第四話「少女たちのキュートな日常 ~古典力学的決定論的世界像~」
「はーい静かにしてー。はーい。三月の卒業式についてのプリント配ります。配り係の人お願い」
叢雲小学校、六年一組の教室。
教卓付近に立った担任の北村先生は、児童たちを見回した。プリントを眺めたり、貧乏ゆすりをしたり、隣の子と喋っている子供たちを見て、いつものようにほんのりと微笑む。
今は帰りの会の時間だった。北村先生は、こほんと咳払いを一つすると、口を開く。
「プリント回った? ……さて、みんなは今まで卒業生を『送る側』でしたが、今回は『送られる側』ですね。でも、送られる側だとしても、在校生のみんなのためにも心を込めて歌をうたいましょうね」
えぇー、と一人の男子がぶうたれる。下級生とあまり接点がないからその子らのためになどなれないというのだ。それを聞いて北村先生は苦笑しつつ、「それでもね」と話し始める。
「卒業式は、もちろんみんなにとって大事なこと。去年の六年生がふざけている時にどう怒られていたか知ってる? 『おまえたちはこのままじゃ中学生になれないぞ』ってあの怖い鬼瓦先生に毎日怒られていたの。今年もそうなっちゃうかもしれません」
日本における教育基本法では義務教育期間を九年と規定しているため小学生は自動的に中学生になるはずですがー、と一人の女子が訴える。うるさーいと周りに言われながらも得意げにしている彼女を見て、北村先生は引きつった笑顔になりつつ、「みんなはね」と続ける。
「みんなは中学生になろうって頑張っています。大なり小なりね。そうでしょう? だからきっと、卒業式までには、みんなはとてもしっかりした人たちになっているはずよ。大人への第一歩を踏み出すための心構えができているはず。――みんなは大人になりたい?」
なりたーい! と一人の女子が元気良く手を挙げる。一方、無言で悩んでいる女子もいた。他の児童たちも十人十色の反応を示し、北村先生は満足げに頷く。
「今のみんなが感じている気持ちを忘れないで。みんなはもうすぐ卒業するから、それをきっかけに中学生になることについて考えていますね。もっと先、大人になることについて考える人もいるでしょう。大人って楽しいのかな、でも怖いなーって。だから……だからこそ、みんなで在校生たちを元気付けるような歌を歌ってあげましょう。みんなで力を合わせて、下級生のために頑張るの。そうしたらすごいわ? だってみんなは自分の後輩を先輩らしく勇気づけてあげられたってことになるのですから。それってとても自信がつくことだと思わない?」
◇ ◇ ◇ ◇
ぼろぼろ公園は今日もぼろぼろだった。
滑り台は全体的に色がくすみ、元々ピンク色だったのであろう手すりは年月を経て赤茶色に変わっている。塗装が剥がれたブランコも錆び付き、なぜ吊り具が撤去されないのか不思議なくらいだ。バネでグヨングヨン動くお馬さんも老いには逆らえず、若き日はくりっとしていたはずの両目からは泥か血涙のような汚れを噴き出している。
そんな公園に、今日も集まる者たちがいた。
鈴森ほてり。
神崎理珠夢。
小玉藍。
そして黒猫。
ほてりは、一昨日に夢で見て、昨日現実で発見して、今日再び出会ったその猫を、まじまじと見ながら声を上げた。
「そうだよ、やっぱりこの猫さん、わたしの変な夢に出てきた猫さんだよ!」
「そ、それは本当かぽよぽよダンスくんをうけつぎし者よ!」
ほてりはしゃがみこんで顔を覆った。必死で謝る理珠夢。一方、藍は野良猫を楽しそうに撫でていた。
「かわいーなー猫ちゃん。ここらへんに住んでるのかにゃー?」
「ニャー」
「にゃにゃー? エサとかはどうしてるにゃ?」
「ニャー」
「にゃにゃにゃ?」
「ニャー」
ほてりを立ち直らせた理珠夢が呆れる。
「一体なんだねその『にゃ』は?」
「え? だって猫ちゃんは猫なんだから、にゃーって言えば気持ちが通じるかなーって」
