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第◇◆話「◇◆◇◆」

 ネパール、ヒマラヤ山脈カンチェンジュンガ西峰、ヤルン・カン。

 万年雪の積もったその高山は、ひたすらに険しい。


 雪崩の危険のみならず、風を防ぐ役割を持つ低木の類がないことによる強風に常に晒される。吹雪や地吹雪で雪が舞い上がりホワイトアウトを起こせば、方向感覚が狂い、自分が今どこにいるのかもわからなくなってしまう。そんな中、体力と集中力は異常な早さで削られ、事故や遭難の確率は何倍にも跳ね上がっていく。

 以上のことから、雪山を登るときはピッケルやコンロなど多くの道具を持参する必要があった。




おい(アレ)そこのお嬢さん(チョーリツィァハム)


 女が現地語で話しかけられ振り向くと、そこには厳しい表情を浮かべた老人が佇んでいた。アジア系の顔立ちからみても現地人で間違いはないだろう。女もそこの言葉で返事をする。


ケー?」

「念のため訊くが、あんたはヤルン・カンに登ろうとしているんじゃなかろうな」

「そうだけど」


 老人があからさまにため息をつく。女の背負った小さなザックを一瞥し、怒りを滲ませながら話し出した。


「俺は今までも、あんたみたいな向こう見ずなガキ共をたくさん見てきた。そいつらは俺がいくら引き止めても、まともな訓練なしでカンチェンジュンガに赴く。中にはあんたのように、雪山を舐め切った軽装で行く奴もいたよ。そして、そいつらの九割は帰ってこなかった」


「じゃあ私はその残りの一割だ」

「残りの一割は死体で帰ってきた」


 不機嫌そうな老人の言葉に、女はほんの僅かに目を見開く。しかしすぐに、くすりと笑って老人に向き直った。


「ねえ」

「何だ」

「私が心配?」


 老人はむっとする。「違う。俺が、俺たちネパールの民が慣れ親しんできた“大きな五つの雪の宝庫(カンチェンジュンガ)”を、無様な死体で汚して欲しくないだけだ」


「大丈夫」

 女は屈託なく笑うと、遠くにそびえる霊峰を眺めた。

「“五大宝蔵ズゥチェン・ナムガ”を意味する名で呼ばれるような神聖な山を、決して汚しはしないさ。それに私は、おとーさ……師匠と一緒にあらゆる雪山で修行をしてきた。そう簡単には死なないし、死ぬときは祖国でと決めてる」


「……成る程。それなりの覚悟はあるらしい。ただの登山ではなく、修行のためということも理解した。しかしあんたは間違いなく死ぬ。死んだら意味がない」

「いや、死なないさ」

「いや、死ぬ」

「じゃ、私は行くね」

「おい、」

「大丈夫さ、何だったら、私の強さを――」



「“強さを試せというのか”?」



 静かな激怒を眉根に映し、老人が上着を脱ぎ捨てた。

 筋骨隆々。

 そこには様々な古傷が張り巡らされ、数多の死線を越えてきた証を誇示していた。


「口ではなんとでも言える。望む通り、その師との修行で得たという力、見せてもらおうか。ここから先へ進むというのなら、この老いぼれ程度、簡単に踏み越えてみせろ」


 女は驚いたように眉を上げると、不敵に笑ってザックを地面に投げ捨てた。


「……へえ、おじいさん、もしかして世界最強と目される戦闘民族・グルカ兵?」

「だったら何だ」

「嬉しいなあ、と思って」


 老人が怪訝な顔をする。一方、女は相手を睨みつつも歓喜の表情を浮かべていた。


 それはまさしく、強者を求める瞳。


 若い頃の己を見るようだ、と老人は思い、

 訊ねた。


「あんた、名は」


 訊かれた女は空手道の構えをとる。

 否、それは空手だけではなく、他の格闘技の要素も盛り込んだ、独自の構えだった。

「私は小玉藍」



「いずれ」



「世界最強となる女だ」






 ◇   ◆   ◇   ◆






「いらっしゃいませこんにちは」

「いくらいくらですレシートはご利用になられますか」

「ありがとうございましたまたお越しくださいませ」


 彼女はコンビニエンスストアでアルバイトをしていた。挨拶をして、レジを打って、挨拶をする。品出しをして、掃除をして、挨拶をする。他の店員は彼女と関わる気がなさそうだ。無愛想な客たちも彼女には興味がないらしい。


