第九話「少女たちの
ほてりは家の自分の部屋で、ぬいぐるみを抱いて考えていた。
ぼろぼろ公園。
本当に取り壊されようとしているなんて。
わかっていたつもりでも、いざ突きつけられると無力感に襲われる。
せっかくロンゴロンゴの石板を見つけて、救えると思ったのに。
自分は何もしてあげられないのだろうか。
ずっと見守ってくれていた、大事な公園に。
ほてりは、ぬいぐるみを抱えながら部屋を出ると、一階のリビングに向かった。ママとパパならなんとかしてくれるかもしれない、と思ったからだ。
リビングには母親しかいなかった。そういえばまだ夕飯前。父親は残業だろう、帰ってきていない。
「ママー」
「なあに、ほてり?」
微笑む母親の幸恵に、ほてりは公園のことを話した。幸恵は親身になって聞いてくれたが、難しい顔をして「んー」と考え込んでしまう。
「ママ、わたし、公園がなくなるのいや」
「そうねえ……。でも、開発の計画はたぶん、だいぶ決まっていて、今更『やっぱりやめる』ってするのは難しいんじゃないかしら」
「えぇ~……」
「でもね、ほてり。他にも公園はいっぱいあるじゃない。ぼろぼろ公園は思い出に変えて、新しい場所で遊ぶのもいいと思うわ。新しい友達もできるかもしれないしね」
「う~……や~だ~……ぼろぼろ公園がいいの~……」
ほてりは親の前では非常に甘えん坊であった。そんな娘に幸恵は苦笑し、頭を撫でる。
そして、ぽろっと出た言葉が、ほてりを『あっ』と思わせた。
「四丁目は広いけどあの公園は狭いし、公園だけ開発地から除外してもらうとか?」
「ママ!」
「ん?」
「それにする!」
「あっ、ちょっとほてり?! どうする気なの?! あんまり人に迷惑かけちゃ……ほてりー?!」
◇ ◇ ◇ ◇
それから三人は協力し合い、公園保護のために奔走した。
ほてりが示した、幸恵の受け売りの案は採用された。それのおかげで諦めムードだった三人の心に火がつき、遊び半分だった今までとは違った行動を開始する。
まず公園に来ている大人たちに直談判。しかし、あえなく撃沈。
次に市役所に行って相談しに行く。可愛がられる。撃沈。
そのまた次に講じた策は、駅前でのビラ配りだった。金持ちである藍の家にある大きなプリンターによって、自分たちで書いた『公園を守ろう云々』のビラを駅前の疲れたサラリーマンに配り続けた。理珠夢が文書作成ソフトで作ったビラは緻密に計算された広告技術により、完成度は高い。かなりの効果が見込まれたはずだ。撃沈。
撃沈に次ぐ撃沈により、三人は疲労困憊、学校の漢字テストで『がんばりましょう』のスタンプを押される始末。さらには勝手に駅前でビラ配りなどしたことが学校に知れ、北村先生に怒られてしまう。三人は落ち込んだ。
もう公園を救う手立てはないのか。
自分たちにできることはないのか。
悩む三人に、とある人物から連絡が来る。
ビラを見た大人の一人が、市に掛け合うための団体を作ってくれるとのことだった。
◇ ◇ ◇ ◇
ほてりたちがその大人と会う、少し前のこと。
『まったく……ビラ配りというのはちゃんと許可を取ってからじゃなきゃだめなんですよ? わかりましたね、神崎さん、小玉さん、鈴森さん?』
北村先生は怒っていた。理珠夢はしゅんとしていた。それだけなら職員室ではいつもの光景だが、今回はその隣でほてりと藍もしゅんとしていた。
駅前でのビラ配りの件が学校教員側に知れ、三人の担任である北村先生が叱る役を任されていた。先生は、はあと息を吐いて、額から生えていた鬼の角を収める。
『公園を守りたかったんですね?』
こくん、こくこく、と頷く三人。
『でもあなたたちはまだ子供でしょう? できることは限られてるの。だから――』
『先生』
理珠夢が遮った。ほてりと藍は隣の小さな学者を見る。
『先生はわがはいたちが子供だといいます。ならば大人とは何なのでしょう。大人とは一般に、社会人のことです。そして広辞苑を引きますと、社会人とは“社会の一員としての個人”と記されています。ということは、わがはいも日本社会で小遣いを用いた経済活動などをする以上、日本社会の一員であるからして、わがはいは既に社会人と呼べるのではないでしょうか。よってわがはいたちはもう大人――』
理珠夢は口をつぐむ。思い出したのだろう。屁理屈を言わないと決意したことを。そして、屁理屈を言う人間など大人とはいえないことを。
北村先生は優しげに目を細めて、理珠夢そしてほてりと藍を見回す。
『いい? あなたたちは大人ではないの。なぜなら、自分たちだけで頑張ろうとしているから』
『な、なんで? ジリツしてる人がオトナなんじゃないの?』