「通じないだろう……」「通じないよぉ……」
やっぱりかー? と頭をかく藍。その横にほてりがしゃがみ、猫の顎を撫でてやる。黒い毛並みの猫は気持ちよさそうに喉をゴロゴロさせた。
ほてりは少しがっかりした。
喋ってくれない。
それはそうだろう。猫は人語を解さない、それはほてりもわかっている。だが夢で見たのとそっくりなこの猫は頭の中から現実世界へ出てきたファンタジックな存在なのではないか、と思いたくなったのも事実だった。
なにより――
「でもこの猫ちゃん、ほてりんが言ってたとおり、おでこに変な模様が付いてるね」
そうなのだ。
この野良猫の額にある毛は色が青く変わり、絵文字が描かれたようになっていた。それは夢で由布院・アンダーグラウンド・温泉のマンホールの中から出現し、脳に直接“絵文字”を投影するかのような謎の言葉を発したあの猫のものと同じだ。
「……ね、」
ほてりは意を決して話しかけた。
「猫さん、あのっ、わたしのこと知ってる?」
黒猫はほてりを見つめる。
青色の澄んだ瞳は、少しも揺れずに相手の人間に焦点を合わせている。
そして猫は口を開け、くああとあくびをした。
理珠夢が、どうしたのだほてりちゃんと声をかけてくる。藍が、にゃーって付けなきゃダメだよと笑いかけてくる。ほてりはそれに照れ笑いで応え、顔をそむけて悲しい表情をする。
(……やっぱり、そんな絵本やアニメみたいなことなんて起きないんだ)
「ほてりちゃん?」「ほてりーん?」
「あ、んーん、何でもないよ」
ほてりは困った顔で笑い、誤魔化した。夢と現実を混同してしまうところを見られた時点で恥ずかしかったのに、絵本チックな楽しいことが始まりそうな予感がしたの、などと言えるはずがない。
「でも、らん、このフシギな猫ちゃんに会ってから絵本チックな楽しいことが始まりそうなヨカンがする!」
「言える気がしてきた……」
「へ?」
「ところで藍。猫ちゃん猫ちゃんと呼ぶが、この猫には名前を付けないのか?」
「そ、そうだね、お名前を付けてあげよう? 藍ちゃん、なんかいいのある?」
藍は「はっ」と突然クイズを出された時のような顔をして、「ふむぅ……」と制限時間いっぱい考え、「はいっ!」とクイズボタンを叩いた。頭上で電球が明滅する。二十一世紀生まれのクイズ王は自信満々で答えた。
「『よしださおり』がいいと思います!」
司会者二人はとても反応しづらそうな顔をした。
「……なぜだ?」
「強くてかっこいいから!」
「……猫さんなのに、女子レスリングせんしゅ……?」
「あれ? ダメ?」
「駄目だな」「だめだよぉ……」
藍は、あれー? と首を傾げながら猫を撫でるのを再開する。
そういえばこの子は運動神経抜群のスポーツ大好きっ子だからか、レスリングに限らずサッカーやバスケの試合も毎回録画しているのだったっけ、とほてりは思う。きっと藍のセンスならいずれ、なでしこジャパンにもなれるし、東洋のマゾにもなれるだろうとも思った。ほてりはその後で、東洋のマゾ、のマゾとは何なのだろうと疑問を抱く。彼女は東洋の魔女を聞き間違えて覚えていた。
「じゃー、りじゅむんとほてりんはどーなの?」
少しむくれながらも藍が問い返すと、理珠夢は細い腕を組んで、ふっふっふと声を漏らした。
「わがはいには腹案がある。今日、公園に来るまでに様々な案を考えてきた。金華猫、シュレーディンガー、闇夜の死神……しかしそのどれもを超越する命名案がある。これだ!」
理珠夢は公園の雪のまだ荒れていないところまでわざわざ走っていき、そこに手の先を突き立てて字を書いた。
追いかけたほてりと藍はそれを覗き込む。
「『ラプラス』?」
「そうだ。この名前の素晴らしさを理解してもらうには、まず古典力学的な決定論的世界像について語らねばなるまい……」
理珠夢はにやりと笑って自分で一生懸命考えたのであろうかっこいいポーズをとる。今日も彼女の不思議な話が始まった。
◆ ◆ ◆ ?
