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私を捨てたのはあなたでしょ?どれだけ言われても戻りません。

作者: 夢乃舞家
掲載日:2026/07/17

「話がある」


ガレットの声に、リディアは帳簿から顔を上げた。


インクの匂いが鼻の奥に残っている気がするほどのめり込んでいたようだ。

今月の買い取り分の集計は、あと少しで終わる。

今日中に片づけておかないと、明日の卸しの数字が合わなくなってしまう。


「手が離せないの。あと少しで――」

「それよりも重要な話なんだ」


いつになく硬い声だったので、何かトラブルでも起きたのかとリディアはペンを置いた。

部屋を見渡すと、その机に積まれた帳簿も、壁の棚に並ぶ買い取り記録も、ほとんどがリディアが処理したものだった。


四年前、前ギルド長が体を壊して退いたとき、後を継いだのがガレットだった。

リディアが妻になったのも、その時だ。以来、実務はすべて一人で仕切ってきた。


彼はデスクワークが全くできず、その代わり人脈があった。

かつて名を馳せた冒険者としての顔の広さで、上級冒険者たちを次々にギルドへ引き入れたのだ。

そのおかげか、引き継いでから四年で、このシルヴァーファングは国内でも指折りのギルドにまで成長した。


子供が欲しいと思ったのは、いつ頃からだったか。ここ数年は、家に帰った日を数える方が早いほど、仕事に明け暮れていた。

仕事に追われるうちに、いつの間にかギルドの奥の小部屋で寝泊まりする日の方が多くなっていた。

ガレットにそれとなく話したことは一度や二度ではない。そのたびに彼は「もう少し運営が落ち着いてからのほうがいいんじゃないか」と笑って、話を切り上げた。


「実は、紹介したい人がいるんだ」


ガレットがそう言って、扉の外に向かって手招きをした。

入ってきたのは、見覚えのない女だった。艶やかな赤毛を結い上げ、リディアが一度も袖を通したことのないような色合いの布を纏っている。


「イザベラだ」


ガレットが、その名を告げた。


「これから、ギルドの運営を彼女に任せようと思う」


言葉の意味が、すぐには繋がらなかった。


「――どういうこと?」

「そのままの意味だ」


ガレットは、リディアの顔を見ずに答えた。


「聞いたぞ。お前が職員を味方につけて、俺を追い出そうとしているとな」


指先が、冷たくなっていくのがわかった。


「誰がそんな――」

「隠さなくていい」


イザベラが、そっとガレットの腕に手を添えた。


「ガレット様の武勇伝、わたくし、何度伺っても胸が高鳴りますの。今のギルドがこれほどの規模になったのも、すべてガレット様の人望あってこそ」


甘い声だった。リディアを一度も見ずに、ガレットにだけ注がれる声。


「奥様は、ご自分がギルドを回していると思い込んでいらっしゃるようですけど」


「それは――」


否定しようとした声が、喉の途中で止まった。

四年前から、経営の知識もなく、何もわからない中でがむしゃらに全部この手でやってきた。

ガレットは数字や交渉事がまるでできない人だ。冒険者生活が長すぎたせいで、それ以外のことが何もできない人だった。

それを「思い込み」と呼ばれて、どこから説明すればいいのか、見当がつかなかった。


「それに」


ガレットが、リディアの言葉を待たずに続けた。


「イザベラと、再婚することに決めた」


部屋の空気が、一瞬で冷え込んでいく。


「――は?」

「お前とは、離縁することにした」


「――突然、何を言っているの?」


声が、自分でも驚くほど尖っていくのがわかる。


「わたしが、いつあなたを追い出そうとしたの? この四年間、帳簿も査定も卸先との交渉も、全部わたしがやってきた。あなたが眠っている間も、冒険者たちと酒を飲んでいる間も、わたしはずっとここにいたのよ」


