傘女
雨の中、傘をさした女が歩いてきた。
まっすぐ私のほうへ、ゆっくり歩を進めてきた。
(この女か)
私は思わず身構えた。
事前に仕入れた情報では黒い長髪というのが外見上の唯一の特徴であり、近づいてくる女はその特徴にあっていた。
20メートルほど距離があるので顔ははっきり見えないが、肌は色白で、黒い髪とあわせて日本人形のようだと、ふと思った。
私は、目立たないようにポケットに手を忍ばせて、録音器のスイッチをオンにした。
ライターとしての興奮が体の奥に湧いてきた。
目の前にいるのは
(傘女)
いわゆる都市伝説の登場人物だ。
本来なら架空の存在であるはずなのに、生身の人間として目の前にいる。
この件の原稿依頼を受けたのは2週間ほど前である。
知り合いの編集者からの依頼だった。
同い年のその編集は、30才手前の男同士の気安さなのか、いつもの陽気な感じで
「まあガセかも知んないけどさ、傘女が実際に出たっていうから記事にしてくんない?」
電話一本で頼んできた。
こちらの仕事はけっこう立て込んでおり、断るべき状況だった。
しかし引き受けた。
雨という素材が、なぜか私を強く引き付けた。
理由ははっきりしないが、自分にとって重要な仕事に思えた。
都市伝説の内容をざっくりいうと、雨の日に、ひとりで雨宿りをしていると、傘をさした女が、どこからともなく現れるというものだ。
女は
「傘に入りませんか」
と声をかけてくる。
誘いに応じて傘に入った人間は、雨の中を一緒に歩いていくが、そのまま行方不明となって二度と帰ってこないと言われている。
この地方で20年ほど以前に広まった都市伝説であり、最近ではすっかり忘れ去られていたのだが、ここ数カ月のあいだに、なぜか目撃談が相次いでいた。
コンビニの前で見かけた、駐輪場で見かけた、黒髪の女が男に声をかけていた…
そんな話がネットで広まっていた。
編集者がいうには
「最初はただの誤情報が拡散しただけだと思ってたけど、どうも違うみたいでさ」
さすがに傘女が実在するとはいわないが、
「いたずらのつもりか知らないけど、誰かが傘女に扮して雨の日に出没してるっぽいんだよね。どんなやつか調べて、さくっと読める面白い記事にまとめてよ」
という注文だった。
目撃情報が相次ぐのはS駅近辺だったので、私は周辺で話を訊いてまわった。
通りすがりの主婦や高校生、営業中のサラリーマン、手当たり次第に話を訊いた。
直接見たという人間に出会うことはなかったが、友人が見たらしいと話す者が数人いた。
そのなかの1人が、傘女を目撃したという当人に電話をしてくれた。
電話の相手は女子高生で、若いわりに話の仕方は落ち着いており、出まかせを言う雰囲気は感じなかった。
「駐輪場の前に自販機があって、その横に男の人が立ってたんですけど、そこに女性が現れて…」
じつは数件の目撃談のうち、1件をのぞいて、場所はすべて同じで、駐輪場の前だった。
時間が夕方の4時から5時という点も同じだった。
私は狙いをそこに定めて雨の日を待つことにした。
そして今、傘女かもしれない女が駐輪場に現れ、こちらに向かって近づいてくる。
年齢は20代後半あたりだろうか。
薄い緑色の傘をさし、オレンジのワンピースに身を包んでいる。
2メートルほど手前で女は立ち止まった。
「傘をお持ちじゃないんですか」
きた、と私は思う。
待った甲斐があったと気持ちが昂るが、それを押し隠し
「ええ、急に降られちゃって」
「昼まで晴れてましたもんね」
「そうなんですよ。予報をちゃんと確認しとくんだった」
「ふふ」
女は微笑を浮かべた。
「駅に行くんですか」
「ええ、まあ」
「よかったら傘に入りませんか」
「え」
「私も駅まで行くんで」
「いいんですか」
「はい」
「いやあ、助かります」
無邪気さを装いながら傘の下に身を滑らせた。
私のほうが10センチほど身長が高いため、女は傘の位置をさりげなく調整してくれた。
