鬼の腕
第一部
1
光にはだいぶ前から気づいていた。
肌をほのかに温め、こわばったからだをほぐしてくれる。閉じた目にもまんべんなく光が降りそそぎ、まぶたを軽くたたく。心地よい眠りからそっと引きはがそうとするように。意識は半分目覚めているが、もう半分は眠りに逃げ込みたいとささやかにあらがっていた。
だが、覚醒が勝利をおさめ、眠りから静かに浮かび上がっていく。
彼は目をあけた。
目をあけると、それまで少女と見まごう、整った面影が一変する。肌は透き通るように白く、唇は濡れたように紅く、鼻梁は通って美しいが、問題は大きくて切れ長の瞳だ。
左右色が違う。視力はあるが左目は黒眼に色がなく、白目をむいているように不気味だ。
横たわっていた彼は、目だけを動かしてあたりを見回した。
洞窟の底だった。ごつごつとした岩肌が彼を囲む。真上にはぽっかりと穴があき、そこから白い光が注がれている。光は強烈で、穴の形もよくわからないほどだ。ただ、おそろしく深い底にいるのはわかる。
ゆっくりとからだを起す。動くと、からだのなかが微細にゆれている。
楽にからだを起せた。自分の身に起きたことを思い出し、おやっ、と思う。
彼はからだを仔細に見回す。着物や肌には汚れがない。刺された腹に手をやるが、つるりとした感触しかおぼえない。
彼、片桐弥一郎は気づく。
「死んだのか、俺様…」
ふたたび目を閉じる。あの瞬間がたちまちよみがえった。
人ごみにまぎれて忍び寄る子どもの足音。殺気。その日、唇に触れてはうわの空になっていた。普段の用心深い弥一郎にはありえぬことだった。
その瞬間も唇に触れていた。
憎しみを目にみなぎらせた少年がそばまで迫って、ようやく注意を取りもどす。少年はそのまま彼に体当たりした。握った両手には刃があった。
鋭い痛みが身の内で炸裂した。血が勢いよく吹き出る。弥一郎は少年を認めた。
「ぼうず、満足か」
少年は血しぶきをあびて、放心しきっていた。
後ろから手下が駆け寄り、震動が地面を伝わる。弥一郎は最後の力を振り絞り、叫んだ。
「逃がしてやれ!」
そのまま、意識は闇に沈んだ。
今一度刺された箇所を触ってみる。感触に変化はない。
「ほんとうに死んだんだな」
と声を出すと、自分とは思えない響きだ。たじろぎ、目をあける。
「ここは地獄か極楽か? 俺様の今までの所業を考えりゃあ、極楽ってわけはないか…」
考えをそのまま口にした声は、さっきよりしっくりする。いつもと同じ、とはいかないが、黙っているよりましだ。あたりは静まりかえっていて、弥一郎をおびやかした。
「おい…ここはどこだ? というより、ここは地獄か? そうなんだな。まったくの一人ぼっちだ。聞こえるのは、てめえの声ばかりでだれもいやしねえ。そうか、これが地獄か」
弥一郎は迫力ある地獄を想像していたので拍子ぬけしたが、無音の世界もかなり堪えた。
店が立ち並ぶ通りの喧騒が恋しい。波のように砕けては自分を包み込む道行く人のざわめき、子どもの甲高いはしゃぎ声、物売りや呼び込みの声。そういったもろもろの音や声を今聞けるなら、すべてを投げうってもいい気さえした。
立ち上がろうとする。からだが驚くほど軽く、さらさらした砂粒で自分ができているような、心もとなさがある。動くとほろほろと崩れ落ちそうだが、何事もなく起き上がれた。
死ぬとはこういうことか、と彼は感心した。
足元のまるい底が発光し、土色から白へと色が変わっていく。光がゆっくりとまたたくと、白くなった底は巨大でつややかなクラゲがからだいっぱい広がっているみたいだ。
底は透明度を増していった。弥一郎は、光をはなつ底を魅入られたようにながめ続ける。
そのときだった。
声が来た。
声は弥一郎の名を呼んだ。弥一郎は、いかにも、と答える。
「何者だ?」
「何者だと思う?」
「さあな」
「興味はないのか?」
「なくもない。さしずめ、閻魔大王ってところか?」
「閻魔大王…ま、そう呼びたいならそれでかまわない…」
「ふふん。その割には、不服そうな声だしているぜ。俺様は地獄に堕ちたんだな。そうだろう?」
「極楽、と思わないのか?」
「俺様はそこまでずうずうしくできていないさ」
弥一郎はからりと笑ったが、すぐ怪訝な顔になる。
「でも、思っていたような地獄じゃないし、一体全体どうなっているんだ?」
「ようやく興味を持ったようだな」
声にはからかうような調子が混じった。
「極楽、地獄はどうでもいい。我々はお前にひとつ頼まれてもらいたいのだ」
我々だと? 頼まれたいだと…?
疑問が胸に広がる弥一郎に、声はたたみかける。
「お前に死神稼業を引き受けてもらえないか、と思っているのだ」
「し、死神?」
2
「し、死神?」
声を裏返して聞き返した弥一郎に対し、声は力強く答える。
「そうだ。これほどの適材を放っておく手はない」
「ずいぶんと持ち上げられたもんだな」
弥一郎は驚きを隠さない。
「しかし、死神とはねえ」
「お前も会ったはずだがな」
子どもに体当たりで刺され、がっくりと膝をついた時、妙に落ち着きはらった若い男がするりとそばに来た。着物は白かったが、ほとばしった血にはまるで染まらなかった…。
「あいつか」
「そうだ」
「死神っていうのは、死ぬやつのそばで、漂うようにいりゃあいいのかい? ずいぶんと楽な稼業だな。今までの俺様の積悪のふるまいを考えれば、大変なお目こぼしだ。
死んだのだって、ガキに刺される無様さだ」
「死神が気に入らないのか。わざわざ子どもに殺されたお前ならばこそ、と思ったのだが」
「わざわざみじめに死んだ連中をあつめているのか?」
「そうではない」声はむっとしたように言う。
「あのあと、子どもを逃がしただろう」
「すべてお見通しってことかい。なら、ガキの母親を手慰みに切り殺したのも、知っているのかえ?」
「知っているとも」声は静かに答えた。
「お前が慈悲の心から殺したことも」
弥一郎は棒立ちになった。それからいきなり笑い始めたが、どこか凄惨な笑いだった。
「気が乗らねえ」
その日、彼は手下の二人に言い放つと、ぶらぶらとからだをゆらし歩く。
「ごみ溜めみたいに、ひでえ場所ですからね。においも住んでる連中もごみみたいでさあ」
手下の一人、宗次がおもねる。宗次に目を向け、合った。
相手の目におびえが走る。宗次は若い。弥一郎の妖鬼めいた顔を見るたび、おびえるのを隠しきれない。
弥一郎は何気ないふりを装って、顔を元にもどす。ただ強く奥歯をかみしめる。
「早いとこ、見つけ出して、ごみさらい、といきたいもんでさあ」
古株の新蔵がすばやく声をかける。弥一郎の不機嫌を察したのだ。
弥一郎には、その気づかいが余計うっとうしい。とはいえ、無視して、やはり機嫌を悪くしていると思われるのもシャクだ。
「ああ」と、歯の間から言葉を押し出した。
手下の面前で、巾着切のガキを取り逃がした。暴れ馬が駆け抜けたせいで犯人のガキをわきに押しやった。そいつはすぐさま姿をくらました。弥一郎の財布をも、ちゃっかり掏って。
あたりはつけてある。あとは、そのガキを捕まえるばかりだ。
弥一郎は財布なんてどうでもよかった。金には不自由していない。
表向きはしがない役人だ。が、店や地回り(やくざ)に、連中の知りたがっている風聞や手入れの日にちやらを教えて重宝がられ、その報酬は結構な額になる。
弥一郎は手下や自分の足をつかって、いざとなれば自慢の腕にものを言わせて、「獲物」の風聞、とりわけ弱みを握ることに長けていた。
手入れのことをばらしたとしても、弥一郎に手も足も出せないような弱みを。
味方には頼もしがられたが、敵からは恐れられ、憎まれた。毒虫を見るような目つきを向けられ、蛇蠍のように嫌われたことも一度や二度ではなかった。
だが、おかげでふところはいつも豊かだった。
あんなはした金…、くれてやるのに。面子さえ気にしなくてすむならば。
新蔵と宗次が掏られた直後の弥一郎を見る目つきを思い出す。
ガキに、抜け抜けとやられちまった、片桐のだんながよ…。
驚きと蔑みが入り混じった目つき。
そのままにしておくわけにいかない。
新蔵と宗次はここ、河市藩の生まれだ。弥一郎は江戸で育ったが、天涯孤独の身となったため、河市藩に流れ着いた。
海と山で江戸やほかの藩から隔てられているせいか、人の流入が少なく変化にも乏しいここでは、よそ者は珍しがれるとともに、敬遠された。弥一郎の異貌もうとまれる一因だった。
新蔵と宗次は弥一郎の権力と腕前に恐れをなしてへつらっているものの、いざとなったら知れたものではない。流れ着いて十年以上経つが、依然よそ者あつかいだ。土地柄に詳しい手下とつながりを切ったら、腕のたつ弥一郎とて達磨と変わらない。
ここに来た当初、手下になった源太なんぞは、会ったばかりの弥一郎に難癖をつけてまるで平気で、周りもそれを許していた。
その思い出が今も弥一郎を縛っている。
河市藩は、江戸から海に出て船に乗るとそう遠くない。気候も穏やかで飢饉とは無縁の土地柄で、小藩ながら海もあれば山もあり山海の珍味に恵まれている。藩主を筆頭に住人ものんびりしてガツガツしたところがない。万事にゆるんだ気風だ。が、豊かな風土に育った誇りはおごりとなり、よそ者を軽んじる風潮がはびこる。のんびりとした外面の裏には、よそ者を簡単には認めない頑強さが隠れている。
弥一郎にとって、河市藩の暮らしはなじまなかった。気が短い弥一郎と、すべてにのんびりしている土地の人間とのそりが合うことはめったにない。
ただ、髪型はここにいて助かった、と弥一郎は思う。
弥一郎は前髪を伸ばし顔を覆い、後ろは垂らした。左目がさらされるのを嫌ってのことだ。
人々は不気味な白目がさらされるのを恐れ、髪型は黙認されている。
今でこそ弥一郎の膂力と腕前は知られているが、もとはからだが弱かった。左目は右目に比べ視力が落ち、透けるように白い肌は陽に当たると赤くはれた。
ただ、幼いころから負けず嫌いだった。江戸の八丁堀の道場でもまだ勝てもしないころから、負けて「参りました」というのを嫌がって癇癪をおこしたほどだ。
道場で負けをみとめないくらいなので、喧嘩になると容赦をしなかった。とことん戦う、それが弥一郎の矜持でもある。
年が上の者、からだの大きい者にも、いじめられると向かっていった。どんなに殴られてもあきらめず、髪が乱れ、血まみれの顔を向けて相手に挑む。その顔には不気味な白目。相手の戦意はたちまちそがれてしまうのだった。
いささか重い足取りで歩く弥一郎の目は、掘立小屋から飛び出てくる小さな影をとらえた。
探していた少年だ。猛禽の目になった弥一郎は手で合図する。
さっと手下二名が狭い道の上で身構えた。少年の目にまぎれもない恐怖の色が走る。後ずさりして、逃げ場を探そうとする。
弥一郎はすばやく跳び、向こうずねを蹴りとばした。少年は音を立てて倒れる。少年がほこりまみれの顔を上げると、六尺(約一八〇センチ)ほどの長身の弥一郎がそびえ立っている。弥一郎は甲高く笑った。
「この俺様から逃げられると思ったか? 甘いなあ」
笑いを引っ込め、憎しみをこめて思いっきり少年の脇腹を蹴る。初め手下に見せつけるつもりだったが、すぐ忘れた。
弥一郎は時々幼いころの喧嘩のくせにもどる。相手がだれであろうと、徹底的にたたきのめす。抑えがきかなくなるのだ。
鋭い悲鳴が何度か上がる。我にかえるどころか、弥一郎の憎しみに火をつける。が、手下が下卑た声で少年を笑うのを聞き、一気に熱がさめていく。
熱くなりすぎた…。
戦う相手の瞳に浮かぶ彼。白目の持ち主の自分。それを消そうとして、熱くなる。まるで背中から火にあぶられるように、喧嘩にのめり込んでしまう。
何をしているんだ、俺様…。
泣き叫ぶ子どもを見下ろしながら、いっとき放心していた。
がさがさとむしろが巻き上げられる。鈍い足取りで女が現れた。顔色が悪く、痩せたからだをボロで包んでいる。うめく少年に駆け寄ろうとするが、よろめくばかりだ。
こいつのお袋か。
弥一郎はちらと見やった。
「お、お許しください。この子が盗ったお金ならここに」
手を震わせ弥一郎の財布を捧げ持ち、地に額をこすりつけた。
これでいい。面子なら十分保てただろう。
弥一郎は財布の中身が減っているかどうかも見ないで受け取る。
この貧乏所帯からこれ以上出させるのは、乾いたぞうきんから水を絞り出すようなもんだからな。
背を向け、大股に歩き去ろうととした。
ごほっと大きな音が、弥一郎の神経をはじいた。母親は激しくせき込んだ。汚れた手の間から鮮血がこぼれ落ちる。
喀血。
弥一郎の顔色が変わった。弥一郎の頭に雷が落ち、すべてが白く変わる。
弥一郎は刀に手をかけていた…。
3
「あれを慈悲、と言うなら、死神ってのは、ずいぶんお目出度い連中ばかりだな」
弥一郎がせせら笑うと、気を悪くしたかのように声はしばらく応答しなかった。
弥一郎は目を閉じて、意地でも静寂に耐えようとする。が、長くは続かなかった。
彼は目をあける。
「もう俺様は死んでいるんだものな…。意地を張っても始まらねえよなあ。
そうさ。てめえのお袋を思い出したんだよ…。おんなじ病気だったからな。助からねえ。どんなに養生しても、薬飲んでも、だ。
ガキの母親はもっと始末が悪い。赤貧洗うが如しの暮らしぶりだ。あのガキは助けようと、自分の喰う分も差し出すが、ちっともよくならねんだ。共倒れになるのが落ちだ」
そこまでしゃべると、きっと表情を引き締める。
「だから、切った。だが、ほんとうのところはてめえにもわからない。考える先にからだが動いていた。お前さんが、それを慈悲、っていうのは別にかまわねえさ。俺様はただむしゃくしゃして切り殺しただけかもしれねえぜ」
「鬼の腕、と呼ばれたお前らしく、痛みを感じる間もなく切り殺せたって聞いたぞ」
「皮肉かよ」と弥一郎はもらす。
「鬼の腕か。辻斬りの一件だな。なにもかも調べたのか」
「くるみのこともな」
弥一郎は稽古を欠かさず、膂力は人並み以上だった。右手の力が強く、殻ごとくるみを割れた。くるみを割ってみせると、面と向かって弥一郎に立ち向かう輩はいない。
剣の腕前も、鬼の腕、と異名を取る。
鬼の腕。弥一郎がこの土地に流れ着いてまもなく、付いたあだ名だ。
町内で辻斬りの被害が相次いだ。のんびりしたこの土地では藩始まって以来とまで言われた騒ぎだ。
弥一郎も駆り出され、夜廻りをつとめた。手下が若い弥一郎を鼻もひっかけないのをひけらかすのにイライラしながらの夜廻りだった。一人は今もつるむ新蔵、あと一人は弥一郎にいろいろと難癖をつけた源太だ。
源太はぎりぎりまで夜廻りについていくのを嫌がった。彼の命令にに従おうとせず「よそ者はここでのしきたりをまず覚えなきゃあな」と二言目には付け加えた。面と向かってあっさりと言われたため、彼は顔色を失い棒立ちになって一言もかえせなかった。周りも源太をたしなめる者が皆無で、下手に怒りだせば笑い者にされてしまいそうだ。ここでは、上下関係は絶対ではない。土地の者か、よそ者か。それがすべてなのだ。河市藩に来て間もない弥一郎もすでにそのことを嫌と言うほど思い知らされていた。
ただ、これほどとは。
弥一郎は歯ぎしりした。
一方、刻々と夜廻りの刻限は迫っていた。
弥一郎はついに決心を固める。
「よそ者は」と始めた源太の前にずいと出た。剣呑な気迫に源太は黙る。弥一郎はくるみを出し、源太の鼻先で殻ごと割った。
源太の顔は恐れで青ざめ、夜廻りをしぶしぶ承諾した。
夜廻りでは、新蔵と源太は弥一郎の後についてくる。
「そう言えば」と新蔵はしゃべっている。「女も容赦なく殺されたっていうじゃないか。産婆が切られたっていうぜ、その産婆って確か…」
「まったく、どこの馬鹿なよそ者の仕業なんだか」と、源太はさえぎる。
当てつけがましいセリフに、弥一郎は失笑しかけたが、すっと刀に手をかける。
殺気。
鯉口を切る。源太と新蔵はまるで気づいていない。構わず刀を抜き隙なく構えた。辻斬りは源太の下げた提灯を狙い、白刃を閃かす。
源太は喉を一突きされ、脇に転がり絶命した。
満月に雲がかかり視界は晴れているとは言い難い。雲は風で時折流され、その時だけけざやかな月光があたりを洗う。提灯は道端でまだ燃えていたが、雲に月が隠れると如法暗夜となる。
弥一郎はひたすら待った。相手も同じで、間合いを十分図っている。新蔵は横ではいつくばっていた。
今まで見たこともない、見事な突き。
なんでこんな腕前のやつが、河市藩くんだりで辻斬りしていやがるんだ? ここいらの連中相手だと、物足りないだろうに。
腑に落ちないものを感じながら、弥一郎は辻斬りに対峙していた。
強風で雲が流れ、月光があたりを銀色に染め上げた。真向かいからの風が弥一郎の前髪を上に吹き飛ばす。ほこりに弥一郎は目を細めたが、顔はさらされた。
月光が照らす不気味な左目を目の当たりにして、辻斬りが息をのむ気配が伝わる。辻斬りが立てる馬鹿した、耳障りな笑いが編笠ごしに響いてきた。
「今宵は化け物退治となったようだな」
それが弥一郎に火をつけた。
カッとなった弥一郎は後先考えない闇雲な勢いで、辻斬りに突進していった。
俺の目を虚仮にしやがって。
弥一郎の総身は屈辱に震えていた。辻斬りは突きを鋭く的確に繰り出す。
最初弥一郎が感じたのは、痛みより音だった。左肩を刀が切り裂く音。突進しながらも寸前で体を右に振って、喉への突きを避けた。横から相手の胴を狙う。切るというより、膂力をいかして力任せに刀を打ち込んでいった。
刃は胴にめり込み、背骨を切り、からだを真っ二つにした。どっと血が吹き出し、辻斬りは絶命する。
人が集まってきた。人々には、弥一郎が鬼神のようにうつったことだろう。
全身に返り血をあびながら、そびえ立つ弥一郎。血まみれの顔には、月のように白い左目が光る。
のちに、相手を真っ二つにした腕前を、鬼の腕、とみな噂したのだった…。
辻斬りの正体は他藩から流れ着いた浪人だった。
役所側は弥一郎にそれしか教えなかった。詳しく訊こうとしてもはかばかしくない。下手人が死んでしまえば、万事にゆるいこの土地では、呆れるくらい事件を顧みない。
弥一郎はもっと詳しく調べてやろうと決心する。
手下の新蔵は、辻斬り以来弥一郎の腕前に心底惚れ、弥一郎に一目置くようになった。
弥一郎もすり寄る新蔵をむげにはしなかった。当時はまだ乏しい自分の懐から、気前よく新蔵に酒手をだしてやったりした。いろいろ風聞を得るために。
新蔵はいそいそと風聞をあつめてきた。
辻斬りは、ずっと妓楼の梅華楼に滞在していた。梅華楼は、評判の遊女がそろう菊水亭と並ぶ藩でも有数の店だ。
辻斬りは昼間から酒を飲み、女を呼んでいた。夕方に出て行って、夜遅くにもどる。
「店の支払いはきっちりしていたのか?」
「踏み倒しですよ。店側は気にしていませんけどね」
「ふうん」弥一郎は目を細めた。「匂うな」
新蔵は弥一郎の顔を困ったようにながめる。黙った新蔵を見やって、弥一郎は口を開く。
「どうしたのかえ? もの言いたげだが」
「だんなは江戸の人ですよね」
「よそ者って言いてえのか」弥一郎の顔色がさっと変わった。
「いえ、違います。早とちりしないで下さいよ。江戸って、生き馬の目を抜くような大変なところだって聞いています」
「おうよ。とにかく、うかうかはしていられねえな」
「でも、ここいらは違うんですよ」
「いったい、どう違うんだえ?」
「江戸なら宿代を催促したり、懐具合が悪そうだと店に上げなかったりするんでしょうね。でも、ここいらはなんとかなるさ、って全然気にしないでそのままにしますから」
「信じられねえ話だな」
「だんなはそう言うと思っていましたよ。どうあっても、梅華楼に出かけますか?」
「お前の話を聞いているうちに、どうでもよくなったよ」
「そうしないと、ここではやっていけませんよ」
新蔵は気がきくほうだと思っていたが、所詮はここの人間だ。ここの土地の連中だと、埒があかねえ。ここはひとつ、自分で動くしかないな。
弥一郎の心中を知る由もなく、新蔵はのんびりとした声を出す。
「殺された源太の叔母は産婆だったんですがね、その叔母さんも殺されているんですよ」
「辻斬りにか」
新蔵はうなずいた。
「ふうん」と弥一郎は眉をひそめる。
「そんなのはたまたまですよ。産婆が夜出歩くのはざらですし。気にしないで下さいまし。藩内ではだんなの腕前のことでもちきりですから、いい話が舞い込むかもしれませんよ」
弥一郎は新蔵に対しあいまいに笑ってみせただけだった。
弥一郎は梅華楼に出向いた。すぐ包みを持った小僧が出てきた。その小僧の背中に厳しい叱り声がとんだ。
「もう、それでなくていい、って言っただろう!」
もう、それでなくていい?
