第七章 『火涙の少女と炎の悪魔』
『――――――――なんで、だ』
アレンくんと挨拶を交わしてすぐ、割って入る声――絶望した声――が聴こえた。
声のした方を振り向かなくてもわかった。
「アミー……」
アレンくんがその名を呟く。
そこには、茫然自失、といったアミーの姿が、あった。
『どう、して。計画は完璧だった、不安要素なんて何ひとつなかった。なのに、なんでリンは目覚めた……ッ!?』
「――それは、きっと、アミーにはわからないよ」
実を言うと――わたしにも、なんで目が覚めたのかよくわかっていない。漠然と覚えているのが、姉の姿と司書さんの言葉ということだけ。
「―――――、アミー」
目の前の悪魔の名を、呼ぶ。
ずっとわからないことがあった。アレンくんの正体は解った。けど、この悪魔――アミーに関しては、正体と目的がなんなのか、本当に解らないのだ。
最初、わたしはアミーこそが、あの日の悪魔なんだって思った。だって、そう思わずにはいられないほど、合致する点が多すぎたから。
あの日の悪魔と瓜二つの容姿。確かに、いくつか話が噛み合わない部分もあったけど、それも気にするほどのものじゃなかった。だからわたしは、アミーこそが、わたしに火涙の性質を与えた悪魔なのだと思った。けど実際は、全てアレンくんがやったことで、アミーは無関係なのだ。
わたしとアミーは、赤の他人と言ってもおかしくない。けど、アミーはアレンくんのことを知っていて、なぜか彼を目の敵にしている。そしてわたしに対して、不気味なくらいに――手段は許されたものではないけど――尽くそうとしてくれている。わたしには、それが不可解で。
だから、聞いた。
「あなたは……誰、なの?」
『…………僕、は』
赤い悪魔は答えない。代わりに、
「僕が……話すよ」
わたしの後ろに居る灰色の悪魔が答えた。
「アレン、くん……?」
「リン。これから話すことは、君がいま一番知りたいことであり、僕とアミーのことだ」
ファルシュ君はそこで一回言葉を区切り、
「【アミー】という悪魔についてだ」
そう言って、語り始めた。
***
ある悪魔の話だ。
その悪魔は、炎を司る悪魔であった。その名は【アミー】。
アミーが司る炎とはすなわち、「欺瞞」・「裏切り」・「悪意」・「誹謗」といった『悪事』を纏った負の炎だった。その炎の悪魔は、自らの存在意義を全うすべく、人間界に現れては人間に接触し、敵陣営に疑いの種を撒いたり、流言飛語を飛ばしたりするなど、悪の炎を、次々に燃やしていった。
だが、そんな悪魔も、最初から悪魔であったわけじゃない。
悪魔アミーはかつて、ひとりの天使だった。
つまりアミーは、堕天したのだ。
アミーが天使だった頃は、彼は『能天使』という階級に属していた。『能天使』は、天使達の中でも、最も調和的な存在であり、主である神に対し従属する意志と敬意、そして他者に対する穏やかな心と善意を常に持っていた。それゆえ、その性格はとても温厚であり、悪魔達とは対極にある存在だった。
しかし、『能天使』という階級の本来の使命は、天界に迫り来る地獄の悪魔達との戦いにおいて、最前線を務めるという過酷なものだった。
天界では悪魔の襲撃が絶えない。悪魔達が、天界に召された魂を欲するからだ。その抑止力、あるいは戦力として存在するのが『能天使』というものだった。
最前線を務める、ということは、悪魔と直接接触する機会が多いことだ。そのため、『能天使』達は常に魔の誘惑に晒されており、それ故に『能天使』という存在は、堕天しやすい天使であった。
だからこそ、アミーは堕天した。
彼自身が堕天を望んだわけじゃない。けど、彼の大天使ルシファーが神々に対し離反し、堕天した際、元から堕天しやすい性質であった『能天使』という階級から、堕天使を多く生み出してしまった。アミーは、その中の一人に過ぎない。大多数の内の一人に過ぎないが、アミーにとってはそれは地の獄に落とされるのと同義だった。――いや、実際に堕ちたのだが。
『――――どうして自分が! 何故自分が! この身は神に捧げたというのに!! 何故だ!!』
アミーは絶望した。運命を憎んだ。神を呪った。
その燃え盛るような憎悪は、やがて悪の炎へ変わり、アミーは炎の悪魔と成った。
温厚だった天使の頃の性格は消え、他者を平気で裏切り、謗り、悪を放つ、まさしく悪魔のような性格――いや、悪魔そのものになった。
アミーは燃やし続けた。その悪意を。かつて自分が裏切られた時のように、人々を甘言で惑わせ、裏切った。