その所作がとても好感がもて、急に後ろめたさが湧いてきた。
素性を隠し、待ち伏せまでして接触したことに、負い目を感じた。
「お仕事中ですか」
女が話しかけてきた。
スーツを着用した私のことをサラリーマンと思ったようである。
これは都合がよかった。
取材と明かさないまま話をするのが容易になる。
「ええ。最近、この地域の担当になったばかりで」
「担当というと、営業かなにか」
「まあ、そんな感じです。毎日あくせく歩き回ってます」
交差点に差しかかり、駅のある方向に左折した。
曲がった先で、100メートルほど前方に電車が見えた。
電車の走る姿を目で追いながら
「ここは、いい街ですよね」
当たり障りのない無難なことを敢えて口にした。
女がこの辺りの住人なのかを探るためである。
しかし
「いい街ではないですよ」
「え」
私は少し戸惑った。
無難な問いかけには無難な反応が返ってくると考えていた。
否定的でネガティブな言葉は意外だった。
「ゆったりと落ち着いて暮らせそうな気がしますけど」
取り繕うようなことを私は言った。
「そう見えますか」
女は前を見たまま、質問のような、独り言のような、どちらともつかない反応を示した。
「外から見るとそんな印象なんですね」
「…ん、まあ、人によると思いますけど」
気まずい空気が流れた。
よそ者のくせに知ったふうな口を叩くなと、批難まじりに言われた気がしないでもなかった。
普通なら会話はここで途切れてしまいそうだが、私にとっては取材である。
黙ったままでは情報を引き出せないし、そもそも都市伝説に扮する女がどういう人間性を持つのか興味があった。
相手が話しやすいよう、わざと呑気なふうを装って
「いい街だと思うけど、住んでる人にとっては色々あるんですかね」
「私、ここに住んでるわけではないんです」
「そうなんですか」
「昔、ちょっと関りがあって」
「ええ」
「雨が降ると当時のことを思いだすんです」
どきっとした。
傘女が言いそうなセリフだと感じた。
ここで話をうまく掘り下げれば面白い記事になりそうに思えたが、私がなにか言う前に女のほうが
「そういうことって、ありませんか」
「え」
「雨が降ると昔の記憶を思いだすようなこと…心のなかに抑え込んでたものが突然よみがえること」
また、どきっとした。
なぜかはわからないが気持ちが揺れた。
頭の中でなにかが蠢いて、蠢いたなにかが囁きかけてきた。
記憶…
雨…
そうだ…
たしか、あの日は雨が降っていた…
「あるんですね、記憶が」
私の顔を、覗くように女が見てきた。
「…い、いえ、別に」
「雨にまつわる記憶って、辛いことが多いんです」
「そうですかね」
「そうですよ。私は雨の日に殺されましたから」
傘を持つ女の手がわずかに揺れた。
殺されたという女の声が頭に反響した。
質の悪い怪談だと一蹴してもいい話だが、できなかった。
気のせいかもしれないが、足が重くなり、体が強張ってきた。
この場を早く離れたいと思った。
ライターとして失格かもしれないが、逃げ出したい誘惑にかられた。
「駐輪場の前で待ち伏せしてましたよね」
「え」
「取材ですか」
「…」
「いいんです。怒ってませんから」
言い訳を考えるが思いつかなかった。
女は話をつづけた。
「私は誰にでも声をかけるわけではないんです。あなたは雨のなか、怯えるように立っていました。だから声をかけたんです」
「怯える? 私が」
「忘れようとしても記憶は決して消えてくれません。どこまでも追いかけてきます。もう逃げるのはやめて償うべきです」
「逃げる? 償う? なんのことですか」
「私を殺した犯人は償いました。どう償ったのか知りたいですか」
「怪談にはあまり興味がないですね」
「その男は一流企業の社員でした。私を殺害した後も素知らぬ顔で暮らしていました。でも、そんな見せかけの平穏は長くは続きませんでした。出勤の途中、地下鉄のホームから飛び降りたんです」