ちらっと見やると、小僧の手の中のものは、けっこうなかさがある。
叱り声を発した男は楼主だった。大きな声を出したことを弥一郎に丁重に詫び、慇懃に店に上がるようにうながした。
辻斬りのおかげで閑古鳥の鳴いていた妓楼にとって、片桐様は大恩人でございますからね、と言って。
上にも下にもおかない接待ぶりで、喜ぶどころか弥一郎は面喰らう。
いよいよ疑いは濃くなった。
いったい、あれだけの包み、だれが受け取っていたんだ? これまで、だれが?
疑いはいつまでも頭をはなれなかったし、次から次へと謎が湧いてきた。
辻斬りが代金を踏み倒しても、梅華楼がことさら嘆き騒いでいないのなぜか。
産婆と甥の源太が辻斬りに殺されたのは、はたして偶然なのか。
新蔵に梅華楼に行ったことを告げると、いい顔をしなかった。
弥一郎はなだめるように新蔵に話しかける。
「お前の忠告通り、いい子にしていたんだぜえ。詮索は一切なしで。なにせ、大変な歓迎ぶりでな」
新蔵は笑顔になった。
「言ったとおりでしょう。辻斬りで閑古鳥鳴いて、花街は頭をかかえていましたから」
「お前には礼を言うぜ。一緒に行けば、お前だって歓迎されるさ。とにかく、梅華楼はもてなし上手だ。金子を落とすのもな。他にもばらまいているのかえ?」
「ああ、」と新蔵は顔をしかめた。「死んだ源太はなにかとあそこに世話になっていたようで。あの通り強引な男でしょう」
「なるほど」
新蔵ののんき面を冷ややかにながめた。
源太が梅華楼をゆすっていたのは間違いない。
産婆として出入りしていた源太の叔母は、梅華楼が世間に出したくない弱みをつかんだ。ゆすりが頻繁すぎて、耐えかねた梅華楼は辻斬りを雇って、二人を殺させた…。
だが、そこで行きどまりになる。
梅華楼の風聞をあつめてみたが、ゆするようなネタが見当たらない。
楼主の妹は父無し子を産んだが、楼主は男にだまされた妹を不憫に思い、妹も生まれた子も大切にしているという。
大っぴらに認めているのに、なんでゆすりの理由になる?
弥一郎は首をひねった。
梅華楼でもてなしを受けたことを、なにかと張り合う菊水亭がききつけ、弥一郎を店に引きずり込んだ。その噂をきいた梅華楼も弥一郎をほおっておかない。
連日の酒池肉林に圧倒されながらも、集まる風聞の量と質に目がいかない弥一郎ではなかった。ここいらに出入りできれば、風聞も拾えるし、金子も懐に落ちる。余計な真似をして風聞や金子を集める場を失うより、知らぬ振りが得策、と静観を決めこんだ弥一郎だった…。
4
声は浮かない顔の弥一郎に、やわらかく語りかける。
「我々としては、死神稼業を引き受けてもらいたいのは変わらない。望みはないのか?」
「望み? ずいぶんとご親切なこった」
「それはどうかな…。死神だと人間のような執着はうすくなるから、その前に望みをかなえておくようにしてあるだけだ。死神になると、人間だったころの思い出は消してしまう」
「え! 自分をまっさらにしちまうのか!」
弥一郎は蒼白になった。
「死神をやるにしろ、転生するにしろ、前の思い出は邪魔になる。死ぬとはそういうことだ」
「人間だったころのことを覚えてられねえのか。そんな殺生な…」
あのことがどうして忘れられよう。忘れたくない。
だが、思い出は取り上げられようとしている。
弥一郎の唇から苦しげな声がもれた。
「ど、どうせ、俺様のことなんて…忘れる、そう、忘れたほうがいいんだ、でも…」
唇が震え、弥一郎は止めようと指でそっと触る。触ると、心によみがえるものがある。
忘れられるのはかまわねえ。けど、無事に過ごしているんだろうか。
それを知ることさえできれば…。
「幽霊になれねえか?」
それなら、そばで様子を見られるはずだ。ろくでもない真似をする輩がいたら、祟ってやればいいじゃないか。黙って指をくわえて見ているなんて真っ平御免だ。
「駄目なんだよ。一回地上を離れると、幽霊にはなれないんだ」
弥一郎の切迫した調子を憐れんでか、声は気の毒そうに答えた。
「いつまで人間だったころのことを覚えていられるのかえ? すぐに忘れちまうのかい?」
「それはないな。人間だったころのことをいつまでも覚えていると、人間を仲間と感じて仕事をするのがつらくなる。いざ始めるとしんどい面が多々ある。我々もかなえられる望みについては、総力をあげて努力するんだよ」
死神。
弥一郎以外の者はまるで気づいていないなか、すたすたと弥一郎に向かってきた。地面をすべるような足の運びで…。
だが、確かに地上を歩きまわってやってきたのだ、あいつは。
「死神になろうじゃないか。地上にもどれるんならな」
死神の弥一郎は、先輩と地上にいた。
「ここで別れよう。時が限られているのはわかっているね? いずれ合図は送る。地上にいると、つい忘れがちになるから。今回死神としての仕事はない。人間に見えないはずだが、それでも見えてしまう者はいる」
「死にたがっているやつとか、死にいく者を慕っている者とか、休暇の死神に命を救ってもらった人間とかだったな」
「話しかけてくるから、気をつけるように」
「いねえよ。このご面相じゃあな。生前はみんなぎょっとして、俺様を避けたんだぜえ」
ただ一人を除いては。
「ま、死神向きの面ってことになるかいねえ?」
「そこまでわかっているのは大したものだね。お前だと、仕事がすごくはかどるよ」
「そいつはありがとよ、この面を褒めてもらえるたあね」
前の弥一郎なら、皮肉な口調で答える程度では済まなかった。相手によっては刀を抜いていたかもしれない。
今はそんな腹立ちの思いは、漂白されたようにうすまっている。
これが死んだ、ってことかもしれねえ…。ずいぶんと気が楽になるもんだ。
弥一郎は半ば感心していた。
「さあ、行きたまえ。わたしはここで見送る」
「じゃあな」
弥一郎は自宅に着いた。きれいに打ち水され、そうじも行き届いている。
胸を弾ませ、水のようになめらかに動く。最初の出会いが夜空に広がる花火のように、あざやかに胸によみがえる。口元にはやわらかい笑みが浮かんでいた。
5
奇しくも巾着切の少年の母親を殺した日の夕方だった。人を切って気が荒れていた弥一郎は、新蔵と宗次に酒手を出してやり、わかれて別の店、菊水亭に上がった。
町内の店の何軒では、弥一郎や彼の手下は只で飲み食いができ、また女も抱ける。金子は言うまでもない。
弥一郎としてはあまり強くない酒や女よりも、風聞を手に入れるのが目的だ。菊水亭は藩でも評判の遊女がそろう。地回りをはじめいろんな連中が群がる。こぼれ落ちる話もあり、弥一郎は丹念に拾っていた。借金のあるなしや女の好みやもろもろのことを。
弥一郎は独り者だが、女にいれあげたことはない。最初は弥一郎も女の肉が与える快楽に夢中になった。が、男の扱いに手慣れた遊女でも恐れを弥一郎の前で隠しきれなかった。次第に自分の顔を見てぞっとする遊女を抱きたいと思わなくなっていく。
一人で店に上がる折には、噂話などを聞き出すと、女も呼ばずに帰ることが多い。
膳が運ばれてくるのをぼんやりと待った。二階に通された弥一郎は、欄干にもたれ夕陽が沈むのをながめる。日の光はまだ強く、まくった腕の肌を焼く。肌は赤くなり、かゆくなるはずだ。
それがわかっていても、かきむしることになろうと、袖をもどさず、うっちゃっておく。人を切った興奮がひいた後、どこか物憂く、億劫になっていた。
やがてかゆみに勝てなくなり、まくっていた腕をかく。その刺激で弥一郎は眠りから覚めたようになり、のっそりと窓のそばをはなれた。
ふすまが静かにあき、食事の膳を持った女が現れた。
かゆみに気をとられ、女にさして注意も払わず、座ろうと身をかがめた。弥一郎は痩せているが、背の丈は六尺ほどある。弥一郎の大きな影で女の手元が急に暗くなり、つまずきそうになった。
その動きに気づいた弥一郎は、膳を抱えた女の両腕を支えた。顔は弥一郎のそばにある。
女は彼を見た。
女は大きな瞳でまっすぐ弥一郎を見つめ、詫びを口にした。
今度つまずきそうになったのは、弥一郎のほうだった。
この近さで不気味な左目に気づかぬはずはない。が、女の視線はぴたと弥一郎に向けられ、恐れや驚きはまったく含まれていない。
容易におさまらない動悸を隠して、弥一郎は女と一緒にかがみ、膳を畳におく。
女の口からもれた声を聞きつけ、菊水亭の楼主が飛んできた。楼主は女をこずかんばかりになった。
「やめとけ」
鋭い声で、弥一郎は制した。
「酒も肴も無事だ。そんなどなり声をひびかせられりゃあ、まずくなるぜ」
ごもっとも、と楼主は猫なで声でおもねる。機嫌取りをしようと、どっかりと腰を据えそうになる。弥一郎は上ずった声にならないように努力しながら、切り出した。
「今日は、一人でゆっくりと飲みたいと思ってんだ。話はまたあとできかせてもらうぜ。それと、給仕をしてもらいてえ。いいかな?」
「なんでしたら、お雪ではなく、他のおなごを呼びますが」と、楼主はしたり顔に笑う。
「いや。気楽に飲みたいから、お雪さんでいい」
口出しを拒む色を顔にのせ、言い切った。楼主は一も二もなく引き下がった。
お雪、というのか。
目や声に妓楼で働く者にありがちな濁りがない。とりわけ、目はきれいに澄んでいる。物腰には妓楼で働くのがそぐわない、堅苦しさが漂う。
「新しい顔だね」と声をかけながら、杯を差し出す。
「二、三日前から勤めておりますの。二階のお座敷に運ぶのも今日が初めてです」
と言い、酒を杯に満たした。じりじりとあとずさって、弥一郎の正面で畳に手をついた。
「だんなさま、先ほどはありがとうございました。お礼の申しようがないほどです」
「やめとけ。そんな恰好をするもんでない」
お雪は顔を上げた。弥一郎から視線を切らないまま、口を開く。
「そうおっしゃって下さるのであれば」
「そうともさ」
いつもと調子が違いすぎる。
なんて素直にこちらを見つめてくることだろう。また、ここいらではめったにお目にかからない、こいつの真面目さときたら。
弥一郎は戸惑ったものの、嫌な感じはせず、ほのぼのとした気持ちになった。
「お前さんに残ってもらったのも、気楽にいきたいからだ。おしろい臭い女どもから、歯の浮くような世辞を聞かされるんでなくてな」
言葉を切り、試すようにお雪をじっとながめた。
「お前さんも俺様がここで只飯喰っていることくらい、知っているんだろう?」
お雪はどこまでも真面目くさった表情でうなずいた。
弥一郎はとうとう破顔した。
「なにか、おかしゅうございますか?」
いつまでも笑っている弥一郎に向かって、不思議そうにお雪は声をかけた。
「そんなに俺様はにやついていたかい?」
「いいえ、ただ笑っていらっしゃるだけです。にやついてはおられません」
「同じことよ…。そう真面目に受け取るなって。お前さんはここの生まれじゃないだろう?」
「はい。だんなさまもこちらのご出身ではないのでしょう?」
「そうだ」弥一郎はにやと笑った。
「江戸よ。言葉でわかるよな。こっちの連中は牛みたいに、のんびりと話していやがらあ」
「まあ」お雪は手で口元を押さえて笑った。
「笑ったね」
「おかしゅうございましたから」
「こんな顔でも人を笑わせることができるようだな」
「こんな顔、って?」
弥一郎は前髪を上げた。左目をさらしながらも、自分のしていることが信じられない。
この顔をむき出しにするなんて。
「この目さ」
お雪は怪我をみる医者の目つきになった。目を凝らし、細かく詳しく見る。
お雪のまなざしに耐えがたいものを感じ、いたたまれなくなる。それは恐れられたり嫌がられたときの耐えがたさとは、まったく違っているのだが。
ぎこちなく髪をおさえていた手をはなした。
「だんなさまも苦労されたんですね」
そっと、お雪が言った。弥一郎は震える手で杯をあおると、青ざめた顔をお雪に向けた。
「お前は俺様を憐れもうっていうのか」
「まさか」お雪は拍子抜けするくらい、あっさりと言った。朗らかささえ漂う。
「嘘を言うない」
お雪が口を開きかけたのを、手で制した。手が小刻みに震えているのが、気に入らない。
「帰る」
足早に座敷を出ると、廊下で足がつったように止まる。
目を閉じた。
闇に包まれた自分を恐ろしく思う。今までこんなことはなかった。
今、闇を恐く思ってしまうのは、と弥一郎は思う。
かすかな光を感じ取ってしまったからかもしれない。
6
菊水亭で二度目にお雪と顔を合わせたとき、お雪は、前のやりとりをむしかえすようなことは何一つ言わなかった。弥一郎はお雪の心遣いをありがたいと思うものの、物足りなさを感じてしまう。とはいえ、お雪がこちらを見つめてくると、顔に血がのぼり、頬が熱くなる。目をそらし、話をするのも時に苦しい。酒のおかわりを取りにお雪が座敷出るなり、畳に突っ伏したくなるほどどっと疲れが出た。
それからの弥一郎は、たもとに石をいれて川に飛び込みながら、水から浮き上がろうともがくような矛盾した行動を取った。
二度目に会ったのに懲りて菊水亭を避けようとしたが、ここは町でも有数の妓楼だ。風聞をあつめるために顔を出さないわけにはいかない。
弥一郎はあからさまなまでに痛々しい表情で店に上がる。
だが、いったん登楼すると、ソワソワしながらお雪の給仕を心待ちにした。お雪が座敷に入ってくると、弥一郎はたちまち上機嫌になる。
すぐ二度目と同じように、赤面し、時にしどろもどろになってしまうものの。