だが、そんな堕ちたアミーにも、一つの望みがあった。
『かつての場所に戻りたい』。それは彼の思い描いた理想であり、願望であり、渇望したモノだった。
叶うことは無いと分かっていても、諦めることが出来なかった願い。
その願いは彼の内で消えることなく、ただ燃え続けた。
「そして、アミーが渇望し続けた願いは、やがて 歪なカタチとなって叶えられることになる」
悪魔アミーは、かつて天使だった。そして今は、地に堕ちた悪魔だ。その天使だった頃の性格は変貌し、消えた。
だが、消えたからと言って、それが失くなったわけではない。正確に言えば、消えたのではなく変わったのだ。
天使から悪魔へ堕ちたように、性格も変わったのだ。
性格の上書き。そう言えばいいのだろうか、しかしアミーは天使の性格を上書きする前に、ほぼ無意識の内に、その性格を彼自身の底に保存した。
いつか、かつての場所に戻った時に、その在り方を忘れないために。
そしてアミーは、悪魔としての自分を全うし続けた。彼には、そうすることしか出来なかった。
そうして百年、千年と歳月を重ね、悪魔としての実績を重ねていくことで、その存在はより確かな、『悪魔』というモノに固定化されていき、天使への復帰はもはや無いと思われていた。
けど、アミーの願いはあまりにも貪欲だった。
貪欲で、傲慢で、だからこそ純粋なモノ。
故に、その願いは――アミーから乖離した。
アミーという存在の、別の側面――天使という部分のみが、乖離したのだ。
それは、本来ならば起こりえない現象。しかし、そうしてしまえるだけの意志と想いが、幾千という時の中で、アミーの中に育ちすぎてしまったのだ。
願いが意志を持ち、此の世に産まれ落ちたいという衝動を持った――、それだけのこと。
かくして、悪魔アミーの中に在った願いは、その本人から離れ、ただの純粋な、それでいてこの世に確かに存在することが出来る、一種の概念となった。
つまりアミーの持つ願いは『天使アミー』という意思を持つ概念になったのだ。
しかしそれは――逆を言えば『天使』という側面を削ぎ落とした、完全なる『悪魔アミー』を作り出すということと同義であった。
願いが乖離し、完全な悪魔となったアミーは、その概念《天使》を消そうとした。
しかし、消せなかった。『概念』に干渉することが、できなかったからだ。
産まれ落ちた概念は、乖離したとは言え、しかし、所詮はカタチの無い概念。この世界に現れるためには――干渉するためには――、第三者が認識できる存在となる必要があった。
――産マレ、タイ。
そして意志を持った概念は、その根底にある衝動として、『天使』として現界したいと願った。
しかし、それは既に不可能なこととなっていた。
何故なら――天使アミーが、悪魔に堕天した時点で、此の世に『天使アミー』という存在は、消えてしまったからだ。そしてそれは、悪魔アミーが存在する限り、永遠に変わることのない真理となってしまった。
確かに、ソレは同じ存在である悪魔アミーの中に在った、紛れもない『天使アミー』だ。しかし、概念は、ただの概念。言わば、ただの心だ。『概念』と『存在』は別のモノだ。存在として、認識することはできない。
真の意味で、天使アミーではない。
――ナラバ、同ジ存在ジャナケレバイイ。
だから、概念が取った行動は、本来の願いである『天使』として現れることを捨てたモノだった。
「人々の間で、口承、文献で伝えられる天使や悪魔といった存在は、どうしても発音や文化の違いで固有名が変わってくる。それはつまり、同じ存在であるけれど別のものとして存在が確立されているということなんだ」
アミーという存在じゃなく、されど本質的には同じでありながら違う存在として、現れる。
概念というカタチの無いモノが、カタチを得るために必要な殻。それはつまり――悪魔アミーの、別名。
ただ概念を、定義付けする為の、字。
――『天使』という概念が、『悪魔』という殻を被る。
意識は天使。されど、肉体は悪魔。
「その存在こそが――僕だ」
悪魔ではなく、かと言って完全な天使でもない。
――孤独な偽者。
それこそが、この悪魔の正体。
「理性と本能は、どうしても本能が勝つ。悪魔の殻とは言え、それに刻み込まれた【悪魔的行動】は、消えることは無かった。性格は天使であったとしても、その総ての行動と言動は悪魔に基づいたモノになってしまう。だから僕は――君に、火涙を与えてしまった」
