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男は犬であり、女は猫である  作者: 日望 夏市
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第6章ー第8章

第六章「地蔵」


 ここは猫の聖地として知られてる町。バンダナは「あそこは猫にとってのオアシスだ」と言う。近隣の住人が毎日の朝昼晩の餌を野良猫たちに与えているらしく、僕もこちらへ引っ越そうかと下見に来た。

 しかし実際に来てみると、ここでは僕はよそ者で、縄張りやなんかを侵しているのだろうか、僕を見るなり野良猫たちは凄い形相で威嚇してくる。ついこの前まで人間だったニワカ猫には、やはり本物の猫には敵わない。先程も五匹の猫に追いかけ回され、メザシの尻尾どころか、一滴の水さえももらえなかった。

「何が猫のオアシスだ!」

 野良たちに見つからないように、裏路地を巡って方々を徘徊していたら、不覚にも道に迷ってしまった。


 大きな木の横のパン屋を曲がった所に、お地蔵さんが立っていた。雨を凌ぐお堂こそ無かったが、傍らに大きなお饅頭が供えてあった。朝から何も食わず、空腹だった僕は、堪らずお饅頭に前脚を伸ばした。お花も今朝供えたばっかりで真新しく生き生きとしていたので、お饅頭も腐ってやしないだろう。一度手に取ったものの、ふと我に返り考え直した。仏様のお供え物に手を出すなんて、バチが当たりそうで怖くなって、お饅頭を元に戻した。元に戻したはいいが、仏の物を盗もうとしたわけだから、やはりバチが当たるのかも。そう思って慌ててお地蔵さんの寒そうな足を摩った。

「これで勘弁してください。二度としません」、そう呟きながら、前脚で温かくなるまで摩った。

「これくらいで大丈夫だろうか」

 そして、その場を逃げるように早歩きを始めた。角を曲がったとき、誰かが背後で僕を呼び止めた。

「どうして食べないのですか?」

 振り返るとそこに坊主が立っていた。僕は「見られた」と思い、お説教を逃れるため、目を伏せてごめんなさいのアクションを数回試した。

「食べてもいいのですよ」と、坊主が想定外の言葉を発した。

 ここで図に乗って、あそこのお饅頭に前脚を出そうものなら、たちまち背中に隠した警策でピシャリとやられるのではないか、と、ここは再びごめんなさいを二、三度試みた。すると坊主は僕の頭の上で何やらモサモサと始めた。いよいよ坊主はあの棒を懐から取り出して、欲の塊の獣の背中辺りをピシャリとやるのだ、と思い観念した。

「お食べなさい」、坊主は僕の鼻先に何やらを差し出した。坊主は両手でその何やらの結びを解き、包んである竹の皮の中身を僕に見せた。

「おむすびだ」

 顔を上げてお坊さんの表情を伺うと、お釈迦さまのような優しい表情をしていた。もっとも僕はまだお釈迦さまに会ったことがないので、本物のお釈迦さまが優しい表情をされているのかどうかは知らないのだけれど、もはやお坊さんへの疑いは消え、それよりおむすびへの欲望のほうが圧倒的に優位に立った。朝から走りっぱなしでお腹はペコペコだったので、このおむすびに毒が入っていようとも、現状の空腹感が満たされるのならば、命も惜しくない、といった心持ちであった。

 僕はお坊さんのおむすびをムシャムシャと食べた。野球のボールの大きさくらいのおむすびだが、猫の頭蓋骨の大きさなので、人間にしてみればドッヂボールくらいのサイズを食べたことになるのだろう。具こそ入ってなかったが、空腹は十分に満たされた。

「あのお饅頭もそのおにぎりも、元々あなたの物なのです。そこの石も向こうの花も木も、この世界にある全ての物は一つの物なのです。私とあなたもそう。全て一つにつながっているのですよ」と言って、お坊さんは懐からもう一つを取り出した。

