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たとえ、名前のない言葉でも

作者: たるたる



旧校舎の三階。

文芸教室のドアは、いつも少し重たくて、開けるたびに「ぎい」と軋んだ音を立てる。

黒川想太は、その音が密かに好きだった。


誰にも見つからず、誰にも触れられない。

そんな秘密の空間に足を踏み入れるような、柔らかな儀式の音。


文芸部が廃部になって数年。

この教室は、静寂と埃の棲み家になっていた。


黒板には、かすれたチョークで書かれた一節が残っている。



 「風が吹く日、言葉はよく響く」



誰が書いたかもわからないその詩が、空気に染み込むように沈んでいた。


棚の上には古びた文集が積まれている。

黄ばんだページに綴られた文章たちは、もう誰にも読まれることなく、時の中で眠っている。


床はきしみ、窓枠には蜘蛛の巣。

カーテンの端は、火が触れたようにわずかに黒ずんでいた。




それでも──

この場所は、想太にとって唯一、“自分になれる”場所だった。





詩を書き始めたのは、二年の終わりごろ。

祖母の遺品を整理していたとき、小さな短歌のノートを見つけた。


淡い墨でびっしりと綴られたその言葉たちを読み進めるうちに、胸の奥がじんわりと熱くなった。

誰にも見せず、ただ言葉を残し続けた祖母の姿が、自分と重なって見えた。


だから、書いてみようと思った。

けれどそれは、まだおそるおそるの作業だった。


語彙は少なく、リズムもぎこちない。

感情をうまく掴めなくて、書いても書いても、何かが足りなかった。


名前も書かない。人に見せるつもりもない。

それは、誰にも届かない“ひとりごと”のようなものだった。



そして昨日、よりによってそのノートを、置き忘れてしまったのだ。





放課後。

空が朱に染まりはじめたころ、想太は旧校舎へ向かった。


誰もいない廊下を抜けて、埃の匂いが満ちる階段をゆっくりと上る。

いつものように、静かに取り戻して、何事もなかったように教室を後にするだけのつもりだった。



だけど何故か、文芸教室の扉を開けた瞬間──



空気の重みが、変わった。



ぴんと張り詰めた静けさの中に、微かに混じる“人の気配”。

一歩、踏み出す前に立ち止まり、胸の内に響く心臓の鼓動がやけに大きく感じられた。


窓際に、一人。


西陽を背にした人影が、逆光に溶けて立っていた。

肩にかかる髪が赤く染まり、輪郭がゆらゆらと揺れている。


一瞬、誰だかわからなかった。

でも、見間違えるはずがない。


「……中野さん?」


教室の空気に、かすれた声がほどけていく。


少女が、ゆっくりと振り返った。

その瞳に夕映えが差し込み、一瞬だけきらめいた光を映す。


「黒川くん……か。びっくりした」


中野澪。

クラスでは明るく、誰とでも自然に話せる子。

だが想太は、いつもその“輪”の外にいた。

だからこそ、彼女のような存在は遠く、別の世界の住人のように見えていた。


やわらかく笑ったその表情に、わずかな戸惑いが混じっていた。

普段の教室で見る顔よりも、どこか遠く、少しだけ静かに見えた。


想太は、どう返すべきか迷った。

けれど言葉は見つからず、ただ小さくうなずくことしかできなかった。


 秘密にしていた扉が、そっと開かれたような気がして。


喉が渇いていることに気づいたのは、この教室に足を踏み入れた瞬間だった。

夕暮れの光が斜めに差し込む空間に、彼女の背中がぽつんと浮かんでいた。


 「ここに来る人なんて、もういないと思ってた」


 澪がそう呟く。


 想太は一拍遅れて、かすれた声で答えた。


 「……ちょっと、一人になりたくて」


 自分の声が、やけに小さく響いた。


 本当は違う。

 置き忘れたノートを探しに来ただけ。

 でも、それを言うわけにはいかなかった。