言葉が、止まらない。


「それを、この女の甘い言葉ひとつで、こんな風に――」


そこまで言って、リディアは口をつぐんだ。これ以上、何を言っても届かない。ガレットの目に、迷いは一つもなかった。

これ以上なぜ、と聞く気にもならなかった。積み上げてきたものが、今この瞬間、この人自身の口から、こんなにも軽く扱われている。

思っていたより静かに、体の奥から力が抜けていく。


「――わかりました」


自分の声が、驚くほど平坦になっていた。


「わたしはここを出ていきます」


リディアは、机の上の帳簿にそっと手を置いた。


「これらはまだ途中ですが、すべてあなた方で処理してくださいね」


イザベラの口角が、わずかに引きつるのが見えた。

ガレットは、まだ何かを言いかけていたが、リディアはそれ以上、耳を貸すつもりはなかった。


◇◇◇


気づけば、家の前に立っていた。歩いていた記憶がほとんどない。

ギルド長室を出て、大通りを抜けて、どこをどう歩いたのかろくに覚えていなかった。


体が、勝手にここへ運んだのだろう。

扉を開けて中に入る。誰もいない居間は、いつも通り静かだった。

自室に入り、荷物をまとめようと戸棚を開けた。


――少ない。


わずかな衣装と、装飾品がいくつか。それだけだった。とても四年分の暮らしとは思えない量だ。

最後にこの部屋で寝たのは、いつだっただろう。たしか、二週間は前だった気がする。

それくらい、家に帰ってきていなかった。


仕事を言い訳にするつもりはなかった。それでも、これほど家を空けていたのなら、ガレットの心が離れていったのも、無理のないことだったのかもしれない。

そこまで考えて、リディアは首を振った。今さら、考えたところでどうにもならない。


荷物はあっという間にまとまった。持てるだけの荷を抱え、あとは住むところを決めてから、届けてもらうしかない。

向かった先は、商業ギルドだった。宿の手配も、荷の輸送も、ここに頼めば話が早い。


受付で用件を伝え、順番を待っていると、


「――リディア? あなたがなぜここへ?」


名前を呼ばれて顔を上げた。


「セドリック」


こんな場所で会うとは思わなかった。

査定の交渉で何度もギルドで顔を合わせてきた相手だ。数字ひとつで一歩も譲らない、けれど筋の通らないことは絶対に飲まない人。

信用できる数少ない人の一人だった。


今まで冒険者ギルドの方であらゆる業務をこなしていたリディアが、商業ギルドに顔を出すことなど、まずなかった。

セドリックもそれを知っているからこそ、疑問に思ったのだろう。


リディアの抱えた荷物に目を留め、セドリックはわずかに眉を寄せた。

何かがあったのだと察したらしい。


「――ギルドを、辞めてきました」


セドリックの目が、大きく見開かれた。


「辞めた? あなたが?」


「ええ」


「一体、何があったのです」


急いた声だった。リディアは、かいつまんで事情を話した。

イザベラという女が現れたこと。乗っ取りの疑いをかけられたこと。離縁を告げられたこと。

話すほどに、セドリックの表情が険しくなっていく。


「なんと馬鹿なことを……信じられないな。あなたがいなくなって、あのギルドが今まで通り回るとは思えない」


そう言ってから、セドリックはしばらく考え込んでいた。


「私の商会も、これから大きくなっていくところでね。ちょうど上に立てる人間が足りていなくて困っていたんだ。リディアほどの力があれば、私たちも助かる。よければうちで働かないか? その力を腐らせるのは、国家の損失だよ」