 生活費を稼ぎ、空いた時間にハローワークへ行くだけの代わり映えのない毎日。

 彼女は少し前まで、それなりのしっかりとした企業でバリバリ働いていたはずだった。


 制服を脱ぎ、断りを入れ、コンビニを後にする。住宅街の道は暗い。空を見上げても星はなく、月すらもどこにあるかわからなかった。

 自宅、安アパートへの道を歩く。高い気温が彼女の喉を渇かせる。飲み物の自販機を見つけ、その前に立ち止まるが、一三〇円を出す気にもなれないらしい、そのまま通り過ぎた。


「…………」


 彼女が会社の倒産により失業してから数ヶ月。

 ろくな働き口は見つかっていない。


 そんな中で、彼女はもう二十代になりたてというほどではない歳になった。結婚相手を探し始めなければならないのかもしれない。しかし大学の教養学部を卒業し就職してからも恋愛をむしろ避けてきた彼女には、異性と手を繋ぐことを想像することもできなかった。小学校からの同性の友人とはたびたび一緒に出かけたりはしたが。


「……みんなは、今頃……どうしているのだろうか」


 小学生の頃の彼女は、もっと夢見る心に満ちあふれていた。小学校の卒業式では、学者になって世界中全ての謎を解き明かしたいと声を張るほどだった。しかし大学で学ぶうちに気持ちが変わって、司法書士を志した彼女は、結局なれずに別の会社へ就職。そして。



 “こんなはずじゃなかった”

 ――彼女の口癖となった言葉だ。




 夢なんて、この世界にはなかったのかもしれない。




「む……」

 道を歩く彼女が何かに気づき、はたと足を止める。

 ガタガタという金属音。

 それは道の先から聞こえてきていた。


 真夜中ほどではないが暗いそこを照らすのは、いくつかある街灯のみ。白い光が鈍い色のアスファルトに当たっている。


 もう少し歩くと、音の正体がわかった。

 マンホールの蓋だ。

 マンホールの蓋が震えているのだ。


「な、何だ……?」


 やがて蓋がずれ、中から生き物が姿を現した。


 いや、それは生物と呼んでいいのか。どってりとした胴体と極端に小さな二本足は、逆三角形のシルエットを浮かばせる。青と緑と赤と黄色の横縞模様をした体。腕らしき円筒形のものは胴に接しておらず、空中に浮遊して独立した動きを見せている。


 訳の分からない代物。

 彼女がパニックを起こしかけるのも詮無いことだった。

 だが彼女は、その物体がか細い声を発するのを聞いて、逃走に向いた意識を引き留める。


【に……げて……】


 彼女はその生物を見た。


【そこの……お美しい方……。私の話を……お聞きください……】


 いつでも逃げられるように身構えながら、耳を傾ける。


【時間が、ない……。簡潔に言います……】


 びきっ、と、その生物の後ろで地面が割れた。


【人類の方々は、今すぐ地上から……逃げて】




 轟音とともにコンクリートの地面が砕け、地下から巨人が現れる。鎧に身を包んだその化け物は、穴より這い出ると、二十メートルはあろうかという背筋を反らして雄叫びを上げた。その巨人の手のひらに乗っている小さな人の形をした物が高笑いをして、そこに倒れている謎の生物を見下ろす。

〔ぬきゃきゃきゃきゃ! 無様だナ、ルァルォルェリ・ホヘ・スンスクスーンⅥ世! 地上へ逃げたところで無意味だというのニ! 地底は今まで貴様等に虐げられてきたことでおなじみノ、我々カンカコカーン族が支配しタ。地上も時間の問題ダ! さあ、おなじみの処刑台に連れて行ってやル! ……ン? 何だそこの地上人ハ。弱いことでおなじみの地上人が……なぜ笑っていル?〕



 なんだこれは。

 彼女は冷や汗を垂らしながらにやりとして、ほんとになんだこれは、と呟いた。



 そして、思う。



 あの日、彼女はある大人に、世界の素晴らしさを見せてもらった。

 それはいずれ自分が自分の力で掴み取らなければならない景色だと、教えられた。

 だから、夢に向かって努力し続けてきたつもりだった。

 けれど結局、夢には届かず、夢がわからなくなって。

 こんなはずじゃなかったなんて、悲しいことばかりを言うようになって……。



「……っはん」



 なんのことはない。

 悩む必要なんてなかった。




 夢を掴み取れなくても、夢がわからなくなっても、世界はいつだって夢で満ちているのだ。

 あとは自分で、踏み出すだけ。




【お美しい地上人の方……。お逃げください……】

「おまえ、地底人か何かか?」

【え……、はい、そうですが……】

「由布院・アンダーグラウンド・温泉を知っているか?」

【……? なぜ地上人のあなたがそれを……?】

「そうか。……本当に……あったんだ」

〔何をぶつぶつと喋っていル! ルァルォルェリの方は処刑台行きだガ、せっかくだからそこの地上人も連れて行くカ。地上侵略開始の景気付けにブチッと……だ、だからなぜ笑っていル!〕


