第15章ー第20章
第十五章「天使」
また夢を見た。夢の中にいたのは、小さくて丸くて白くて髪がくりくりの女の子。僕はすぐに彼女がバンダナの娘だと分かった。
「ママが言ったのよ、私は天使だって。だけど、病気の天使なんていないって言ったの。でもね、ママの言う通りになったのよ」
「どういうことだい?」
彼女は背中を向け、服を少し捲り上げた。服の裾から白い物が見え、そこから一枚がひらりと風に舞った。それは左右にゆらゆらと揺れ、僕の頭の上に着地した。
「あら、お似合いよ」
僕は頭を左右に揺すった。すると、それはくるりと一度旋回し、ゆっくりと僕の足元に落ちた。
「本当に天使になったんだね」
それは水鳥の羽毛のような真っ白で柔らかな一枚の羽根だった。
「そうよ。ママの言った通り。病気もすっかり消えちゃったわ」
「ママの所に戻らないのかい?」
「戻りたいけど、やらなければいけないことがあるのよ。それはママも同じよ」
「どういうこと?」
「ママが私を助けたように、私も助けなきゃ」
「その羽根でどこまで行けるんだい?」
「どこへでも行けるわ。遠いところ、ずっと先にも、ずっと前にもね」
「未来や過去にも行けるのかい?」
「みらい? かこ? 分かんないけど、子供の頃のママに会ったわ」
「ママは君の未来を知っていたんだね」
「そうなの?」
「君は誰を助けるの?」
「おじいちゃん。ママのパパよ」
「ママは誰を?」
「あなたよ」
「そうか、彼女は僕を助けるために来たのか」
「そうよ。ママはあなたのことが大好きなのよ。だから、助けるのよ」
「僕も君のママが大好きだよ」
「ならよかったわ」
第十六章「幽霊」
午後の昼下がり、公園のベンチでウトウトと昼寝をしていると、誰かが僕を呼んだ。
「おい、猫!」
またバンダナ犬が悪さをしているのだろうと聞こえない振りをした。
「おい、猫ちゃん!」
それはバンダナの声ではない。そっと目を開けて見ると、目の前に見知らぬ少年が立っていた。
「何だ、人間か」
隣で寝ていたバンダナに「追っ払ってくれ」と足でチョンチョンと合図を送った。
猫になったばかりのころは、人間たちに愛想を振りまいて、餌が貰えるようにとアピールをしていたが、人間世界では意外と簡単に餌を貰うことができると分かった今では、それほど愛想良く振舞うこともなく、ようやく僕も猫らしく無愛想になってきた。バンダナも犬らしく、番犬の真似事くらいやってくれればいいのだが。と思いを巡らせていたとき、
「何だとは、何だ!」と、予想外の少年の言葉に驚いて、隣の役立たずの番犬の背中をポンポンと叩いた。
「君は猫の言葉が分かるのかい?」と少年に尋ねると、答えたのはバンダナだった。
「またそのはなし? だから、人間に育てられた…」、バンダナは話の途中で少年に気づき、僕以上に飛び上がって驚いた。
「あ、あなたは!」
バンダナはこの少年を知っているようだ。
「君の友達かい?」と僕が尋ねると彼女は答えた。
「彼は、私のパパよ」
少年はもう向こうの方で大暴れしている。子供たちが遊んでいるボールを遠くへ蹴ったり、お弁当をつまみ食いしたり、女の子のスカートをめくったり、やりたい放題だ。しかし、やられた人たちは怒っていないどころか、何だか不思議そうな顔をしている。
「いったい君には何人のパパがいるんだい。島で会ったゼロの息子のこともパパって言ってたよね」、バンダナに尋ねた。
「パパといっても、ずっと昔、生まれ変わる前に偶然親子だったことがあったらしいの。彼は少年の姿をしているけど、今は幽霊なのよ」と答えた。
「幽霊だって?」