他で忙しいお雪が現れない夜は、気落ちし沈痛な面持ちで酒を飲む。時々杯を運ぶ手を宙でとめ、ぼんやりとあらぬ方向をながめて、手下たちにあやしまれたりした。
お雪が店に出てないとわかったある日、一人だった弥一郎は帰りかけた。楼主が思わせぶりに娼妓との同衾を持ちかける。一度は断ったが、ひらめいて楼主の言うようにした。一緒に寝る女は楼主がすすめた新顔ではなく、菊水亭でも古株の妓、三笠にしてもらう。
お雪の両親はすでになく、弟と二人暮らしだった。病身の弟を気にかけて、嫁に行こうとしなかったが、弟も引き取るという嫁入り先が見つかり、嫁いだ。が、石女で子どもができないと、出戻りに。河市藩に遠い親戚がいるのを頼り、この店で働くようになった。
「かわいがっていた弟が亡くなって、大層気落ちしてましたよ」と敵娼の三笠が言う。
「亡くなってよかったと思うけんどねえ」
「なぜかえ?」
「からだは弱くて薬代ばかりかかるし、目が悪くて歩くのもおぼつかないとくりゃゃあ、まったくの無駄飯喰いだもの。それに、気味が悪い様子をしていてね…」
「気味が悪い?」
「まだ若いのに、翁みたいで」
「翁?」
「髪は真っ白で、肌も、目も、あっ!」
言葉を飲み込んだ三笠をきつく抱きよせた。腕に三笠の震えが伝わる。
「俺様みたいに気味が悪い目か?」
「い、いえ…」
弥一郎は冷やかに笑った。とはいえ、わかりきったことだと、腹も立たない。
三笠の震えはおさまらない。
「おい」と、彼はひんやりとした声をかけた。「女相手に手荒な真似はしねえよ。落ち着け」
三笠から、ゆるりと腕を解いてやる。
目をつぶった弥一郎に闇が訪れた。
もう、恐さは感じなくなっていた。かすかだった光が強さを増すように思えるのに。
ある晩のことだった。
菊水亭に着くと、店中にざわざわと落ち着きのない空気が漂う。
その晩、彼は一人だった。
「どうしたのかえ? なんだかざわついているが」と出迎えた者に言い、草履を脱ぐ。
相手は、声をひそめて、地回りの連中があつまっていることを伝えた。
地回り。
そのせいで、空気がヒリヒリしているのか。雷が落ちる寸前の空みたいに。
かまいやしねえさ、と彼は二階へのぼりながら思う。かまうとしたら、地回りのほうだ。連中は彼に狼藉を働くことがどんなに不利か、心得ている。それは地回りに限らないが。
弥一郎は、窓から空を茜色に染める落陽をながめた。肌を刺す夕陽の残光をあびつつ、ゆっくりと杯をあける。もともと酒は強くないのだ。
陽が長くなった…。などと、ぼんやり思いながら、目を細める。
陽が沈み切ると、夕闇が座敷に忍び込み始めた。手燭が届くのをせかすこともなく、だらりと座っていた。
鋭く短い悲鳴が聞こえた。
声に聞き覚えがある。彼は旋風の早さで動く。地回りたちの座敷のふすまを、音を立ててあけた。
「邪魔するぜ」
六尺ほどの長身をさらすと、沈黙がぶちまけた水のように広がる。座敷の真ん中に、手首をおさえつけられたお雪が横倒しになっていた。
「これは片桐のだんな」と、地回りの親分が声をかけた。「いらしゃるとはついぞ知りませんで。どうか、こちらへ」
「いや」
弥一郎は刺すような眼であたりを睨みつける。
たもとからくるみを出して、片手で割った。
集まった連中が、一斉に息をのんだ。度肝を抜かれ、口もきけなくなった地回り連中をぐるりと見回しながら、弥一郎は口を開く。
「お楽しみに水をさすようですまねえが、これも役人性分かねえ」
頭をゆすって前髪をはね上げ、左目をさらす。にやと笑い、妖鬼の顔にすごみをそえた。
「けど…堅気の女をかわいがり過ぎじゃねえか?」
「だんなの言う通りだな」
弥一郎のただならぬ不興を見て取った親分が口を開いた。お雪をつかまえている手下に向けてあごをしゃくる。
お雪から手が外された。
「邪魔したな。水をさして」とお雪が座敷から出たのを見てから、弥一郎は言った。
「だんな、どうか、ゆっくりしていってくださいよ」
「また今度な。生憎、今『手土産』の持ち合わせがないんだ。早晩、やっかいになるさ」
弥一郎は意味ありげに笑うと、お雪を追いかけて座敷からするりと出た。
お雪は廊下にぽつんと立っていた。
「いったい、どうしたっていうんだ」
弥一郎はお雪の目の高さまで顔を落として視線を合わせた。いつもの照れも自分の左目も忘れていた。顔を近寄せると、お雪は顔を赤くし、もじもじする。
よく見ると、ひどくはじらっている。
弥一郎にはわけがわからない。目をしばたたかせたものの、やわらかい口調で訊いた。
「何があったんだ?」
「わたくし、粗相をしてしまったんです」
「だからって」弥一郎は表情を厳しくする。
「あいつらの言いなりになる法はねえぜ」
「だんなさま」涙がつうっと赤い頬を流れ落ちた。
「ありがとうございます」
涙をこらえこらえ、礼を言うお雪の様子を見て、闇雲な怒りが湧き上がる。
いきりたつ自分を抑える弥一郎のわきで、お雪のからだがぐらぐらとゆれ出す。あわてて腕を広げ、すばやく抱き止めた。弥一郎の両腕に支えられながら、か細い声をお雪は絞り出す。
「大丈夫です…」
「大丈夫なわけねえ。黙っていろ、息が切れているじゃねえか」
「で、でも」
「でももへったくれもねえ。いいか、俺様の首に腕を回すんだ。できるか?」
弥一郎へお雪は腕を伸ばした。お雪を引き寄せ、軽々と抱き上げる。
まったく、子どもみたいに軽いじゃないか。
弥一郎は、腕の上で白い喉を見せながら左右にゆれるお雪に痛ましげな一瞥をなげかけた。
自分の座敷は飛び出した時のままで、ふすまがあけっぱなしだ。弥一郎はひじで器用にふすまをぴたりと閉めた。
お雪を抱いたまま、慎重にしゃがむ。お雪は弥一郎の肩に頭をのせたので、からだをはなそうにもはなせなくなる。ほつれたお雪の髪の毛が弥一郎の首筋をくすぐった。
お雪に今触れている。幾度も願った思いがかなっている、と思うと胸は震えた。
すすり泣きが始まり、弥一郎は甘い思いから引きもどされる。弥一郎はお雪に身をあずけさせた。
ここはおめえに向いていないぜ、お雪。
お雪のやわらかいからだをかかえながら、弥一郎はしみじみ思う。
ああいう連中相手でも、うまくさばける女はいる。だが、お雪は…。真面目が取り柄の女だ。しかも、こんな店になじまぬ堅苦しさ。
そうした一切合切が地回りには鼻につく。堅物のきれいな女を蹂躙しようと、勢いづくのか。
またしても、ふつふつと怒りが湧き上がる。
お雪がかすかに身動きした。
「だんなさま、本当になんとお礼を」
大分落ち着いたお雪の声を聞くと、弥一郎の胸に安堵が広がる。
「礼には及ばないが、給仕をしてもらおう。また一人で来ているんでな」
「お前にはここ、向いていなんじゃないのかえ」と、彼は先ほど思ったことを口にした。
「そうかもしれません…このままだと、迷惑なばかりですわね」
「お前はよくやっているぜ。ここの生まれの連中と上手くいってないんじゃないかえ? 俺様もよそから来たからわかる」
「よそ者ってこともあるのでしょうけど」お雪は杯を満たしながら、目をそらせる。
お雪の心になにかがよみがえっている。しかも、暗いなにかが。
亡くなったという弟か。弟をおいてもらえる約束のこの店。けど、弟は不気味がられ、お雪までうとまれてしまった…。
弥一郎はお雪の口から聞きたかった。
実のところ、なぜお雪に打ち明け話をさせたいのか、我ながらわからない。そんな自分を変だと思いながら、話してくれよ、と心の中で祈る気持ちは強くなる一方だ。
お雪は空の徳利を気にして立ち上がろうとする。
「待て」と引き留めた。
「酒はいい。それもある、っていうことは他にもなにかあるのか」
「ええ。でも、大したことじゃありません。なにか、召し上がりますか?」
「いや…」話をそらされて、弥一郎は一旦口をつぐむ。
「やはり酒を頼む」
話を打ち切れてお雪がほっとしたように立ち上がるのを、やや渋い顔で見送った。
ふすまがあく。青ざめた楼主が立っていた。後ろには顔を張られたお雪が控えている。
「お雪が大変なご迷惑をおかけしまして」
楼主は畳に額をこすらんばかりにした。ここは地回りの座敷近くで騒々しいから、と離れをしきりに勧める。移ったら、早々に女をあてがうようなことも言う。
ここから俺が離れたら、地回りどもにお雪をいいようにさせるつもりか。底なしの怒りがもどり、歯がみする思いだ。
弥一郎の頭で稲妻のように考えがひらめいた。
「とんでもない。頭を上げてくれ。お雪さんも入ってくれ。頼まれてくれないかねえ」
そう言って、大きく笑った。目を細め左目の威力を消すと、可憐な少女のようだ。
「お雪さんは、もともとここの在じゃないそうだな」と、笑顔を崩さない。
珍しい弥一郎の上機嫌に驚きを隠せなかったものの、楼主はすぐ如才なく受け答えする。
「今は身寄りもないですから、この店を我が家と思って勤めてもらっていますよ」
嘘をつけ。
抱き上げたときのあの軽さ、めしもろくに食わせていないに相違ねえだろうが。
罵声を浴びせたくなるのを腹に押し込めて、弥一郎は鷹揚に笑顔でうなずく。
「今ってことは、前はだれかいたのか」
「弟がいたんですが、長患いした挙句に、先ごろ亡くなりまして」
「長患い、ってことは薬代もかかったろう」
「薬はばかにならない値段でございますからね」と、楼主が相槌を打つ。
「じゃあ、店に借りた分もあるだろうね」
楼主がうなずくと、彼は一気に言った。
「俺様が全部払う。その代り、お雪さんには家に勤めてもらいたいんだ。異存はないよな?」
楼主はあっけにとられた顔になった。
「色を多少つける。このところ、世話になりっぱなしだからな」
有無を言わせぬ口調で言い切ると、弥一郎は立ち上がり、お雪に向かって言った。
「早く荷物をまとめるといい。俺様は下で待っているからな」
楼主は口がきけない様子だった。
弥一郎が出て行こうとすると、弥一郎の袖にすがろうとする。弥一郎は一瞥で黙らせた。顔をもどすと、振り向きもせず歩き続けた。
7
家のことを頼んでいた老婆からお雪に仕事を引き継がせ、老婆には暇を出した。
弥一郎は役所に詰める時間を多くし、夜は店に泊まった。お雪と差し向かいになるのが恐かった。なにかをしでかしてしまいそうで。
なにかをしでかすために、身柄を引き取ったくせに、ともう一人の自分が言う。その声には耳を貸さなかった。地回りにおさえつけられ、着物の裾がめくり上がった姿のお雪が脳裏に浮かんでも。
とはいえ、のんびりとしたこの土地では、役所に詰め続けるほどの仕事はない。見廻りをするのも限界がある。店に泊まるのも同じこと。とりわけ、菊水亭以外の店に頻繁に顔を出すのもまずくなっていたし、菊水亭には手下だけを行かせることに当分決めてあった。
万策尽きた思いで、弥一郎は家にもどる。
「帰ったぞ」
すぐお雪が現れた。
弥一郎のまわりのすべてが変わった。吹く風も、ゆれる木の葉も、地面に落ちる光も。
すべてが美しく、生き生きと弥一郎に迫ってくる。
弥一郎はしばらく口がきけなくなる。激しく自分を呪う。
なんだって、もっと早く帰らなかったんだろう。
「お帰りなさいませ」
「お、おう。家にはなれたか」
「はい。おかげさまで。お帰りが待ちどおしゅうございました」
「世辞はいらん」そっけなく言う。
彼に向かって、ゆっくりとかぶりを振る。
彼は目をそらす。どうもさっきから面映ゆい。
「世辞ではありませぬ」
そこで、弥一郎は思い当たった。
「そうか。引き継ぎで残ったお婆と二人だけの女所帯になっていたな。心細かったろう」
「いいえ」お雪は考え込む仕草をする。
「恐くはありませんでしたわ」
「そうか」
目を閉じる。闇はもうなく、光があふれていた。
夜になった。お雪が給仕をしてくれる。酒に強くない弥一郎はすぐ酔いがまわる。面映ゆさが続いていたため、飲みすぎる。気がついた彼は、杯を伏せた。
「もうよろしいのですか。お店でもあまり召し上がりませんでしたけど…」お雪が訊いてきた。
「ふふん、酔いがまわると赤ん坊みてえにころっと寝ちまうからな。それより、お前の話を聞こう」
「わたくしの?」お雪は目をまるくする。
「雪にするような話はありませぬが、ご懸念でも?」
「懸念?」
「だんなさまは雪のことを何も確かめもせず、お引き取りになったじゃありませんか」
「お前をあやしんでどうする。無宿者でもあるまいに。お前の口からなにか聞けたら、と思ったまでさ。言いにくいなら、別にかまわねえ」
お雪は弥一郎の申し出をいぶかしげな顔で聞いている。が、何も言わずただ首を振った。
俺様を打ち明け相手とは思えないってことか。
弥一郎は額に手をやる。
目の前にいるっていうのに、これじゃ見えない蚊帳をつっているみたいじゃねえか。そうでなくて…。なにか、こう…。
弥一郎はお雪に言いたい何かを考えあぐねてしまう。とっさに弥一郎の手はお雪の手首をつかんでいた。
お雪は目を伏せ、ひどく顔を赤くする。
うつむいた顔をのぞくと、お雪は歯を食いしばっている。
こらえようとしているのか。これから起こることに。
胸をかきむしりたいほどの苦しみに襲われる。
いやいや身をまかせるつもりなんだな。かまわねえ、そうさせてもらおうじゃねえか。
弥一郎はわざと薄笑いを浮かべ、お雪を引き寄せようとした。
凍りついたように動作を止めた。
違う、と弥一郎は声に出さずに絶叫する。
違う、違う、違うんだ!
