はわたしの醜態を見て楽しんでるに違いない。
――――ああ。
結局、わたしは変わることなんて出来ないのだ。わたしはこのままずっと、『泣き虫リン』として、過ごしていく。
涙が頬を伝うのを感じる。そしてそのまま、わたしはその場に崩れ落ちる。
その際にきらきらと、何かが零れ、雨粒のように彼女達の方へ落ちていく。あれは、わたしの涙かな。
もう、何も信じられない。夢が叶うと、あの悪魔を信じたわたしが馬鹿だった。
なんであの悪魔は、わたしに希望を持たせるようなことをしたの?
希望を持つくらいなら、こんなこと、して欲しくなかった。
あの時の悪魔の笑顔が嘘だと、そう思いたくなかった。できることなら、彼を信じていたかった。けど、現実は残酷だった。
わたしはもう、変われない。変わることは、出来ない。
思い描いた理想は叶うことなく、この涙と一緒に流れていく。
ほら、こうやっていつものように、わたしは――――、
「きゃっ!」
「熱っ!」
突如、目の前の二人が悲鳴を上げた。
けどわたしは、それを見ない。
聞こえない、聴こえない。
彼女達のことなんて、どうでもいい。
「!? も、燃えてる! 床が燃えてるぞ!」
「な、なんでよ!? なんで床が燃えるの!?」
止めどなく溢れる涙。それは、つーっと、わたしの頬を伝う。
「うっ、うわぁ……ん」
漏れる嗚咽。抑えきれないそれは、まるで歪に奏でられる音楽のよう。
「炎が広がってきた! 誰か水を! はやく!」
「だめ、消えない! なんで、なんで消えないの!?」
やけに、周りがさわがしい。またわたしを見て笑っているのかな。
「避難だ、外に避難しろ!」
「アストロアートさん! 泣いてないで早く! ほら、火が貴女のすぐそばまで!」
誰かがわたしの名前を呼んでいる。
「……火?」
――そこでようやく、わたしは顔を上げた。
「なに、これ」
すべてが、燃えていた。
紅く、緋く、赫く。
それは灼熱の太陽の如く、教室を燃やしていた。その火はとどまる所を知らず、その手を学校の至る所に伸ばしている。わたしの周りは既に、火で囲まれていた。
「あ……ぁ、あ」
恐怖。それがわたしを縛り付けた。さっきわたしを呼んでいた誰かも、もう居ない。
「――――!」
声は出ない。代わりに、涙が出る。ボロボロと、頬を伝って落ちていく。
その行為に何も関係無いのに、なぜか火の勢いが強まる。
そう――まるで、わたしの涙がこの炎の原因のような。
「行か、なきゃ……」
勇気を出して、立ち上がる。幸いなことに、わたしの体に火は燃え移っていなかった。あんなに火に囲まれていたというのに、もはや奇跡だ。
教室を出る。木造ということが災いしたのか、廊下の至るところが燃えており、壁に穴があいている部分もある。窓は割れ、そこから脱出したと思われるあとが残っている。学校全体が燃えるのも、このままでは時間の問題だ。
「いったい、なんで……」
煤と灰が制服に付く。煙を吸わないよう必死に堪える。涙は止まる気配をみせない。
――こわい、こわいよ。
わたしは泣きながら歩き、やがて昇降口までたどり着いた。
靴に履き替え、外に出る。そしてわたしは、その景色を目の当たりにした。
「――――、え?」
そこには、地獄が在った。
正真正銘、それは地獄そのものだった。
「ひっ……」
校庭には、無数の黒い塊が炎の中で燃え、そこら中に落ちていた。銅像のように立っているものもあった。まだ、火の中で動いているモノもあった。
遠くを見れば、赤い光が見える。あの方角は、街の方。こんな短い時間で、あそこまで火が。
後ろで大きな音がした。振り向けば、校舎が崩れ始めている。悲鳴が、中から聴こえた。
「あ、」
奥に、人が見えた。その人は必死に何かから逃げ回っている。
「――――ッ!!」
奥の方で走り回っている人。それはさっきまでわたしをいじめていた人の一人――カナンちゃんだった。
「あっ、リン! リン、助けて! ねぇ、お願いッ!! この炎、なんでか生き物みたいに追っかけてくるの! 水ッ、水でもなんでもいいから、早くそれをこの炎にかけてッ!!」
わたしの存在に気付いたカナンちゃんが、追いかけてくる炎から逃げながら、わたしを呼ぶ。その姿はまるで、罪を裁かれている罪人のようだ。
「はやく! ねぇリン、お願いだから!! 今までのことは全部謝るから、私を助けて!! 助けなさいよぉッ!!」
「あ、ぅ……」
足が竦んで動くどころか、まともに声を出すことすらできない。
そんなわたしを見てカナンちゃんは無駄だとわかったのか、すぐに切り替えた様子で炎から逃げ回る。
「あっ……!」
けど、それは無駄な足掻きで、数秒もしない内にまるで生き物のように動いていた炎に呑まれた。
彼女の断末魔が聞こえる。
その声が、まるでわたしを恨んでいるかのように聞こえた。