女は片手を前に押し出して、手首をくいっと弾くように折り曲げた。
それはあたかも、ホームで誰かを突き飛ばすような動きに見えた。
自殺ではなく他殺だと暗示するような仕草だ。
「償いの瞬間はかならず訪れます。記憶は封印できないのです」
女は冷たく言った。
鋭利な刃物のように、その言葉は私のどこかを切りつけた。
切られた傷から、なにかが沁みだしてきた。
記憶。
6年前の記憶。
雨が降っていた。
今日と同じ、雨の日だった。
由利が悲鳴をあげ、私は茫然と立っていた。
あれは
そうだ、由利が悪いのだ。
急に別れ話を始めて私を混乱させた。
久々のデートで車をわざわざレンタルしたのに、なぜか由利は不機嫌で、別れたいと言いだした。
「ずっと言おうと思ってたの。別れて」
山道に伸びた見晴らしのいいコースを走行しながら、私たちは言い合いを始めた。
口論は次第に激しくなり
「降ろして。もう一緒にいたくない」
「こんな山の中で降りてどうするんだよ」
「いいから降ろして」
由利は乱暴にサイドブレーキを引こうとした。
私は慌ててブレーキを踏んで車を止めた。
由利はドアを開け、雨に構わず外に出た。
私は追いかけていき、腕をつかんで引き戻そうとした。
「触らないで!」
激しい口調で叫んだ由利は、なにか汚らわしいものでも見るように私の顔を睨んだ。
なぜ、こんな目で見られるのか理解に苦しんだ。
プレゼントを欠かさず、有名な店で食事を何度も奢って、彼氏として十分なことをやってきた。
それなのに、なぜ
「いいから車に乗れよ。なかで話そう」
腕に力をこめて、強引に由利を引き寄せた。
「やめて!触らないで!」
私たちは子供の取っ組み合いのように揉みあった。
「離して。気持ち悪い!」
憎悪のこもった声が耳に突き刺さってきた。
その声に触発されたのか、私のなかにも憎悪が湧いた。
気持ち悪いだと!
由利を掴んだ両手を一旦ゆるめ、今度は逆に、ドンと突き飛ばした。
みっともなく転ばせてやろうと思った。
しかし、由利の体は思った以上に軽く、その体はガードレールに腰からぶつかり、後むきに転んで、姿を消した。
ガードレールの向こうは崖だった。
悲鳴が短く聞こえ、ドサッという音がした。
崖から由利は落ちたのだ。
慌ててガードレールをまたいで乗り越えて、恐る恐る、下を見た。
10メートルほどの眼下に、折れ曲がった体が横たわっていた。
動く気配はなかった。
パニックに襲われた私は、その後、どうしたのだったか。
確か救急車を呼んで…
いや、呼んでない。
呼ばなかった。
気がついたら自宅にいた。
レンタルした車を返却して歩いて自宅に戻ったのだ。
翌日から、警察が訪ねてくる恐怖にびくびくしながら暮らし始めた。
しかし、何日たっても警察はやってこなかった。
遺体が発見されたというニュースも見かけなかった。
ひょっとして由利は死んでいないのではないか。
そんな可能性を考えた。
折れ曲がった体は見間違いだったのではないか。
警察が動かないということは、死体がそもそも存在しないからではないか。
そう思い込むことにより、私の精神はバランスを徐々に取り戻していった。
あれから6年が過ぎたが…
「記憶は決して消えてくれません。どこまでも追いかけてきます」
女が言った。
私は後ずさった。
「あれはアクシデントだ。そもそも喧嘩の種をまいたのは向こうだ。責任は由利にあるんだ」
「由利さんという名前なんですね」
私が口走った名前を女は復唱した。
車道を走る車がどこかで乱暴な音をあげていた。
「償いです」
女は傘をさしたまま、私をドンと押した。
女にしては力が強かった。
よろけた私は車道に押し出され、そこに大型の車両が突っ込んできた。
車体に激しく激突され、私は吹き飛ばされた。
路上に落下し、無残に倒れた体に冷たい雨が降り注いだ。