「そう、だから他の人には見えないの。いい気になって大暴れしているわ」
幽霊少年は、イタズラに飽きたらしく、こちらに戻ってきた。
「ねぇねぇ、君は幽霊なんだって?」
「そうだよ」
「死後の世界ってどんなの? 天国ってどんなところ?」
「あはは。死後の世界も天国も、人間の勝手な想像さ。そんなものあるわけないよ」
彼は馬鹿にするように笑いながら言った。
「じゃあ、死んだら何処へ行くの?」
「何処にも行かない。みんなその辺にいるさ」
「じゃあ、死んだらどうなるの?」
「どうにもならないさ。ただ、肉体が無くなるだけ」、彼は面倒臭さそうに答えた。
「君はどのくらい死んでいるんだい?」
「どのくらいって?幽霊には時間も空間の概念も無いんだから、そんなの分からないよ」
今度は少年の方から語りかけてきた。
「幽霊だったころの君を知っているよ」と言われて僕は驚いた。
「何だって! 僕はまだ死んでなんかないさ!ほら、ちゃんと生きてるよ」、少年とバンダナは笑った。
「生まれる前はみんな幽霊なんだよ。何にも知らないんだな」
僕は少年の言葉にムッときた。バンダナは空かさずフォローした。
「生き物は死んだ後、肉体は無くなるけど魂は残るのよ。それが幽霊ね。幽霊は次にまた肉体に宿って生まれ変わるのよ。死んだ後は、生きているときの記憶が無くなり、生まれ変われば幽霊のときの記憶が消えるのよ」、その話を聞いて僕には疑問が残った。
「僕は猫に生まれ変わったけど、人間の記憶が残っているよ。どうしてだい?」
すると、少年が答えた。
「君は死ななかったからだよ。つまり、幽霊にならなかったから、記憶が残っているのさ」、少年は話を続けた。
「本来僕たちの種族では、雄型の幽霊は人間の男性か犬に生まれ変わるんだ。次に幽霊になるときは、やっぱり雄型の幽霊なんだ。雌型幽霊は人間の女性か猫になり、雌型幽霊に戻るのさ」
「何だって! やはり僕の理論は正しかったんだ! 男は犬であり、女は猫である、わけだね」と僕は得意になったが、同時に疑問が残った。
「どうして僕は人間の男性から猫になったの? 雄型は猫にならないはずなのに」
「それは私たちにも分からないのよ。一つ言えることは、私たち三人共、通常の順番を介さずに他の者に生まれ変わったの。前世の記憶を残したままね」とバンダナが答えた。
そのとき突然、いつからいたのかピカソのじいさんが僕たちの話に割り込んできた。
「お前さんたちに、真実を伝える時が来たようじゃ」
じいさんは、お気に入りの緑色のベレー帽を被り直し、ベンチの真ん中に座った。
「まぁ聞きなさい。まだ詳しくは解明されていないが、現代の壊れつつある環境やストレスの多い社会の影響で、魂の器である人間や犬や猫の肉体が衰え始めていることが原因のようじゃ。魂と肉体の隙間に歪みが出来て、バランスが崩れたんじゃ。そうやって生まれた突然変異、ムタチオンがお前たちじゃ」
やはり、じいさんは僕が人間だったことを知っていたようだ。
「ムタチオン? 僕たちは他の人たちと違うの?」、少年がじいさんに尋ねた。
「お前さんたちは、人間だったころに他の人たちとは違うと感じておるはずじゃ。精神面に異常を感じておるお前さんたちの他にも、肉体の方に異常が表れる者もおる。しかし、その欠陥部分を補う別の能力が己の体に備わり、偶然にもそいつは純血種のアナロイドを癒す効果があるということが判明したんじゃ。お前たちの役割はアナロイドを救うことじゃ。他にも違いはある。普通の幽霊は時間と空間の概念が無い。ムタチオンはそれを超越し、三つの時間、三つの空間に、三体の存在を現すことが出来るのじゃよ。お前たちがここで出会ったのも偶然ではない。以前にも遭遇しているじゃろ。 今もお前たちのアルタラチオンが、いつかの時代のどこかの国に存在しておるのじゃ。お前さんたちは、人間たちのいう神に最も近い存在なのかもしれんな」、じいさんは語った。