天使としての優しさの行動は全て、思考の過程で【悪魔的行動】へ変換される。それはつまり、矛盾した行動と思考を延々と続けること。その矛盾に気づくには、行動を起こしてからでないと気づけない。
「だから僕は、自分自身を封じた」
悪魔としての部分――その権能や思考回路を、封じた。だが、すべてを燃やした訳ではなく――そうすると存在が消滅してしまう――存在を維持できる、ギリギリまで燃やし、それによって人の身へ近づけたのだ。
――ヒトに、『アレン・ファルシュ』になるために。
アレン・ファルシュ。それは悪魔としての自分ではない、ヒトとしての名前。真名は、自らの中に封じてある。
故に、この身体は灰色なのだ。燃えて灰になった、その証。
もちろんこれは一歩間違えれば自殺行為になりかねない。だが、危険を承知でこの行動を起こした。
すべては、リンのために。
この悪魔の行動は、すべて、その想いで出来ていた。
「この状態になるのに半年。準備が整うのに半年。合計一年の歳月を経て僕は――」
「君の前に、現れた」
***
「――――――」
ぜんぶ、知った。わたしと、彼――彼ら――にまつわる、すべてを。
彼は悪魔だった。けど、その心は真に天使だった。
彼は悪魔だった。けど、ただ不器用なだけだった。
『……僕は、君が、あの地獄が始まるほんの少し前に、君を見た』
ポツリ、と語られる、彼の想い。
『悪魔という存在が非現実になったこの世界で、魔力を感じてここまで来た時のことだ。夕焼けに染まる世界で、君と、君の姉が並んで歩くその姿を、僕は見た。そのとき君が見せた笑顔に――僕は、どうしようもなく魅せられ、惹かれてしまった』
その顔は、どこか晴れやかで、
『知らない――いや、忘れた感情だった。初めて見たのに、そんなの関係ないくらい心がざわついて仕方が無かった。僕は悪魔だから、不用意に君に近付けない。でも君を遠くから眺めているだけでもよかった』
頭では、彼が悪魔だということを理解しているのに、
『けど――君があの地獄をつくり、そして歩いている時、君を救けてあげたかった。自分が悪魔だっていうことがどうでもいいくらい。そう思うだけの心は、まだ残っていた。そしてその時気付いたんだ』
自分の感情を吐露するその様は、
『僕は――君が好きだ、リン』
――ただの、恋する少年の姿だった。
「ア、ミー……」
わたしは、その言葉に何も返すことができない。
この悪魔はきっと、本心から、わたしのことを好きでいてくれている、それがわかった。それ自体はすごく嬉しいし、でも同時に、他人から好意を向けられることが無かったから、どうすればいいかわからない。
いや――違う。わかってる、そうじゃない。そうじゃないでしょ、リン。
自分の気持ちに正直であるのなら、アミーに告げる言葉はひとつしかないことくらい。
「ご、めん。その気持ちには、応え、られない……っ」
それを口にした瞬間、心が締め付けられた。
そう、これもまた、他人を拒絶するということ。他人を悲しませたくないのに、そうせずにはいられない。この矛盾した思考は、きっとこれからもわたしに付いてくるだろう。
でも。わたしが好きな人は、別にいるから。
自分に嘘を吐きたくないから――この好意を拒むしかない。
『――――――そう、か』
アミーは、それだけ呟くと。
『――――――――ッ、ぁああああああああああ!!!!』
叫び声を上げ、わたしとは反対の方向へ、走り出した。
「アミー!?」
「くっ――」
「あ――アレンくんっ!!」
そして隣にいた灰色の少年も、彼を追いかけるように、走り出した。
独り取り残される。わたしも行かないと。
「――――」
見上げた空は、何処までも、真っ黒だった。
***
「アミー!!」
走って、その少年を呼び止める。僕にとって家族とも、兄とも、僕自身とも呼べる存在。たとえ相容れなかったとしても、僕は、彼を追いかけずにはいられなかった。
『アレン……』
振り返ったアミーの顔は、泣いていた。それは失恋故か、もっと、別に理由があるのか。
『ハッ……僕を笑いに来たのかい? 無様な僕の様子を? 笑いたきゃ笑えよ。結局僕は、リンに必要とされなかったってことさ。そら、君の勝ちさ。あれだけ大口叩いておいて、僕は君に負けたんだ。リンを幸せにする役目は――君さ。せいぜい、君も幸せになるといい。もとより君は異端で例外の悪魔。居ても居なくても変わらない』
どこか、投げやりな言葉。自棄になっているのか、彼は僕を監禁している時に言った自らの言葉を自嘲している。自分が信じた善が、自分が貶した善に負けたのだ。そう言いたくもなるだろう。だが、僕は、彼の言葉の一部を否定する。