藍の疑問ももっともだと思ったほてりは、こくこくと頷く。しかし先生は微笑んでいた。
『大人になるっていうのは何でも一人でできることだ。って思っているのなら、それは違うのよ。大人になるというのは、自分の人生の中で、できる範囲のことは自分でやって、できない範囲のことは誰かや何かに頼るという自己決定が、きちんとできるようになるということなんです』
有無を言わせず言い切る。北村先生は確かに指導者だった。
『あなたたちはまだ子供です。子供は大人に頼りなさい。徐々にできることを増やしていけばいいんです。今のあなたたちの役目は、先生たちが守った公園で目一杯遊ぶのを想像することよ』
『えっ?』『む!』『えっ! じゃあ!』
北村先生はほてりと理珠夢と藍の頭を撫で、頼もしく言い放った。
『今までよく頑張ったわね。これからは大人に任せなさい』
ほてりはその姿を見つめていた。
大人になりたくない少女の輝く瞳に映るのは――大きな大きな、大人だった。
◇ ◇ ◇ ◇
「りずちゃん、大人の人が味方になってくれるってほんとう!?」
藍の家に集まった三人の中で最後に来たほてりが、開口一番そう言った。
ビラを見て協力を申し出てくれたとある大人は、なにやらしっかりしていそうな人だったらしい。ほてりは嬉しくなった。世の中には石板を盗み出すような卑怯な大人だけでなく、北村先生のような素晴らしい大人だっている。今回もおそらくは、ちゃんと良い方向へ導いてくれるだろう。
先生たちと、今回の協力者。
あの人たちさえいれば、きっと……。
藍宅の広いリビングに通されながら、理珠夢が話す。
「ビラに勝手にお姉ちゃんのスマホを連絡先に書いたのだが、そこへ連絡が来て、コミュニケーションが苦手なお姉ちゃんに代わってわがはいが話をしたのだ」
「どんな人かなー? らん、おもてなししなくちゃ!」
三人はわくわくムードだった。自分たちだけでは駄目だったが、それでも何とかしてくれそうな大人が現れてくれた。活動は実を結んだともいえる。
協力者の大人は三人と直接会うことを望んだ。三人だけでその人と会うのはあまりよろしくないということで、親と一緒ならと、広い藍の家で集まることを選んだのだ。
と、インターホンが鳴る。藍の母親がモニターで応対し、三人に「会いに来ると仰っていた芦田さんですよ」と告げる。
芦田という男は、フォーマルな背広に身を包んだ、実直そうな男だった。二十歳くらいの人かな、というほてりの予想は当たっていて、「二十二歳で大学を卒業し、二十四歳の今は会社員を勤めています」と軽く自己紹介をしてくれた。
リビングのテーブルについた三人の向かい側に座る彼。隣に控えた藍の父親も含めた場の全員を見回し、
「公園を保全する活動をしたいというのは、えー、鈴森ほてりさんに、神崎理珠夢さん、小玉藍さんですね?」
真面目さのにじみ出たテノールの声で言う。ほてりは、理珠夢と藍が頷くのに続いて縮み込むように頭を振った。やはり緊張はする。
男はビシッと決まった表情を残念そうにゆがめると、「実はですね」と切り出す。
「公園を保全することはできません」
「えっ……?」「なんでー?」「せ、説明を求めます」
「少し市の職員に知り合いがおりまして、その彼と話をしてみたところ、どうやら難しいようなのです。と言うよりは、不可能。東区の公園については大規模商業施設ノイン、および国の強い意向……お願いにより、スタッフルームの一部として使用されることが固まってしまっています」
申し訳なさそうに話す男は鞄からクリアファイルを取り出し、ノインから入手したという店内設計図を提示して説明を始める。
ほてりも、理珠夢も、藍も、それを無言で聞いていた。
「…………というわけですから、衛生の観点からもこの決定は覆せないようでして……あ、わからない言葉とかあったらどんどん訊いてくださいね」
「絶対」
理珠夢がぼそりと、それから縋るように言った。
「絶対に、無理、ということですか」
「そうなってしまいますね……」
悲しそうな顔をする男。ほてりはそんな彼に対し、見ず知らずの子供のためにここまでしてくれるなんて優しい人だなあと思った。しかしそれでも公園の存続が絶望的というのは変わらない。俯くほてり。
一方、藍は勢いよく立ち上がっていた。
「やだ!」
「こら、藍。あまりわがままを言うんじゃあない」
父親が咎めるが、目に涙を浮かべた藍は止まらない。「らん、思い出のばしょがなくなるのやだ! あそこはぼろっちくて、春は毛虫もいて、あんまり楽しい公園じゃないけど、でも楽しい公園なの! ほてりんとりじゅむんといっぱいあそんだばしょなの! だからやだ!」