「じいさん、あんたは神なのか?」、少年は尋ねた。
「神というのはアナロイドたちが作った架空の者じゃ。宗教によって違う様々な神々が存在し、彼らが作った社会の方向性のよりどころを示す思考の案内役みたいなものじゃ。お前さんたちはその神の名を借りて、アナロイドたちに奇跡を見せればよい。それで彼らは救われるのじゃ」
「なぜ、僕らはアナロイドを救わなくちゃならないの?」
「あはは!その理由は単純なことじゃ。お前さんたちの方こそアナロイドによって生かされているからじゃよ」、そう言い残して去っていった。
結局、じいさんは何者なのだろう。やはり、ゼロの子孫には特有の力があるのだろうか。じいさんの奇想天外な理論はむちゃくちゃだが、一応の筋は通っている。しかし、それが本当なのかは分からない。僕が猫になった理由は解明できたのだろうか、まだまだ多くの疑問が残った。猫になったことも、人間の言葉をしゃべる犬も、少年の幽霊も、全てが夢を見ているような気がした。
第十七章「死」
春の陽射しが暖かくて、僕はパトロールがてら散歩に出かけた。都会と言えども虫や鳥たちは春が来たことを喜び、あちらこちらで恋人同士のピクニックを催し、それぞれが春を楽しんでいる。
あちらの池では男の子と女の子が石投げをして遊んでいた。どちらが遠くに飛ばせるかを競いあっているようだが、あれ位の年の子供は女の子の成長が早く、やはり体の大きな女の子の方が遠くに石を飛ばし、男の子は躍起になって石を投げているようだ。
僕はそんな平和な光景をぼんやり眺めながら、塀の上の日向ぼっこでウトウトとし始めた。
そのとき。「バシャ」と、何か大きな物を水に投げ込んだ音が聞こえた。
「まさか!」
僕は全速力で池に駆けつけた。男の子が池に落ちた。僕は迷わず池に飛び込んで男の子を助けようとした。
「しまった!」
僕は猫の姿だったことをすっかり忘れていた。男の子は水の中で手足をバタバタさせながら僕の尻尾を掴んだ。二倍はあろう体長の人間を助けられる筈もない。僕はそのまま水の中に吸い込まれていった。
薄っすらとした意識のまま、僕は陸に上げられていた。どうやら僕の早とちりだったようだ。この池は浅く子供でも余裕で足がつく。男の子は水に落ちて慌てたようだが、底に足がつくとわかると冷静になって、溺れた間抜けな猫を助けたのだ。さらに薄れてゆく意識の中、子供たちが池の畔に打ち上げられた僕を、上から覗き込み、何やら相談していた。
「死んじゃったのかな?」
「動かないね」
「どうして泳いでたのかな?」
「魚を採ってたの?」
到底、経緯など解りっこないだろう。
「死んじゃったみたいだね」
学校の理科や保健体育の授業でも、猫の蘇生など習わないはずだ。
「可哀想だから、埋めてあげよう」
「そうしよう」
どうやら、審議の結果が出たようだ。さっそく、子供たちは池の近くに穴を掘り始めた。やがて、僕は男の子に抱き上げられ、彼らが掘った小さな窪みの中央に置かれた。次に、上から土を掛けられたところで、僕は完全に意識を失った。