「リンを幸せにする――確かにやってみせるさ。けど、僕は幸せにならない。幸せになるのは、リンだけだ。彼女の幸せに僕は要らない」
アミーを見据え、言葉を告げる。
「僕は――彼女に、彼女の幸せを返したあと、この世界から消える」
『は……? 消える、だと?』
「ああ――彼女を在るべき幸せに戻したあと、僕はこの世から消滅する。それこそが僕の彼女に対する、最後の償いだ」
最初からそのつもりだった。リン・アストロアートという少女の幸せに僕は要らない。故に、己を燃やし、この身を灰と化して、彼女を祝福しよう。
それこそがアレン・ファルシュの存在意義であり、僕という悪魔が行う贖罪だ。
言葉の意味が理解出来なかったのか、アミーは呆けた顔をする。が、それも一瞬のことで、すぐにその表情を一変させ、僕の胸倉を掴んできた。
『アレン・ファルシュゥウウウウウウウウウウウウウウウウウウ――――ッ!!』
「がっ、づぅ――!」
『ふざけるなよお前ェッ!? 君がリンを幸せにしなくてどうする!? 彼女は君が好きなんだぞッ!?』
「それは……間違いだ。リンは、僕のことなんか好きじゃない。だって僕は、彼女から奪ってしまったから、そう思われる資格が、ないから」
それはただの希望的観測だ。僕だって、リンに好きだって思われていたらどれだけ嬉しいか。
でも、もう決めたことなんだ。僕は、全てが終わったら、消えるって。それに、何より、
「僕は……僕達は、彼女を好きになることは出来ても――彼女の隣に立つ資格は、ないんだ」
それはもう、わかっていたこと。知っていたこと。
僕達は悪魔だ。たとえ世界の何処かにヒトと悪魔が結ばれる結末が在ったとしても――それは、僕達じゃない。奪った側が、奪われた側と幸せになろうなんて、烏滸がましいにもほどがある。
『それがなんだって言うのさ!! それを返すために君はここにいるんだろうが!!』
なおも、アミーは叫ぶ。
『なんでッ、なんでだッ!! なんでそう思考する!? じゃあ僕は何なんだよ!? 僕だって――リンが好きなんだ!! こんな感情、初めてなんだよッ!! お前ならわかるだろう!? 在り方は違えど、確かに君は、僕なんだからさァッ!! 彼女のために何か出来ないか考えた、君のせいで起きた地獄に苦しむ彼女を、救ってあげたかった!! そのために、未知の魔術を覚えた!!』
キッ、と僕を睨みつけ、アミーは叫ぶ。
『悪魔がヒトを好きになって――共に幸せになりたいと願って、何が悪いんだよォッ!!!!』
その慟哭は何処までも、ひどく、悲しみに満ちていた。
『でもリンはっ、僕を拒んだ!! その意味が分からないのか!? 僕じゃなく君を選んだんだよッ!!』
「だからそれは……!」
『一度でもリンに聴いたのか!? リンは、君が好きじゃないって!!』
「っ――――!」
その嘆きはふざけるなと、僕を責めるように、僕の耳朶に響く。
『僕は知ってる。リンの想いを。それを――彼女は「夢」で教えてくれた』
「――――――」
その言葉が何を意味するのか、聞かなくてもわかった。
『夢』というのは、経験した記憶、得た感情、想いから構成される。それはつまり、前提として夢を見る者がそれを識っていないといけない。
つまり、
どういうことかというと。
『リンは――誰かに、恋心を抱いている。それが誰か、解らないけど、確かに抱いている。だから僕は、それを利用して「夢」で自分をその存在に当てはめた。リンが、僕を好きになってくれるように』
「――――ぁ、」
言葉が出ないというのは、きっとこのことを言うんだろう。それはリンが、他者を好きになったという事実への驚きでもあり、同時に、
「アミー、君は、それを知っていた上で――」
絶対に拒まれると解っていながら、アミーが告白したということへの驚きであった。
『――……僕は、リンと結ばれたいがゆえに、僕なりに思考して色々な行動にでた。そのために彼女の恋心を利用するのも厭わなかった。けど、リンが自力で「夢」から覚めたとき――君とリンが再会した場面を見てしまったとき――気付いたんだよ』
顔を歪め――けど、何処かすっきりとした顔――僕は言う。
『――この役目は、僕じゃないって。だから僕は、想いさえ告げられれば、それでよかった』
その様子は、どこか清々しく、悪魔なのに、悪魔ではない気がした。
アミーの赤い双眸が僕を捉える。
嘘を吐くなと、そう訴えるかのように。
