さようなら、あなたがとてもすきでした。
過去の作品のサルベージ&大幅改定作品です。
とにかく暗いです。
※続編を、とのお声を多数いただきましてありがとうございます。
連載版での改定及び続編を予定しておりますので、よろしければそちらもどうぞ。
投稿が決まったら活動報告にてお知らせします。
「もう……この関係を解消致しましょう」
普段、驚くほど表情を変えないと評判の男が、何をどう言っていいやらという戸惑いを見せたことに、彼女……園村千影は顔に貼り付けた愛想笑いをほんのわずかだけ深めた。
どうして、と彼の口が動いたことで彼女は余程「どうして、と仰いますと?」と問い返してやりたかったが、休日にわざわざ足を運んでもらっているため話を長引かせるのも躊躇われ、「疲れたのです」と率直にそう返した。
「疲れた?」
「ええ。疲れてしまったのです。好奇と嫌悪の視線にさらされるのも、彼女ばかりを気にかける貴方を待ち続けるのも」
「…………薔子は友人だ。君とは、違う」
「ええ、それも何度も伺いました。こんな、地味で要領も悪くいいとこお飾りの正妻になるしかできない私とは違う、抱きしめて情熱的に唇を重ねるほどのご友人なのでしょう?」
彼が息を呑んだのがわかって、千影は内心だけでバカな人ねと嘲った。
見られたくなければ、見られないような場所ですればいいものを。
いつ誰が来るかもわからない、会社という公共の場所にある資料室の片隅で、彼は彼女をその腕に抱きこんで熱く唇を重ねていた。
互いの息遣いや、濡れた音まで聞こえるほどの口づけ……偶々資料を探しに来た千影がそれを見たのは、結果的にこの別れを決断できたのだから幸いだったと言えるだろうか。
それでも、決定的なものを見せつけられた心は激しく痛み、今も引き裂かれてしまいそうなほどの苦しみを訴えてくる。
『薔子にトモダチ扱いされてるからっていい気になってんじゃねぇぞ?地味でさして取り柄もねぇ、いいとこお飾りの正妻でいるしかできねぇような要領も器量も悪い女が。俺らの中に割って入れるとでも思ってんのか、図々しい』
それは、彼女の友人の一人である西園寺グループの御曹司が放った毒だった。
高梨薔子という女性は頭脳明晰でスポーツも万能、家柄にも容姿にも恵まれた才女である。
それだけなら性別問わず人気が集まっただろうが、完璧主義でプライドも高く負けず嫌い、という性格であるためか周囲から一線引かれてしまっている。
彼女自身も周囲に無理に馴染もうとしていないのか、女子社員の中でも孤高の存在として完全に浮いてしまっていた。
そんな彼女は自分と似た性質の男を惹きつけるフェロモンのようなものを出しているようで、彼女の周囲に集う男達は皆上昇志向がかなり強く、顔立ちも整っていて所謂イケメンエリートと呼ばれる者ばかり。
その中でも、西園寺グループの御曹司、営業成績トップのエリート、大阪支社の次期支社長候補、そしてシステム開発課の若き課長の四人が、現在のところ彼女を独占中である。
四人で独占、というのもおかしな話だが、そうとしか言えない状況であるため社内の人間は誰もそれにつっこまない。
彼らは彼女の理解者を自称し、また彼女にも絶対的な信頼を寄せられているからだ。
そして今回千影が目撃してしまったような行動が、社内のあちこちで見られている。
それが一人ではなく四人それぞれと、というあたりで彼女に向けられる女性社員のやっかみ含む悪感情はいつ爆発してもおかしくなかったが、当の四人が睨みをきかせているため誰も直接悪意をぶつけられずにいた。
千影が彼女に【お友達】と呼ばれているのは、偏見と差別意識だらけの社員の中で千影だけが唯一普通に接してくれたからだ、とそう聞いている。
千影自身、薔子のお友達という扱いをしたこともされたこともない。
普通に接したのも、社会人としてそれが当然だと思ったからだ。
その頃はまだ、家同士が決めた許嫁の間柄であるシステム開発課の若き課長……山崎純也との仲も良好で、彼自身薔子との接点もそれほどなかったため、まさかわずか1年の間にこうなるとは、その時はまだ予想すらしていなかった。
疲れたのです、と彼女はもう一度はっきりとそう繰り返した。
皮肉を込めて【四天王】と呼ばれる彼らが薔子に向けるものは純粋なる愛ではない、だがどうしても欲しくなる、自分のものにしたくなる、そんな話を聞いてしまったから。