激しい叫びを身の内にこだまさせていると、そっと甘ったるい声が囁く。
無体な真似をしてやれ。地回りどもの座敷での裾がめくれた姿を思い出してみろ。
違うという絶叫と辱めてやれという囁きが、自分をまっぷたつに引き裂きそうだ。
恐ろしい暗闘の時間が過ぎていく。
「違う!」
弥一郎は、耐え切れず叫んだ。
手首をつかんだ手に力をこめすぎ、お雪が悲鳴を上げた。
あわてて手を外した。知らぬうちに強く握ったとみえて、手首には赤い跡が残っている。
赤い跡。
下手をすれば、もっと傷つけてしまう。
抑えがきかなくなった弥一郎の蹴りを受けて泣きわめく少年。
子ども相手に手加減をしなかった。手下どもの笑い声が聞こえなかったら、殺していたに違いない…。
弥一郎の顔は蒼白になる。握ったこぶしは血の気を失って、透き通るように白くなった。
お雪は険しい気配に口もきけずにいる。そっとうかがっても、弥一郎は露骨に視線を避けた。お雪は弥一郎の厳しい横顔を苦しげに見守った。
「行け」
大分経ったあと、弥一郎はそれだけ絞り出す。
お雪は両手をつき、出ていく。
寝所に入る。灯りのなかに、ぼんやりとのべられた床が浮かぶ。灯りを吹き消し、夜具をからだにかけた。
目を閉じると、涙が次から次へとあふれて止まらなかった。なんのための涙か、わからなかったか、ぬぐおうともせずひたすら弥一郎は涙を流し続けた。
8
女ってやつはまったくこれだ。
弥一郎よりも早く起き、朝餉を用意して正座しているお雪を見て、内心ののしった。
図太いもんだ。
弥一郎は顔をしかめたまま口を一言もきかず席につき、お雪に給仕させる。
昨夜のお雪。
引き寄せたお雪のほつれた髪が弥一郎の鼻先でゆれた。その思い出のせいで弥一郎は息を止めてしまい、味噌汁にむせた。
せき込む弥一郎の背中にお雪の手がそえられると、即座に身をふりほどき相手を睨む。
「お前には暇をやる」
青ざめ、お雪は彼を見る。彼の険しい顔は崩れない。お雪の肩は波打つように震える。
「申し訳ございません。雪にどのような落ち度がありましたでしょうか」
落ち度。そんなものはない。
弥一郎はゆるく頭を振った。
「いや、お前はよくやっているぜ」そこまでしゃべると、悪鬼のような形相をゆるめる。
「いろいろと振り回してすまねえ。詫びといっちゃなんだが、この家で一番欲しいものをやるよ。金子は金子で別にやる。どうだ?」
そう言い出したものの、お雪は遠慮するかもな、と思う。箸を取り、朝餉を続けていると、耳にお雪の声が飛び込んできた。
「一番欲しいもの、でございますね?」
「おう、そうだとも」
弥一郎は面喰う。
よさそうなものを見つくろうと思案していた矢先に、これだ。
女ってやつはがめついし、どこまでも厚顔だ。
「好きにしたらいい。金子はこれで十分だろう」と、財布をお雪の手に落とした。
「帰ったぞ」
お雪がすぐ現れた。色白の顔を弥一郎に向け、にっこりと笑いかける。
口をきくのも忘れて、お雪の笑顔にただ見とれた。あまりに長い沈黙にお雪がおずおずと話しかける。
「だんなさま…?」
すぐさま弥一郎は渋面を作り、ぶっきらぼうに声をかける。
「欲しいものは見つかったか?」
「はい」
「なら、長居は無用だろうが」言いながら、胸がちくりと痛む。
「お別れですので、だんなさまのお好きなものを夕餉に用意しました。召し上がって下さいませ」
「ほう、そうか」弥一郎は思わず相好を崩して、お雪の口実に飛びつく。
少しだけ別れが延びた。
そう思うと、胸が弾むのを抑えられない弥一郎だった。
夕餉に加え、にごり酒も用意している。滅多にないくらいうまい酒だ。
驚きながら弥一郎は、お雪にそう語った。
「お口にあってよかったですわ」
「何を持っていくつもりだ?」
「わかるようにしておきます」お雪は目を伏せた。
「そうか。しかし、うまいな、この酒。ちょっと強い気もするが…ま、礼を言うぜ」
弥一郎がお雪につい微笑みかけると、お雪は笑い返す。まぶしすぎる笑顔に目がくらむ。
お雪から目をそらし、にごり酒をあおり続ける。いつもよりも杯を重ねていく。
まずい、酔いがかなりまわった。そう思った矢先、杯を落とし、心地よく意識を失った。
朝の光が顔を丹念になでる。チリチリと肌を焼く感触に、眠りからゆっくりと引きはがされる。頭が水でも入っているように重い。
障子があけられ、青空がのぞいていた。
青空?
がばっと身を起こした。
寝床から見えるとしたら、庭の茂った木々のはずだ。よくよく見れば、弥一郎の寝所とは寝具も調度も違う。刀はそばにあり、即座に手に取った。刀の横には屏風がある。その後ろで、かすかな衣ずれの音がした。
殺気は感じなかったが、刀の鯉口を切れるように構える。
屏風のかげから、お雪が顔をのぞかせた。
「いったい、どういう了見だ?」弥一郎の声はとがる。とはいえ、ここは宿屋だと気づき、無闇な大声は控えた。
お雪は両手をすっとついた。
「だんなさまは、御宅で一番欲しいものを持って行け、とおっしゃいました」
「確かに言ったぞ。それで?」
「御宅で、わたくしが一番欲しいもの」お雪は弥一郎から目をはなさず、言い切った。
「それはだんなさまでございます」
立て膝をつき、鯉口に手をそえていた彼の姿勢がぐらぐらし始める。二日酔いで、頭がうずく。額をおさえつつ、弥一郎は恨めしげな目つきでお雪を見やった。
お雪の目には並々ならぬ決意の色があった。
こいつは…本気なんだ。しかも、こんな大がかりな真似までしやがって。
とうとう、弥一郎はからからと笑い出した。
「おめえの勝ちだ。あれだけ酔いつぶれりゃあ、赤子も同然。わけもなかったろう。駕籠か。あれだけ金子を渡しときゃ、それもできるわな。こりゃ、いい。一本取られたぜ。
暇をやるのは、やめておく」
「本当でございますか」お雪の顔は輝いた。
ずきずきと痛む頭をおさえ、うつむき加減に弥一郎は言った。
「ああ。家に帰ろう…一緒に」
9
自宅にもどった夜、弥一郎は寝具を二人分しかせた。
寝所にお雪が入ってきた。弥一郎はお雪を引き寄せようと肩に指先を下ろす。
お雪の震えが指先から伝わる。落胆もなく、弥一郎は手を引っ込めた。
「嫌なら、いいんだ」
お雪は、弾かれたように顔を上げた。耳まで真っ赤になっている。
「違います…!」
「いや、無理するなって。おとといだって、歯を食いしばっていたろ。前に嫌な目にあったことがあったのかえ? よければ、横になりながら聞こうか? もう寝る時分だしな」
やわらかく微笑みながら弥一郎は正座を崩し、長い脚を夜具に突っ込む。
お雪はかぶりを強く振り、弥一郎の胸に飛び込んだ。
「どうした、いったい?」
「だって、だって、歯を食いしばったのは、」
お雪は今にも泣き出しそうだ。
「だんなさまが近くにいらっしゃると、力がぬけてしまうから。立っていられないほど…」
「それで歯を食いしばったのかい? おかしなやつだ」
空前の苦しみを覚えたことも忘れて、弥一郎は声を上げて笑った。
「今も」と、お雪は続けた。
「お声を聞いただけで胸が苦しくってたまらないんです」
「おい、しゃべるのも障るのかえ? まいったな」
弥一郎はお雪を抱きかかえなおした。お雪の背中を支えると、手をあごにあてる。
お雪はおずおずと弥一郎を見上げる。弥一郎はやさしい笑みを浮かべた。
「いいか、もっと力がぬけていくぞ。でも、しっかり支えてやるから案ずるな」
顔をかたむけて、ゆっくりとお雪の唇を吸った。しばらく唇をはなさなかった。お雪は腕の中でぐったりとなり、その重さが心地よい。
唇をはなし、手の甲でお雪の頬をそっとなでた。
お雪は目をうっすらとあけた。にじんだ涙はまつげについて、キラキラと光った。
「弥一郎様…お慕いしています」
「ああ」と腕に力を入れつつ、感極まった声をかえした。
「俺様も…いや、俺もだよ」
まだ熱い指先でそっとお雪のなめらかな色白の肌をなぞりながら、囁きかける。
「おめえの亭主だけど、おめえを手放すなんて、俺には信じられないね」
「手放したおかげで、だんなさまと一緒になれたんですわ」
「それもそうだ。おめえの亭主に礼を言いてえほどだぜ」
弥一郎は汗にまみれた前髪をかき上げた。お雪がむき出しの顔をじっと見つめてくる。
つい、前髪で隠そうとする。お雪はすっと手を伸ばし、弥一郎の動きを止めた。
「汗がもっとお顔についてしまいます。どうかそのままで」
弥一郎は目をしばたたいたあと、ぎこちなくうなずいた。
「…それもそうだな」
弥一郎は目もとをくしゃっとさせて笑い、お雪の手を握った。
「雪。おめえは俺といっしょになって、苦労するぜ。俺はあちこちで憎まれている」
「だんなさまの思いすごしでは…?」
「おめえだって、菊水亭で働いていたんだ。楼主らの愚痴や文句が耳に入ってこないはずはなかろう。
それは今言うなよ。俺も人の子だから、余計なことを聞くと、面倒をおこしたくならあ」
「だんなさまは恐れられていただけですよ。鬼の腕って呼ばれていました。それに…」と、言いかけて、お雪は弥一郎から目をそらした。
「言いかけたんなら言ってみろよ? なあ?」
「なら、申し上げますけど…」お雪のみけんにしわが寄った。
「お女郎方も…だんなさまのことを褒めていましたわ」
「まさか」思わず弥一郎は笑い出したが、お雪のみけんにはより深くしわが刻まれた。
「おい、妬いているのか? あいつら、俺の面見て、ギョッとしてたぜ」
「でも…」
「なんだ、歯切れの悪い」
「確かに、あのひとたちはだんなさまのお顔については口さがなく噂していたのですが」
「だろう。別に腹も立たねえ」
「でも、やさしい、って」お雪はくやしそうな顔つきで、唇をかんでいる。
「まさか」弥一郎は笑い飛ばそうとしたが、お雪の表情がどんどん深刻になるのを見て、おずおずと言葉を継いだ。
「それは…床で、ってことじゃないよな?」
「あのひとたちが働くのはそこで、ですよ!」
「なあ、雪。連中がどう言ったか知らねえが、ただ手荒にしなかっただけだ。気にするな」
「手荒にしなかったのと、やさしい、ではだいぶ違います」
「おいおい、ずいぶんな剣幕じゃねえか。穏やかじゃないな、まったく」
お雪は横を向き、唇をとがらせる。
「機嫌を直してくれよ」
弥一郎はいとおしげにお雪の顔のあちこちに唇を押しつけた。腕の中のお雪がいからせていた肩から力をぬくのが伝わる。
「やきもちを焼くおめえも悪かねえ。たまらなくかわいいぜ」
お雪が恥ずかしがって顔を伏せた。
弥一郎は少しあらたまった口調になる。
「ただな、俺が大勢に憎まれているのはかわりない。巻き込んで悪いが、おめえは俺が守るから」
雪は弥一郎の胸に顔をすり寄せる。弥一郎はお雪の背中をなでていた。お雪は気持ちよさそうな吐息を切れ切れにもらす。
つと、お雪が息を詰め、かたい声を出した。
「ねえ、だんなさま」
「なんだ?」
「雪に弟がいたのは、ご存知ですね」
「そうだったな」
弥一郎の胸にゆるやかに広がるものがあった。ようやく、お雪は打ち明けてくれる。
「白子だったのか?」
白子は組織から色素が抜け落ち、髪が白く、目なども白くなる。
お雪はうなずく。
「俺と似たような目をしていたんだろ。で、俺も苦労した、って言ったんだよな?
そうだよ。でも、今は白い目を気にしないおめえがいるから、苦労も報われたよ」
「そう…」
「そうだとも。おめえがいることでどんなに助かっているか、わからないだろうな。おめえの弟だって、そう思っていたはずだぜ」
お雪の顔から表情が失われた。
石のように黙りこくったお雪に、弥一郎は息をのむ。
回した腕に力を込めようとした弥一郎など気にとめない様子で、お雪はもらした。
「あたしがいながら、命を縮めさせてしまった」
あまりに激しく暗い叫び。
弥一郎は息をつめて相手の顔を見るばかりだ。
間をおいて、弥一郎は低い声で諭した。
「泣いちまえよ。楽になるぜ」
「いや、楽になんてなりたくない」
こらえた涙がわずかにこぼれる。
「我慢するな。泣くのが供養だぜ」
お雪の首の後ろをつかみ、顔を自分へと向ける。顔を寄せ、涙を舌でなめ取り始めた。
お雪は息を止め、鼻先の弥一郎をじっと見る。
弥一郎は舌を止めて、にやと笑う。
「どうした。好きなだけ涙を流したらいいぜ。この塩加減じゃ、あとで喉が渇きそうだが」
お雪の瞳から涙が止まらなくなり、弥一郎は舌を動かし続けた…。
静かな朝だった。朝餉を終え、弥一郎はお雪を正面に座らせた。
「素性を確かめないで身柄を引き取った、っておめえは言ったよな。でも、俺こそ、どういう男か、おめえにろくに案内もしていない」
「そんな、律儀すぎます。だんなさまにすべてをゆだねていますから」
「そうは言ってもな」と、弥一郎は低い声を発した。「これから話すことを聞いて、おめえがこの家を出たくなったら、かまわない」
「だんなさま」と、お雪はさえぎる。「何もおっしゃらないで。雪はだんなさまについていきます。行き先がどこであっても」
あっけらかんと笑ってみせる。
「そうか」と言ったあと、顔をしかめてみせた。「行き先は地獄かもしれないんだぜ?」
「地獄でも」お雪は深くうなずいた。
「なら」と、弥一郎もうなずく。「まどろっこしいことはもう言わねえ。俺はおめえを守る、何があっても。ま、言うまでもないことだけどな」
今さらあのことを話して、楽になりはしないだろう。お雪の憐れみをかいたいとも思わない。お雪に余分な心配をさせないほうがいい。
が、自分は聞いてほしいのか。死罪になってもおかしくない、あのことを。
浮かんだ考えを振り切るように、きっと顔を上げた。にやと笑う。
「地獄までついてきてくれるたあ、おめえの度胸は大したもんだ。鬼の女房になれるぜ」
出かける時分だった。家を出たものの、弥一郎は見送りの雪の腕をとり、引き返した。
「お忘れ物?」と怪訝そうなお雪に、
「そうだ」
と抱き寄せる。お雪と唇を重ねた。お雪の腕が弥一郎に巻きつく。はなれると、二人同時にため息がもれる。弥一郎はお雪の頬に指をあてて、満面の笑顔で顔をのぞき込む。
お雪の瞳に映る自分。白い目は気にならなくなっていた。
うれしそうにでかけていく弥一郎の姿を、お雪はいつまでも見送っていた。
日中、弥一郎はずっと唇を触っていた。お雪の唇のなごりを愉しむかのように。痛むんですか、と手下から訊かれたほど頻繁に触っていた。言われると、さすがにその瞬間はやめるが、またもどる。
いつもより格段に気が散っていた。
そして、切り殺された母親の仇を討とうとする少年の刃に倒れることになる。
第二部
1
死神となった弥一郎が自宅に入ると、立ち騒ぐ気配を感じた。
奥へと進むと、お雪は男に細い腕をつかまれている。
「はなして下さい!」お雪はあらん限りの声で叫び、身を振りほどこうとしていた。
「うるせえ、あまだな。ちっとばかし騒ごうか、ここにはだれも来やしねえよ」と、男は下卑た声であざける。
生憎、俺様がいるぜ。と弥一郎は憤りながら、二人に近づいていく。
男はどう見ても堅気ではない。地回りだ。どうして、こんな野郎が俺様の家に上がり込んでいるんだよ。
弥一郎は不興をつのらせる。
もがくお雪の動きが止まった。男もつられて振り向く。
「脅かすんじゃねえ。何もいやしねえじゃないか? たばかりやがって」
「え、でも…」と、目を見張ったまま、お雪は口ごもる。弥一郎は、お雪に意味深に目配せした。
「おい」と、男の肩に手をかける。
男に弥一郎の声は聞こえない。が、男はぶるっと震え、首をすくめる。とたんにだるさに包まれ、汗が流れ始めた。額に手を当てると、火をふいたように熱い。咳が立て続けに出る。膝をがくんと床について、からだから力が抜けて床へと崩れ落ちた。
お雪の手首から、ほどけるように手が外れた。
弥一郎が一声鋭く叫んだ。
「来い!」
まろびそうになりつつも、お雪は弥一郎へと駆け寄った。
「ついてこい。だが、俺に触るな。訳はあとで言うから」
ぐんにゃりと床にだらしなく這いつくばっている男をしり目にさっさと二人は立ち去る。
「金子はあるか?」
「ここに」と言い、お雪はたもとをおさえる。
「ならいい。俺はだれにでも見えるわけじゃねえ。なるべく話しかけるな。しゃべるなら小さく独り言みてえにするんだ。いいな」
「はい」すでに、声をひそめて返事する。
「前にもここに来たな。というか、俺はおめえにおめおめと連れてこられたんだったねえ」と言いながら、弥一郎は愉快そうに宿屋を見回した。
弥一郎は窓の欄干に片腕をのせ、陽をあびながら座っていた。人間だったころと違い、陽の光をあびても肌はいっこうにかゆくならない。
お雪は所望した白湯をすすりながら、弥一郎に耳をかたむけている。
「雪。おめえはちっとも恐がらないんだな」苦笑しながら、ついに言う。
「俺はこの世のものじゃないんだぜえ」
お雪は白湯が入った椀をおいて、まっすぐ彼を見た。
「生きているごろつきのほうがよほど恐いですわ。人ならぬものに変わっても、だんなさまは雪の大切な弥一郎さまですもの」
「なんであんなやつにからまれたんだ」弥一郎の眼は険しく光った。
「だんなさまは、借金を払って下さったじゃありませんか。色までつけて。それが…」
「俺が死んだのをいいことに、金を二重に取ろうって腹だな。手先に地回りを使ってか」
「はい」
「とんでもない話だな。おちおちくたばってもいられねえ」
「だんなさま」お雪は思わず笑いをかみ殺す。「死んでも難儀ですわね」
「まったくだ」
弥一郎にも笑いがうつる。
弥一郎をほれぼれとながめていたお雪の目から力が急に抜ける。
「だんなさま、本当に死んでしまったのですか。わたくしにははっきりお姿が見られるのに」と言うなり、お雪は涙をぼたぼたと落とす。
「とんだ愁嘆場になっちまったな」
つと涙にぬれた目を上げたお雪に、弥一郎はにっと笑う。
「今の俺の稼業を教えてやろう。死神さ」
「だから、あのごろつきは急に顔が真っ赤になって、具合が悪くなったのですね」
「そうだ」弥一郎はにやりと笑った。「いい気味だったな」
とはいえ、やつは寝込むぐらいで済む。
そう思うと、腹立たしくなる。
雪の手首つかんで、不埒な真似をする了見だったのか。ますますもって腹立たしい。
生きていたら、竹を割るみたいに胴体をまっぷたつに切ってやるんだが。
死神だと指一本で引導を渡せるが、無闇に腕をふるえない恨みがある。
「雪、おめえのことは、この俺が守ってやる。ゆっくり休むといい」
「だんなさま。どのくらい、おそばに寄ったらよいのですか?」
「そうだな…俺も死神としては新米だ。塩梅がよくわからないんだが…おいで。そばに来ても、おめえが俺に触れなければ大丈夫だと思うぜ。試してみるかえ?」
お雪はさっと立ち上がり、弥一郎のそばに行ったが、立ったまま彼を見下ろしている。
「わたくし、だんなさまに触れられるなら、具合悪くなってもかまわないんです」
「馬鹿言うない。下手をすると、死んじまうぞ」
「死んでもいいのです」
お雪は凛として言い放った。
本気だな、こいつは。
弥一郎はうなずいた。それから、しみじみと言った。
「俺がおめえだったら、俺もそう言うだろうね」
胸に飛び込みそうなお雪をあわてて弥一郎は制した。
「でもな、そいつはいけねえ。そんなことしてもらっても、俺はうれしくないんだぜ」
弥一郎ははっと思い当る。
「雪、おめえ、死にたかったのか。というより、死ぬつもりなんだな」
「だんなさまの御宅を片づけたら、とにかくあとを追うつもりでした」
「だから、俺が見えたのか…まいったな」
弥一郎の顔は激しくゆがむ。
「死ぬなよ、雪。頼むぜ。この通りだ」と言って、頭を下げた。
「やめて下さいませ、だんなさま!」
お雪はとっさに弥一郎の手に触れた。指先はすぐに引っ込められ、弥一郎と目が合った。
「冷たい…」
「死神だからな。ぬくみは残っていねえし、必要ねえんだ」
うつろな顔つきになったお雪に諭した。
「だから、めったに触るな。いいな」
お雪は返事をしない。
弥一郎はわざと朗らかに言う。
「俺がおめえに触れられねえで、愉快だとでも思ってるのか?