「…………、っと」
だから、だろうか。
無意識の内に、声を、出していた。
それは、感情の壁を壊す、始まり。
「――ずっと、ずっと好きだったんだッ! 彼女をあの花畑で見た日から、ずっとッ!!」
決壊する想いの丈。封じ込めてきた、少女への恋慕。
「僕は……、泣いている彼女を見たくなかったから、笑顔にしてあげたかった……ッ!!」
それはなにより僕が、見たかったモノ――求め、願ったモノ。
この想いに嘘は吐けない。誤魔化したり逸らしたりすることは出来ても、嘘だけは吐けない。
「僕はリンが好きだ、ずっと傍に居たいって思うし、彼女の笑顔を見ていたいし、叶うなら――一緒に、幸せに、なりたいッ!!」
でも、無理なのだ。僕は彼女に――赦してもらう資格が、ないから。
たとえば、僕が彼女の前に現れなかったとしたら。
リンはきっと――苦しいけれど、確かな幸せの中、生きていたはずだ。人間という生物は、その短い生涯の中で様々な苦しみにぶつかって成長する。きっとリンも、それを乗り越えることができたはずだ。
リン・アストロアートという少女の傍に、彼女を支える『誰か』がいる限り。
そしてそれは、僕ではなかった。けど、傲慢にも、その存在に成ろうとした。そして、少女に地獄を与えた。故に幸福を得る資格など、無い。
「だから僕はッ……、僕は、ぼく、は……」
声は震え、紡ごうとした言葉は喉につっかえて出てこない。
本音を隠して否定してきた。そして犯した罪を贖い、償い、滅ぼすことを是とした。
矛盾した思考。だから苦しい。けどそれは当然の苦しみ。
リン・アストロアートという少女の幸せに、『悪魔』は存在してはいけない。ただ、それだけのこと。
だから僕は、消えないといけない。そうすることで初めて、少女へ贖罪が完了する。
『………』
訪れる静寂。アミーは僕の胸倉を掴んだまま離さない。
『……ふざ、けんな』
ポツリ、と。アミーの声が、聴こえた。そして、
『――――――、ッ!!!!』
僕が、僕の真名を呼ぶ声が、聴こえた。
「え……?」
僕は僕の腕を掴み、それを自らの胸の中心に突き刺していた。
「ア、ミー……? なにを、」
『なに……優柔不断な自分に、喝を入れただけ、さ……』
発する声は、何処か弱々しい。口元に浮かぶ微笑が痛々しくてたまらない。
『アレン、僕を、取り込め。そして、僕になれ』
「な……」
『君が、アミーになれ。――そして、天使へ還り咲け』
それは、何とも荒唐無稽な発言で提案なのか。
『【悪魔アミー】という存在を【天使アミー】へ変えるという、無謀な賭けだ。そのためには、僕と君がまたひとつにならなければならない』
それは、かつて一つの存在だったときに切望して、羨望して、渇望して止まなかった願い。
『無に等しい確率の賭けさ。でも、主人格を君へ置き換えることで、少しは確率が上がるかも知れない。だって君は、天使だから。僕と対極に位置しながら、それでも同じ存在だから』
それを、僕は、僕がやってみせろと言っている。
「……ぁ……」
『僕は君が嫌いだ。自分とは言え君が嫌いだ。リンに選ばれた君が嫌いだ。その在り方が嫌いだ。だから、君の為ではなく、リンの為に僕は死のう。彼女の隣には、悪魔ではなく、もっと綺麗な存在がいるべきだから』
僕と同じ声が、同じ顔が、僕に向かって、そんな事を言う。
「っ……、やめろ。そんなことする必要なんて、ない、だろ。なんで君だけが、消えるんだ。僕も、一緒に……」
『いい加減にしろよアレン・ファルシュ。僕だって好きでやってるわけじゃないんだ』
発せられたアミーの言葉は、芯の通った、強いモノだった。
『いいか、もう一度言う。
――リン・アストロアートという少女の隣には、君がいないといけない。
自分勝手に消えるな、逃げようとするな。君が真にリンの幸せを願うというのなら、犯した罪を贖うと思うならば――生きて、罪を償え』
「あ――――」
眼と眼を合わせ、逸らすことなく告げられたその言葉に対し、僕は何も言えない。けど時間は止まることはなく、突き刺した僕の腕を通して、アミーの魔力が僕の身体に流れ込む。
彼の魔力は僕へと流れこんだことで、僕は、かつての煌きを取り戻す。
灰色は純色の赤へ。茜は紅へ。ヒトから悪魔へ――戻る。
それと同時に、アミーの記憶が――想いが――僕の中に刻まれ始める。
「……っ、あ、ああぁ……」
知らず、声が震えていた。それが嗚咽だと気付くのに、しばらくかかった。僕の両の目から、涙が溢れ、止まることなく頬を伝っていく。