そう言って、セドリックはお茶目に笑いかけた。

その言葉には、さきほどのガレットの言葉にあったような冷たさはどこにもなかった。

温かく、それでいて、どこか心地よい響きがあった。


リディアは、思わず「大げさですよ」と言いながら苦笑いを浮かべ、その言葉を素直に受け取ることができた。


「ありがとう、セドリック――お世話になります」



◇◇◇



セドリックは、商会の一室を空けてくれた。住み込みで働けるようにという計らいだった。


「贅沢な部屋じゃないが」


案内された部屋は、質素だが清潔だった。ベッドと机、小さな窓がひとつ。

冒険者ギルドで寝泊まりしていた部屋よりも過ごしやすそうだった。


「十分ですよ、本当に助かります」


短く答えると、セドリックは少し意外そうな顔をしてから、頷いた。


商会での暮らしは、思っていたよりも早くリディアに馴染んだ。

帳簿の付け方も、査定の基準も、ギルドとは違う部分はあったが根本のところは同じだった。数字を見て、相場を読んで、正しい値をつける。それだけのことだ。


「この査定、間違ってないか?」


古参の番頭が、渋い顔でリディアの書いた値を睨んでいた。


「間違っていません。この毛皮、裏地に虫食いがあります。表からは見えにくいですが」


番頭は毛皮を広げ直し、裏を返した。しばらくして、ばつが悪そうに咳払いをした。


「……次からは、先に言ってくれ」

「言いましたよ」

「……すまない、聞いてなかった」


そんなやり取りが、一日に何度もあった。悪意がないのはわかっている。ただ、リディアの仕事のやり方に、まだ誰も慣れていないだけだった。

夕方、帳簿を閉じたところで、セドリックが顔を出した。


「どうだ、慣れたか」

「ええ、おかげさまで」

「番頭が愚痴を言っていたぞ。あなたに敵わないと」

「争っているつもりはありませんよ。正しい値をつけているだけです」


セドリックが、小さく笑った。


「その言い方、ギルドにいた頃と変わらないな」


指摘されて、リディアは初めて気づいた。

数字の相手をしているときだけは、何も考えずに普段の自分でいられてる。

それが、今の自分にとってどれほど救われているのかを。


「――少し、羨ましいよ」

「何がですか」

「そうやって、迷いなく言い切れるところが」


セドリックの声に、からかいの色はなかった。

その夜、帳簿を抱えて部屋に戻る途中、廊下の窓に映る月が、やけに大きく見えた。

足を止めて、しばらく見上げる。

以前なら、こんな風に立ち止まる余裕もなかった。いつの間にか、肩の強張りが少しずつ緩んでいることに、リディアは気づいた。



◇◇◇



「またお触れか」


オリバーは、王家の紋章が押された封書を受け取りながら、小さく息を吐いた。


リディアが去って、ふた月ほどになる。

あの人が決めた基準は、驚くほどよく出来ていた。依頼の割り振りも、買い取りの値も、これまで通りに回していれば、大きな問題は起きなかった。

しかし、新しくギルドの実務を任されたイザベラの仕事への態度には、他の職員からも不満の声がすでに上がり始めている。

オリバーも、それを知らないわけではなかった。


封を切り、目を通す。


一行目で、指が止まった。

魔獣の発生頻度が、この半年で目に見えて増えてきていること、さらに新種の報告も相次いでいることから、予算が追い付かなくなってきていることが記されており、その影響で補助金の算定基準を見直す――そう書かれていた。


裏面には、具体的な変更点のリストが並んでいた。目を通すうちに、オリバーの表情が硬くなっていく。

これまでのやり方では、とても対応しきれない。


これまでは、討伐した魔獣の強さと数で補助金が決まっていた。その申告の基準を、ギルド側でどう調整するか――厳しくしすぎれば冒険者が割に合わないと依頼を受けなくなり、緩くすれば国の基準を満たせず補助金が減る。そのさじ加減を決めていたのは、いつもリディアだった。