けど、地獄の血の池あたりでおめえの行く末を悶々と案ずるより、おめえとこうして会えて安堵しているのだぜえ」
お雪は弥一郎の言葉も耳に入らない様子でつらそうに肩を落としていた。急に明るく言う。
「今はだんなさまのお姿が見られます。それが支えですわ」
その言葉を聞き、弥一郎の心は憂いに沈む。
お雪が無事に暮らしているところを見たかった。そのために死神稼業を引き受けたのだ。他人でなくなった翌日に死んだため、気がかりで仕方なかった。案の定、お雪は地回りにつけ狙われている。あとを追うつもりだから、死神の彼をはっきり見てしまう。
弥一郎がお雪といられるのも限りがある。弥一郎を見られなくなったら、お雪は即座に命を絶つかもしれない。
いったい、どうしたらいいんだ…。
弥一郎は頭をたれていた。明るくなったお雪とは反対に、弥一郎の悩みは濃くなっていく。
「だんなさま」
「うん…なんだ?」
「だんなさまは、なんでまた死神におなりになったのですか?」
弥一郎は顔を上げ、お雪を見る。お雪は弥一郎を心配そうに見守っていた。
お雪の目と合うと、苦しみはやわらいでいく。
こうして見交わすのも、いつまでもできることじゃねえ。落ち込んでいる暇はないな。
弥一郎は朗らかさを取りもどす。
「ちょっとしたいきさつがあってな…。生前いろいろ悪さばかりしていたから、てっきり地獄に堕ちると思っていたんだが、死神をやらねえかともちかけられてな」
「やってみていかがですか?」
「そうだな…まだ初仕事もこなしていねえ。これからだな」
「これから、って大事なときに雪といてよろしいのですか?」
「当り前よ。融通がきかせられるから、死神になったんだからな」
「融通?」
しゃべりすぎた。
弥一郎は気まずそうに黙り込む。
お雪がおそるおそる尋ねる。
「こうして会うために…?」
「まあな」
言い当てられて、弥一郎は仏頂面になる。
「そこまで…」お雪は声をつまらす。
「雪、生きてくれよ。俺はな、おめえがつらい目を見ていやしねえかと案じて帰ってきたんだ。地回りの連中ならなんとかできるだろう。ま、これから思案しなきゃならないがな。
肝心なのはおめえよ。おめえがずっとつらそうにしていたら、俺が喜ぶと思ったのかえ?
だってよう」と弥一郎は言葉を切り、お雪をまっすぐに見据えた。
「おめえは俺の宝なんだぜえ」
言って、弥一郎は頬が火照る思いがする。が、決してお雪から目をそらさなかった。
お雪は天を仰ぎ小さな叫び声めいたものをもらす。悲しみというより喜悦の表情で涙を流し始めた。
夜が来た。夜具から顔を出し、お雪はかたわらに座っている弥一郎を仰ぎ見た。
「おそばにいて下さるのですね」甘えた声を出す。
弥一郎の顔はほころんだ。
「おうよ。ずっといてやるぜ。なんたって、俺はおめえを守るって約束したじゃねえか。安心して、さっさと休め。おめえの寝顔をとくと拝ませてもらうぜ。かわいいもんな」
お雪は恥ずかしがって、夜具を顔まで引き上げた。
彼はにやにやしながら、声をかける。
「さあ寝ろ寝ろ」
「いや」と、お雪は顔を出した。「だんなさまを見ていたい。もう会えないと思ったのに…」
「まるでろれつが回っていねえじゃねえか。眠くてたまらねえ、って顔をしてら。寝ろ」
「でも…」
「でももへったくれもあるか」
「そのおっしゃり方」お雪は目を細める。「もう一度聞けるなんて。ずっと聞いていたいの」
弥一郎はふっと表情をゆるめた。顔をお雪にぎりぎりまで寄せる。
「頼むよ、お雪。だってよう、おめえは」
「俺の宝、でしたよね」
「そうだよ」
お雪は名残惜しそうに目をあけていたが、張り詰めていた糸がぷっつりと切れたように、すとんと眠りに落ちた。これまでの疲れが出たのだろう。
「さてと」と弥一郎はつぶやいた。「これからどうするかな」
弥一郎は腕組みし、策を練り始めた。
2
翌日、身支度を整え朝餉も済ませたお雪はよく眠れたようで、すっきりした様子だ。お雪の晴れ晴れとした顔を見て、弥一郎はにっこりする。
「よく休めたようだな」
「久しぶりにぐっすり眠れました。亡くなられてからは、ずっと眠れなくて」
「女一人取り残されちゃあ、心細かったろうな。難儀だった」
「今はこうしてお姿を見られますし。お声も聞けて。わたくし、恵まれていますわ」
「死神を見られて恵まれている、なんて言うやつはおめえくらいだろうぜ。
ところで、梅華楼はこの近くだったな」
「はい」
じき得心した笑顔に変わった。
「梅華楼さんといえば、奉公先だった菊水亭と競い合っていたお店でございますね」
「おうよ。雪、俺がやろうとしていること、見当がついたようだな」
「梅華楼さんでわたくしの身柄を預かっていただくおつもりですね」
「梅華楼が目の敵にしている菊水亭から頼ってきたとあれば、当てつけができると喜んで、おめえのこともそう無下にしねえと思うぜ。当たってみるのも悪くない。それに…」
と、弥一郎は意味深な笑いをもらす。
「梅華楼は、いろいろと俺に都合がいいはずなんだ」
辻斬り騒動以来、梅華楼の噂を拾っていたのが今になって役立つとは。
とはいえ、かなり危なっかしい切り札だ。
この切り札を出さずうまく塩梅できればそれに越したことはない。
「行くぞ、雪」自分の思いつきに得意な弥一郎は大股になる。
後ろのお雪が声をかけてきた。切羽詰まった響きがある。
「梅華楼さんが身元を引き受けて下さったら、だんなさまは会いに来てくれないのですか」
弥一郎は振り向き、止まった。手をお雪の肩に下ろそうとして、あわてて引っ込める。
「あぶねえところだった。雪、あのな」
「いっそ触れて下さったほうが。もう会えないなら、いっそ」
お雪は、あたりもはばからず泣き出す。
「ちょ、ちょっと待てよ。静かにしてくれ。気がふれたと思われるのは、俺もたまらねえ」
と言ってみたものの、泣きやむ気配はない。お雪を引きずってでも、部屋にもどりたかったが、いかんせん、死神のからだではかなわない。
「もどろうぜ。な、この通りだ」
弱り切った弥一郎は手を合わせ、お雪を拝んだ。
こんな真似、人間だったころだってやったことはないぞ。手を焼かせすぎだぜ、お雪!
と、腹の中で毒づいていた。
部屋でお雪は総身を震わせて泣く。弥一郎は女の涙が苦手だし、雪に手を合わせたのもくやしく、そっぽを向いていた。
すべてぶち壊しやがって。
が、仏頂面を正面にもどす。
今は見つめてやることしかできない。視線でしか触れられない。肩を抱きしめることも、涙を舌でなめ取ってやることもできない。
弥一郎は号泣するお雪を見守った。不機嫌な表情は消え、お雪を痛ましそうに気遣う。
恨めしげに目を上げたお雪は、弥一郎の表情にたじろぐ。青ざめ、さっと手をついた。
「わがままばかり申し上げました。死神のお仕事を差しおいてまで、わたくしにご配慮いただいているのを忘れて、ほんとうに申し訳ありません」
「顔を上げてくれないか。それに、そんなよそゆきのしゃべり方をするでない。おめえと俺は他人じゃないんだぜえ。
おめえがいつまでも慕ってくれるのはうれしいが、俺も俺なりにまごころを尽くしたいんだ。おめえの行く末をきちんとしてやりたい、と思っているんだぜえ。おめえに幸せになってもらいたのよ。俺をあきらめてもらいたいんだ」
お雪の目に、涙がまたあふれ始めた。ただただ頭を激しく横に振る。
「納得いかねえだろうねえ。なんとか、そこんところ、わかってほしいんだが。
俺も死神稼業に取り掛からないとな。あまり勧められた稼業じゃないが、向いている気がするんだぜえ。このご面相なら死ぬやつも納得して、引導をわたされる、と思わないか?」
お雪に向かって、にやと笑いかけた。
お雪はこわい顔になり、弥一郎へと思わずにじり寄る。
「そんな風に言うものじゃありません。だんなさまのお顔、わたくしは好き…」
「好き、か。ありがとうよ」弥一郎ははにかみ、伏せ目がちになる。
「ま、俺は死神として生きるつもりだ。未練はおめえだけだ。今すぐとは言わねえが、あきらめてもらうこと、胸にとめておいてくれないかえ?」
「あきらめる…あきらめる、なんて…」
お雪は吐き捨てるように言うと、畳に突っ伏す。押し殺してももれる泣き声が響いた。
二人は梅華楼に向かう。とぼとぼとお雪はついてくる。目は涙で腫れぼったい。弥一郎は何度か振りかえった。やつれた顔を見るたび、胸は痛んだ。
梅華楼に入り、楼主への取り次ぎを頼むと、留守だと言う。
一瞬、二人は顔を見合わせるが、弥一郎はあわててお雪に顔をもどすように目配せする。
「跡取りの誠之介に取り次ぐように頼め、もともとそのつもりで来たんだ」
言うとおりにすると、応対に出た者はお雪に首を振る。
「誠之介のぼっちゃんですか? あいにく、今具合が悪く伏せっていましてね…」
「かまわず、頼め。例の文を出せ」
宿屋で墨と紙を持ってこさせ、弥一郎はお雪の紹介状を書いた。
その文を応対の者はしぶしぶ受取り、誠之介へと持っていく。しばらくすると、さっきとは打って変わった丁重な態度で部屋に通された。
待っていると、廊下に足音が響く。
ふすまがあき、誠之介が姿を見せた。お辞儀したあと、にこやかに口をひらく。
「これはお揃いで。なんとも仲睦まじいことですね」
誠之介は、まだ若くからだつきもきゃしゃだ。が、すでにきつめの顔立ちの口元に愛想のよい笑みを如才なく浮かべている。
「お、お、お揃いって」と、お雪は絶句した。
「どうせ、俺様が見えるんだろう、なあ?」
「へえ」と、うれしそうに返事する。
「昨夜思いついて、お前さんのことを調べさせてもらったのよ。俺様の新しい仲間から」
「ふふふ」誠之介は、得心した顔つきで笑いをもらす。
「新しい御仲間…並び無い剣の名手のだんなも死神におなりってことですか。お雪さんでしたね、あたし、死神様に命を助けてもらったんですよ。そのおかげで死神様の姿を拝見できるってことでして」
「い、命を? し、死神に?」
「めったにあることじゃないがな」弥一郎は苦笑いした。
休暇中の死神は、一人だけ、命を救える。誠之介が死にかけ死神が仕事しようとした時に、休暇中の死神が通りかかり命を救うよう、かけあったのだ。死神に命を救われると、その人間は死神の姿を見ることができ、意外と長生きする。
「でもね」誠之介はわざと愛嬌のある困り顔を作る。
「長生きしても、病にかからない、ってわけでもないんですよねえ。今日なんか鼻がたれるのがとまらなくて…どうにかなりませんかね?」
「こっちは医者じゃないんだぜえ。まったく、命が助かっているのに、大した言い草だな」
弥一郎は左目を鬼火のように光らせた。
「ふふふ」左目の迫力に動じることなく、誠之介は優雅な笑みを顔にきざむ。
「こういっちゃなんですけど、だんなくらい、死神が似合う方はいませんなあ」
「俺様もそう思うけど、そうばっさり言われちまうたあなあ」
「お気に触りましたか」
「生きていりゃあ、そうなっただろうねえ。けど、今は何も感じないね」
「生前だんなは睨みがきいて、腕前も鬼の腕、と恐れられるくらい、おみごとで…」
「今日は世辞を聞きに来たんじゃないぜ」
弥一郎はさえぎりながら、ふと思い出す。
辻斬りを切った満月の夜、あつまった野次馬にここの楼主もいた。かきいれ時で忙しい夜に、楼主自らわざわざ辻斬りが倒されたのを見にきたわけだ。源太を、かもしれないが。
楼主は誠之介の伯父にあたる。仕事で女の裏表を見すぎて嫁をもらう気になれない、と言って独身を通している。女嫌いなものの、仕事は仕事、と割り切って店も繁盛していた。
誠之介の父親は、流れ者とも旅廻りの芝居一座の役者とも言われている。ようはどこの馬の骨ともしれない相手だ。世間知らずの妹があっさり男にだまされたのが忍びない、と妹を責める真似などせず、誠之介をかわいがって、跡取りと考えている。
妹の不始末を大っぴらにしているのに、産婆と源太がゆすったのがどうにも結びつかなかったんだ…。辻斬りをやとってまで、源太を闇に葬る理由となるとますますわからなくなった。
でも、死神となった今は…。
先輩の死神連中にきけば、死んだ人間も生きている人間も風聞がすぐ寄せられる。
源太がゆすった理由は解けたのだ。だが…。
弥一郎は目を伏せた。蜃気楼のようにおぼろげだったものが、はっきりと姿を現した時、弥一郎は噂を追い求めた自分を恨めしくさえ感じた…。
弥一郎の心中を知る由もない誠之介は屈託ない笑顔を返すと、いずまいを正した。
「では、御用向きをうかがいましょう。微力ながら、お力になれると思いますよ」
「お雪を頼みたい」と、彼は切り出し、一連の出来事を話した。
誠之介はなごやかに聞いていたが、借金を二重に取り立てるたくらみでは、眉をきつく寄せた。
「ひどい」
「だろう。連中のもくろみは金だけじゃない。雪に狼藉を働くつもりなんだ」
「そりゃ黙っちゃいられませんね」
「おちおち死んでもいられねえ」
「まったくですね」誠之介は吹き出した。そばのお雪もくすくすと笑う。
「どうだえ、引き受けてくれるか?」
「ここまでうかがって、お雪さんを外にほうりだすような不人情な真似はできませんよ」
「よかった。恩に着るぜ」
意外とすんなり事が進んだ。弥一郎は胸をなでおろす。
例の風聞を持ち出さなくて済むなら、それが一番いい。
誠之介を目の前にすると、その思いを強くする。弥一郎にいけしゃあしゃあと口答えをする生意気さも憎からず思え、彼は誠之介を気に入った。
「こっちこそ助かりますよ。あたしは死神様になれているものですから、話し込んだりしまして。誰かに見られてしまうと、大変ですよ。一人でべらべらしゃべっているあたしを気味悪がって、女中が続かないんです。
お雪さんなら、大丈夫でしょう? なにせ、死神様と他人じゃないんだから」
「はい」とうなずきながらも、他人ではないといわれ、お雪の頬は赤くなる。
「それにしても、お雪さんは果報者だ。こうまで片桐のだんなに想ってもらって…死んでもまた出てきて面倒見てもらえるなんてね。うらやましいです」
褒めたおされ、お雪は頭を下げて照れて赤い顔を隠した。
お雪はさっそく女中頭に引き合わされ、仕事を教わることになった。
誠之介は、弥一郎に目配せし囁いた。
「だんな、あたしの部屋に行きましょうよ」
3
「座布団はすすめませんよ。誰もいないのに、敷いてあるのを見られたら、まずいんで」
「気にすんな。そのほうが俺様も気楽だぜ」
「では、甘えますが」
誠之介は咳払いをした。
「気がかりなことがありましてね。お雪さんです。普通でしたら人様が見えない死神様を見ちまう性分とは思えないんですけど。よもや死神様にお命を救ってもらったとか?