思いのこもった懇願、あるいは決意に、感化されたほてりは思わず涙ぐむ。隣の理珠夢も「そ、その通りです! 少を切り捨てねば立ちゆかぬ社会だとはわかっていますが……」と一生懸命同調した。
男はため息をつく。
「そうですよね。そう簡単には納得できませんよね。ところで皆さん、僕は潔癖性なんです」
そう言いながら、男が資料をクリアファイルに戻していく。
「計画にノイズが入り、少しでも結果が事前予想と異なることを非常に嫌うんですね。今回もそうです。あなた方は役所の職員の間で噂になっていますよ。可愛い小学生が公園を守ろうとしていると。少しずつ、彼らの中にも心を動かされる者もでてきています。そう、あなた方はノイズ以外の何物でもない。ちょこまかちょこまかと計画を邪魔しようとする目障りな不要物。いいですか糞餓鬼ども」男は椅子の背もたれに体重を預け、傲岸な態度でこちらを睥睨。
「これは最初で最後の直接的な警告だ。公園から身を引け」
男の目は、宇宙の茫漠たる闇のように冷たい。
「ぇ……ぁ……?」
「あ……芦田さん……?」
「ね、ねぇおとーさん……おとーさん、ねえ!!」
黙ったままそこに立っている藍の父親に目を向けた男は、ハッとあざ笑う。「彼には特殊な音波で催眠をかけた。今頃は俺が説得を続けている様子を幻視しているだろう。ちなみにこの催眠は微弱なもので、頬を叩けば解けるが、解いたら貴様たちはただじゃおかない」
「ひっ!?」「え……? え……?」「お、お父さ……」
「だが彼は屈強だ。貧弱な俺程度ならすぐに組み伏せられるかもな。どうする、やってみるか? 頬を二回程度叩けばいい。やってみるか?」
ほてり、理珠夢、藍は凍り付いたまま動かない。抵抗する意志というものが根こそぎ奪われてしまっている。「いい子だ」と男は微笑んで、何かを鞄から取り出しかけていた手を戻す。
「脅かしてしまったが、まあ、我らの計画を少しでも阻害して欲しくないだけだ。大丈夫。今日のことと開発のことを胸の内にしまっておいてくれるなら、普通の日常を送ることを許そう。少々荒い方法で記憶を消してもいいんだが、脳の海馬と扁桃が今後機能しなくなるのは嫌だろう? ――さて、そういうわけなんです。申し訳ありませんが、諦めてくださいね。ではそろそろ私はおいとまします」
藍の父親に軽く頭を下げる男。催眠の解けたらしい父親はにこやかにそれに応じ、玄関までの案内を買って出る。リビングを去りかけて、男は振り返ってこちらを見た。
「それと、あなた方の担任の北村直子先生ですが、少しよくないことがあって入院しているらしいですよ。お見舞いに行ってあげてくださいね。では」
ほてりはぼーっとしていた。男の言っていたことを思い出す。意識を支配され助けてくれない藍の父親を、明確な殺意の込められた男の瞳を思い出す。そして、北村先生のこと。玄関の扉が閉まる音がした。あっ、と思った瞬間には涙が溢れている。両脇から腕を引っ張られ、見ると、理珠夢と藍も震えながら大粒の涙を流していた。
「ほてりちゃん」
「りずちゃん」
「ほてりん」
「藍ちゃん」
「わがはいたち」
「らんたち、いったい」
「どうすればいいの」
◆ ◆ ◆ ◆
由布院・アンダーグラウンド・温泉。
そこはあらゆるパラレルワールドのうちの一つである。
パラレルワールドには様々ある。ほてりが宇宙飛行士になった世界。ほてりが株で大儲けした世界。ほてりが謎の男に脅迫された世界。そんな多くの「宇宙がこうなっていたという可能性たち」の中に、由布院アングラ温泉はあり、地底王国はあるのだ。
その日の夜も、ほてりは夢を見ていた。
夢の中でパラレルワールドを移動し、無意識のうちに地底王国を観測していた。
この世界では、いろいろなものに出会ってきた。高さ二十メートルの巨大雪だるま。謎の温泉。新たな法則の発見に感涙するニュートンとアインシュタイン。
そして、黒猫。
「やあ、ほてり」
黒猫は、実体は別の世界におりこの世界のものには光学的干渉を起こさないはずのほてりに、目をしっかり向け、話しかけてきた。
「ラプラス?」
「そうだよ。きみたちはそう名付けてくれた」
「これは、夢?」
「そう思ってくれていていいよ。……今日は悲しいことがあったね。許せない男だ。でも萎縮してはいけない。良い大人になりたいなら、悪い大人に立ち向かわなくてはならないよ」
「立ち向かう」
「そうさ」
「でも、わたしには」
「できる」
「え……」
黒猫ラプラスは、碧く深い瞳の片目を瞑ってウインクした。
「明日の午後四時、ぼろぼろ公園に来なさい。そこできみたち三人は、夢に満ちた世界を知るだろう」