 僕は「ニャー」と言って、もうお腹がいっぱいであることを伝えたが、「持ってお行きなさい」と、紐に吊るした竹の皮の物を僕の首に掛けた。

 僕は頭を下げてありがとうと合図し、尻尾を向けて歩き出した。そのとき、お坊さんはつけ加えて言った。

「足はとても温まりました。ありがとう」

 はっとして振り返ると、そこにはもうお坊さんはいなかった。お地蔵さんのところまで戻ってお顔を拝見すると、先ほどより笑っているように見えた。


 僕はお坊さんに貰ったおにぎりを首にぶら下げ、この町を出た。猫になったばかりの僕がこの町で暮らすのは無理のようだ。猫の友達ができることも期待していたのだが、やはり猫になっても友達を作るのは苦手なままである。そう思うと、何だかバンダナに会いたくなった。

「そうだ、このおにぎりをバンダナに持って行ってあげよう」

 僕はいつもの公園に向かって走り出した。


 息を切らせたまま公園に到着し、バンダナを探した。彼女はいつものベンチにいた。

「ねぇ、バンダナ、いいものあげるよ」と言って、首にぶら下げた笹の葉の包みを彼女に渡した。

「これ、どうしたの?」と彼女が聞いた。

「あのね、お地蔵さんがいてね」と言ったところで、バンダナは早口で僕に、

「お供え物を盗んだの?バチ当たりめ!この世界は一つに繋がっているんだよ。あの木も花も生き物も、空も太陽も宇宙全部が一つなんだよ。自分一人が勝手をすると、そこから世界は壊れてしまうのよ。まったく!」と、さっきのお坊さんと同じことを目の前の犬が言ったので、クスッと笑ってしまった。

「盗んだんじゃないから」と言い終わる前に、バンダナはもう笹の皮を開いていた。

「美味しそうなお饅頭だこと!」

「あ!それは僕が取ろうとしたお饅頭!」とすかさず彼女は、

「やっぱり盗んだのね」と疑いの目付きで僕を睨んだ。

「全てが一つに繋がっているから、そのお饅頭は僕の物だってお地蔵さんが言ったんだ」

「あなたは食べちゃダメよ。世界が壊れて、ひとりぼっちになってもいいの?」

 同じ理由なのに、お坊さんは「食べてもいい」と言い、バンダナは「ダメだ」と言う。どちらが正しいのか僕には分からない。仏を信じるか、友達を信じるか、究極の選択を迫られた。困った顔の僕に、バンダナはお饅頭の半分をよこした。

「私がバチを被るのはごめんだわ。半分あなたにあげるから、あなたが全部罰を受けなさい」と言い捨てて、半分のお饅頭を頬張った。


 結局、仏や友達の忠告より、己の欲望が上回ったということだ。しかし、それを一番よく知っていたのは、仏様と親友のバンダナ犬だったのだろう。




第七章「巨人」


 猫になってからは、ピカソじいさんの家の居間のソファーが僕の寝床となっている。人間のころは、築二十年を優に超える木造アパートの一室の、ペラペラの煎餅蒲団で眠っていたのだが、今では三人掛けのふかふかのソファーの真ん中に陣取って、おばあさんが用意してくれた毛足の長い毛布に包まり、早起きの時間を気にすることもなく、いつまでも眠っていられる。

 時折、バンダナが遊ぼうよと、快眠を邪魔しに来るくらいで、ちょっぴり贅沢気分な生活にすっかり馴染んでしまった。


 その日もいつものように平和な猫生活を終え、スヤスヤと眠りに就いた。


 真夜中過ぎ、何かの気配を感じ、ふと目が覚めた。目を開けると、ソファーの前に巨人が立っていた。天井につっかえてしまうためか、頭を横に傾けているところを見ると、身の丈は二メートルを超えているであろう。黄色い蝶ネクタイを締め、白いシャツに丈の短いベストを着て、無表情でこちらをじっと見ていた。よく見ると、手には何か白いモコモコした物を抱えている。