ああ、違うんですね、なのに、だんなとは大層仲良くしてますよね」
誠之介はいたずらっぽく笑ったあと、一拍おいて言う。
「だんなもお雪さんがここまで見えてしまう、って思いましたか?」
「いいや」
「でしょう。あたしは死神様がお仕事なさっているのも見ます。たいてい、誰も気づかない。死ぬ本人以外」
誠之介は弥一郎をまっすぐ見た。
「お雪さんは思いつめていますよね。やつれ方も尋常じゃない。だんなの後を追って、自害するおつもりなので、だんなが見えてしまうのでは?」
「雪の口から」弥一郎は顔をしかめた。「そうだと聞かされたぜ。口を酸っぱくして、死ぬな、って言い続けているんだが、あいつも頑固でね。一途なのはいいが、そこまで惚れぬいてくれなくてもいいのによう。もう、手を焼いている有様だぜ」
「いやあ」と誠之介は明るく声を弾ませた。「だんな、それ、のろけとしか聞こえませんが」
「…まあな」
「そこまで惚れられているなんて、うらやましいですねえ」
「よせやい」と、弥一郎は苦笑いした。「俺様は、それほどまでに情をかけられた相手に指一本触れられないんだぜえ」
「やはり、女の肌っていいんですかねえ」
「ですかねえ、って、お前さん…」
さすがにその先を言うのはためらわれた。
「親としては、跡目を継いで身を固めてほしい、と思っているから、奥手なあたしにやきもきしていまして。疲れることはとにかく嫌な性分でして」
「実家がこういう商売なのに、勿体ない気がするけどな」
一瞬、誠之介の顔にさっと嫌悪の色が走った。
「手ほどきをしてくれようとした姉さん方はいたんですけどね。どうもその気になれないで…だから、働き者でおきれいなお雪さんを嫁にもらう、とかいうことではありませんから、ご安心を」
「ああ」弥一郎は拍子抜けした声を出した。「そういうことかい。そんな気遣いは無用だ。
俺様は雪を縛りつけておくつもりはないんでね。あいつの気持ちが落ち着いたら、誰かと所帯を持ってもらいたいくらいなんだ。
別にお前さんと、ってことじゃないけどな」
「左様ですか」
「ああ。俺様が一番に望むのは、あいつに幸せになってもらうことだ。俺様を忘れてな」
「それではお寂しくないですか」
「そりゃ、寂しいさ。でも、俺様もすべてのことを忘れるさだめなんでね」
「そうなんですか」
「いつまでも人間だったてめえを引きずっていると、死神稼業に移れないからな。
俺様はいずれまっさらになるんだ」
弥一郎はほそ目にあけた窓から空を見た。
いずれ、空に合図が浮かび、まっさらになる。それまでにお雪の件を片づけなくては。
とはいえ、お雪を覚えていられない、と考えるだけで、身を切り刻まれるように苦しい。
彼はひどく陰鬱な顔つきになった。
誠之介はそっと尋ねる。
「まっさらになることは、お雪さんに話したんですか?」
「死ぬのを思いとどまってもらうので手一杯なんだぜえ。俺様がまっさらになって、お前のことも忘れるよ、なんて言おうものなら、雪は何をしでかすことか」
「ご事情はとくとわかりました。決して口外はしませんから。あと、お雪さんからはなるべく目をはなさないようにします」
「おう、頼むぜ」
「あと、これですが」と、誠之介は紹介の書状を広げた。「今日だんなが書いたんでしょう?」
「ああ」と気づく。「俺様は死んでいるのに、これじゃ真新しいままだな。工夫が必要だ」
書状を手荒にもんでしわでもつけようとしたが、その手を止めた。弥一郎は畳に書状をおき、手で表面を一撫でした。紙はとたんに古び、しわがつく。とても今日書いたものにみえなくなった。
「紙も死なせることができるたあ、我ながら重宝するねえ」と、にっこりする。
目を細めて少女のような笑顔の弥一郎に、誠之介は感心する。
「お雪さんが惚れぬくのも納得ですね」
「なんでえ、藪から棒に」
「だんな、いい男だもの」
「おい、冗談がすぎるぜ」
「いいえ。だんなは左目のことを気にしすぎですよ」
「ふん」
「あたし、口がすぎましたでしょうか」
「おう、言うねえ。ずけずけとよお。俺様が死んでいることをありがたく思えよ」
「でも、だんなはずけずけとはおっしゃいませんね。あたしのこと、すべてわかってここにいらしたのでは?」
たちまちこみ上がる焦燥感を隠して、弥一郎はわざとぞんざいに流した。
「雪を引き受けてくれれば、十分だ。余分なことは付け加えてもらわなくていい」
「あたし」誠之介は始めた。「いずれは因果応報の報いを受けるんでしょうかねえ」
「おい」耐え切れず、弥一郎は声を上げた。「その辺でやめておけよ」
「いいえ」誠之介はきっぱりとした声を出す。「聞いていただきたいんです。それと、今まで表ざたしないで下さったのにもお礼を申し上げたい」
今なら引きかえせる。余計なことはしょいこまなくてもいいじゃねえか…。
断わりの口上を頭の中で組み立て終わった弥一郎は、誠之介を見てたじろいだ。
誠之介のからだはひどく震えていた。そろえた膝を手でつかみからだを支えているが、尋常ではない震えだ。やがて揺れは大きくなって、座っていられなくなるほどになるだろう。
弥一郎は支えようとして、伸ばした手を引っ込めた。
今の自分がそんなことをすれば、死神にもらった命の持ち主だろうと、具合を悪くさせかねない。
聞いてやることしかできない。支えるとしたら、死神の自分にできるのはそれだけだ。
「今の俺様なら、誰にしゃべるわけでもねえ。安心して話しな」
4
すべてを話し終わると、誠之介は熱がぶりかえしてきた。
無理もない、と弥一郎は痛ましく思う。
お雪が呼ばれ、床がしかれた。
「お雪さん、仕事はあらまし聞きましたか?」と、やさしく誠之介は声をかけた。
「おかげさまで。でも、まだ細かいことが…」
「なら、もうひと頑張りして下さいね。もう少ししたら、だんなをお渡ししますから」
「おい、もう寝ろよ」と声をかける。
「もうちょっとお話しましょうよ。だんなを横取りしてすみませんね、お雪さん。
でもね、部屋は一人で使えます。一人なら、片桐のだんなともゆっくりお話しできますよね」
お雪は礼を言う。弥一郎は照れくさそうな顔を横に向けた。
お雪を見送ったあと、誠之介の枕元に座る。
「本当に眠らなくていいのか?」
「大丈夫ですよ。ようやく胸のつかえが取れた気がするんです」
「そうか」
「だんなこそお雪さんと水入らずになりたいでしょうね」
「まあな。顔を見せれば、あいつも思いきった真似をしないだろう」
なによりも弥一郎自身が会いたいのだった。
「それがいいですよ」
誠之介もうなずく。
「だんな、ひとつ、訊いておきたいんですが」
「なんだ?」
「お雪さんとだんなは他人じゃなくなって、間もない、って伺いましたが。もしや、忘れ形見ができちゃいませんか?」
「そりゃないだろう。あいつは石女ってことで、離縁されたからな」
「わかりませんよ、最初のご亭主が種なしかもしれない。
忘れ形見ができていたら、お雪さんの死にたい気持ちは吹っ飛ぶ。そう思いませんか?」
「ああ、確かにな…」
「子どもさえ産まれればいいんですよ、だんな」
「でも、俺様はあいつに指一本触れられないんだ。具合を悪くさせちまう」
「でしょうね。ねえ、だんな。お雪さんをあたしにくれませんか?」
と言うなり、もたもたと起き上がろうとする。
「おい、寝てろってば」
「いや、いくらなんでもこういうことは」と、誠之介は弥一郎を振り切って、蒲団からはい出た。弥一郎に、手をついた。
「急なお話でほんとうに申し訳ありません。ですが、お雪さんをあたしに下さい」
「ちょっと待てよ。とにかく、頭を上げてくれ」
「だんながそうおっしゃるなら」と、誠之介は従った。
「親はあたしをだいぶ甘やかしてくれましてね。さっきお話したように、親はあたしに引け目があるんですよ…。
あたしがお雪さんをもらう、って言えば一も二もなく承知してくれるはずですよ。
忘れ形見ができていたらその子もお雪さんも大切にしますし、あたしの子どもが産まれても分け隔てをすることはありません。どちらも産まれなかったら養子を育ててもらってもよし、まあ、お雪さんのこと、先々まで悪いようにはさせませんよ。いかがでしょうか」
面喰らった弥一郎の返事を待たずに、誠之介は続けた。
「実のところ、今日の今日まで嫁をもらう、なんて気はさらさらなかったんですよ。女の肌にも縁がなかったくらいですからね。疲れることはしたくない、ってね」
疲れたくない。ほんとうにそれだけなのか。
弥一郎は気まずそうな面持ちになった。弥一郎の心中を察し、誠之介はすかさず口を開いた。
「だんなには隠しておけませんね。そう、あたしは男と女の営みが大嫌いだったんですよ。色恋なんてろくでもない、なんて思っていました」
「そうなるかもしれねえな」
さすがに弥一郎も弱々しくうなずいた。
「でもね」と、誠之介は続ける。「お雪さんとだんなを見て、考えを改めたんです。生き死にを超えて、慕い合っているのを見せられちゃあねえ。
だんなは、惚れた女の行く末をほうっておけない、って心づもりでしょう。お雪さんはお雪さんで、だんなが死神に変わろうが、気持ちがまるでゆらがず、ひたすら情のあるところをみせておられる」
弥一郎は畳の目に視線を落として、破顔した。
「とんだ飛び火だったな」
「あれだけ慕われたら、だんなもがっちり守りたいでしょうねえ。だんなのこと、本当にうらやましい。守るべき相手がいるっていうのはいいもんですね。
色恋は別にしてもいいんです。惚れた女を守り抜く心意気に感じ入った次第でね。微力ながらあたしもお雪さんを守りたいんです。どうか、お雪さんの行く末をお任せ下さい」
色恋は別だって?
よく言うぜ。お雪に惚れたんだろうが。
そう思っても、弥一郎は不快にならなかった。色恋をこれまで避けていた誠之介をぐらつかせる魅力がお雪にはある。そんなお雪を誇りにさえ思う。
「俺様はかまわねえが、雪次第だな。今、そんな話をすれば、あいつはムキになって変な真似をしかねない」
「それはそうです。お雪さんだって、あたしの女房じゃ嫌かもしれない。あたしは形だけでもいいんです」
誠之介は恥ずかしそうに笑った。
「ご一考のほどを。今すぐ決められないのは、こちらとしても同じで。親父…代わりの伯父が出たきりなんでね。お雪さんを女中で雇うのは、あたしでも十分ですが、その先のこととなるとね」
「ああ、わかっている」と言い、弥一郎は相手の細っこい体をながめた。
「さ、早く床にもどれよ。雪を引き受けてもらうなら、お前には丈夫でいてもらいたいからな。頼むぜ」
「はい」と、誠之介はにっこりする。
「だんなのお子さんが産まれるといいですねえ。その子を養子にしてしまえば、すべておさまります。あたしも疲れる真似をしなくてすむ」
「いや、あれは試しておいても罰はあたるめえ」
にやと笑い、弥一郎はあごをつるりとなぜた。
弥一郎が姿を現すと、お雪の顔はぱっと明るくなった。
「まだ休んでいなかったのか」
お雪は、弥一郎を待って、蒲団の脇で正座していた。
「横になれよ」
弥一郎はやさしい声を出す。
「はい」
「ゆっくり休め。俺が見守っているからな。ここにいれば、地回りどもも手が出せないさ」
「何から何まですみません」
「水くさいことを言うな。他人じゃないんだぞ、俺たちは」
蒲団に入ったお雪の顔はうれしさとはにかみで赤くなる。目が腫れぼったい。
「泣いたのか。その目」
「いいえ。泣いていませんの。ただ、ちょっと熱っぽい感じが…」
手のひらで熱をみようとしたが、あわてて引っ込める。
「おっと、あぶねえ」
「だんなさまのお手は冷たいから、ひんやりして気持ちいいかもしれませんね」
「馬鹿言うない」彼は整った顔をくしゃっとさせて笑う。「死神の手だ。水だって凍るぜ」
「だんなさまは無敵ですわね。生きている間も、亡くなってからも」
「おめえも口が減らないな。けど、俺はガキに刺されてお陀仏だったんだぜえ」
お雪はしばらく弥一郎の顔をながめていた。それから、ゆっくりと口を開いた。
「殺したのは子どもだったのは聞いています。逃がせ、って最後におっしゃったとか」
「そうさ、捕まえたところで…」と言いかけ、顔がゆがむ。
「あのガキはするべきことをしたまでさ。俺がそいつの母親を切ったからな。手慰みに」
弥一郎は酷薄な笑みをわざと浮かべ、お雪に冷たい声をかける。
「あきれたかえ? 嫌気がしたんじゃないのか? もう出てくるなっていうなら、」
「出てきて下さい」
ぴしゃりとさえぎった。
弥一郎はお雪から顔をそむける。
お雪は、ためらいがちに声をかける。
「出てきて…どうしてそんなことをしたか、話して下さい…もし、だんなさまがお嫌でないなら。わたくしは何があってもあきれたり嫌気がすることはありませんから」
弥一郎はうなだれ、やがてほのかな笑みをゆっくりと浮かべる。さっきまでの冷淡さは跡形もなかった。
いじけている暇はねえよな。
きつかった表情をやわらげ、弥一郎は指先をお雪の頬に伸ばし、寸前でとめた。ゆっくりと撫でる仕草を繰りかえす。実際になでられているように、お雪はうっとりと目をつぶる。
弥一郎は静かな声でしゃべり出した。
「いずれ、すべて教えるよ。地獄まで付き合うと言ってくれたおめえだものな。いいかえ?」
目をあけたお雪は深くうなずいた。
急に照れくさくなる。弥一郎はことさら、つっけんどんに言う。
「熱っぽいなら、さっさと寝ろ。あ…具合はどうなんだ?」
「今日一日めまぐるしくて疲れてしまいましたけど…一晩眠ればなおってしまいますわ」
「なら、寝ろ寝ろ」
「はい」弥一郎のせっかちな物言いに、お雪はくすくす笑う。笑いがおさまると、二人はそのまま見つめ合った。お雪が眠りに落ちるまで。
5
翌日は朝から篠突く雨になった。大粒の雨が激しく地面をたたく。急な寒さと湿気が建物の内外かまわず満ちていった。
湿り気を伴った寒さは誠之介にこたえたらしく、熱がどっと上がる。誠之介付きの女中になったお雪がなにかといそがしく立ち働いている。
自分の姿が目に入ると、お雪の気を散らすと思い、弥一郎は外に出ることにした。廊下を急ぐお雪にそう伝えると、心もとなくさびしそうな顔になった。
弥一郎はぎりぎりまで近寄り、なでる仕草をした。
「俺だってはなれているのはつらいんだ」
お雪は見違えるような笑顔に変わる。弥一郎も端正な顔に笑みを浮かべた。お雪のまばゆい笑顔を名残惜しく思いながら、弥一郎は外に出た。
雨は強さが減じ、霧雨に変わっていた。当分晴れ間が見えそうもない。雨は弥一郎をまったくぬらさなかった。肌寒さも感じない。傘をさす手間もいらないな、と感心した。
店をはなれるつもりはなかった。
誠之介は床に伏せっている。楼主は商用でしばらく旅に出ている。
お雪の居どころがここだ、と地回りがかぎつけたら、かどわかそうと手を出してきてもおかしくはない。河市藩のような小藩で、頼りになる者が少ないお雪が駆け込む場所は限られている。ここにも地回りどもが張りついているかもしれない。
弥一郎は警戒しながら、まわりをめぐろうとした。
店から小走りに出る人影がある。お雪だった。
「どうした?」
「おかみさんの言いつけで、お医者を呼びにいくんです」
「おめえが? 小僧じゃなくてか?」
「新米ですからね。それと、様子を話しておいたほうがいいかと」
「俺も一緒に行く。おめえはあまり一人にならないほうがいい」
そう言いながらも、すぐそばにお雪がいるだけで、弥一郎の胸は喜びで一杯になる。
医者の家へは川を渡るが、渡し船の船頭の姿はない。激しい雨で渡し船は今日は出ないようだ。おりしも雨の勢いはまた強くなった。
お雪は困り切った顔になる。
「どうしましょう」
「なんとかなるさ。まずは雨がひどいから小屋に入ろう」
二人は船着き場近くの小屋に入った。小屋には何組かの笠と蓑がおいてある。
「土砂降りだと好都合かもしれないな」
「好都合?」
「見えるものも見えない、見えないものも見えない、ってことさ。俺が漕ぐよ」
「晴れていれば、漕ぎ手もいないのに船が進むところを見られますわね。何を言われてしまうか、わかったものじゃありませんわ。誠之介様のご苦労がわかる気がします」
「死神と話し込んでいるのを見られりゃあな。でも、あいつは長生きするから、今回のことも心配はいらないはずだが。なんだって、その医者は町内に家を構えていないのかねえ?」
「変わり者で、騒々しい町内が嫌とかで。腕は確かと評判なんですって」
「ふうん。雨がひどいからおめえはこれを着たらいいぜ」と、お雪に触れないようにしながら笠や蓑を渡し、着るのを手伝う。