次の瞬間、体がフッと軽くなり、気がつくと、僕は宙に浮かんで子供たちを見下ろしていた。子供たちは盛った土の上に石を乗せ、手を合わせて、そいつを拝んでいる。どうやら僕は死んでしまったらしい。苦しいわけでも無く、死後の世界に引き込まれるわけでもなく、ただ体が無くなっただけで、やはり幽霊少年のいう通りだった。子供たちに手厚く見送られて幸せだ。僕は子供たちに心の中で「ありがとう」とお礼を言った。
僕は宙に浮いた体がさっきまでの猫の姿ではないことに、ようやく気が付いた。いつか白昼夢で見たあの少年の姿をしていた。幽霊になって軽い体を得て、初めて生きていることの苦を実感した。この幽霊の体なら何処までも飛んで行けそうな気がする。
「そうだ!バンダナにこの体を自慢しに行こう」
僕はいつもの公園に向かおうと歩き出した。しかし、一向に前に進まない。ついさっきまで猫だったわけで、幽霊になって勝手がわからない。人間だったころを思い出し、二足歩行を試みたが待ったく進まない。猫の要領で四足歩行でも無理だ。何せ宙に浮いているので歩行の一連の動作は役に立たない。四苦八苦した結果、頭を進む方向へ傾けると前へ進むことが分かった。
「そうか、この要領だな」
ゆらゆらとふらふらを繰り返し、僕は公園に向かった。時々、意識が飛んでしまうのは何故なのだろうか。
公園に到着すると、いつものベンチにバンダナを見つけた。驚かしてやろうと頭の真上から呼んでみた。
「バンダナ! バンダナ! ここだよー! 僕が誰だか分かるかい?」
彼女はキョロキョロと周りを見渡し、ようやく真上に僕の姿を見つけた。
「あなた、猫なの?」
「どうだい、すごいだろう!」と言った瞬間、意識が遠のいて僕は真っ逆さまに落っこちた。
「あなた、まさか!」と、彼女が叫んだ後、
「ちょっと待ってなさい!」と、僕に言い残し、彼女は目を閉じたまま固まってしまった。
バンダナはすぐに目を覚まし、同時に幽霊少年が現れた。
「幽霊君、僕も……幽霊にな……ったん……だ」
幽霊少年は、僕の体を頭から爪先まで見渡し、僕の体で起こっている状態を察した。
「猫、何処で死んだんだ?」
「え?」
「時間がないんだ。早く答えろ!」
「何処っ……て、向こ……うの池……」
すると彼は僕の手を掴み、僕を引っ張って池のある方角へ飛んだ。
「犬も一緒に来てくれ!」
下を見るとバンダナが全速力で走っていた。
「さすが幽霊だ……ね。僕に飛び……方を……」
「どの位時間が経った?」
彼は僕の話も聞かずに質問をした。
「十五……分位か……なぁ」
幽霊少年はスピードを上げ、あっという間に池に到着した。
「どこだ?」
「僕はこ…んこにん…」
「猫の体は何処にあるんだ?」
「あそこの石の…んした。こっ…んちだっ…んたかな?」
バンダナも直ぐに到着した。
「犬! 石の下を探せ!」
幽霊少年はバンダナに大声で指示をした。
しばらくして、「あったわ!」と、バンダナが叫んだ。
すると幽霊少年はまた僕の手を強く引いて、猫の抜け殻の所まで連れて来た。
「おい、猫! 尻尾を掴んでろ!」
僕は彼の剣幕に圧倒されいう通りにした。
「ずいぶん水を飲んでいるみたいだ」
幽霊少年が猫の胸を何度も両手で押した。すると、猫の口から水がゴボゴボと出てきた。その度に僕の意識が遠退いた。ずいぶん水を吐いたが猫は動かなかった。仕方なく、最後の手段だ、と、彼は猫のお腹を思い切り蹴り上げた。猫はさらにゲボゲボと水を吐いた後、大きく息を吸い上げた。その瞬間僕の意識は全く消えてしまった。
第十八章「ただの猫」
「おーい、猫や! 何処へ行った? ミルクの時間じゃ。ばあさん、猫は何処へ行ったかのぉ」、じいさんは部屋の中を探していた。
「ソファーの下に隠れていますよ」、おばあさんはじいさんに猫の居所を教えた。