「あぁ、あ、」
走り出す。一刻も早くこの場から、この地獄から立ち去りたかった。
街を目指して走る。その途中で、街の惨状を知った。
不幸にも木組みの街だったことが災いしてしまった。ひとたびどこかが燃えれば、後は連鎖的に、他の建物へ燃え移っていく。
そうすれば、地獄の完成だ。
「はあ、はぁっ、はっ」
行けども行けども、続くのは地獄。それに終わりは見えない。
黒い塊がそこら中に転がっている。いくつもの呻き声が聞こえる。
それらは確かに、救いを求める声。それらをぜんぶ無視して、わたしは走る。
「なんでっ、こんな、ことにっ……!」
わからない。わからない。
頭はすでに理解の許容を越え、理解するのを拒んでいる。それと同じくらい、涙が出る。
「お姉ちゃん――!」
それでも走るのは、たったひとりの家族の安否を知りたいという想いがあったから。
そしてようやく、わたしは家の前に着いた。
お姉ちゃんは、倒壊した家の下敷きになっていた。
「――お姉ちゃんっ!」
「……リ、ン」
「待っててね、いま助けるから!」
「だめ……逃げなさい。せめて、リンだけでも……」
「いやだよっ! わたしを独りにしないで!! わたしは、お姉ちゃんが居なくちゃダメなのっ!」
「はやく、逃げなさい、リン……!」
「いやだっ。嫌だイヤだいやだっ!」
お姉ちゃんを下敷きにしている柱を必死にどかそうとする。しかし、ビクともしない。そうしている間にも、炎はその手を伸ばし続けている。
「もうすこ、し……」
「! 危ない、リンっ!」
「え? ――あ」
頭上を見れば、隣の建物が崩れ、その一部がわたしの頭を目掛けて降ってきていた。どう考えても、避けきれない。
ドン、と。瞬きした次の瞬間には、わたしは突き飛ばされていた。
「おねえ――」
その時見たお姉ちゃんの表情は、静かに笑っていた。
眼前に炎を纏った幾つもの瓦礫が降り注ぐ。
ぐちゃり、と。何かを潰す音が聴こえた。
「――――ぁ」
ぴちゃっ、と。赤い何かが顔に付いた。それが血だと理解するのに、少しだけ、時間がかかった。
真っ赤な血が水溜まりのようにその場に広がる。その赤色は、まるでわたしの瞳のよう。
とても、きれいな色だった。
「ぁ……、ぇ?」
喉から出たのは、声にならない声。目の前に広がる光景を認めたくない。
そして瞬きした次の瞬間には、完全に家が燃えていた。
それはつまり、わたしのたった一人の家族が死んだということを意味していて。
ぷつりと。糸が切れる音が、わたしの中から聞こえた。
「あ――あ、ああッ。あああああアアアアアッッ!!!!」
抑えきれない涙。泣きたいという衝動。ぼろぼろと、いままで以上に涙が零れる。
心の中には果てしない空洞。事実を認めようとしない心と、冷静にすべてを理解している頭の二律背反。
――限界だった。
「どぉ……してぇっ……」
なんで、どうして?
わたしが何かした? どうしてわたしは、こんな地獄にいるの?
そうやって問いを投げても、当然答える人なんかここにはいない。愛すべき家族もたった今死んだ。こんな場所、一秒もいたくない。
だから――。
涙で歪んだ視界の中、煌々と燃える赤い炎に手をのばす。
それでお姉ちゃんの後を追える。
――追えるはず、だったのに、
「なん、で………燃えない、の……?」
いくら待っても、わたしの体が燃えることはなかった。
混乱と動揺が脳内を埋め尽くす中、不意に、
『やぁ、リン』
どこからか、あの悪魔の声が聞こえた。
振り向くと、昨日と同じように悪魔はそこに立っていた。
「あく、ま……!」
『どうだい? これで君の願いは叶うだろう?』
「ふざけ、ないで……!」
違う。こんなの、わたしは望んでない。
わたしはただ、泣かないようになって、みんなと仲良くしたかった。ただそれだけ。
間違っても、こんな地獄をつくることなんかじゃない。
「あなたはっ、わたしを、だまして……!」
『? 何を言ってるんだい? 僕は君を騙してなんかないよ』
「嘘をつかないでっ! 泣かないようになるなんて言って、ただわたしの無様な姿を見たかっただけでしょ!」
『騙してなんかないさ。僕はちゃんと、約束は守る。だってほら、それを見てごらんよ』
そう言って、悪魔はわたしを――正確には、わたしの頬を伝って落ちていく涙を――指差す。
わたしは、それを言われるがままに見ていた。
そして、その瞬間を見てしまった。
「う、そ……」
――地に触れた涙が炎になり、燃え上がるその瞬間を。
それはまるで、炎の花。わたしの目からこぼれた涙が地に触れたとき、それは開花するように、燃え上がる。
はじかれたように、周りを見渡す。そこには変わらず、燃え盛る地獄があったけれど、地面をよく見れば、ヒガンバナのような形をした炎の花がいくつも咲いていた。
