6. そして、むかしむかしへ
まるで犬のような速さでイヌイは山道を走り続けた。走り過ぎて履いていた革靴のつまさきが破れた。やがて、白々と夜が明けた。
ここまで逃げれば、さすがに魔物も追ってはこれまい。イヌイは、キラキラと輝く生まれたての太陽の下を歩いていた。すると、木々の隙間から思わぬ人物がひょっこりと顔を覗かせた。
「おお、イヌイ伍長ではないか」
「わっ、びっくりした。薬屋のお爺さんか」
「久しいのう」
「昨日の午後に店で会ったばかりではないか。それに、こんな山奥で何しているのだ?」
「柴刈りじゃよ。焚火用の小枝を集めておるのじゃ。ほれ、この枯れたヒノキの枝、よく燃えるんじゃぞ」
よく見ると、お爺さんの背には山ほどの枝がくくりつけられていた。イヌイはふと思い出し、懐から黒ずんだ布袋を取り出した。
「お爺さん、この袋を預かってほしい」
「ん? なんじゃ、これは……」
「中には異界の魔薬が入っている。過剰に摂れば理性を失い、心を狂わせる。だが、適量なら恐怖を忘れ、勇気がみなぎる『戦いの良薬』になると聞いた。昨日、あんたは言ってただろう? 新しい薬を作りたいって。だったら、これを使ってくれ。俺の願いを込めて『一口食べれば体中に勇気がみなぎる団子』を作ってほしい」
「ほう、異界の魔薬とな。こりゃまた珍しいものを」
薬屋の性か、お爺さんは思わず袋を奪うように手に取っていた。
「ところで、イヌイ伍長。おぬし、ずいぶんとやつれておるな。顔色も悪い。何があった?」
「……実は……モモタ男爵が……夫人が……村の仲間が……魔物に……」
言葉を紡ぐうちに、イヌイの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。鼻をすすりながら、昨夜の惨劇をすべて語った。
「そうか……それは、つらかったのう……」
お爺さんは静かにうなずき、しばし空を見上げた。
「よし、分かった。わしが必ずや『勇気の団子』を完成させよう。そして、いつかおぬしらの待ち望む勇者がわしのもとを訪れた時には、その団子を託す。これは、わしとおぬしの約束じゃ」
「有り難いが……お爺さんとその勇者が出会う確率なんて、万に一つだろう」
「ふふ、万に一つとは、つまりゼロではない。わしはその一つに賭けるぞ。そう思った途端に、その勇者が、もうすぐそこまで来ているような気がしてくるから不思議じゃわい」
そう言って、お爺さんはカラリと晴れた空を見上げ、額の汗をぬぐった。
「ははっ、陽気だな。あんた、きっと長生きするぞ。――ところで、お婆さんは?」
「洗濯じゃよ、洗濯。今ごろ川でジャブジャブと洗濯をしておる。夫婦といえど、四六時中一緒におるわけではないぞ」
――――
朝露がまだ草の先に煌めきを残す頃、川べりの茂みの中で、モモタ男爵夫人は静かに目を開けた。
まぶたの裏に焼きついた昨夜の惨劇が、まるで悪夢のように脳裏をよぎる。だが夢ではなかった。背中に走る激痛が、それを否応なく現実へと引き戻す。
夫人の背には、魔物の爪が刻んだ深い裂傷。血はすでに乾きかけていたが、動くたびに新たな痛みが走る。喉が焼けるように渇いていた。唇はひび割れ、呼吸は浅く、胸の奥で命の灯がかすかに揺れていた。
「……お水……」
夫人は臨月の腹を両腕で抱えながら、這うようにして川辺へとにじり寄った。指先が濡れた苔を掴み、泥にまみれた膝が小石を押しのける。水面が、朝の光を受けて銀色にきらめいていた。
「もう少し……」
震える手を伸ばし、唇を水面へと近づけたその瞬間――
ふっと、力が抜けた。
夫人の身体は、まるで糸の切れた人形のように崩れ落ち、そのまま川へと滑り込んだ。水面が静かに波紋を広げ、彼女の顔が、髪が、そしてその身が、ゆっくりと水の中へ沈んでいく。
お腹を包んでいた上着が水流で脱げ、絹のスカートがふわりと広がる。そこから覗く丸みを帯びた尻が、水面にプカリと浮かび上がった。
それは、まるで――
まるで、川を流れる大きな桃のようだった。
朝の光を受けて、淡く紅を帯びたその尻は、どこか滑稽で、どこか哀しく、そして、どこまでも美しかった。
川は見て見ぬふりをするかのように、ただ静かにその桃を運んでいった。山の麓を抜け、森の影をくぐり、そして、お婆さんが洗濯をする川下へと――
――この時、夫人は、別世界へ転移した。
むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがありました。
おじいさんは山にしばかりに、おばあさんは川にせんたくに行きました。
おばあさんが川でせんたくをしていると、川上から大きな桃が、どんぶらこっこ、どんぶらっこっこ、と流れてきました。
おばあさんは、その桃を家に持って帰り、おじいさんと包丁で割りました。すると中から、オギャア、オギャア、と勇ましい赤ちゃんがあらわれて――(完)




