雨の中の紫陽花 ~うつ病の少女に恋をした僕は、愛なら救えると信じていた~
僕は雨が好きだった。
浅野を初めて見かけたのも、雨が降り続く街中だった。
彼女は薄紫色のワンピースを着て、赤い傘を差していた。
遠くの空を見つめながら、ほんの少しだけ微笑んでいた。
その儚い表情は、今にも消えてしまいそうな泡のようだった。
言葉を失うほど美しかった。
これが一目惚れというものなのだろう、と僕は思った。
けれど声を掛ける間もなく、彼女は人混みの中へ消えてしまった。
それでも幸運なことに、大学のキャンパスで再び彼女と出会うことができた。
今度こそ、僕はその機会を逃さなかった。
自分から声を掛け、連絡先を交換した。
ようやく友達になり、しばらく一緒に過ごしていくうちに、
浅野はとても優しい人なんだと知った。
彼女が怒ったところなんて、一度も見たことがないくらいだ。
ただ一つだけ気になっていたことがある。
彼女の瞳には、いつも淡い憂いが宿っていた。
僕はようやく勇気を振り絞り、彼女に告白した。
「私、うつ病なんだ。それでも気にしないなら、付き合おう」
彼女は淡々とそう言った。
映画の主人公みたいに、
愛があれば、きっと彼女も救える。
僕はそう信じて疑わなかった。自分の愛で彼女を救えるのだと。
「じゃあ、よろしくね」
浅野はかすかに微笑み、小さく頷いた。
うつ病。
あとで調べてみると、不治の病というわけではなかった。
付き合い始めてから、彼女の笑顔は確かに少しずつ増えていった。
それでも時折、彼女は一人でぼんやりと遠くを見つめていた。
まるで、決して辿り着けない場所を眺めているかのように。
その夜、家へ帰ると。
彼女はそっと僕の胸にもたれかかり、心臓の鼓動に耳を澄ませていた。
「机の上の薬、少し増えてない?」
彼女を抱きしめながら、最近ずっと気になっていたことを口にした。
「うん……最近あまり眠れなくて。だからお医者さんが薬を変えてくれたの」
僕はその言葉を、あまりにも簡単に信じてしまった。
すべてが良い方向へ向かっているのだと思っていた。
「あ、そうだ。このサメちゃん、ここに置いてもいい?」
浅野はバッグからサメのぬいぐるみを取り出した。
大好きな彼女が、
「ここに置いてもいい?」と言うだけだ。
断る理由なんて、あるはずがなかった。
そもそも彼女が僕の家に物を置くのは、これが初めてではなかった。
僕はすぐに頷いた。
「もちろん。好きなところに置いていいよ」
「ありがとう。これ、私の一番お気に入りのぬいぐるみなんだ」
浅野は微笑みながらそう言った。
ある日、遊園地でデートをした。
僕は浅野の手を握り、園内のアトラクションを思う存分楽しんだ。
年相応の無邪気な笑顔ではしゃぐ彼女を見ていると、胸がいっぱいになった。
すべてが映画みたいに。
幸せな結末を迎えるのだと、信じていた。
その夜。
スマートフォンに、短い二つのメッセージが届いた。
『ありがとう』
『さようなら』
それが、浅野から届いた最後の言葉だった。
その夜、
僕は何度電話を掛けても繋がらなかった。
翌朝、
警察から連絡が来た。
大雨の降る深夜、彼女は発見された。
それからの数週間、僕はまるで生ける屍のように過ごしていた。
サメのぬいぐるみを抱きしめながら、虚ろな時間を過ごしていると、中に何か違和感があることに気づいた。
ぬいぐるみの腹には、目立たない小さなファスナーが付いていた。
開けてみると、中には丁寧に折り畳まれた一通の手紙が入っていた。
あなたへ。
あなたは「雨が好き」と言った。
私は嫌い。
あなたは「地面に跳ねる水しぶきが好き」と言った。
私は嫌い。
あなたは「雨の中で傘を差す君に、一目惚れした」と言った。
でも私は、あなたが紫陽花みたいだと言ってくれた自分を、
一度も好きになれなかった。
あの日、雨の中にいた私は、本当はもう世界から消えてしまおうと思っていたの。
あなたの瞳に映る自分を見て。
ほんの少しだけ。
あと少しで、私も自分を好きになれそうだった。
ほんの一瞬だけ。
生きてもいいって、信じられそうになった。
あなたと過ごした時間は、あまりにも幸せだった。
幸せすぎて、怖かった。
あなたと一緒にいればいるほど、一人で部屋に戻った時の孤独は、いっそう鮮明になってしまう。
もう私は、この幸せを抱え続けるだけの力が残っていない。
だから、ごめんなさい。
ありがとう。
涙がぽたりとインクの上に落ち、一瞬で文字が滲んだ。
僕は慌てて手紙をずらし、天井を見上げる。
溢れそうになる涙を、必死に押し戻そうとした。
僕が「救い」だと思っていたものは、
ただ身勝手に、
彼女の苦しみを長引かせただけだった。
あの日から、