「ま、誠之介は大丈夫だと思うけどな」
「だんなさまがそうおっしゃるなら、これほど確かなことはないですわね」
「まったくだ。死神の俺が請け合うんだからな」と、声を立てて笑うが、真顔になる。
「おい、雪、お前はどうなんだ? 昨日は熱っぽかったじゃないか?」
「ええ、でも」お雪は怪訝な顔でおでこに手をあてる。「喉もおつむも痛くないんです。熱っぽいだけで」
「ふうん。いずれにしろ気をつけな。さあ、できた。急ごう」
弥一郎が櫓を水面にさしかけたそのときだった。
殺気。
弥一郎は顔を上げた。人相の悪い男が三人近づいてくる。見覚えのある男が目に留まる。
彼が死神として舞いもどったとき、自宅でお雪の手首をつかまえていた男だ。
「あいつ、大して寝込みもしなかったのか」弥一郎は吐くように言った。「しかも、つけてきやがった…俺としたことが気もつかねえで、うっかりしてたぜ」
お雪に気を取られていたせいと、激しくなった雨のためだ。
三人は川にざんぶりと入る。男たちは水の勢いをものともせず、どんどん進んでくる。他の二人の先頭を切って近づいた一人が船の後ろをおさえつけた。腕力を持て余しているのだ、と言いたげに船を思いっきりゆらす。下手をすると、川に投げ出されかねない勢いだ。お雪ははいつくばり、必死になってしがみつく。
「雪、しっかりつかまっていろ! 今行く!」弥一郎は青ざめながら叫んだ。
残り二人は、船には女一人とわかって、浅い川をあせらず近づいていく。弥一郎の叫びが聞こえるはずもない男たちは、お雪に下卑た声を浴びせかける。
「せっかくのいい女がずぶぬれじゃないか。なんで、小屋で待っていなかったんだい?」
「この雨の中、わざわざ追いかけてきてやったんだぜ」
「俺たちでかわるがわる温めてやるから、安心しろよ」
かっとなり、あやうく櫓を連中に投げ飛ばしそうになるが、かろうじて思いとどまった。
顔には不敵な笑みが浮かぶ。
「雪、案ずるな。すぐ連中にほえ面かかせてやる」
弥一郎は片手を川に入れた。
船を揺らしていた男の手が、船から思わずはなれた。青い顔で、両手に息を吹きかける。
「な、な、なんでえ、この冷たさは…こ、こごえちまう」
川には氷が張り始めていた。
弥一郎がもう片方を空に向けると、雨は雪へと変わった。空は規則正しく白い薄片を川面に落としていく。
真夏が真冬に変わった怪異。
しかも、弥一郎が手を水面から引き上げると、船の周りや向かう先の氷は跡形もなくなり、川は元通り流れていく。はいつくばったお雪のほかに人影のない船は、ゆっくりと男たちから離れていく。目に見えない何かが、船を漕いで…。
男たちは物の怪に出くわしたような顔つきになる。
もう船どころではなく、恐怖と寒さに歯をがちがち言わせ、ほうほうの体で冷たい水に難渋しながら岸にもどっていく。
「ざまあみやがれ!」
弥一郎は怒鳴ったあと、得意げに船を漕ぎ続けた…。
向こう岸につくと、お雪は白い顔で、船底につっぷしていた。
「おい、雪、大丈夫か?」
お雪は放心しきった顔だ。目が失神寸前なのか焦点が合っていない。
安心させてやりたいが、死神の自分が抱擁などしようなものなら…。
でも、今のお雪に必要なのは、何よりもそれなのに。
無力感にさいなまされる弥一郎が顔を寄せると、お雪の蓑に気がついた。
蓑があれば、じかに触れずに済む。これなら…。
弥一郎はお雪を蓑ごと抱きしめた。
お雪の顔に血の気がもどり、弥一郎をこわごわと見つめ返す。と、お雪の目から涙があふれ、声を上げて泣き始める。
「すまなかったな。油断していたせいで、おめえをつらい目にあわせた。すまねえ…」
弥一郎は一層強く腕に力をこめて、お雪を抱きしめ続けた。
6
「おかげで冥途の土産ができたよ」
誠之介と差向いになりながら、弥一郎は礼をのべた。
「いい土産で、なによりですよね」
「いやあ」と、彼は頭をかいて照れた。「雪はやっぱり石女じゃなかったんだな」
「あたしの見立てが当たりましたね」
お雪が連れてきた医者は、他家でも病人が出たため、梅華楼に逗留してあちこちの病人を診て回ることになった。お雪のからだの異変にも気づき調べたところ、懐妊がわかった。
「雪には死ぬ気持ちがかなりなくなったようだ。俺様も安心していけるよ」
「でも、相変わらずお雪さんと話していますよね? 他のだんな方も驚いていましたよ」
他のだんな方とは、死神連中のことだ。死神の休暇の特例で助かった誠之介は、命拾い以来、死神を見る。
「まったく。いつまでも未練を残しやがって…」
「いつまでも惚れられて…ってことですよね。ちょっと贅沢な悩みにも思えますよ」
「だけどよう」と、弥一郎は嘆息した。「いつまでも死神になじみすぎる、ってのがいけねえ。死にたい気持ちが残っているぜ」
「お雪さん、あたしが席を外していたすきに、死神様の一人と話し込んでいましたよ」
いったいどういう了見なんだ。
弥一郎はひのき張りの天井を睨みつけたあと、ぱちんと片手で額をたたく。
「なにか、合点がいくことでも」
誠之介が声をかける。
「ああ」弥一郎はむっとした顔つきだ。「なにかをたくらんでいるな。あいつは、前に俺様をとんでもない目にあわせやがった」
思いきった真似をされたから、わだかまりが解けて他人でなくなったんだが。
「とんでもない目? こともあろうに、鬼の腕のだんなを?」
聞き逃すまいとして、誠之介はいそいそと訊いてくる。
「お雪さんのやったたくらみ、ってやつ、あたしに教えて下さいよ」
「嫌だね」
「あたしに話さなくちゃ、ですよ。あたしはお雪さんと長くお付き合いしていくんですもの。お雪さんが何をしでかしたか、知っておいても罰は当たりませんでしょう」
「嫌だと言ったら嫌だ。くどいっ、痛い目にあいてえか」
「だんな、痛い目はご容赦ねがいますよ。それにしても、ムキになると、だんなも大層おかわいらしい」
「この俺様にずいぶんな口をきくじゃねえか。いい度胸だ」
「どうぞお許し下さい。言いすぎました」
神妙な面持ちを作って、頭を下げた。だが、口元には笑いがうっすらと張りついている。
弥一郎は苦々しく誠之介の後頭部を睨んだ。
このしたたかさ、大したもんだ。商売人としては大成するかもしれねえ。
ふっと、息を抜く。
「いや、俺様も言いすぎた。気が短いもんでな、勘弁してくれ。確かに雪の人となりを知らなきゃならないのはそっちだ。まあ、覚えておいても悪くはあるめえ」
ええい、ままよ、と腹をくくる。
「家で一番欲しいもの」の持ち帰りの件を語ると、誠之介は膝を打って笑った。
「おい、そんなに笑うでない」
やまない誠之介の笑いに、とうとう弥一郎は抗議した。
「お雪さん、そんな前科があるなら、まただんなをはめそうですね」
「勘弁してほしいぜ」
「あたしが訊き出しましょうか。お雪さんが死神のだんな方とどんなことを話していたか」
「俺様から訊くさ。ところで、頼みがひとつあるんだが…すまねえな」
「それはあたしのせりふですよ。辻斬りの件も含めて、だんなにはお世話になりっぱなしです。あたしに大切なお雪さんを任せてくれる。でも、だんな」
言葉をとぎらせ、鋭く弥一郎を見た。
「大事なお雪さんを委ねていいんですか? あんな親から生まれたこのあたしに?」
「その話はやめようぜ、な?」
弥一郎はさえぎるが、誠之介は自嘲気味の笑いをもらした。
「やめられませんよ。だんな、ご生前もご存じだったのでは?」
「いや、さっぱりだった。それに、梅華楼では随分と世話になった。源太みたいにゆすらなくてもな。なあ、お前も忘れろよ」
誠之介は弥一郎の言葉に首を振り、語気鋭く言った。
「忘れられませんよ。実の兄と妹から生まれたのが自分だってことは」
「確かにな」弥一郎は溜息をついた。「けど、それを知った産婆も、産婆から秘密をきいてゆすりをした甥の源太も辻斬りに殺されて、今は誰も事情を知るやつはいないんだぜえ」
誠之介の母は店の楼主の妹にあたる。幼い頃養女に出されたが、養父母がはやり病であいついで亡くなり、実家にもどってきた。養父母の家と実家との行き来はほとんどなく、兄も妹も再会した折は他人のようにぎこちなく接した。
養女に行った先の家風はお堅いもので、妹もそのように育った。もどった実家では、娼妓たちが派手な化粧に精を出し、しどけない格好をさらし、はばかることなく男女の営みについて話している。そんな雰囲気になれず、縮こまっている妹を気の毒に思った兄はなにかと面倒を見て心を配った。兄も実家の商売になじめない堅物な性格で、妹といると気がほぐれた。二人の結びつきは深まる一方で、ついに一線を越えた。
妹が孕んで産婆を呼ぶまでは、誰にも気づかれなかった。難産で、妹はうわごとで自分たちの間柄を口走った。産婆が甥の源太に秘密をもらし、ゆすりが始まった。
ゆすりは頻繁になっていった。楼主が辻斬りをやとう決心をしたほどに。
叔母が殺された源太は警戒し、弥一郎に刃向かってまで夜廻りをしぶったのだった…。
「おっかさんが自分をせめていたのを聞いてしまったんです。人倫にもとる真似をしたって、嘆いていました…。その時からあたしは自分を憎んだ。自分だけじゃなく、親も、男女の営みってやつも。そんな営みが家業ですから皮肉です。あたしは自分とまわりすべてが憎い」
弥一郎はわずかに口の端を上げてみせる。
「それで、どうなんだい?」
「ど、どう、って?」
誠之介は弥一郎のあっさりとした口調に目をむく。
「お前は長生きするだろ。でも、取りやめにするか? そんなに自分を憎んでいるならよお。今すぐ死神の俺様が引導をわたすぜ。うまい具合にここにいるんだからな。どうだ?」
「そ、それは…」誠之介の額に汗がにじみ始める。「あ、あたしはそこまで…」
「覚悟ができてねえか? なら、はじめっから言うんじゃねえよ。
お前、雪を頼んでいること、忘れちゃいねえだろうなあ。雪を引き受けるんだから、もっと強くなってもらわねえとな。生い立ちにとらわれねえ度胸をつけてくれ。
何より、どんな間柄の親から生まれようとも、お前にはなんの罪もねえよ」
弥一郎は誠之介をまっすぐ見た。
誠之介はまぶしい光にやられたかのように、目を伏せた。肩は細かく震え、弥一郎の言葉を拒むように首を振っていたが、次第に弱々しくなり、がくりと首を落とした。
誠之介の口元がひくひくと波打った。
「あは」というかすれた声をもらすと、誠之介は身を震わして笑い始めた。けど、その目に涙がにじんでいるのを弥一郎は見たのだった…。
ひとしきり泣き笑いをしたあと、誠之介の気分はだいぶ落ち着いたらしい。
「度胸っていえば、お雪さんも大変な度胸の持ち主ですよね」
「あいつは死ぬのを屁とも思っていないんだから、とんでもない度胸だぜ」
「それだけ想いが強いってことで。うらやましい。あと、地回り連中がお雪さんを追いかけまわす真似は、もうさせませんからね。用心棒をはじめとして店の者にもよく伝えてあります。ご安心下さい」
誠之介の目に不敵で強い光が宿った。
「お前さんの手を煩わせるまでもないぜ。金がかえっている書付があるからな」
と、弥一郎は手に持った文をひらひらさせる。
「またでっち上げですか」
「おうよ。俺様の葬式でごたついていた時、文箱から盗んで捨てたようだが、そうは問屋がおろさねえ。菊水亭に忍び込んで、ほかの証文をいただいてやった」
盗んだ証文の上に紙をおき、菊水亭の部分は字の癖を見事に写し取って、最後に自分の署名をし、仕上げに書付を古びさせた。これを証拠として、出るところに出れば、いい。
「だんなはすっかり味をしめちまったんですねえ」
「今の俺様じゃ、あの店の亭主や地回り連中、全員切り捨てたくてもできないんだぜえ」
「だんならしい物騒な意見ですね」
「まあな」と、弥一郎は舌を出してみる。「話をもどすけど、雪のことで頼みたいのはな…」
弥一郎は真顔にもどり、説明を始めた。
7
江戸に来るのは、弥一郎も久しぶりだ。
子どもの頃の思い出など語り始める。
「猫を飼っていたんだ。俺の弟分だったよ。帰ってくるとまっさきに俺を出迎えたりしてな。猫は俺の顔を見ても嫌がらなかった。なつけば、餌をもらえるとわかっているんだな」
そのころから、餌を与えれば相手が自分にひれ伏すことを、弥一郎は学んだ。餌をばらまくこと、権力、膂力。生きているころはそれにこだわった。
でも、今は…。漂白されたように、そのこだわりはうすい。こだわっていたもろもろが、ひどく自分から隔たっている。
「でも、猫は口をききませんよね。きっとお寂しかったのでは」
周りに聞こえないよう、お雪は小声になる。
「おう。結構長いことな。でも、今はもういいんだ」
弥一郎は、やわらかい笑いを浮かべた。
その笑顔にお雪は胸騒ぎを覚える。初めて見る、穏やかで迷いから切りはなされた顔だ。
この人は、と思う。
いってしまうのかもしれない。気高ささえ感じるたたずまい。
お雪はかすかに震えた。
人通りが少なくなった通りの奥に寺が見えてきた。
寺は木が生い茂っているせいか、通りより涼しかった。寺に入ると、蝉時雨に包まれる。
二人は無言で寺の裏の墓地に向かった。弥一郎は先に行き、しばらくして立ち止まった。
「ここにお袋は眠っている」と、弥一郎は振り向き、お雪に苔むした墓を示した。
「俺が殺したお袋が」
お雪は弥一郎の言葉を聞いて青ざめる。
が、じき弥一郎の目をまともに見つめた。気遣うような目で。
その視線が弥一郎の心をなでていく。
「誠之介に無理言って、江戸まで来させたんだ。無駄口をたたいている暇はないな」
弥一郎は父親を早くに亡くした。父親の死後、一粒種の弥一郎を連れて母親は生まれた江戸に舞いもどった。親子は年のはなれた叔父の世話を受け、細々と暮らしを続けていた。夫を亡くし、一人で子どもを育てる気苦労も重なって、母親は肺病にかかってしまう。
弥一郎は願掛けの費用や薬代や医者代にしようと、自分の食べる分を削るよう、通いの女中に命じた。育ち盛りで、寝ているときに背が伸びる痛みに苦しむような年ごろだ。もらった饅頭を土間に落し拾って食べようとしたのを、母親に見つかった。行儀が悪いと叱られる弥一郎の腹が大きく鳴る。弥一郎は黙っていたが、女中がすべて白状した。
自分は足手まといになっていると、母親は自害を覚悟した。
弥一郎が忘れ物を取りに道場から家にもどると、女中を早めに帰した母親は刀を胸に押し当てようとしていた。もみ合いになり、汗ですべった手で母親を刺してしまった…。
「お袋が息絶えたと知って、俺は魂が抜けたようになってな。動きたいんだが、どうしてもその場を動けないのよ。灯りはおろか、戸締りもできず、夜が来た。
盗人が忍び込んできた。闇のなか茫然と座っていた俺だったが、盗人には気づいた。向こうもな。俺はお袋を刺した刀でそいつを殺した。
俺はだんまりを決めていた。母親を殺されたせいで口もきけなくなっている、とみな勝手に考えてそっとしておいてくれた。お袋を殺したのは盗人だと、俺をうたぐりもしなかった。
でも、俺がこの手でお袋を殺したんだ。
そのあと、親代わりだった叔父貴も死んで、河市藩へ流れ着いたのさ。
巾着切のガキの母親も、お袋と同じ病だった。見ていられなかった。これからガキがどんな目にあうか、わかりすぎるほどだったからな。だからって殺していいはずもない。けど、俺は自分を抑えられなくなる時がしばしばあってな。気がつくと刀を抜いていたんだ。
そんなことをしなければ、おめえをずっと守れたのかもしれないのに」
語り終えると、弥一郎は顔を伏せた。
からだの一部がぴんと引っぱられる。
これはきっと…。悲しみに浸っている暇はない、ってことか。
目を上げて、空を見る。合図がある。
お雪が二、三歩そばに寄ってきた。
「お母上のこと、だんなさまが殺したくて、殺したんじゃありませんわ」
「親殺しは大罪だ」
親殺しは、重大犯罪とされていた。捕まれば、死はまぬがれない。
「ねえ、だんなさま、覚えています?」
「何をだ?」
「だんなさまに、地獄でもついていきます、ってわたくしが言ったのを?」
「そうだったな」
「雪の気持ちは今もって変わりませんのよ」
お雪の顔には覚悟があった。
「雪は地獄にまいります…なんなら、今すぐにでも」
無言で弥一郎はお雪の顔をただただ眺めていた。じき、弥一郎はからからと笑い出した。
親殺しと聞いて逃げ出すと思いきや、逆とはな。大した女だ。度胸がすわっているぜ。
「おめえにはかなわねえよ。でも、地獄行きはやめておけ」
先ほどのやわらかい笑みを浮かべる。