 彼女の前の机の上に、そのノートはあった。


 名前もタイトルも書かれていない、ただの青いノート。

 けれど、想太にとっては、自分そのものだった。

 まだ未熟で、稚拙で、整っていない言葉たち。

 誰にも見せるつもりなんてなかった。

 だからここには、素知らぬ顔で戻ってきた。


 「そっか……」


 澪は窓の外に目をやって、静かに言葉を落とす。


 「ここ、落ち着くよね。音がないのに、ちゃんと何かが“ある”感じがして」


 その言葉に、想太の胸のどこかがふっとほぐれた。

 この静けさを、同じように好きでいてくれる人がいる。

 それが、少しだけ嬉しかった。


 「夕方の教室って、好き。寂しいのに、嫌じゃない」


 そのまなざしが、ノートへとわずかに逸れる。


 想太の胸が、かすかに跳ねた。


 「……最初に来たとき、これが置いてあったんだ」


 ノートの表紙に、澪がそっと指を添える。


 「誰のかも分からないし、名前もないし。でも、捨てられてる感じじゃなくて……大事にされてる気がした」


 想太は黙って頷いた。

 声を出したら、壊れてしまいそうだった。


 「中、開いてみようかって……迷った」


 彼女は小さな声で続ける。


 「でも、一度開いたら、止まらなくなってた」


 想太は反射的に目を伏せた。

 胸の奥に、痛いような熱がこみ上げてくる。


 ──読まれた。


 その事実にどうこう言うことはできなかった。

 でも、いまこうして口にされることで、感情が次々に露わになっていくようで、どうしようもなく恥ずかしかった。


 「ちょっと不器用なところもあるけど……それがすごく、好きだった」


 「……そう、なんだ」


 精一杯、平静を装う。

 でも、心臓の音がうるさくて、息の仕方すら忘れそうになる。


 「その中のひとつ、“光の手紙”って詩が、特に好きだった」


 そう言いながら、彼女はページを開いた。


 よりにもよって、そこを読まれたのか。

 思わず身体が硬直する。


 


 《光の手紙》

  まぶしい誰かの背中を見つめながら

  僕は 手のひらに光をすくって

  それが届くかわからなくても

  そっと 置いていくんだ


 


その詩を書いた日のことを、想太は覚えていた。


 体育祭の帰り道。ひとり、校舎の裏で風に髪を揺らす澪の姿を見た。

 楽しそうに笑っていた彼女が、誰にも見せない顔で、静かに空を見ていた。


 その背中が、あまりにもまぶしくて。

 届かないまま、何かを伝えたくて。



 「……届かなくても、置いていくってところ、なんか、分かる気がした」


 そう微笑んだ澪の目に、かすかな揺らぎがあった。


 

 「たぶん、この詩を書いた人って……すごく臆病だったんじゃないかな。

 自分の気持ちをそのまま渡すのが怖くて。

 でも、それでもどこかに、置いていきたかった人」



 「誰かを好きになるって、きっと、そういうことなのかもしれないね」



 ──見透かされている、と思った。


 けれど彼女は、まだ気づいていない。

 この詩の“作者”が、目の前にいるということに。


 「……誰が書いたんだろうね」


 想太は、それだけを口にした。


 


 澪は、少しのあいだ黙っていた。

 ノートに視線を落とし、何かを見つめるように。


 やがて、ふっと微笑んで首を横に振る。


 「わかんない。でも、読めてよかった。……ありがとうって、言いたいくらい」


 


 胸が、ぎゅっと締めつけられた。


 ありがとうと言われたのは、自分じゃない。

 でも、それでよかった。

 自分の言葉が、誰かの心に届いたのなら──それだけで、十分だと思えた。



 「……その人も、きっと……読んでもらえて、うれしかったと思うよ」



 まるで他人のふりをして。

 でも確かに、自分の胸の奥からすくい上げた言葉だった。


 