雨が降るたびに、赤い傘を思い出す。
僕は雨が好きだった。
浅野を初めて見かけたのも、雨が降り続く街中だった。
彼女は薄紫色のワンピースを着て、赤い傘を差していた。
遠くの空を見つめながら、ほんの少しだけ微笑んでいた。
その儚い表情は、今にも消えてしまいそうな泡のようだった。
言葉を失うほど美しかった。
これが一目惚れというものなのだろう、と僕は思った。
けれど声を掛ける間もなく、彼女は人混みの中へ消えてしまった。
それでも幸運なことに、大学のキャンパスで再び彼女と出会うことができた。
今度こそ、僕はその機会を逃さなかった。
自分から声を掛け、連絡先を交換した。
ようやく友達になり、しばらく一緒に過ごしていくうちに、
浅野はとても優しい人なんだと知った。
彼女が怒ったところなんて、一度も見たことがないくらいだ。
ただ一つだけ気になっていたことがある。
彼女の瞳には、いつも淡い憂いが宿っていた。
僕はようやく勇気を振り絞り、彼女に告白した。
「私、うつ病なんだ。それでも気にしないなら、付き合おう」
彼女は淡々とそう言った。
映画の主人公みたいに、
愛があれば、きっと彼女も救える。
僕はそう信じて疑わなかった。自分の愛で彼女を救えるのだと。
「じゃあ、よろしくね」
浅野はかすかに微笑み、小さく頷いた。
うつ病。
あとで調べてみると、不治の病というわけではなかった。
付き合い始めてから、彼女の笑顔は確かに少しずつ増えていった。
それでも時折、彼女は一人でぼんやりと遠くを見つめていた。
まるで、決して辿り着けない場所を眺めているかのように。
その夜、家へ帰ると。
彼女はそっと僕の胸にもたれかかり、心臓の鼓動に耳を澄ませていた。
「机の上の薬、少し増えてない?」
彼女を抱きしめながら、最近ずっと気になっていたことを口にした。
「うん……最近あまり眠れなくて。だからお医者さんが薬を変えてくれたの」
僕はその言葉を、あまりにも簡単に信じてしまった。
すべてが良い方向へ向かっているのだと思っていた。
「あ、そうだ。このサメちゃん、ここに置いてもいい?」
浅野はバッグからサメのぬいぐるみを取り出した。
大好きな彼女が、
「ここに置いてもいい?」と言うだけだ。
断る理由なんて、あるはずがなかった。
そもそも彼女が僕の家に物を置くのは、これが初めてではなかった。
僕はすぐに頷いた。
「もちろん。好きなところに置いていいよ」
「ありがとう。これ、私の一番お気に入りのぬいぐるみなんだ」
浅野は微笑みながらそう言った。
ある日、遊園地でデートをした。
僕は浅野の手を握り、園内のアトラクションを思う存分楽しんだ。
年相応の無邪気な笑顔ではしゃぐ彼女を見ていると、胸がいっぱいになった。
すべてが映画みたいに。
幸せな結末を迎えるのだと、信じていた。
その夜。
スマートフォンに、短い二つのメッセージが届いた。
『ありがとう』
『さようなら』
それが、浅野から届いた最後の言葉だった。
その夜、
僕は何度電話を掛けても繋がらなかった。
翌朝、
警察から連絡が来た。
大雨の降る深夜、彼女は発見された。
それからの数週間、僕はまるで生ける屍のように過ごしていた。
サメのぬいぐるみを抱きしめながら、虚ろな時間を過ごしていると、中に何か違和感があることに気づいた。
ぬいぐるみの腹には、目立たない小さなファスナーが付いていた。
開けてみると、中には丁寧に折り畳まれた一通の手紙が入っていた。
あなたへ。
あなたは「雨が好き」と言った。
私は嫌い。
あなたは「地面に跳ねる水しぶきが好き」と言った。
私は嫌い。
あなたは「雨の中で傘を差す君に、一目惚れした」と言った。
でも私は、あなたが紫陽花みたいだと言ってくれた自分を、
一度も好きになれなかった。
あの日、雨の中にいた私は、本当はもう世界から消えてしまおうと思っていたの。
あなたの瞳に映る自分を見て。
ほんの少しだけ。
あと少しで、私も自分を好きになれそうだった。
ほんの一瞬だけ。
生きてもいいって、信じられそうになった。
あなたと過ごした時間は、あまりにも幸せだった。
幸せすぎて、怖かった。
あなたと一緒にいればいるほど、一人で部屋に戻った時の孤独は、いっそう鮮明になってしまう。
もう私は、この幸せを抱え続けるだけの力が残っていない。
だから、ごめんなさい。
ありがとう。
涙がぽたりとインクの上に落ち、一瞬で文字が滲んだ。
僕は慌てて手紙をずらし、天井を見上げる。
溢れそうになる涙を、必死に押し戻そうとした。
僕が「救い」だと思っていたものは、
ただ身勝手に、
彼女の苦しみを長引かせただけだった。
あの日から、
雨が降るたびに、赤い傘を思い出す。