 こんな真夜中に突然現れた巨人に恐怖を感じないはずもなく、逃げ出したいのだが体が硬直して動かなかった。

 彼はピカソじいさんの知り合いなのだろうか。

 巨人が首を傾げながら一歩こちらへ近づいた。更に二歩目を踏み出した。そして、首を傾けたまま腰を曲げ、僕が寝ているソファーの方に顔を近づけた。大きな顔が僕の真上まで迫るとピタリと止まり、これまで無表情だった彼が突然ニカッと笑った。彼の歯には歯並びを治すための矯正器具がつけてあったのだが、顔も大きいなら歯も大きく、目の前のそれが白いブロック塀に巻かれた有刺鉄線のように見えた。彼は怯えた僕に抱えていた白いモコモコを差し出し、それを僕の傍らに置いて「ついて行け」と告げた。

 その後、彼は腰を曲げたままくるりと百八十度回転し、首を曲げたまま立ち直り、壁の方に歩き出し、そのままゆっくりと壁の向こうに消えて行った。

 彼は幽霊なのか。いったい誰について行けば良いのか。金縛りで動けない僕に更に追い討ちをかけるように、突然、白いモコモコが動き出した。

「わっ!」とようやく声が出て、金縛りが解けた。

 よく見るとその白いモコモコは白ウサギだった。耳の長い、目の赤い、普通の白ウサギのように見えるが、何せ不気味な巨人が置いていったウサギなので、警戒して少し離れて様子を伺った。

「こいつについて行けということか」

 だが、ウサギはただ口をもごもごさせているだけで、ついて行こうにも一向に動かない。

 こいつは夢なのだろうか。夢の中で夢を見ている夢を見ることもあるだろう。そもそも人間が猫になるなんて、こんなことが起こるはずもない。全ては夢である可能性だってあるわけで、もしかしたら、僕は何処かの暇な中年のおじさんが書いた、くだらない小説の主人公なのかもしれない。そうで無かったとしても、自分が現実に存在していることを証明できるのは、自分の意識の中だけなのである。誰かが僕の存在証明をしてくれたところで、やはりそれは自分の意識の中の認識でしかないのだ。

 そんなことを考えている間に、ウサギが動き出した。ピョンと大きく真上に飛んだ後、向きを変え庭に通じる大きなガラス窓に向かってジャンプすると、スッと消えて居なくなった。僕もウサギの真似をしてジャンプをしたが、ガラス窓に頭をぶつけてひっくり返ってしまった。

「あいたたたー」


 目を開けると、そこはいつもの公園の入り口だった。ウサギが公園の中へ入って行くのが見え、僕もついて行った。

 いつものベンチを通り過ぎ、公園の隅っこまで来たところで気がついた。太陽は真上にある。もう昼なのか。いやいや、やはりこれは夢の中なのであろう。

 ウサギは公園の一番隅っこの日の当たらないベンチの横でじっと止まっていた。何かを待っている様子だ。僕もウサギの隣に並び、ぐったりと寝そべった。なんせ夜中に起こされたものだから、突然の睡魔に襲われ、うとうとし始め、遂には眠ってしまった。

 どの位眠ってしまったのだろう。物音がしてはっと目覚めた。ウサギはさっきと変わらず、口をもごもごとさせているだけでじっとしている。

 ふと気がついた。ベンチに男が座っている。ヨレヨレのスーツに汚れた靴、ボサボサの髪。何ともパッとしない感じの怪しい風体の男。どうやら眠っているようだ。こんな奴に構うとロクなことがない。ここから離れようと立ち上がったとき、ウサギがピョンと飛び跳ねて、ベンチで眠る男の隣に鎮座した。「バカよせ」と忠告したが、遅かった。男が起きて顔を上げ、こちらを睨んだ。