そして、周囲が千影に向ける『薔子のお友達』としての好奇の目、薔子の友人達が千影に向ける嫌悪の目、そういったものに疲れてしまったのだ、と。
「千影、それは」
「山崎様、私をこれ以上惨めな気持ちにさせたくないと思ってくださるなら、どうかこのままお帰りください」
「…………」
「休日の貴重なお時間を割かせてしまい、誠に申し訳ございませんでした。どうぞ、お気をつけて」
もう話は終わり、とばかりに椅子から立ち上がって一礼する千影。
山崎はまだ何か言いたそうにしていたが、千影がその姿勢のまま動かないのを見て意志が固いことがわかったのだろう、律儀に部屋の扉前で一礼してから帰っていった。
パタンと閉まった扉の奥、彼女が静かに泣き崩れたことにも気づかずに。
「どうしてくれるんだ、園村君!先日のプレゼンの資料、営業からの要望とは違うものを作ったそうじゃないか!」
「私としては、お客様にわかりやすいように工夫を加えたつもりなのですが、何か問題でも?」
「何かもなにもない!!君の作った資料の所為でプレゼンが台無しになったと、営業部長からクレームがきているんだぞ!!」
「それは……」
プレゼン自体は大成功だった、というのは千影も知っている。
出したお茶を下げに出向いた際、社長や営業部長が取引先の重役らと笑顔で出てきたのを見ていたからだ。
それを総務部長に話すと、彼はたちまち渋面になった。
「先方との業務提携については上手く纏まったと聞いている。だが先方の専務がしきりに君の作った資料を褒めていたそうだ。後で確認できるようにとの気配りがされていてとてもいい、と」
「でしたら何も困ったことはないような気がしますが」
「大有りだよ、君!!これは営業部、いや社をあげての一大プロジェクトだったんだぞ!?そのプレゼンを高梨君にと任せた営業部長の顔が丸潰れだ!!」
ああ、と千影はなぜ自分に矛先が向いたのかを理解した。
プレゼンの担当者は薔子、これが成功すれば彼女の前には出世の道が開かれ、名実ともに【四天王】と肩を並べるほどのエリートとして認められることとなる。
西園寺はそれを狙って彼女を担当にと指名したのだろう。
だが、先方は薔子のプレゼンよりもさりげない気遣いをされた資料の方を気に入って、しきりに褒めていたという。
千影が加えた工夫というのは至ってシンプル、プレゼン用のスライド画像を印刷したものに、簡単な説明書きを添える、というものだった。
スライドでの説明中は部屋も薄暗く、先方も資料をめくるより担当者の説明を聞く方に集中するだろう。
ならばスライドの後でもわかりやすいように、営業から参考資料としてもらったスライドをプリントアウトしたものに、説明文を加えたものを作成した。
ただ、それだけのことだ。
プレゼンが成功したのは薔子の実力であり、千影の資料はそれをそっと後押ししたにすぎない。
なのに西園寺はそれが気に入らず、営業部長に圧力をかけて千影を潰しにかかろうとしている。
「指示に従えない者は担当から外すように、と営業部長はそう言っているが……そうなると君に任せられるような仕事はなくなる。どうするね?」
退職しろ、との圧力をかけられて千影は情けなくて泣きそうになりながらも、自分の机からあらかじめ用意してあった退職願を出し、有給消化しますからと言い置いて総務部を出た。
ここから先は、千影の知らない話だ。
彼女があっさりと退職願を提出して総務を去った後、当然のように営業部から次々持ち込まれる資料作成依頼を、他の総務部員達は決して請け負おうとはしなかった。
「私達は、任されるならできるだけいいものを作るように、読む人のことを考えて読みやすい資料を作ろうと努力してます。ですから営業部からの依頼は請け負えません」
「だって、せっかくいい資料を作ってもそのことでイチャモンつけられてお仕事干された挙句、退職にまで追い込まれるなんて嫌ですもん」
「あーあ、園村さんの作ってくれる資料ってわかりやすいし、シス課とか海外事業部とかにも評判良かったのになぁ」
「どうせだから、資料も営業部のみなさんが作ったらいいんじゃないですか?ほら、高梨さんとか優秀だし、彼女が作った資料ならだれも文句言いませんよ」
どうやらこれまで溜まっていた不満が、千影の退職と同時にとうとう歯止めが利かなくなり、一気に噴き出してしまったらしい。