澪は、開いたノートのページをそっと閉じた。

 その仕草は、まるで手紙を封じるようで、どこか儀式めいて見えた。


 しばらく、彼女は黙ったまま窓の外を見つめていた。

 茜色に染まった空が、校舎の輪郭をやわらかく溶かしていく。


 「ねえ……」


 その声は、夕暮れの静けさに溶けるように静かだった。



 「わたし、来週、転校するの」


 想太は、息を止めた。


 「急に決まったの。父の仕事の都合で……。前から話はあったけど、こんなに早くなるとは思わなくて。

 すぐ戻って来られると思ってた。でも、たぶんもう、ここには来られない」


 その言葉には、どこか他人事のような淡さがあった。けれど、声の奥に、震えがあった。


 「誰にも言ってなかった。言ったら……ほんとに、離れちゃう気がして」


 想太は、言葉を返せなかった。

 胸の奥に何かがゆっくりと沈んでいくのを感じながら、黙って彼女の言葉を受け止めた。


 「この教室……今日、初めて入ったの」


 不意に、そんな言葉が落ちた。


 「何日か前に偶然見つけてね。使われてないのに、なんだか気になる空間で……。でも入るの、怖かった」


 想太は顔を上げる。


 「……今日、最後に来てみようって思って、思いきって入ったら──このノートがあって」


 彼女は、机の上のノートに目を落とす。


 「名前も何も書かれてないけど、すごく丁寧に綴られてて……なんか、引き込まれて。

 読んでいくうちに、自分の気持ちが整理されていくような気がしたの」


 そして、澪はそっと笑った。


 「だから、ちゃんと伝えたくて。ありがとうって。……この言葉に出会えたから、言えると思った」


 その横顔が、夕焼けに染まりながら、少しだけ滲んで見えた。


 想太は、机の角を指先で触れながら、かすかに問いかける。



 「……また、ここに来たい?」



 「うん。来られるなら、また来たい。でも……それは、きっともうできない」



 彼女は静かに言ってから、窓辺に歩み寄った。


 「でも、ここに言葉が残ってる。誰かが、自分の気持ちを置いていった場所。

 その言葉に触れて、背中を押された人がいた。……わたしは、それだけで十分」


 想太の胸の奥に、淡く火が灯るような感覚が広がった。



 「……行くね」



 澪は扉に手をかけ、ふと、もう一度だけ振り返った。

 なにか言いかけたような気配があった。けれど、声にはならなかった。


 代わりに彼女は、ぽつりと、まるで独白のように呟く。



 「……ありがとう」



 そして、扉がゆっくりと閉じる音が、夕暮れのなかへ溶けていった。







 想太は、しばらくその場に佇んでいた。


 夕焼けに染まる教室の中、誰もいなくなった空間に、ノートがぽつんと残っている。


 彼は静かに机に近づき、ノートを手に取った。


 最後のページはまだ白紙のままだった。


 ペンを取り、震える手で、ゆっくりと文字を綴り始める。


 


 《残照》

  届かなかった想いが

  夕日に染まって落ちていく

  でも それは消えたんじゃない

  君の背中に残った光だ


 


 文字を書き終えたあと、想太は静かにペンを置いた。

 胸の奥でわだかまっていた何かが、ふうっとほどけていくのを感じる。


 でも、それはすべてが晴れたわけじゃない。

 言えなかった言葉は、まだ心のどこかで燻っていた。


 伝えることのできなかった想い。

 彼女がその詩の作者を知らないまま、去っていったことに、少しの安堵と、少しの悔しさがあった。


 


 ──でも、これでよかった。

 ──きっと、これが自分の精一杯だった。


 


 夕陽はもう沈みかけていた。

 けれどその残光は、教室の壁にも、想太の指先にも、そして胸の奥にも、まだやわらかく残っていた。


 きっと彼女の背中にも──届いていると、信じたい。


 


 ──たとえ、名前が残らなくても。

 ──たとえ、この想いが声にならなくても。


 


 それでも、言葉は残る。

 たとえ、名前のない言葉でも。

──いつか彼女が、あの詩を思い出す日が来るかもしれない。きっと、名前も知らない“誰か”の言葉として。


それだけで十分だ。


 



—————————————






「……ありがとう」



澪はそう呟いたあと、そっと扉に手をかけた。

振り返ることはしなかったけれど、胸の奥にまだ、あたたかな感触が残っていた。


ただ一度、胸の奥に触れた想いを、そっと封じるように、扉を閉じた。



軋んだ音が、夕暮れの中へと溶けていく。



─ たぶん、今日という夕暮れが、最初で最後だった。

同じ空の下にいても、もう互いに交わることはない。

たまたま同じ時間、同じ場所に居合わせただけのそれだけの関係。



それでも、私は、きっと忘れない。



あのノートに綴られていた、誰かの言葉。

偶然出会ったはずなのに、どこかずっと知っていたような気がした、あの詩。

静けさの中で響いていた、教室の気配。





そして──

何も言わず、ただそこにいてくれた、彼の気配を。





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