「あっ!」

 その男は紛れもなく、人間だったころの僕だった。やはり、これは夢なんだ。

「どうせ僕はバカだ」、彼が呟いた。

 僕の言葉が聞こえたのだろうか。まぁ、姿は違うけれども、どちらも僕なのであるから、聞こえたとしても不思議ではない。

 また会社をサボって公園でボケッとしていやがる。全く呆れたヤツだ。自分ながら情けない。

「だって会社のヤツらは、面倒な縦社会のルールを無理やり押し付けてくるんだもの」

 どうやら僕の考えていることが通じているようだ。確かにあの体育会系のノリにはついていけない。気合いが入ってないだとか、声が小さいだとか、頑張りが足りないだとか、団結していこうとか、精神論での評価なんて無意味だ。そういう面倒を避けて一人で黙々と作業に打ち込めるコンピュータプログラマーになったのだから、余計な人間関係は極力排除したいものだ。

「先輩に逆らうなとか、上司を尊敬しろだとか、ノリが悪いとか、何の意味があるんだ」、もう一人の僕は愚痴をこぼし始めた。

「サラリーマンという人種はなんて視野が狭いんだろう。株価で世界が動くと思っていやがる。流行りに飛びつき、要らなくなったら捨てる。こんなんじゃ世界が崩壊してしまう」

「ならば、君は何が出来るんだい?」、僕はもう一人の僕に尋ねた。

「何かをする必要はあるのか?」

 質問に質問で返してきた。結局、彼は答えなど持ってはいないことは、僕が一番よく知っている。彼だけじゃなく誰も答えを持ってはいない。そもそも、答えなど無いのだから。そういう意味では彼は正しい。

「人間なんかに生まれてくるんじゃなかった。生まれたくて生まれてきたわけじゃない!」

 僕は黙って彼の言い分を聞いた。そして、人間だったころの苦悩を思い出した。猫となった今では、くだらないことでなんであんなに悩んでいたんだろうか、と不思議な気がする。猫の僕と人間の僕とでは、何が違うのだろう。勿論、姿や生活は変わったが、中身は変わらないはずだ。結局は、気の持ちようなのだろう。他人の生き方にただ左右されていただけなのだ。猫の生き方なんて誰も教えてくれない。だから、今は自分で考えるしかない。

「だけど、生きて行くしかないんだ」、僕はそれ以上何も言えなかった。

「僕も生まれ変わったら、猫になりたい。人間なんて…」、彼は呟いた。

 もしかしたら、僕が猫になってしまったのは猫の僕自身が原因かもしれない。これは夢なのか、過去の出来事なのか。巨人はなぜ僕にこれを見せたのだろう。それとも、僕自身の中にある潜在意識が幻覚を見せたのだろうか。

 ふと隣を見ると人間の僕の姿は無く、ウサギを抱いた巨人が座っていた。彼は手首を二度トントンと叩いた。「帰る時間だ」と言いたいようだか、彼は腕時計を付けていなかった。


 巨人は〈時間〉であり、ウサギは〈過去〉である。




第八章「博士」


 今日もまたあいつが来ている。最近の僕とバンダナのお気に入りは、いつも公園に来ているあいつをからかうことだ。あいつというのは、分厚い黒縁眼鏡にスーツの男で、公園の一番端のベンチに座りカタカタやっているのである。

「ねぇ、あいつがいつもカタカタやっているあの黒い板は何なの?」と、バンダナは僕に尋ねた。

「あれはタブレット型端末だよ」、バンダナはキョトンとして首を傾げた。

「小型のコンピュータさ」

「あー、電卓付き百科事典ね」、バンダナはそう言って彼の方に向かった。

 何かまた悪巧みを思いついたようだ。そして彼の隣に鎮座した。仕方なく僕もその隣に座った。

 カタカタカタ、タン

「申し訳ございませんが、南南東の方角に3・26センチメートル移動を要求します」

 彼の予想外の反応に驚いて、僕たちは一人分程距離を空けた。

「ありがとう御座います。その距離なら、感染率は0%に低下します」

 僕たちがキョトンとしていると、彼は続けて補足した。

「犬や猫の保有菌種は32兆4657億飛んで13種。その内の12・56%は人体に影響を及します。感染率が1%未満になる距離が25・46センチメートルなので、先程の位置から3・26センチメートルの移動を依頼したわけです」

