私の一人芝居はいかがですか?
「キャッ……!」
突然、冷たい水を頭から浴びせられた。制服がぐっしょりと濡れて、重く張りついた布地が肌を締めつける。
教室が静まり返る中、失笑の声とぽた、ぽたと水の滴る音だけが、聞こえてきた。
「ふふふっ。お似合いよ、アリシア」
澄んだ声が教室に響いたその瞬間、私の中で何かがぷつりと切れた。張り詰めていた心の糸が、音もなく断ち切られていく。
アリシアって誰? 私のことを言っているの?
耳鳴りがする中、胸を締めつけられるような感覚だけが私を支配する。
次の瞬間、記憶の奔流が雪崩れ込んできた。ライトの眩しさ、観客席のざわめき、緞帳の向こうの暗闇。舞台の上で叫んだ、あの台詞。
……え? 舞台? 舞台ってどういうこと? それにこれは何? 芝居……?
あぁそうだ、私は俳優だった。
役に命を懸け、舞台を生きた人間。事故で命を落としたはずの私が、なぜ、今この場所にいるのだろうか。だけど感覚はそう、まるで新たな一幕のはじまりのようにも感じてならない。
水の冷たさ。失笑。それさえも今は、舞台装置のように思えてならないのだ。この一瞬が、演者としての私を呼び覚ます。
ならば、やるべきことはただ一つ。気弱なアリシア・フィッツウィリアム伯爵令嬢を演じるのみ!
だけどここは……気弱な令嬢ではなく、優雅に立ち振る舞う芯の通った役がピッタリではないかしら。貴族なのだし、水をかけられたこの状況。その方が、舞台が映えるわ。
私はゆっくりと顔を上げ、濡れた金色の前髪を払った。そして静かに微笑みながら、同じく濡れた頬に手を当てる。
「確かに私のような細身の体には、似合うかもしれませんわね」
一気にざわめく教室。誰もが耳を疑い、私の表情を見つめた。
なんて心地のいい視線……。
私は濡れた制服のまま静かに歩みを進める。向かう先は勿論、私に水をかけた赤毛の女性のところへ。足元に水がぽたぽたと垂れていたが、気にならなかった。
「……素敵な演出をありがとうございます、レティーシア様」
一礼とともに、レティーシア・シャリュモン公爵令嬢を見据える。
そう、ここは舞台だ。客は遠巻きに見ているクラスメイト。私は目を瞑り、アリシアの記憶を辿った。
常にアリシアの前に立ち塞がる、レティーシアの存在。ただ気に食わない、という理不尽極まりない理由でアリシアに意地悪をする。公爵令嬢に刃向かえないアリシアは、いつもやられるだけだった。
そんなレティーシアに向かって、どんな演技が相応しいかしら。芝居。そうね。それが一番、私に相応しい。だけど、ただの芝居にはしたくない。
私はクルリと両手を広げながら、観客に向かって再び一礼した。
「皆様、本日はようこそお越しくださいました。これから演じます、私の一人芝居をご覧くださいませ」
次の瞬間、声を変える。それもレティーシアの声色で。
『あら、ごめんなさい。そこに人がいるなんて、思いもしなかったの。だけど、このくらい避けられないようでは、外もおちおち歩けないと思いますわよ?』
『本当に。部屋に籠もっていた方が、安全かもしれませんね』
『そのまま出てこなくてもいいくらいですわ』
「なっ……!」
『まぁ、エスコートしてくださる方がいないの? 男に選ばれない女なんて、ただの飾り物よ。ああ、でも馬小屋の掃除ならお似合いかしら?』
『レティーシア様ったら、言い過ぎですわ』
『あら、事実を言ったまでよ? 大袈裟ね』
「や、やめなさい!」
レティーシアの声がかすかに震えた。傍にいる取り巻きも青ざめている。それでも私は止めようとは思わなかった。
これは台詞であり、彼女たちの在りし日の姿を映す鏡でもあるからだ。
『私があなたを疎んじる理由? それはあなたが黙って耐えているからよ。何も言わずに、にこにこと。その顔を見るたびに――……』
「うるさいっ!」
レティーシアが叫んだ。その瞬間、私は彼女の前に立ち、自分の声で言い放った。
「何がうるさいのかしら。これはすべて、あなたが私に言ったことですよ。違いますか?」
再び教室の中が静寂に包まれる。だが、先ほどのような息を呑む空気ではない。張り詰めたような緊張感はあるものの、まるで魔法が解けたかのような、いつもの教室の空気に戻ったのだ。
全員の視線が、私に向けられる。期待と不安に満ちた視線を受けながら、レティーシアに向かって静かに語りかけた。
「気に入らない、という感情は誰にでもあるものです。でも、他人を傷つける理由にしてはなりません」
その声は舞台の台詞のようでありながら、何よりも真実を孕んでいた。演技であって、真実。真実であって、演技。私はまだ、舞台を降りていないのだから。