『しっかりしてくれよ……この僕が、全部差し出すんだからさ。もうちょっとマシな面構えをしてくれないと、他に顔向けできないじゃないか。君はこれから、悪魔として生きて、天使に戻るために頑張らないといけないんだから、さ』
「だって、だって……!」
流れてきたアミーの想いは、どこまでも綺麗だった。悪魔がヒトを好きになるのに善悪はない。故に、美しい想いだった。そんな彼が、自分の想いを殺してまで、いま消えようとしている。それは本当に、正しいことなのか。
『正しいさ。たとえそれが不本意だとしても、僕がそうなりたいって思ったんだから』
穏やかな声が聴こえる。顔を上げれば、アミーの身体は末端から燃え始めていた。
『まったく……手のかかる、弟だ』
「じゃあな」という聲だけを残して。
微かな笑みを浮かべながら、アミーの身体が、燃えた。
「―――――――――」
茫然と、その場に崩れ落ちる。言葉は、出ない。
悲しさなのか、対極の存在と解り合えた嬉しさなのか、よくわからないけど、ただ、涙が溢れて止まらなかった。
「あ、ああぁ、ぁぁぁ……ッ!!」
溢れて溢れて、止まらない。子供みたいに、みっともなく泣き散らす。
アミーの言葉が、ずっと心の中で渦巻いていた。自分の想いを殺し、僕のために――リンのために――死んでいった僕。故に、自分がすべきことがわからなくなり、ずっと暗闇を彷徨っている。そんな僕に対し、皮肉のように、煌々と輝く炎は、曇天で覆われた地上での明かりとなって、燃えている。
けど、僕の暗闇を照らす、光は、現れな――
「ぁ………」
涙で滲んだ視界の先。炎で隔たれたその向こう側に。
「アレンくん」
黒髪の少女――リン・アストロアートが立っていた。
***
……猛々しく、炎が周りで燃えている。それはきっと、アミーがいなくなったことの余波なんだろう。まるでわたしみたい、と心の隅で感じていた。
二人の悪魔の様子の一部始終を、少し離れたところから見ていた。
アレンくんは、泣いている。炎の中で、泣いている。
だからわたしは、
「――アレンくん」
いつか、彼がわたしにしてくれたように、
「いま、そっちに行くから」
彼の涙を、拭おう。
一歩踏み出し、彼に近づく。
炎が熱い。一歩間違えば火傷どころか死に至るレベルの炎。
けど、進まなきゃいけない。
だって救わないといけない人がいるから。
それはきっと、わたしにしかできないから。
「――――っ」
その感情を自覚して、日は浅い。けど、そこに時間なんて関係なかった。
かつて、わたしは自らの幸せを、自分の手で壊した。その要因をつくったのは、彼かもしれないけど、それでもわたしは彼を責める気にならない。
わたしは人の憎み方を知らないし、そもそもわたしが『泣き虫』じゃなければよかっただけのことだから。
「リン……来ちゃダメだ! これは火涙じゃない。この炎は、君を燃やしてしまう!!」
「そんなこと言って、あの時わたしに近づいてきたのはどこの誰だったかなぁ……っ!」
ううん――そもそもの前提として、わたしが他人の善意を受け入れるのに、理由なんて要らなかった。わたしは、心が弱いから――だからこそ拒むのが苦しい――、差し伸べられた手を握るのに躊躇なんてなかった。
そこから先に起こったことは、すべて、自分の責任でしかない。彼は、悪意があって、そうしたわけじゃないってわかっているから。
だから、
「――わたしは、赦すよ」
優しく、諭すように、赦しの声を与える。
「――り、ん」
炎の間を――上手い具合に、燃えていない部分を――くぐり抜け、彼の前に立つ。
アレンくんの姿は、最初――火涙をもらった、あのときの姿と同じで。
そしていまは、愛しい存在。
「じっと、しててね」
アレンくんの前に屈んで、そしてそのまま、彼の涙を拭い――。
「――――っ!!」
唇と、唇を、重ねた。
時間にして、数秒にも満たない口づけ。けれど体感的には永遠。
顔から火が出るくらい熱くなってるのがわかる。心臓は胸の裡でどくどく脈を打つ。でも心は幸せで満ち足りていた。
「アレンくん――」
顔を上げ、アレンくんを見つめる。
「わたしは――――君が、好き」
そして、その言葉を告げた。
「君が赦される資格がないっていうなら、君がわたしを赦してくれたように、わたしが君を赦し続ける。君が罰を受けるっていうなら、わたしも受ける」
「アレンくん、君は言ったよね。わたしに幸せになって欲しいって。だからね、言うよ?」
「わたしの幸せには――あなたがいなくちゃ、ダメなの」