一向に上がってこない資料に痺れを切らした薔子が直接総務に顔を出すと、これまでは笑顔で迎えてくれた面々が気まずそうに顔をそらし、ぽちぽちと急ぎかどうかもわからない資料を作っていた。
そして、いつも資料を真っ先に受け取ってくれていた千影の姿がない。
それを一番手前の席に座っていたちょっと派手目の女子社員に問いただすと、彼女はあっさりと「辞めるんで、有給消化中でぇす」と答えた。
「辞める?……そう」
「それだけですか?」
「辞めると決めたのは彼女でしょう?なら、私は何も言うことなんてない。彼女が考えた上の結論なんだから」
「…………もとはと言えば、営業部が園村さんのお仕事を干したのが原因じゃないですか。いい資料を作った所為でプレゼンが台無しになったとか言って」
「…………なに?そんなこと、知らない」
「とにかく、総務部としては金輪際そちらからの資料作成は請け負いませんのであしからず。そのことを上に訴えるならどうぞご自由に?」
千影の退職の原因を知った薔子は、連絡を取ろうと携帯にかけてみたりメールを送ってみたりしたが、そのすべてが不通になっていたことに愕然とし、著しく気を落としてしまった。
それを慰めようと、これまでも公然と行われていたスキンシップをさらに堂々とやりはじめた【四天王】達に向けられる視線は、段々とわかりやすい嘲りを含むようになっていく。
ただ、それだけだった。
彼女の友人である西園寺はこの会社を含む西園寺グループの御曹司だし、薔子を含む他の面々も各部署になくてはならない貴重な人材であることに変わりはない。
変わったことといえば、営業部の資料作成を総務部が全く請け負わなくなり、仕方なく自分で作るようになった程度だ。
西園寺グループの業績や評判が徐々に徐々に下がっていっていることに、気づけた社員は誰一人としていなかった。
その頃千影は、ふらりと立ち寄ったハローワークで出会った老紳士に誘われ、彼の会社の面接を受けて無事合格を果たしていた。
『君は覚えていないかもしれないが、以前君に資料を出してもらったことがあるんだよ。いやあ、嬉しかったなぁ。左利きの私のためにと、資料のホチキスを反対側にしてくれただろう?』
お茶を出しに行った際、一人だけ左でペンを持っている男性がいた。
それを見て彼の分だけ反対にホッチキス留めをした、ただそれだけだったのだが、そのことが印象に残っていたらしい。
どこで何が縁となるかわからない、うちもちょうど気の利く事務員を募集していてね、と声をかけてくれた男性がまさか西園寺グループをも上回る総合商社【USAMI】の会長だった、と知った時はさすがに千影も尻込みし、面接の場ではカチンコチンに緊張してしまったのも、今ではいい思い出だ。
そして
「やあ、チカゲ。悪いんだが午後イチのプレゼンで使う資料、手直しを頼むよ。うちの秘書が作ってくれたんだが、どうにも読みにくくてかなわん」
「アッシュ、無理を言うものではありませんよ。園村さんも忙しいんですから。……とはいえ読みにくいのは事実なので、すみませんが少々見直しをお願いしても?」
「なんだ、黒崎。お前だってちゃっかり頼んでるじゃないか」
「わかりました、午後イチですね。ならお昼前までに見直ししておきますので、後で取りにきていただいてよろしいですか?」
「助かります」
取りに来ますね、と微笑んで応じてくれる黒崎というこの男は、【USAMI】が業務提携を進めているドイツのシュナイダーという企業の御曹司秘書である。
「……では千影さん、また後で」
すれ違いざま、指先で軽く手の甲をなぞるようにして、彼は去っていく。
社長直属の業務推進室の一員として採用され、シュナイダーの御曹司の資料を代理で作って以来、こうして黒崎は顔を合わせるたびにさりげなくアプローチしてくるのだ。
それもしつこいほどではなく、千影が困ったそぶりを見せればすぐに引いてくれるので、逆に言うときっぱり断るタイミングを逃してしまっている。
「そうだ、黒崎。今回サイオンジ側から参加するのは誰だ?」
「ええ。御曹司と営業部主任だと聞いています」
「あぁ、あいつらか」
なら徹底的にやらないとな。チカゲの敵討ちも含めて。
ニヤリと人の悪い笑みを浮かべたシュナイダーの若き獅子に、黒崎は「ご存分に」と苦笑しつつも頭を下げて応えた。
これもまた、千影の知らない事実。