激しく咲く炎の花。花は増殖するように、建物や木々に燃え移っている。けれどそれはあくまで炎。炎である以上、ただ燃やすしかない。
炎花が咲き乱れる花園。そう形容するのが、一番相応しかった。
「なに、これ……」
『僕はあの時、君にある力を与えた。それは、君の涙が炎になるというものさ』
「涙が……炎に、なる」
その言葉を聞いて、わたしはすべてを理解した。同時に、罪悪感が心を潰した。
炎の悪魔との邂逅。意思を持ったように燃える炎。燃えない体。――炎になる涙。
不安はやがて確信へ。認めたくないその事実に、わたしは震えた。泣きたくなった。
(ああ、そっか……)
――この地獄は、わたしがつくったんだ。
『これで君は泣かなくなるよ。だって、全部燃えたんだもん。君をいじめる奴も、物も、環境も、ぜーんぶ燃えた。これで君は、泣かなくなる。ほら、君の願い通りだろう、リン?』
彼の言葉に嘘も悪意もない。
彼は、善意でわたしの涙に性質を与えた。
ただ少し、お互いの願ったモノがすれ違っただけ。
「……って」
『え?』
「どこか行って! もうわたしの前に来ないで!!」
声を荒げる。すると、悪魔は少し戸惑った表情を見せる。けれど、しばらくするとこの場から消え去った。もう二度と、会うことはないだろう。
近くの炎に触れる。だけど、その手が燃えることはない。
あたりまえのことだ。これはわたしの涙。自分の涙で燃えるわけない。
性質が炎になっただけであって、本質は涙に変わりはない。
けれどこれは、『わたしが泣かなくなる』という願いのもとに成り立っているから、その願いを叶えるために、この涙は、わたし以外を燃やす。
「――――、っ」
ぐっ、と溢れかけた涙を堪える。
本当は、今すぐにでも泣きたい。もとよりわたしは泣き虫なんだから、堪えることなんて、できやしない。でも、真実を知ってしまった以上、泣くことは許されない。
いまもなお燃える街を見る。
燃えた。全部燃えた。人も、街も、自然も、そして家族さえも。
その炎は、消えることなく燃やしている。
何も無い。在るのはただの赫い炎。
全てを燃やす、無慈悲なまでに赤く、そして綺麗な赫い炎。
「う、ぁ……ぁ」
改めて認識した瞬間、ぷつんと、糸が切れた。もう限界だった。
嗚咽が漏れる。涙が頬を伝う。
そしてそれが地に触れる前に、拭う。
泣いてはいけない。泣いてはいけない。
泣いたらまた、燃えてしまう。それだけは、ダメ。
けど、拭いきれなかった涙が、地に触れる。
刹那、炎が燃え上がる。
「あぁ……ぁ、ぁあ……!」
――燃えた、燃えてしまった。
――燃やしてしまった。
それが、決定打となった。
「――――――!」
堤防が決壊する。
涙が溢れる。
燃える。
「ああああああああああ――――――ッ!!!!」
燃えていく。全部、ぜんぶ。
生まれ育った街も、駆け回った森も、さっきまで話していた人々も、等しく、燃えていく。
塵ひとつ残らないくらい、激しく燃えていく。この炎は、いったいなんのために燃えるの。
「わた、しは……っ」
ただ泣きたくないと、そう願っただけだった。
ただ普通に、みんなの輪の中に入りたいと願っただけだった。
そのためなら――たとえ奇妙で不思議な存在に頼ってもいいと。
そう願ったのが、間違いだった。
だからこれは……紛れもなく、わたしが犯した罪。
「――――――、」
燃える街を――街だったモノを――虚ろな眼で見つめる。
……駄目だ。ここに居てはいけない。
何処か遠い場所へ。
遠く、遠く。誰も来ない場所へ。
涙を拭う。そうすれば炎は収まる。けど、一度放たれた炎はもうどうすることもできない。
地獄を、歩く。
わたしがつくった地獄。その事実に、思わず涙が出てしまいそうになる。
泣いてはいけない。泣いてはいけない。
これ以上は、もう。
だから、せめてもの償い。
この光景をつくってしまった、償いを。
この光景を、眼に。
「――――、なさい」
呟く。
「――――ごめん、なさい」
その呟きは、誰に向けられたモノだっただろう。
「ごめんっ……、なさい……!」
泣いてはいけない。泣いてはいけない。
泣いたら、燃やしてしまう。
泣いたら、消えてしまう。
無数の屍を超える。その中には、見慣れたモノもあった。
いくつもの声が、わたしの耳にこびりつく。
わたしはそれを、聴こえないフリをした。
「そう、だ」
街の門まで差し掛かったとき、ふと思い出す。
大事なことを、忘れていた。
最後に、お別れを。
「――ばいばい、お姉ちゃん。大好きだよ」
最愛の姉に、別れを。
嗚咽を堪え、涙を拭い、償いの為に光景を眼に焼き付け、そして呟きながら、歩む。
決して、振り返ることだけはしなかった。
***
そうしてその地獄は、三日三晩燃え続けた。
わたしは、総てを喪った。
わたしだけが、生き延びた。
そして、一年の月日が経った。