オリバーは、封書を机に置いた。

顔を上げると、ギルド長室の扉が目に入る。

あそこに、この判断ができる人間は――いるのだろうか。



◇◇◇



新しい基準の運用は、イザベラが引き受けることになった。


「わたくしに任せてくださいませ」


ガレットの前で、そう請け合ったらしい。オリバーがその場にいたわけではないが、決定はあっという間に下りてきた。

実情を見れば、イザベラのやり方は単純だった。

国への報告書には、魔獣の脅威度を実際より高く書く。討伐実績も、盛った数字を並べる。それだけ補助金の枠が増える。

その一方で、冒険者に割り振る依頼のランクは、実際より低く記載する。


「Eランクの依頼です」


受付でそう告げられた依頼が、蓋を開けてみればDランク相当の危険度だった、という報告が、オリバーの耳にも届くようになっていた。


「基準の見直しが必要では?」


一度、思い切って進言したことがある。


「あなたに言われる筋合いはないわ」


イザベラは、書類から顔も上げずにそう答えた。


「今まで通りのやり方で、何の問題があるの? 数字はちゃんと合っているんだから問題はないはずでしょう」


合っているのは、彼女の帳簿の上だけだ。差額をこっそり横領していることにも、オリバーは気づいていた。

そのような不正はやめるように言いかけて、オリバーは口をつぐんだ。

言ったところで、聞く耳を持たない人だということは、もう分かっている。



◇◇◇



それから、幾度となく同じことが繰り返された。


「明らかにCランク相当の依頼のはずなのにDランクになっています」

「見直しを検討していただけませんか?」

「けが人が、また出ました!」


職員たちの声は、次第に切実になっていった。だが、イザベラの答えはいつも同じだった。


「何も問題ないでしょう?」


「問題だから上に話が上がってきてるんでしょう」と、オリバーは思ったが言葉にすることはなかった。

三ヶ月が過ぎる頃には、進言する者もめっきり減っていた。言っても無駄だ、という空気が、受付の奥にまで広がっていたからだ。


「オリバーさんは、まだ言うんですか?」


若い受付係のひとりが、諦めたような声で尋ねてきたことがある。


「言うだけ言っておかないと、示しがつかないだろう」


そう答えながら、内心では自分でも分かっていた。意味がないってことくらい。

けがを負った冒険者の名が、また一つ増えるたびに、職員たちの間に積もっていくものがあった。

そして、いつの間にか誰も、イザベラに何も言わなくなっていた。



◇◇◇



卸されてくる魔獣素材の質が、ここ最近、明らかに落ちていた。


「これは……」


リディアは、届いたばかりの毛皮を広げ、眉をひそめた。毛の艶がなく、傷の処理も雑だった。

以前のシルヴァーファングなら、こんな品をこの額で卸すことはなかったはずだ。


「またか」


セドリックが、帳簿を片手にため息をついた。


「先月から、値の交渉もどこかおかしい。向こうの言い値が、日によってばらばらなんだ」


その言葉に、リディアは何も答えなかった。

品の劣化も、値の乱高下も、査定の基準がぶれている証拠だった。誰が、どんな基準で値をつけているのか。考えるまでもなく、リディアには想像がついていた。


「戻って、何か言ってやろうか」


セドリックが、冗談めかして言った。


「――いえ、やめておいた方がいいと思います」


短く答えて、リディアは帳簿に向き直った。

セドリックは、それ以上何も言わなかった。

かつての職場が、少しずつ傾いていく気配は、こうして間接的に伝わってくる。知らないふりをすることもできたが、気づかないほど鈍くはなかった。

けじめは、もうつけたはずだった。それでも、胸の奥に小さな棘のようなものが残っているのを、リディアは感じていた。



◇◇◇



その日、受付に貼り出された依頼書には「Eランク:新種の小型魔獣の討伐」と書かれていた。

受けたのは、駆け出しの三人組だった。腕は悪くないが、まだEランクの依頼をこなす程度の経験しかない。


そして、戻ってきたのは、そのうちの二人だけだった。


「囲まれて……仲間が」


震える声で、そう告げた。

新種の小型魔獣と言われていたその魔獣は、実際にはCランク相当の脅威度を持つ大型だったことが判明した。さらに群れで行動する習性があり、新人が対処できる相手ではなかった。それでも、いつものように依頼内容は書き換えられ、犠牲者を出してしまったのだ。