じいさんがソファーの下を覗き込むと、猫は目を閉じたまま欠伸をしていた。
「こっちにおいで。美味しいミルクじゃよ」
猫はのそのそとソファーの下から出てきて、陽の当たる窓側で丸くなった。
「じいさん、もう猫は元に戻らないのか?」、幽霊少年はじいさんに尋ねた。
「死んで幽霊の期間を経て、また猫に戻ってしまったから、記憶が消えてしまったんじゃな」
「もうムタチオンでは無くなったのかな」、幽霊少年は心配しながら尋ねた。
「それはわしにも分からん。少なくとも、この猫の間は普通の猫のままじゃ。猫の生涯を終え幽霊になったらムタチオンに戻れるかもしれんが」、じいさんは以前の猫でなくなったことをさほど気にしていない様子だった。
「しばらくは彼に会えないんだね。僕は余計なことをしてしまったんだな」、彼は嘆いた。
しかし、バンダナは言った。「彼はちゃんとここにいるわ。記憶を無くしたとしても、彼は私の一番の友達よ」
「お前さんは猫の命を救ったんじゃ。いいことをしたんじゃよ」
幽霊少年は小さく頷いた。
ーー全く、この毛深い獣は何なんだ。いちいちペロペロと俺の顔を舐めやがる。だいたい首に巻いている赤い布は何だ。全然似合っていないぞ。それに白い毛の二匹の巨人もやたらと俺を撫で回す。あんまり構って欲しくないんだが。まぁ、どいつも敵でないようだから我慢してやるか。それにしても、もう一つの声の主は何処に居るんだ? 姿が見えないんだけど。まぁ、居心地も悪くはないし、しばらくここに居てやるか。
第十九章「再生」
ある朝目覚めると僕は人間になっていた。
どうして人間になっていたのかは分からない。本来、猫は夜行性であり待ち伏せ型捕食者であるのだから、人間の性質には似ていない。また犬はと言いますと、群生動物であり階級意識の強い人間の性質に似ている。
これは僕が勝手に思い描いている持論であり、野生的直感と本能が生み出した仮説であり、根拠というものはまったくない。しかし、猫も犬も人間社会におけるペットという地位を確立し、他の動物から一目置かれていることはいうまでもない。しかしながら、亀や猿をペットとして飼っている人間もいるわけですから、優越感に浸っているばかりもいられない。だが、人間と猫と犬の関係には特別の何かがあるのだろう。とにかく、昨日まで猫だった僕は、ある朝目覚めると人間になっていたわけである。
突然、何かが目の前に現れた。首に巻かれた布には見覚えがある。この赤いバンダナは、もしやバンダナ犬か?「バンダナ!」と声を掛けようとしたが、うまく言葉にならない。よく見れば、僕は小さい籠に入れられている。この籠のサイズからすると、かなり小さな生き物であるのだろう。察するところ、まだ赤ん坊のようだ。道理で思うように体が動かせないわけだ。赤いバンダナの主をよく見ると、あのバンダナ犬にしては小さ過ぎる。犬があちらを向いて吠え出した。誰かを呼んでいるのか。あちらとこちらを行き来しだした。犬の次に僕の籠を覗き込んだのは人間だった。緑色のベレー帽を被った男。「ピカソじいさんか?」いや、そこにいたのはハンサムな若者だった。どことなく、じいさんの面影がある。彼はじいさんの息子か孫なのだろうか。
ようやく猫の生活に慣れてきたところだったのに、また人間からのやり直しか。やれやれ、今度は人間としてうまくやれるだろうか。まぁ、やれなかっとしても、また次には、バンダナみたいに犬になることも。本来、男は犬であり、女は猫であるのだから、人間に戻ったということは、次に犬になれる可能性も出てきた、ということなのだろう。兎にも角にも僕はこれからこの姿で生きていくわけだ。