 それを聞いたバンダナはここぞとばかり彼に詰め寄った。すると、彼は慌ててバッグから何やらスプレー缶を取り出し自分の体に散布した。更にもうひとつ、マスクを取り出して頭からすっぽりと被った。マスクといっても花粉症や風邪対策のアレではなく、防毒用のガスマスクだった。

「あはは!面白いやつだ!」  

 バンダナは彼を気に入ったようだ。

「私は面白くはありません」

 驚いたことに彼はバンダナの言葉に答えた。

「君は僕たちの言葉が分かるのかい?」、僕はガスマスクの男に聞いてみた。

 カタカタカタ、タン

「この密度0・653グラム毎立方センチメートルの木製ベンチから伝わる声の振動波と、トーン解析及び特異行動により、あなたたちが発するおおよその言葉は解釈可能です。あなたたちの音声データは既に入手済みであり0・23秒で解析完了します」

「わぉ! 何だか解らないけど、すごいわね! 私たちは人間の言葉は分かるけど、人間は私たちの言葉は分からないはずだもの」、バンダナは言った。

「でも、僕たちが喋っている言葉が人間のものだとしたら、これはインチキじゃないか。そもそも犬と猫が会話をしているなんておかしい。僕たちは普通の犬や猫じゃないんだから」、疑っていたわけではないが僕は反論してみた。

 カタカタカタ、タン

「私の耳に届くあなたたちの音声は人間の言葉ではありません。あなたたち同士に伝わる音声は脳の中で人間の音声に変換されているのですね。道理で解析結果が鮮明なわけです」

 バンダナはチンプンカンプンでわからない、という表情で僕を見た。

「ところで、君はいつもここで何をしているの?」、彼に尋ねた。

 カタカタ、タン

「本日は、天気を解析しているのです」

「天気を予想できるの?」

「いえ、予想でも予報でもありません。私の天気解析は99・9%の精巧なものです」

「天気は解析不可能だって何処かで聞いたことがあるけど、それ本当なの?」、僕はもう一度反論した。

「本来、データ入力型の天気解析は、データを測定する機器自体に誤差を生じ、その微細な誤差が後に莫大な格差を生み出すという事実が証明されています。それがカオス理論です。しかし、私の解析は測定データではなく、自然界に於ける動的な出現を意味する黄金比率[(1+√5)/2]を定数とした超自然方程式を用いて、パイ[π]の数字配列の中から適正に抽出した真の値の入力解析なので誤差は存在しないのです」