犠牲者の名は、すぐにギルド中に広まっていく。

オリバーは、その名を台帳に記す手が震えていた。


「なぜ、こんなことに……」


呟いても、答える者はいない。


数日後、事の次第は王都にまで伝わっていた。

新種の魔獣による被害の報告に、国はただでさえ神経を尖らせていた。そこへ、ギルドの不正によって犠牲者が出たという話が重なり、国の目に留まらないはずがなかった。

シルヴァーファングに、監査の手が入ることが決まった。



◇◇◇



監査官のエドモンドは、積み上げられた帳簿を前に、額を押さえていた。


「半年前までは、これほど正確な記録があるのに……」


彼の指先が、色あせた帳簿の一冊を叩いた。オリバーには見覚えがあった。リディアがつけていたものだ。


「これが、なぜこうなる!」


エドモンドは、直近の記録を机に投げつける。

同じランクの依頼のはずが、査定の基準が日によってばらばらだった。数字の整合性など、どこにも無いに等しい。


「以前は誰が、この帳簿を?」


問われて、オリバーは一瞬言葉に詰まった。


「――前の、ギルド長の奥方様です。今は、もうここにはいません」

「では、今は?」


オリバーは、答えなかった。答える必要もなかった。

エドモンドの視線が、隣の部屋で不機嫌そうに座るイザベラへと向いていたからだ。


「国策で変わったことは事実だ。だが、基準の見直し自体は、他のギルドでも行われている。ここまで様変わりしたのは、このギルドだけだ」


エドモンドは、そう呟いて、書類の束をまとめ始めた。


「原因を、徹底的に洗い出します」



◇◇◇



商会の帳場に、来客があった。


「――ガレット?」


顔を上げて、リディアは思わず声を上げた。

四年間連れ添った元夫が、決まりの悪そうな顔で立っていた。


「話がある」


以前と同じ台詞だった。今度は、聞く義理もない。


「手短にお願いします。仕事中ですので」


ガレットは、居心地悪そうに視線を泳がせてから、ようやく切り出した。


「ギルドの様子が良くない。職員たちの間で不満が溜まっているらしい」

「そうですか」

「イザベラも、色々とやってくれてはいるんだが……国の政策のせいで、どうにも上手くいかないところがあってな」


言い訳がましい口調だった。


「それで、彼女が言うには――お前を、臨時で雇うのがいいだろうと」

「……わたしを?」

「ああ。どうせ、ろくな仕事に就けずに困っているだろう。職員として、また雇ってやってもいい」


人を見下すような、高圧的な物言いだった。

困っているだろう、という決めつけに、笑いそうになった。


「――お断りします」

「なんだと」

「わたしには、ご覧のとおり、もう素晴らしい仕事があります。それに」


リディアは、静かに続けた。


「あなた方の都合で追い出しておいて、都合が悪くなったら戻ってこいというのは、虫が良すぎませんか?」


ガレットは、何か言い返そうとしたが、言葉にならなかった。


「お引き取りください」


それだけ言って、リディアは帳簿に視線を戻した。



◇◇◇



監査の結果が知れ渡ると、ギルドの空気は一変した。

その日、受付ホールに冒険者たちが詰めかけていた。上級ランクの顔ぶれも、いつになく揃っている。


「ギルド長、少しいいか」


先頭に立ったのは、古参の冒険者だった。ガレットの人脈で引き入れた、上級ランクの一人だ。


「なんだ」

「なんだ、じゃないだろう」


その怒気を滲ませた声に、周りが一瞬で静かになった。


「依頼のランクが滅茶苦茶になって、仲間が死んだやつがいる。お前は、それを知っているのか?」


ガレットは、答えなかった。


「リディアさんがいた頃は、こんなことは一度もなかった。査定も、割り振りも、すべてきっちりしてた。あの人がいなくなってから、何もかもがおかしいだろ!ちゃんと仕事してんのかてめぇ!」