「わたしね、心が弱いからさ、独りだと寂しいの。だから、隣に居て支えてくれると嬉しい」
「もう一度言うよ。わたしは――リン・アストロアートは、アレン・ファルシュくんが好きです。――大好きです」
真っ直ぐに、眼前の少年だけを視る。その紅い双眸には、わたしが映っている。
彼もまた、わたしを視てくれている。
それが嬉しくて、でも恥ずかしくて。
ああもう、心臓がどくどく鳴って、うるさい。
その心臓の鼓動に呼応するかのように、炎が燃え上がり、煌めく。
「………リ、ン」
言葉が、聴こえた。唇を震わせ、彼は告げる。
「僕のせいで君は幸せを喪くした」
「あなたが居たからわたしは新しい幸せを見つけた」
「僕はヒトじゃない」
「ヒトじゃなくてもいい」
「また君から奪うかもしれない」
「あなたはもうそんなことしないってわかってる」
「僕は悪だ」
「だったら、わたしもその悪を背負うよ」
アレンくんは、言葉を選ぶかのように、視線を彷徨わせ、そしてまた、わたしを見返して言葉を告げる。
「僕で、いいのかい……?」
「あなたが、いいの」
肯定する。彼の迷いを、断ち切るように。
「――……アミーが、言ってたよね。生きて、償えって」
炎の悪魔が、消える直前アレンくんに言っていたこと。
生きて償う。それはアレンくんにも言えることだし、わたしにも言えることだろう。
あの日、アレンくんはわたしに「幸せになってくれ」と言ってくれた。その言葉でわたしは救われた。でもそれは、自分の罪を忘れていい――そう言うと目の前の少年は「わたしは悪くない」と言うだろうけど――ということと、一緒ではないのだ。
リン・アストロアートという少女が――過程はどうあれ――地獄をもたらしたという事実は、紛れもなく、わたしの『罪』なのだから。
「――わたしも、生きて、罪を償うよ」
だから、わたしも、償おうと思う。
そして、幸せになろうと思う。この人と、一緒に。
互いに互いを、許し合う。
片方が、自らを悪だと言うのなら、もう片方も悪に染まろう。
そんな風に、二人で進んでいけたら、いいなって。
「わたしはっ……思う、よ……」
想いを吐露して、気づけば、声が震えていた。頬に水の感触があることに気づいて、そこに触れれば涙が流れていることに気付いた。
「あっ……だ、」
だめ、と言おうとした矢先、わたしの涙を拭う手があった。
「アレン、くん……」
「ねぇ、リン。僕はさ、幸せになっていいのかな」
ぽつり、と小さく呟かれたそれは、たぶんアミーに向けた想いもあったのだろう。
「アミーのことを思うんだったら、アミーの分まで、幸せになったらいいんじゃないかな」
「――――」
「わたしはあなたと、幸せになりたいよ」
「――――――っ、あぁ」
「それじゃ、いけないのかな?」
しかとその顔を正面から見据え、彼の心に問う。
「……僕も」
「うん」
「僕も、君と、幸せになりたい……ッ!!」
「……やっと、本音を言ってくれた」
炎に囲まれ、わたしは彼を抱きしめる。彼も、抱きしめてくれる。
「気持ちが通い合うって、こんなに嬉しいんだね……」
「そうだね……でも、リン。君に言わなきゃいけないことがある」
抱擁していた腕を離し、彼はわたしを見つめる。
「僕はこれから――君のもとから、離れなければいけない。アミーの想いを、約束を果たすために。いつ帰ってくるかはわからない。けど絶対帰ってくるって、君を迎えに行くって約束する」
「……うん、わかってる」
アミーとアレンくんの会話を聞いていたからわかっていた。彼は――もちろん、わたしのためっていうのもあるんだろうけど、それ以上に、アミーのために天使に戻るのだと。
かつて【悪魔アミー】が願ったことを、叶えるために。だから彼は、ここから離れないといけないんだって。
アミー自身は、きっとそんなことは思っていなかっただろうな。だって彼はわたしのため、そしてアレンくんのために消えたのだ。けどこの少年は、それを是としなかった、それだけのこと。
本来【アミー】であった彼のために、アレンくんは、天使へ戻るのだ。
「リン。左手を、出してくれる?」
そう言われ、左の手を差し出す。差し出した左手の薬指――そこに、赤い文字が刻まれる。それはやがて綺麗な意匠の――そう、まるで指輪の形をしたようなモノになり、わたしの身体の一部となるかのように、しっかりと刻まれた。
「アレンくん、これって……」