 彼女は一歩踏み出す。

 遅れを取り戻すには、その一歩で十分だった。


「もし我輩がおまえを助けられたら、いろいろ話を聞かせてほしい」

【え……?】

〔我々と対峙しても臆さないとハ……き、貴様、何者ダ!〕

「我輩か? 我輩は……」


 目を閉じ、目を開いて、応えた。


「我輩は、世界中全ての謎を解き明かす者。神崎理珠夢だ!!」






 ◇   ◆   ◇   ◆






 一人は、世界最強となるため雪の暴れる辺境へ


 一人は、自分を失い一度は諦め彷徨いながらも


 そして、もう一人は――






 ◇   ◆   ◇   ◆






 市立叢雲小学校。

 六年一組では、しっとりとしたピアノが流れている。

 雨の多い六月の最終週で、教室は蒸し暑かったが、彼女はそんなことも気にならないほどの万感の思いに満たされていた。


 子供たちが歌い出す。

 下手っぴで、でも真っ直ぐで、無邪気な合唱。


 彼女は約四週間を母校である叢雲小で過ごした。

 教育実習生として子供たちとふれあい、グラウンドで走り回って遊んだり、悩んでいる子を励ましてみたり――様々な体験をした。


 わかりやすく授業ができたとも思えないし、子供たちのためになることができたかもわからないけれど。

 みんなとても元気で、可愛くて、時々泣いちゃうけど、大切な子供たちだ。


 彼女と児童たちとの、お別れの合唱が終わる。

 静かになって、自分がどうなっているかに初めて気づいた。

 そして、子供たちに笑われてしまった。


「あー、鈴森せんせぇ、泣いてるー」「あはは!」「せんせー、やさしいね!」「また泣いてるの? 情けないわね。先生はわたしの悩みを聞いてくれた時もめそめそして……うぅっ……」「わぁ、樹理亜ちゃんも泣いちゃったよ!」「う、うるさいわねっ! 泣いてなんか……」「せんせぇ、ハンカチいる?」「泣かないで先生!」「ありがとうせんせー!」「先生!」「鈴森先生!」「先生だいすき!」



「みんな、ありがとう」



 彼女の言葉に、子供たちはそれぞれの反応を示す。

 教室に漂うのは、この場にいる全員の嬉しい気持ち。



「わたし、立派な先生になるね」



 鈴森ほてり先生は、静かに涙をこぼしながら、にっこりと笑った。









〈完〉






















「あっ! りずちゃん、藍ちゃん!」


「ほてりちゃん! 久方ぶりだな……!」


「ほてりん、元気だった?」


「うん! りずちゃんも藍ちゃんも、なんだか見違えたね?」


「うむ、いろいろあってな」


「私はヒマラヤでイエティと仲良くなっちゃってさ~」


「えっ!? なにそれ!?」


「我輩も地底人に出会って今彼を匿っているところだ」


「りじゅむん凄いな! 戦った?」


「戦うも何も、水面下で別の地底種族による地上侵略を食い止めているよ」


「それ本当なの……? あっ、もう時間だ! さ、早く行こ? ジェットコースター列できちゃうよ」


「そうだな。三人で念願の遊園地。楽しむぞ」


「よし、じゃあ出発だ!」


「わっ、藍ちゃん!?」


「ら、藍、この手は何だ?」


「ん? 昔みたいに三人で手を繋いだ方が楽しいかなと思ってさ。嫌?」


「ううん、嫌じゃないよ。むしろ、嬉しい」


「くくっ、そうだな。む! あれは新しいアトラクションではないか? 行ってみよう」


「あ、そうだね! 楽しいのかな……?」


「絶対楽しいって! 私ワクワクしてきた!」


「よぉし、じゃあ、りずちゃん!」


「ああ!」


「藍ちゃん!」


「うん!」


「今日はいっぱい、楽しもうねっ!」


 “わたしたち”


 “我輩たちは”


 “私たちはずっと”


 “ずーっと、友達だよ”









〈了〉

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