 きっと難しい言葉を並べて僕たちを混乱させる気なのだろう。

「本当なのか、見せておくれよ」

「いいでしょう。今から、6分24秒後の5時2分13秒に雨が降ります。これは確率論ではなく99・9%の解析結果です」

「100%じゃないの?」

「自然界には私たち人間が踏み込めない世界があります。それが0・1%の領域なのです」

「なるほど」、バンダナは知ったか振りの相槌を打った。

 僕たちは公園の時計に目をやった。タブレット男はバッグから傘を出し雨に備えた。

「こんなに晴れているのに本当に雨なんて降るのかな」

 僕とバンダナは晴れ渡る空を見上げた。


 沈黙が続き、ちょうど一分前になって彼は傘を開いた。

「君たち、濡れてしまいますよ」

 彼はバッグからビニールの袋を出し僕たちに差し出した。そして、公園の時計を見ながらカウントダウンを開始した。

「あと5秒」

「4」

「3」

「2」

「1」

「……」

 雨は降らなかった。

「何だ!やっぱりインチキじゃないか!」

 彼はガスマスクの下で笑っていた。

「通算999回目で1回の自然界の領域が出現した。降水解析99・9%という僕の計算が正しいことが証明されたんだよ。解析は成功だ!」

 彼は傘を差したまま立ち上がり、笑いながら公園を出て行った。

「全く、何て言い訳だ!」バンダナと僕は怒っていた。その時……


<ウー ただいま 五時を おしらせ いたします そとで あそんでいる こどもたちは おうちに かえりましょう>


 僕は公園の時計を見て、ハッと気がついた。

「あ、五時のサイレンだ! そうか、バンダナ、これを被って!」

 バンダナの頭にビニール袋を被せた。

「さぁ、早く!」

 バンダナはビニール袋の底を破り、そこからひょっこり顔を出した。

「何処へ行くの?」

「家に帰るんだ!」

 僕はバンダナを連れて、大急ぎでピカソじいさんの家へ向かった。公園を出た時にはもう空がどんよりし始めた。タバコ屋の角を曲がったところで雨が降ってきた。家に到着して時計を見た。

「5時2分過ぎ!」

「え?」

「5時2分13秒、彼の計算は合ってたんだ!」

「だって、公園の時計は…あっ!そういうことだったのね」

「そう、公園の時計が狂っていたんだ!」

「お陰でずぶ濡れにならずに済んだんだ」


 その後大雨はさらに強まり、屋根に当たる雨音の子守唄を聞きながら、僕たちはいつの間にか眠っていた。


 昨日の雨は朝まで続いた。ようやく雨が上がり、タブレットの男に会いに公園に行った。しばらくして、タブレットを持った彼がやって来た。僕たちを見るなり、またバッグからガスマスクを取り出して被った。

「博士!」、僕は彼に敬意を表してそう呼んだ。

「私は博士号は取得しておりません。博士という称号は不適切です。大学はおろか小学校も卒業していないのですから」

 僕たちは驚いた。

「えっ!あんなに沢山の知識や凄い計算が出来るのに?」

 あまりに驚いて、昨日のお礼を言う機会を逃してしまった。

「私はこのコンピュータを操作しているだけです。データは全てこの中にあります」、彼は黒い板をたたきながら、そう言った。

「ところで、今日は1000回目の天気解析をするの?」

「昨日の解析結果はやはり失敗でした。これで自然界の領域か出現しなければ、私の計算は間違いということです。現時点で午後4時32分43秒頃雨が降ります。これは96・2%の解析率であって32秒前後の誤差が出ます。99・9%の解析はあと数時間かかります」と彼は言って、またタブレットを打ち始めた。

 まだまだ解析結果が出るのは先。長い一日になりそうだ。


 数時間後、僕たちはいつの間にか眠ってしまっていたようだ。横を見るとタブレット博士も眠っていた。するとバンダナは何かイタズラを思いついたようで、博士のタブレットを彼の手からそっと取り上げた。

「何をするんだい?」

「しーっ!」

 バンダナはそのタブレットを見ると、目を丸くして首を傾げた。

「ねえ、見て!」

 彼女が見せた物は、予想もしない代物だった。

「これ、プラスチックの板?!」

 それはタブレットでもコンピュータでもない、分厚い下敷きのようなただの黒いプラスチック製の板だった。

「どうなってるの?」、僕はバンダナの問いに答えた。

「彼はこれをコンピュータだと思い込んでいるんだよ。つまり、これまで彼が話した知識や計算式は彼の頭の中にあるんだ。彼は本物の天才ってことだよ」

「えーっ!」

 その時、バンダナの声で彼が目覚めた。彼はガスマスクを外し眼鏡を取って言った

「おらのコンピュータァ~、返してけろぉ~」

 僕とバンダナは硬直してしまった。眼鏡の下はまるで別人だ。方言丸出しの田舎の兄ちゃんがバンダナの持っているタブレットを取り返した。するとまた慌てて眼鏡を付けガスマスクを被って言った。