どう見ても指輪の形をしたソレをまじまじと見つめる。アレンくんは、少し顔を赤くしながら「人間界の風習の真似事、かな?」と笑いながら、アレンくんは自分の左手の薬指にもわたしと同じモノが刻んだのを、わたしに見せる。
「これは僕がここに居た証。そして君を迎えに行くっていう、約束の証。しばらく会えないけど、これを見たら、僕を思い出してくれると……嬉しい」
「うん……ありがとう。すっごく、うれしい……」
綺麗な指輪だった。本物じゃないけれど、タトゥーのように身体に刻まれたこの指輪は、絶対に外れることないし、消えることもない。そしてこれはいわゆる『贈り物』、それも『結婚指輪』と言っても過言ではないもので、だからこそ、いま薬指に感じているこの温もりが嬉しかった。
「じゃあわたしも、ひとつ、いい?」
「うん……? いいけど、なにかな?」
「あなたの本当の名前、教えて」
わたしがそう言うと、アレンくんは一瞬眼を見開き、そして破顔しながら、口を開いた。
「――アウナス。それが、僕の本当の名前」
「アウナス……」
噛み締めるように、その名を呟く。
もっとこの名前で読んであげたい。アレンという名前も好きだけど、やっぱり本当の名前で呼んであげたい。アウナスはきっと、名前で呼ばれたことが少なかっただろうから。その分まで呼んであげたい。
「アウナスっ、アウナスっ」
「そんなに呼ばないでよ、照れくさいな」
「いいでしょ別に。やっと、本当の名前が知れたんだから。……うん、こっちが、合ってるって気がする」
「はは……嬉しい、な」
アウナスは、少しだけ、目尻に涙を浮かべている。それを手で拭ってあげる。そして、再びお互い向き合って、言葉も無しに、二人の距離がゼロになった。
唇を重ね合う。今度はゆっくり、長く。互いの存在を確かめるかのように。
彼の身体を握る腕に力が入る。離したくない、離れたくない、そんな想いが心に過る。でも、これはこのひとが決意したことだから、わたしにそれを邪魔することはできない。
これは、彼の償いのひとつなのだから。
長い口づけが終わり、そっと、抱きしめていた身体を離す。
「――好きだよ、リン」
「――わたしも、好きだよ、アウナス」
涙を流しながら、それでも満面の笑顔を浮かべる悪魔の身体を炎が包む。
「――約束する、そして誓うよ、リン。
君に、君の幸せを返す――いや、君を、幸せにする。そして、その幸せに、僕は絶対に戻ってくるって」
――だから、待っていてくれ。
その声が聴こえ、瞬きをした次の瞬間には、彼の姿は、どこにもなかった。
残ったのは、炎、だけだった。
「うん……ずっと、待ってるよ」
誰に聞かれることはないであろう呟きは、虚空に響き、そして消えていった。
「―――――――ぁ」
再三訪れた静寂。それを壊すかのように、ポツリと、水滴が、頬を打った。
大地に降り注ぐ雨。それは周りで燃えていた炎を徐々に消していく。
「っ……ぁぁ」
――もう、いいよね?
「うわぁ、わああああああああああああああああああああああああああああああああん!!!!」
大声を上げて、泣く。子供みたいに、泣きじゃくる。
零れ落ちる涙は頬を伝い、地に落ちていく。
けどそれは――燃えなかった。
最後のキス。そのときに、彼はわたしの中にあったモノも、持っていった。
「ひっく、うぅッ、ああ、ああああァァ……!!!!」
嗚咽は止まず、叫んだ声は無人の地に響く。
すべてを洗い流すかのように降る雨。それは綺麗に、浄化していく。
これでいい、これでいいの。これが、わたし達にとって最良で最善の選択。
けど、心の何処かで「こうじゃなければいい」と思う自分が確かに居て。
だから――苦しかった。好きなひとと、離れるということが。
「えぐ、うぁ、あああぁ……っ」
泣いてはいけない、泣いてはいけない。
けどいまだけは――泣いても、いいよね。
これで最後だから。
「もう……、泣かないよ、アウナス……っ!」
次に涙を流すのは、あなたと再会した、その喜びのとき。
それまで、泣かない。そう決めた。
ひとりでも、前を向いて、あなたが示してくれた日常を生きるから。
あなたにまた会うその日まで、わたしはずっと待ってるから。
「えぐっ、ひっく……うぁ、あああああああああああああああっ!!」
そして――ありがとう。
さっきも言ったかもしれない。けど、何回でも言う。言い続けるよ。
わたしと、出会ってくれて、
救けてくれて、ありがとう。
わたしを好きになってくれて――――ありがとう。
この日、わたしは『泣き虫リン』としての弱さからではなく、
心の底から――感情のすべてを晒け出して、泣いた。