「レティーシア・シャリュモン公爵令嬢。あなたはこれまで、公然と私を侮辱してきました。さきほど、水をかけたことも含めて。それについて、何か弁明は?」
「べ、弁明……? 侮辱したのはあなたの方でしょう?」
「私はただ再現しただけです。それよりも、弁明はないのですね。ではこれもまた、覚えておきましょう。幸い、この場には多数の証人がいますし、王太子殿下も教室にお戻りになられたようですから」
その時、背後から近づく気配がした。
「……アリシア・フィッツウィリアム嬢。大丈夫か?」
振り向くと、王太子アルフォンス・ディ・グランディール殿下がそこにいた。冷たい視線でレティーシアを一瞥した後、私に手を差し伸べた。
相手は王太子。失礼があってはならないとは思うものの、彼はレティーシアの婚約者だ。
どう振る舞うべきかしら。
けれど考える間もなく答えは出た。私はまだ、舞台に降りていないのだ。
アルフォンスはお偉いさん。つまり、パトロンや劇団のオーナーを、相手にしていた時と同じ口調で対応するのがベストだろう。
「ご配慮、痛み入ります。しかし、ご心配には及びませんわ。ただ、少々冷たい水を浴びただけですので」
アルフォンスの目元がわずかに緩んだ。
「君は……強いな。誰よりも」
「いいえ。私はただ、舞台に立っただけですわ。折角、素敵な舞台と衣装を用意していただいたのですから。これで演じない、というのは無粋だと思いませんか?」
するとアルフォンスは目を見開いた。
ふふふっ、そんなに驚くことかしら。
「舞台……なるほどな。それでアリシア嬢。君は今、何を演じているんだい?」
「『気弱な令嬢が立ち上がる物語』を演じているところです」
私はにこりと笑い、アルフォンスに一礼した後、レティーシアの方へ顔を向けた。
「レティーシア様、これは演技です。かつて私に浴びせた言葉の数々を、ただ再現したに過ぎません」
取り巻きたちの顔色も次々に青ざめていくが、私は気にせず静かに、教室の中央へ歩み出た。
「そして——」
『お父様に言ってやるわ。こんな無礼者の家など潰して、とね。シャリュモン公爵家の力を思い知りなさい!』
「っ!」
レティーシアの顔が歪む。
けれど私は、意に介さず教室を見渡した。誰もが私の言葉、いや演技に見入っていた。
今までこの教室で、廊下で、裏庭で繰り広げられてきたレティーシアたちの悪行を、見て見ぬふりをしてきたクラスメイトの目が、私を見ている。その耳で、レティーシアたちの言動を聞いている。
さらにアルフォンスもいる状況。もう誰も無視できない空気の中、私は再びレティーシアに向き合った。
「レティーシア様。私がいつ、あなたに無礼を働きましたか? ただ私の態度が気に入らない、というだけで突っかかってきたのは、そちらではありませんか」
けれど返って来たのは、唇を噛みしめる姿だけだった。返答が望めないのなら、別の方向から攻めればいい。
私はレティーシアに向かって腕を伸ばし、アルフォンスに進言した。
「殿下。このような発言をなさる方が、未来の王妃にふさわしいでしょうか?」
アルフォンスは私とレティーシアを交互に見つめる。
「これは芝居ではありますが、虚構ではありません。記憶に刻まれた言葉を、忠実になぞっただけです。それをご覧になった上で、お考えください。このような威圧と恐怖を振りかざす者が、上に立つべきかどうかを」
「こんなの、すべてでたらめですわ! 私を貶めるために嘘を、演技をしているのが、誰の目から見ても分かることではありませんか!」
レティーシアが縋るような目で、アルフォンスに向かって叫んだ。
だけど、これくらいは想定内。演技をするために、アリシアの記憶を辿る過程で知り得た情報が、まだまだ私にはあるのだ。
必死な姿のレティーシアとは逆に、私は静かに目を閉じ、ゆっくりと口を開いた。
「確かに私の演技は模倣品です。疑うのも無理はありません。そのため、証人を呼ぶことをお許しください。……エリオット・グレイ様」
私の呼びかけに、クラスメイトたちが一斉にある方向に視線を向けた。お陰で道ができ、エリオットの退路を塞いでくれた。
しぶしぶ前へ出るエリオット。私は謝罪の意味も込めて、一礼した。
「お呼び立てして申し訳ありません。つかぬことをお伺いしますが、私が課題の刺繍を提出した日のことを、覚えていらっしゃいますか?」
「……ああ、あの日。アリシア嬢の刺繍は見事だったから覚えているよ。それなのに、不器用だとか、汚らしいとか嘲るように……レティーシア嬢が言っていた」
「ありがとうございます。次に、ソフィア・エルノー様」
エリオットが前に出たお陰か、ソフィアは躊躇わずに前へ出てくれた。