「それは……」


「お前、分かってんのか?……このギルドが大きくなったのは、お前の人脈のおかげなんかじゃない。リディアさんが、裏で全部支えてたからだ」


周りの冒険者たちからも、次々に声が上がった。


「査定の基準、いつもあの人が丁寧に説明してくれました」

「けがをしたときも、報酬の前払いをすぐに手配してくれた」

「あの人がいなくなって、対応が遅くなったよね……」


ガレットは、何も言い返せなかった。


オリバーは、その光景を、受付の奥から見ていた。

ガレットを庇おうとする者は、誰もいなかった。

その後も、ギルド内には怒号を浴びながら冒険者から責められるガレットの姿を、黙って見守る職員がいるだけだった。



◇◇◇



商会に、見覚えのない男が訪ねてきたのは、それから数日後のことだった。


「監査官の、エドモンドと申します」


名乗られて、リディアは目を細めた。ギルドに監査が入ったことは、セドリック経由で耳にしていた。


「冒険者ギルドの帳簿を、四年分すべて拝見しました」


エドモンドは、まっすぐにリディアを見た。


「なぜ、あれほどの仕組みを、たった一人で回せていたのか。今の惨状を見て、心底、不思議に思っています」

「――買い被りです」

「いいえ」


即座に否定された。


「単刀直入にお聞きします。これは、国としての正式な依頼です。ギルドへ、戻っていただけないでしょうか」


リディアは、しばらく沈黙した。


「お断りします」

「理由を、伺っても?」

「あそこには、もう戻りません。それが、わたしの答えです」


エドモンドは、リディアの表情を見て、何かあったのだと察したのか、それ以上食い下がろうとはしなかった。


「――分かりました。ですが」


そこで、セドリックが口を挟んだ。


「リディア個人がギルドに戻ることはない。だが、うちの商会が、正式にギルドの立て直しに関わる形なら、話は別だ」

「セドリック?」

「素材の卸し値も、査定の基準も、うちが噛んでいれば、少なくとも今よりはまともになる。国としても、悪い話じゃないはずだ」


エドモンドは、少し考えてから、頷いた。


「――それで、構いません」


リディアは、セドリックの横顔を見た。彼女自身がギルドに戻るわけではない。

それでも、あの場所が少しでも立ち直る道が残っているのなら、悪くないと思えた。


「よろしくお願いします」


リディアは、静かにそう告げた。



◇◇◇



それから、事態は一気に動いた。


イザベラは、二重の不正――国への虚偽報告と、依頼ランクの偽装――の実行犯として、取り調べを受けた末に投獄されることになった。オリバーがその報せを受けたのは、拘束から数日後のことだった。


「あの女、最後まで悪びれてなかったらしいぞ」


同僚の一人が、そう教えてくれた。


ガレットは、直接手を汚してはいなかった。だが、監督責任を問われ、ギルド長の職を辞することになった。

刑罰こそ免れたものの、事の次第は瞬く間に街中に知れ渡っていた。


「あそこの元ギルド長、女に骨抜きにされて、嫁を追い出したらしいぞ」

「その挙句、ギルドを潰しかけたんだと」


噂は尾ひれをつけて広がり、ガレットが顔を出せる場所は、日に日に減っていった。

数週間後、荷物をまとめたガレットが、こっそりと町を出ていく姿を見た者がいた。

見送る者は、誰もいなかったという。



◇◇◇



三年が過ぎた頃。


商会は相変わらず忙しく、リディアの帳簿仕事は増える一方だった。ギルドの立て直しに商会が関わるようになってからは、なおさらだ。


「今日も遅くまでかかりそうかい?」


セドリックが、書類を抱えたまま顔を出した。


「ええ、あと少し」

「手伝おうか」

「いえ、これはわたしの方が得意ですから」


セドリックが、声を上げて笑った。


「一つだけ、私にも君に負けないものがあるぞ」


にこやかに、そう言う。


「何ですか?」

「――待つことだ」


そう言って、セドリックは隣の椅子に腰を下ろした。急かすでもなく、ただ静かに帳簿をめくる音を聞いている。

窓の外はもう暗い。


リディアがペンを取り直すと、ランプの光が、左手の指輪にちらりと反射した。

ふと視線をやれば、隣で頬杖をつくセドリックの左手にも、同じ光が揺れている。

忙しい日々は、これからも変わらないだろう。それでも、今はこの時間を大切にしたいとリディアは思った。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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それでは、また別の作品でお会いできますように。

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