「古典力学的な決定論的世界像とは……………………………………そんなことより温泉だあああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!」
「わあああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!」
「よっしゃああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!」
理珠夢ほてり藍は温泉まで猛然とダッシュし、猛然と急停止し、「あち」「あち」と言いながらゆっくりと湯に浸かった。
「いい湯だね~」
「ふあ~」
「さて決定論的世界像についてだが、それによれば、物理学を用いればこれから何が起きるかを予言することができる」
「うそ~」
「さぎ~」
「例えば石を投げた時、その石の重さや投げる力の向きや加速度などを正確に知っていれば、その石がどこに落ちるか精密に予測できることは感覚的にわかるだろう? ある時刻における物体の状態がわかれば、未来においてそれがどのような状態になるかがわかる。それはつまり、物理の法則が未来を予言できることを意味する。未来の予言は科学的に可能なのだ!」
そう言い放ち、理珠夢は落ちていた小石をぽいっと投げた。石は運動の第二法則に従って数メートル先の湯に落ちると思いきや、公転する惑星のようにくるくると回った後、天高く昇っていった。三人は呆然とする。ここは謎の空間、由布院・アンダーグラウンド・温泉。適用されるのは、運動の第一〇八法則である。三人と少し離れて一緒の温泉に入っていた運動方程式の考案者、アイザック・ニュートンはそれを見て泣いた。その涙は己の積み上げてきたものが崩壊したことの悲しみではなく、未知への感動に彩られていた。隣のアインシュタインに目を向ける。彼もまた、顔をくしゃくしゃにしていた。「素晴らしい」彼は言った。「私の相対性理論も、揺動散逸定理も、固体比熱理論も、何もかも通用しない。この不思議に満ちた世界は素晴らしい」ニュートンも鼻を震わせながら後輩の肩を叩く。「解明しよう。この世界の謎を」そして、それがここでは間違っていると知りつつあえてその言葉を紡いだ。「今きみの涙が下に落ちたのは、地球にそれを引く力があるからだ」
◇ ◇ ◇ ◇
「――以上が古典力学的決定論的世界像である。わかったかね? ほてりちゃん、藍」
ほてりは立ったまま眠る藍をちょっと泣きそうになりつつ倒れないよう支えていたが、理珠夢の言葉にはしっかりと答えた。実際はそこまでしっかりとしていなかった。ちょっと泣きそうだった。
「わかりませんでした……」
「そうか。決定論的世界がキリスト教の思想にどう影響を与えているか終末論と原罪に絡めて解説しようかとも思ったのであるが……」
目を輝かせてチラッチラッと見てくる、とても続きを話したそうな理珠夢。ほてりは慌てて「よ、要するにこう?」とまとめようとする。
「要は、けってーろん? があると未来がわかるってことでしょ? すごいわかった! とてもわかったよ!」
「そうか! わかってくれたか! そうなのだよ、そして化学や生物学等に対する物理学帝国主義の侵食がもたらした科学的仮説演繹法への過信は、遂に“ラプラスの悪魔”という思考実験を生み出すまでになったのだ」
ラプラスの悪魔とは聞いたことがないが、とにかく、やっと繋がった。「あっ」とほてりは声を上げ、得心がいったというように両手を合わせる。藍が倒れた。
「それで『ラプラス』っていう名前を、猫さんに付けようと思ったの?」
「その通り。物理学者ラプラスにより提唱された“ラプラスの悪魔”とは、ある瞬間の全宇宙の全ての事象を知ることで、過去も未来も確実に解るという究極の知性。現在の量子論では否定されてはいるが、なにより格好いいだろう?」
理珠夢は無邪気な憧れの瞳でどこか遠くを見つめる。現在も過去も未来すら全てわかっているという架空の存在。悪魔という呼び方は怖いが、それは知識を求める彼女にとって、何よりも強大で崇高なものなのかもしれない。ほてりはおおよそそんな意味のことを思った。
憧れるものがあるりずちゃんに憧れるなあ、という感じのことも思ったりした。
「わがはいの知る人間の中で、最もラプラスの悪魔に近い者がいる」
ほてりと一緒に藍を助け起こす理珠夢が、声をいくらか優しくする。