ならば、人間の赤ん坊らしく泣いてみようではないか。
「オギャー!」
うまく泣けたような気がする。
第二十章「デンキジカケのユリカゴ」
「ユリカゴが完成しました」、オカチマチ博士はゼロに告げた。
「ご苦労。これで人類は救われるのか?」、ゼロはオカチマチ博士に尋ねた。
「私の計算では、可能なはずです」
「……はずです、か。その程度なのか」
「未来の完全予測は不可能です。それはあなたが一番よく知っているのではないでしょうか」
「確かに」
「現在、施設は建築中です。作業員を三交代で二十四時間体制で作業を行うと、あと1483日で完成します」
「君の説明はいつも遠回り過ぎてわかりづらい。もっと簡潔に言いたまえ。あとどれくらいの期間だ?」
「35592時間です」
「もう結構だ」、ゼロは呆れて言い捨てた。
ここはゼロ次元の一室。四方を赤いビロードのカーテンに覆われた部屋で、ゼロとオカチマチ博士は、絶滅を目前としている人類を救おうとしている。
「ところで、猫はどうしている?」とゼロは博士に聞いた。
「彼は変異し、別の次元へ移動しました」とゼロに告げた。
「探す方法はあるのかね」
「今はどんな姿となっているのかもわかりません」、博士は率直に述べた。
「なるほど。施設が完成するまでに、まだ時間はある」
「そうですね。施設の完成と猫の所在に、何か関係があるのですか?」、オカチマチ博士はゼロに尋ねた。
しかし、ゼロはオカチマチ博士のその質問に答えなかった。
そして、オカチマチ博士は、ゼロ次元の一室から出て行った。
オカチマチ博士が部屋を出たのを見計らって、ゼットが部屋に入ってきた。
「猫の移動はうまくいったようだな」とゼロはゼットに言った。
ゼットは頭を縦に何度も振った。彼は白い犬を抱えている。
「それかね。新しいムタチオンは」
ゼットは再び縦に頭を振った。
「変異した猫を探しだせるかね?」
ゼットは三度縦に頭を振った。
「探し出せないのかね?」、ゼロはさっきとは逆の質問をした。
ゼットはまた頭を縦に振った。
「お前の返事はあてにならん。とにかく、変異した猫を探し出すのだ」
ゼットはもう一度、頭を縦に振った。
ゼットは呆れて頭をうなだれた。
「くれぐれももオカチマチ博士に知られないように、内密に行動したまえ。……もう、うなづかなくてもよろしい」とゼロが言うと、ゼットは頭を縦に振ってしまうのをこらえ、顔を斜めに歪めてニヤッと笑った。
ここはXYZ空間のある町。オカチマチ博士は建設中の脳科学研究所の地下室にいた。彼はは研究の中断を避けるため、この研究室をまず先に完成させた。
オカチマチ博士の目の前のカプセルには、一体の人型のアンドロイドが横たわっている。このアンドロイドにヒトから抽出した記憶を移植しようとしている。
「アダム、もう一度確認します。設計に不具合はありませんか」、オカチマチ博士はコンピュータの前で尋ねた。
「はい、不具合は見当たりません」、合成された音声が返事をした。
「では、アンドロイドのブレインシステムに、記憶データを送信する。この記憶データは、ミズサワルリコという女性のリアルブレインをデータ化したものである。このアンドロイドは認識番号AI006N。ボディの全パーツは人工細胞から作られたものである。これが目覚めれば、初のコピー・ブレイン・アンドロイドとなる」、オカチマチ博士はコンピュータのエンターキーを押した。
アンドロイドのまぶたの下の眼球が動き始めた。夢を見ているように、ときどきピクリと痙攣する。
そして、アンドロイドが目覚めた。
おわり