「その刺繍されたハンカチを、あの日レティーシア様はどのようにされたか、覚えていらっしゃいますか?」
「はい……レティーシア様が、アリシアさんのハンカチを「汚い」って言って、床に落としたのを見ました」
その日の出来事は、教室にいるクラスメイトは皆、知っている出来事だった。アルフォンスは公務があるため、休んでいたのをいいことに、レティーシアは授業中であることにもかかわらず、アリシアに突っかかってきたのだ。
あの時は誰もアリシアを助けてくれなかったが、今はレティーシアに向かって冷たい視線を送っている。私が被った、冷水と同じくらい。いや、それ以下の温度ではないだろうか。
「お二方の勇気に、感謝申し上げます。演技でしたが、そこに嘘はありません。殿下がご覧になったものこそが、すべてです」
私は観衆のような人垣に戻る二人に向かって一礼した後、再びアルフォンスへ訴えかける。その顔に、もう迷いはなかった。レティーシアを見ることさえしない。そんな覚悟が窺えた。
「……アリシア嬢。私は最初、芝居だと思った。だが、君の目と声、息遣いのひとつひとつに、作り物ではない重みを感じた」
「お待ちください、殿下! 私はただ、無礼を——……」
「レティーシア。人に無礼というのならば、君の態度はどうだ? 言動は? ただ傷つけるために言っていたようにしか、私には思えない」
その声は、突き放すような冷たさはなかった。ただ、厳然とレティーシアに向き合っていた。さすがは未来の王、と呼ぶべき器。だからこそ、アルフォンスは言い放った。
「今の君に、私の隣に立つ資格はない。アリシア嬢の言う通り、威圧と恐怖を振りかざす者が、上に立てばどうなるのか。今ここでそれを思い知らされたよ。私は君と共に、民に断罪されるつもりはない」
レティーシアは何かを言いかけたが、言葉にならず、教室を飛び出していった。後を追う、取り巻きたちの姿。
私はここで、ようやく深く息を吐いた。
演技で生き、演技で終えた前世の魂が、今、再び立ち上がるのだということを。そして今度こそ、この演技が、人生を変えていくのだということも。
***
数日後。午後の柔らかな陽差しが降り注ぐ中庭で、私は呼び止められた。
「……アリシア嬢。少し、時間をいいか?」
振り返ると、そこには王太子アルフォンス殿下が立っていた。制服姿でも隠しきれない威厳を纏いながら、けれどその眼差しはどこか穏やかだった。
「先日の件、正式な調査が始まったよ。証言はすべて一致していた。……君の語った芝居は、真実だった」
「恐れ入ります、殿下」
私は深く一礼した。だが、殿下はその場に立ったまま、じっと私を見つめていた。
「……本当に不思議だな。あの場で、君はまるで……舞台の主役のようだった」
「私にとって、あの瞬間は舞台に立っていることと同じでした。心がそう叫んでいたのです。立て、演じろ、と」
私の言葉に、殿下はふと笑みを浮かべた。
「アリシア嬢。今、舞台に立っていたら、君は何を演じる?」
「そうですね……さしずめ、再生の主役とでも申しましょうか」
私がそう答えると、殿下は小さく頷いた。
「ならば、その幕が下りる前に、もう一つだけ役を与えたい」
「……なんでしょうか?」
「私の未来の隣に立つ役だ。どうだろう? 演技ではなく、現実として、私の妃になってくれないだろうか?」
一瞬、時が止まったような気がした。
「……それは、求婚の台詞でしょうか?」
「いささか、早急だったかもしれないな。では、仕切り直そう」
アルフォンス殿下は一歩前に出て、私の手をとった。
「アリシア・フィッツウィリアム伯爵令嬢。君の演技と真実、そして強さに心を打たれた。どうか、私の伴侶として、この先の物語を共に紡いでくれ」
その瞳には、演技ではない誠実さが宿っていた。私はゆっくりと息を吸い込み、口元をほころばせた。
「喜んで……この人生の第二幕を一緒に開きましょう、アルフォンス殿下」
カーテン・コールは、まだ遠く。けれど、これは確かな始まりなのだ。
演者としてではなく、ひとりの人間として、私はこれから生きていく。
「私の一人芝居はいかがでしたか?」
そう呟いた私に、殿下は静かに、けれど確かに微笑んでくれた。
最後までお読みいただきありがとうございました。
気に入らない、というだけで嫌がらせをしてくる人はリアルでも多く。そこから生まれたお話です。
※女優ではなく、俳優と表記させていただきました。
カーテシーではなく、一礼としたのも、前世が俳優だったからです。
気取った口調、セリフが多い作品ですが、少しでも面白かった、スカッとした、と思っていただけましたら、ブックマーク・評価・いいねをしていただけると励みになります。