思わず、お雪はその笑みから目をそらした。
「死ぬな。子どもの命まで奪うことはないだろ? 産んで育てて、天寿を全うしてくれ」
弥一郎がやさしげに言葉をかけるのを、お雪はさびしそうな顔つきで聞いている。が、何かに思い当ったように、嬉しげな顔になる。
「雪も死神になれないかしら? だんなさまの子どもを育てて、天寿を全うした後に?」
弥一郎はあきれた声を出した。
「死神連中に、死神にどうやってなったんだ、ってしつこく訊いてまわったのは、それか?」
「いけませんでしたでしょうか…?」
「あきらめてくれ。俺はまっさらになる。生きていたころのことを思い出せなくなるんだ」
お雪は胸をおさえた。目には涙がこらえてもあふれ出る。
「むごいわ…だんなさまに覚えてもらえないなんて…。けど…だんなさまにとっては、かえってよろしかったのでしょうね。そのほうがずっと楽だと」
「まさか、そんなことあるわけねえ」弥一郎は思わず口をはさんで、叫ぶ。
「まったくの逆だ。今も苦しいさ。一瞬一瞬刃物で身を刻まれるようにな。忘れてしまうのか、って思うとよ」
「そうだったのですね」
お雪は嬉しそうに、それからさびしげに微笑む。
「苦しいまま、雪のそばにいて下さったのですね…。そんなつらい思いをなさっていたのに、どうして打ち明けて下さらなかったの?」
弥一郎は虚をつかれた顔つきになる。
「だってよう…あんまりにもおめえが死にたがっていて、まっさらになっちまう、なんて言うと、何をしでかすか、と心配するので手一杯だったからな…」
「そうでしたの…」
お雪はしばらくたもとで涙をぬぐっていたが、顔を上げた。
「だんなさま。死神になるにあたって、融通がきいた、っておっしゃいましたよね」
「雪、なにをするつもりだ? ちゃんと産んでくれよ。後生だからよう」
さっとお雪を心配そうに見る。
「それはもちろん。若だんなには、よく死神様がおいでになりますわよね。雪をお忘れでもかまいませんから、だんなさまもいらして下さいまし」
「若だんなはいざ知らず、まだおめえが俺を見えてしまうのはどうかと思うぜ。そう、いつまでも気持ちを引きずるな」
「無理でございます」
まったく頑固なやつだ。弥一郎はお雪を軽く睨む。
「勝手にしろ」
「ええ、勝手にいつまでも慕わせていただきます」
「俺もそれができればよかったんだろうがな」
顔を伏せた。長い前髪は顔を隠すが、声が涙にくもるのは止めようがなかった。
「だんなさま」
「うん、なんだ?」
自分の鼻声にいらつき、弥一郎はぞんざいに言った。
「雪のわがままでだんなさまをいつまでもお引き留めして申し訳ありません。だんなさまの苦しみを長引かせていたのですね。でも、会えなくなってしまうのは、つらいです」
「そうか」
「もうどうしていいか、わかりません。だんなさまをいかせてあげなくてはならないのは、わかっています。でも、お姿が見られないと、いてもたってもいられなくなるんですの」
弥一郎は顔を上げ、お雪をうかがった。世にもさびしそうな顔に胸が痛む。そのまますっと消え入りそうな、危ういはかなげさに身震いした。
だが、ここは鬼にならないとな。自分がぐずぐずした態度なら、お雪にも未練が残る。未練が自棄を引き起こさないようにしないと。
「俺をいつまでも慕うのは構わない。一つだけ約束してくれ。子どもを産んで育ててくれるか? 生きるんだぞ、雪。いいな?」
お雪は、かたくななまでにうつむいたままだ。
あーあ、つくづく頑固だぜ、こいつはよう。
あきらめかけた時だった。
お雪は顔を上げ、弥一郎に向かって深くうなずいた。
弥一郎もうなずく。
ふいにお雪の顔が苦悶にゆがんだ。
「だ、だんなさま! お、お姿が!」
弥一郎は目を閉じた、満足げに。
お雪に自分の姿が見えにくくなりつつある。お雪は生きることを選んだのだ。
弥一郎は空に目をやる。ふたたびの合図。弥一郎は片手を上げ、合図をかえした。
弥一郎は極上の笑みをお雪に向けた。
「さらばだ。雪、もう死のうと思うな。死ぬことは終わりじゃない。区切りなんだ」
「弥一郎さま! 消えないで!」
お雪は、うすれかける弥一郎に向けて叫んだ。
駆け寄ろうとして、途中で立ち止まり、視線をあちこちへ泳がす。
どこにも弥一郎の姿を見つけられない。
お雪は地べたにへなへなとしゃがみこんだ。
弥一郎は近寄るが、お雪の視線はあわただしくあたりをさまよう。
弥一郎は穏やかに語りかける。
「雪、おめえと会えてよかったぜ」
お雪に声が届いたか、定かではない。だが、言わずにはいられなかった。
お雪は弥一郎を追うのをあきらめたように、目をつむる。
閉じた目から涙があふれ出す。静かに流れていた涙に、嗚咽がまじり、血を吐くようなうめきが続いた。
第三部
1
先輩はすぐそばまで来ていた。
「もういいのか」
「ああ」と、弥一郎はそっけなく答えた。相手が動こうとしないのを見て、言う。
「これ以上地上にいると未練が残る。さっさと行こう」
横に並んだ先輩が話しかけてくる。
「年齢はどうする?」
「年齢?」弥一郎は怪訝そうに問いかえす。
「死神として活躍するのに、何歳のままでいたい?」
「死神の分際で、若がえってはしゃいでどうするんだよ?」
「それはそうかもしれないが」先輩は笑いをこらえる。「各人の好みにまかせているからな。とくに女の人だと、例外なく若がえりたがる」
「死神になろうと、女心は変わらねえんだな。で、女の死神って多いのか?」
「少ないよ。死ぬ子どもを迎えにいったり、周りが死にいく者を嘆き悲しむのを見るのは、しんどいからな。が、何名かはいるよ」
「どこにでも物好きはいるからな」
死んでから目覚めた洞窟に着いた。先輩は底に横たわるように指示した。
「これから『まっさら』になる。人間としての記憶はほぼ消える。君は、鬼の腕、と呼ばれた凄腕だそうだが、刀の抜き方さえも忘れるんだ。刀に触れると、懐かしい感じがするだろうけど。全部忘れてしまうわけではないんだ。そんなことをしたら、歩き方もわからなくなってしまうから。死神をやる程度に『まっさら』になると考えてもらえばいい」
「差料はもう用済みだ。指一本で事足りるからな」
「力を乱用するのは考え物だ」
「だろうな。でも、とどめは刺していねえぜ。そんなことしたら、諸先輩方がご降臨あそばして、俺様を地上から引きはがすだろうからな」
あきれた顔つきで先輩は弥一郎の澄ましきった顔を見ていたが、じき破顔した。
「大したやつだな。お前は見込みがあるよ」
「そいつはどうも」
先輩は指を鳴らす。
と、光が弥一郎に注がれていく。
光が当たれば当たるほど、心がどんどん軽くなっていく。死んだ直後からその傾向があったが、大量の光が降り注ぎ、その刺激で倍増された。生きていたころのような、切迫した思いや気持ちが落ちていく。執着が抜け落ちて、心もからだも軽くなる…。
でも、これだけは…。
じりじりと思いが湧き上がる。
雪、俺の宝。おめえを忘れるなんて。忘れたくない、忘れたくないんだ!
弥一郎は絶叫した。
はねおき光から逃れようとした刹那、心の臓を光が刺し貫いた。衝撃にからだは折れ曲がり、底に叩きつけられ、激痛が全身に広がる。
弥一郎は意識を失った。
2
いざ始めてみると、死神稼業は彼の天職とも言えた。
妖鬼めいた顔を見せれば、たいていの者は驚くほどおとなしく彼に従う。死神稼業をやるうえでの左目の威力を、彼自身も認めざるを得ない。
そのせいか、左目を気にすることが少なくなった。
修羅場をくぐり抜けている死神連中も、彼の左目を見るとどきりとする。左目を見せて脅かす肝試しは、異動者も含めた新人歓迎の儀式になっている。彼も相手の反応を楽しむようになっていた。
「今度の新人、左目にどう反応するかな?」
カメレオンという呼び名の同僚が彼に訊いた。
「あんたみたいに、ビビるだろうさ」
「ビビっちゃいなかったよ! ちょっと驚いたくらいで…」
「そうかえ」彼は笑いをかみ殺している。「髪をかき上げたら、あんたは腰を抜かしてしばらく動けなかった、って覚えているんだけどよう。ありゃ、俺様の錯覚か?」
「新人は挨拶回りにあと十分もすれば来るはずだよ」
もう一人の同僚が間に入った。情報通で有名な男だ。「絶対、ビビるよ。だって、女なんだぜ」
「女?」彼とカメレオンは声をそろえて叫んだ。「珍しいな!」
「天寿を全うしたのに、死神稼業のことを聞きつけて応募したんだって」
「物好きなこった」
彼は思わず笑みをもらした。
「なんで応募なんかしたんだろ」
カメレオンは情報通に訊く。
「新人は生きている頃、死神が見えたらしい。休暇の特例でもないんだって」
死神たちは、休暇中に原則として一人の命を助けられる特例を持つ。それ以外で命を救ったりすると、大変な厳罰が待っている。
情報通は続けた。
「休暇以外だと…ぼくらが見えるとしたら、愛する者が死ぬ時や、死にたがって、だろ。変だよね」
彼らは首をひねる。彼は同僚の顔を見回しながら、言った。
「面白いじゃねえか。その物好きの顔をとくと拝ませてもらおう」
彼が言い終わらないうちに、新人が上司に連れられて挨拶にくる。
「若いな。天寿を全うした、って聞いたんだけどな」
情報通が声をひそめる。
「死んだ時より若がえったな」
カメレオンも言うが、彼は唇の端を上げた。
「いい女だ」
新人が来て、挨拶する。カメレオンと情報通の二人は彼を後ろに隠す。
新人の挨拶の声が遠い。出番を待つ。他の二人もそそくさと挨拶をかえしている。
彼の番になった。
ずいと前に出て、不気味な左目がさらされた。
みな、かたずをのんで見守るなか、女は彼を見つめたあと、「よろしくお願いします」とあっさりと言う。感じのいい笑顔をみせる。対するこちらは、つまらなさそうな顔になる。
新人を連れてきた上司がとりなすように咳払いをした。
「彼女の挨拶回りはここで終わりだから、あとを頼んでもいいか」
「俺様はかまわねえよ」素っ気なく答え、あごの下をポリポリとかいた。
「庭園にでも連れていけばいいんだろ。やっとくぜ」
3
二人は庭園まで歩く道すがら、同僚や先輩後輩と出くわした。みんな親しげに彼に挨拶をし、彼も滅法愛想が良い。そのやりとりを彼女は興味深そうに見つめていた。
向こうから来た後輩が、彼を見つけてぱっと嬉しそうな顔に変わった。満点の笑顔で駆け寄ってくる。彼女もどきりとしたほどの天使のように甘く、整った美貌だ。
「先輩!」
「おうよ」と、彼も笑顔でかえす。
「先輩が…新人の案内役ですか?」
彼がうなずくと、美形の後輩は彼女にせき込むように話しかける。さきほどからずっとしゃべりかけたくて、うずうずしていたようだ。
「先輩、こう見えてもいい人なんだ。君も心配しないでいろいろ教わるといいよ」
「おい。こう見えても、ってどういう言い草だえ?」
「いや、その…」後輩はあわてる。困惑が美しい顔いっぱいに広がった。
「と、と、とにかく、いい人だから、ね?」
会ったばかりの彼女に同意を取りつけようと、身ぶり手ぶりが激しくなる。
「ふん」と後輩のあわてぶりを冷ややかに見ていた彼は、後輩をこずき、にやと笑った。
「照れるようなこと言うんじゃねえよ。またな」
たくさんの花々が咲き乱れ、木々が生い茂って涼しげな木陰を作る、美しい眺めの庭園は彼も好きな場所だった。ぐるりとあたりを見回した後、新人に話しかけた。
「お前さん、俺様の面を見ても、ちっとも驚かないんだな」
「人様の顔を見て、驚く、驚かないで大騒ぎするなんておかしいです。
ご自分の顔を肝だめにしにしているなんて!」
彼女が生真面目な顔つきで彼ににじり寄る。
彼は彼女の剣幕に面喰らいながらも、近づいた彼女の顔立ちに見とれ、やんわりとはじめる。
「まあまあ。驚かそうとして悪かったよ。そうつっかかりなさんな。
肝が太いにこしたことがねえ。褒めているんだぜ。
とはいえ、お前さんはここに来たばかりだ。俺様をいくらでも頼ってくれていいんだぜ」
「さっき会った方もそうおっしゃっていました。先輩は人望があるのですね」
「そんなんじゃねえ」
そう言いつつも、彼はまんざらでもない顔であごをつるりとなでた。
「ま、がんばりな」
彼女の肩を軽くたたく。
手にしびれが走った。
以前刀を持った時、しびれを感じた。ふらついたほどだ。刀の重さのせいか、とその時は思っていた。愛着を持っていたものだとしびれる、と先輩は教えていた…。
脳をわしづかみにされたようなしびれだ。刀のときより強烈に感じる。
手をはなしたが、まだしびれて足もとがふらつく。
愛着のあったものに触れると、しびれる。
俺は生前女好きだったのか。それとも、この女と因縁でも…?
と思うものの、すぐ打ち消した。
どんな女も俺の左目を見れば、百年の恋も冷めるさ。
「女の身でよく死神に志願したね」
「死神は」と相手は視線を切らずに言う。「融通がきくって、ききましたから」
「どんな融通を頼んだのかい。差支えなきゃ、聞きたいもんだね」
うなずいたものの、彼女は長いこと黙っていた。口を開くと一気に言った。
「わたくしの大切な御方がここにいるんです」
「ほう。そいつは果報者だね」
「ほんとうにそう思いますか」顔に、はじらいが散った。
「おうよ。お前さんみたいな別嬪に慕われちゃあな。で、そいつには会えたのかえ?」
優しく声をかけたが、彼女の顔はこわばっていく。
「先に死神になったんだな。で、その間抜けな果報者はお前さんを覚えちゃいなかったのか。まっさらになるのは俺たち死神の定めなんだよ」
「でも」とすがるように言う。「会ったらわたしを思い出すはずなんです。ただ…」
「ただ、なんだい?」
「その人が」と声を詰まらせつつ、言葉を継いだ。「自分で思い出さないといけないって」
「お前さんから、無理にわからせるようにしちゃあいけないきまりか」
彼女はますますつらそうになった。
「なんだって」と彼は首をかしげる。「そいつはすぐわかんねえんだ? どこまでも鈍い野郎だな。曲がりなりにも、因縁があるんならよお」
まっさらにした思い出をもどすのは、からだにかなり負担をかける。つらさや痛みを覚えないではいられない。相手が痛みに耐えかね、思い出すことを拒絶しかねない激しさだ。
彼女は「融通」を頼んだ折に、そう釘を刺されたのだった…。
「そいつは剣呑だ。誰だって、痛い思いはしたかねえからな」
その言葉を聞いて、彼女はがっくりと肩を落とした。
「でもよう、俺様だったら、困るかもな」
「困る…?」
「死神は仕事がしんどい分、仲間の結びつきが固くてね。野郎ばっかりのむさくるしい集団で、色恋沙汰にとんと縁がない。ま、相手もいないしな。ガキっぽくなって、のんびりと遊ぶことしかしなくなるんだ。肝試しみてえな他愛のないお遊びで楽しめるんだよ。
間抜けな果報者ものんびり過ごしているところに、お前さんに会って痛い思いをしたんだな。思い出すどころか、面喰らったんだろう。縁がなかったのかねえ」
「そんな!」
一声叫ぶなり、彼女は崩れ落ちる。とっさに彼は腕を広げ、抱き止めた。彼女は彼の胸で涙を流し始める。
すさまじいしびれが彼を襲う。
しびれの激しさに彼女を突き放したい衝動に駆られた。が、こらえる。
むごい仕打ちをしてしまった、せめて泣きやむまで…。
彼は必死になってしびれに耐えていたが、ひどくなる一方だ。彼女はいよいよ強くしがみついてくる。
死神の自分は「死ぬ」ことはないにせよ、これは限界だ。
その時、ぽかっと光が来た。
脳天から足先まで光の矢が貫いていく。光がからだを下りるあいだ、しびれが引いていった。同時に、記憶やそれにまつわる感情が押し寄せてくる。
しびれはむずかゆい感触に変わった。
すべてがよみがえった。
「雪」
お雪は顔を上げた。一度しっかりとうなずくと、彼の胸に顔を押しつけた。再び激しい涙が流れ、着物の胸を濡らしていく。
呆けたように彼は、嗚咽をもらすお雪をただただ見ていた。
「おめえだったのか」
「弥一郎様」
「死神になってまで、なんだな。しかも俺様…いや、俺の記憶をもどすように融通して」
「だんなさまも雪のために死神になって会いにきて下さったもの」
お雪は涙にぬれた瞳をまっすぐ弥一郎に向ける。弥一郎は思わずふっと息をつく。
どうして、このかんばせを忘れていられたのだろう。
じき、満足そうな笑みが彼の端正な顔を覆う。
「そうだったな」
彼はお雪のあごに手をあてて押えた。
「でも、あんときは、触れられないで難儀したよなあ」
かがんで、弥一郎はお雪の唇にしっかりと唇を押しあてた。
もう二度とお雪をはなさない、というしるしをつけるように。