「私はこれがないとダメなのです」

 やはりタブレット博士だ。僕とバンダナはお互いに顔を見合わせた。その直後、バンダナの目の色が変わった。この目は彼女か悪い事を企んでいる時の目だ。すると、彼女は素早い動きでもう一度博士から黒い板を奪った。彼はガスマスクと眼鏡を外して言った。

「だからぁ~、ダメだってぇ、言ってるでね~がぁ。おら、それがね~とぉ、ダメなんだぁ。返してけろぉ~!」

 バンダナは大声でゲラゲラ笑いだした。僕も可笑しくて笑ってしまった。博士は再びタブレットを奪い返し、眼鏡とガスマスクを付け、下を向いてしまった。そして語り始めた。

「私は十代のころから精神疾患があるのです。解離性同一性障害、つまり…」

「二十人格っつーやつだな。ほんでー、このせいでぇー」

「学校にも行けなかったのです」

 バンダナは人格がころころ代わる博士の反応を面白がって、タブレットを奪ったり返したりを繰り返した。

「二重人格者は、それぞれ人格が代わるとき、引き金となる何かきっかけがあるのです」

 タブレット博士は奪われないように必死にタブレットを握っていた。

「私の場合はそれがこのコンピュータなのです。これを放すとスイッチが入り人格が入れ代わるのです」、彼はタブレットを抱えたまま下を向いて悲しそうに語っていた。


「そろそろ最終解析をしなければ。1000回目が失敗ならば、このタブレットはもう役にたたない。これで私も終わりになるのです」

 バンダナはそれを聞いて僕に耳打ちをした。

「いい作戦を思いついたわ。協力して!」

 バンダナの作戦を聞いて早速準備を始めた。博士はベンチでただの黒いプラスチックをタンタンと叩いていた。


 しばらくして、バンダナは準備を終え戻ってきた。博士は計算を続けている。作戦実行の時が来た。

「かかれ!」

 まず、バンダナが博士のタブレットを奪った。

「返してけろー!」と、ガスマスクを外し眼鏡を取った瞬間、僕は彼の眼鏡を奪った。そしてバンダナはタブレットを彼に返すと、彼は慌ててガスマスクを被った。

「眼鏡を返して頂けませんか!」、そう言いながら天気の解析を進めた。

「99・9%の結果は?」

「意地悪をしているつもりでしょうが、眼鏡は無くてもコンピュータがありますから何とかなります。残念でしたね」

「結果はまだ~?」

 タンタン、タンタンタタン、タン

「結果が出ました。午後4時32分41秒に雨が降ります。もちろん99・9%の精度です」

 僕たち二匹と一人はその時を待った。

「うまくいった」バンダナは隣でそっと呟いた。

 彼の解析結果の午後4時32分41秒が近づいた。

「これが成功しなければ、この作戦も失敗に終わる」、僕は呟いた。

 99・9%雨が降るということは、1000回に1回だけ雨が降らないということだ。確率論ではない。例えば、コインを投げて表が出る確率は1/2つまり50%であるが表が2回や3回連続で出ることもある。確率は発生の度合いを示す指標でしかないが、彼の解析は偶然性でなく必然的な自然の法則を数値化してるようだ。


 いよいよその時が来た。彼は静かにカウントダウンを始めた。

「5秒前」空には灰色の雨雲。

「4」遠くの空で稲妻が光った。

「3」ゴロゴロと空が鳴っている。

「2」降るのか?