ほてりは理珠夢の話をよく理解していたわけではなかったが、“何でも知っている”“憧れ”という言葉を並べた時に思い出す人がいた。
「も、もしかして、りずちゃんのお姉ちゃん?」
「その通りだ。もちろん、この瞬間この世で起こっている全ての力学的運動が解る超能力者というわけではない。わがはいが言いたいのは――ラプラスの悪魔に近いという表現が適切ではなかったかもしれないが――お姉ちゃんがとても博識な人ということだ。一、二年生の頃は本当に神様みたいに何でも知っていると思っていたし、今でもどこかでそんな思いがある。そしてお姉ちゃんは確かに、他の大人とはワンランクもツーランクも上の人なのだ」
「じゃあさじゃあさ」と快活な声。藍がケロリと復活し、会話に途中参加する。雪の絨毯に倒れていたのに少しも寒そうにしていない。
「じゃあ、りじゅむんのお姉ちゃんは立派な大人なの?」
「む? そうだな、お姉ちゃんには膨大な知識とそれに基づいて高度な推論を進める力がある。平たく言えば、頭がいいのだ。お姉ちゃん以上の大人をわがはいは知らない」
そこでほてりは北村先生の話を思い出した。卒業式に向けて、六年一組を鼓舞するためのあの話。あの時からほてりは、大人になるって何なんだろう、と思い始めていた。
「でも大人って、もっと強い人のことだと思う!」
「強い人、とは?」
「きんにくムキムキで、はんしゃしんけービンビンで、強い人!」
「例えば?」
「東洋のマゾ!」
藍も間違えて覚えていた。
「……む?」
「あと、よしださおりとかね! やっぱ、強さでワルモノをやっつけたり、よわい人を守ってあげたりできる人が大人だと思うんだよ~」
「………………まあ、なるほどよしださおりもアルソッックのCMで悪者をやっつけて弱者を守ったりはしているが……、しかし、やはり大人とは頭脳だ。頭の良さで社会貢献をすることこそが大人の姿。膂力や正義感だけでは大人は務まらないのだ」
「うーん、でも強い人って、らんたち子どもに勇気をくれるじゃん。頭がいいだけじゃ、そういうヒーローみたいな人にはなれないんじゃないかなあ?」
「ふむ……。確かに、スポーツ選手の活躍はメディアに派手に取り上げられる一方、科学者が少し成功したくらいでは地味な新聞記事程度にしかならないという場合もある。しかし世の中のシステムを支えているのは頭の良い人たちだ。目立つヒーローにはなれなくても、どこかで確実に子供に勇気を与えているはずなのだ」
「んんんー、そっかあ……。でもなんでもいいから、大人になりたいよね! 強くて、あと頭がいい大人に! よしださおりと、ロザンうじはらをユウゴウしたみたいな大人に!」
「本当にな……、ん!? 融合!?」
「よしだうじはら!」
「お笑いのコンビ名か!」
藍が「らんとりじゅむんがユウゴウすれば、いつか強くて頭いい大人になれるかな?」などと言いながら理珠夢に抱きついて融合を試みる。しかしそれは失敗に終わった。理珠夢が恥ずかしがってフュージョンのポーズをとれなかったことが原因であった。
一方。
ほてりは、
大人になりたいと臆面もなく言った二人に触発され、考えないようにしていたことを考えていた。
自信を溜めておくバケツの底に穴が開いているかのように、ほんの少し難しいだけのことに対してでも自分の考えを持つ勇気を掴めずにいる。
それがほてりだった。
大人。
それはたぶん、自分の考えを持っている人のこと。
だったら、ほてりは大人になんかなりたくなかった。
大人になるのが怖かった。
「あれ、ほてりん! さっきからしゃべらずにどうしたの? きんにくつう?」
「ほてりちゃん?」
「あ、ううん、何でもないよ! えっと、そろそろ藍ちゃんのおうちでゲームしない?」
「うん、いいよ! やろっ!」「寒くなってきたからな……」
ぼろぼろ公園で遊んで、家でゲームして、寒くなったらホットココアを飲む。
ほてりはそんな今の日常が好きだった。
(うん、今のままでいいよね。ふつうでいいんだよね)
何も変わらない生活。
大きな存在になどならなくていい。
大人になるなどという、小学生にとってはまだ絵本やアニメのような出来事――そんなことは起きなくても、それでいいのだ。
ほてりはぼろぼろ公園を出て前を歩く二人を見つめる。
(りずちゃん、藍ちゃん。わたしね、みんなと一緒にいるこの時間が……)
そして優しく微笑んだ。
(すっごく、大好きだよ)
黒猫はそんなほてりを見つめていた。
碧く深い瞳で、
ただただ、
見つめていた。