「1」空の隙間から。

「0」日の光が射した。


「成功だ!」

 さっきまで空を覆っていた雨雲が、どんどんと宇宙に吸い込まれていく。

「博士!」

 やがてオレンジ色の夕焼けの空が一人と二匹を照らした。

「やはり私のこのコンピュータに狂いは無かった」と博士が言うと、バンダナが答えた。

「え? どのコンピュータですって?」

「ですから、この・・・」

 博士は気がついた。そして、バンダナは隠してあったそれを博士に見せた。

「このタブレットのこと?」

 バンダナの計画で博士のタブレットPCを偽物とすり替えたのだ。今、博士が持っているのはバンダナが探してきたただの黒い板切れだった。

「あっ!そんなはずは・・・」

 博士はオロオロし始めた。僕は博士に言った。

「これまでの知識や計算はコンピュータの入力結果ではないのですよ。あなたの頭脳に全て入っているんです」

「そんなバカな話があるものですか。あの莫大な桁数の数値計算なんて、人間の脳に出来るはずはありません」

 博士はまだ気付いていない。バンダナは博士のタブレットを地面に置いた。

「見ててね。これはただのプラスチックなんだよ」

<バキッ>

 バンダナはタブレットを踏んづけて割ってしまった。そしてその残骸を博士に渡した。

「これは偽物だ。私のコンピュータを返してください」

 その直後、僕は博士の膝にピョンと飛び乗った。

「ぎゃー!」

「感染しますよ!」

「こ、この距離だと…感染率は…75・8%です。直ちに離れてください!」

「博士、今の計算はどうやって?」

 博士はようやく気がついた。

「おや?ちゃんと計算式が頭に浮かんで、計算できました。あれあれ?」

 すると博士の目から涙が一粒こぼれた。彼は二つに割れたタブレットを手に取った。

「本当だ。これは、ただのプラスチックだ」

「博士、もうそんな物に頼らなくていいんだよ」

 これまでの硬い表情が溶け出し、段々と穏やかな優しい顔に変わった。

「私は自由になれたのかい?」

「博士、試しに天気の解析を」

「やってみます」

 博士は膝をタンタンと叩いて計算を始めた。

「大変だ!あと1分43秒で大雨が来るぞ!」

 博士はバッグからレインコートを取り出した。彼はそれを着ると僕とバンダナをコートの内側に入れた。

「博士、感染しますよ!」

 バンダナは冗談っぽく言った。

「感染率は95・2%ですが、私の脳内データでは感染したとしても、治療後の完治率は100%です」

 そのとき、上から雨が落ちてきた。

「あれ、まだ解析の時間になってないよね? おかしいな?」

 見上げると、僕たちを抱きしめたまま博士は大粒の涙を流していた。



 退屈なある日の公園のいつものベンチにて。

「博士はどうしたのかな?」、バンダナは僕に聞いた。

「あれからもう来なくなったね」、こう言うと、バンダナは寂しそうにしていた。

「あれ程の天才だもの。どこかの大学の教授やら何かの研究者にでもなったんだろう。きっと忙しいんだよ」、慰めにもならないが、こう付け足した。

 すると目の前に誰かが現れた。彼は僕たちのベンチの横に座ると、指で膝の上をタンタンと叩いた。

「あ!博士!」

「やぁ、君たち。元気にしていたかい?」

 バンダナは彼が博士だと分かると早速彼の膝に飛び乗った。

「いつもと格好が違うから分からなかったよ」と、バンダナは彼に甘えて見せた。

 彼はいつもスーツに眼鏡だったが、この日はジーンズにジャンパー姿だった。

「お別れを言いに来たんだ」

「どこかへ行くの?」、バンダナは心配そうに彼に聞いた。

「学校へね」

「わー! とうとう大学教授かい?」

 僕が聞くと、意外な答えが返ってきた。

「小学校へ行くんだ」

「えーっ!」

「僕に足りないのはコミュニケーション能力さ。それを学びに小学校から再出発するんだ」

「そっかー」

「なかなか僕を受け入れてくれる学校が無くてね。一校だけあったんだ。事情を話すと是非来てくれということなんだ。そこには動物と話せる少年もいるらしい」

「よかったね」

 僕とバンダナは素直に彼の進路を喜んだ。

「遠いところなの?」

「うん、遠くの島にあるらしい。明日出発するんだ」


 その日の午後は遅くまで一人と二匹の未来の話が続いた。



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