第15話 前編《波間の序章 ①》
遠征訓練初日。
早朝の涼しい時間帯、ソニアはアンナと共に女子寮を後にした。
見上げた空には一筋の雲もなく、澄んだ青がどこまでも続いており、「お出かけ日和だねぇ」と呑気にアンナは独りごちる。
それを聞いたソニアは、僅かに呆れたような表情を浮かべて口を開いた。
「アンナったら……旅行じゃなくて訓練なのよ?」
「わかってるって。でも、こういう機会じゃないと、あたしは外に出られないわけだしさぁ……」
そう苦笑いするアンナにつられて、ソニアもつい苦笑してしまう。
(まあ、1年目の夏期休暇は原則外出禁止だものね……)
ソニアは自身の聴講生時代のことを思い返す。
当時のソニアは、他の同級生とは違って外出が許されていた──というよりは、寮から追い出される形で実家に帰っていた。
(正規学生じゃない以上は、休暇中に軍大学側が面倒を見る義理もないということだったんだろうけど……)
そう思い出すと同時に、同級生たちから向けられた視線も思い出してしまう。
(それでも、寮を出る時はやっぱり同級生たちから嫌な目で見られて……彼女たちからすれば『自分たちも自由に外出したいのに』って心境だったのはわかるけど、流石にあれはちょっと居た堪れなかったわ)
ソニアが小さくため息をつくと、隣のアンナが首を傾げる。
「どうかした?大丈夫?」
「ちょっと、昔のことを思い出しただけ。心配しないで」
そんな話をしながら、2人は中央司令本部敷地内の駐車場に到着する。
揃って辺りを見回すが、まだ誰も来ていないようだった。
アンナは思わず首を傾げて頭を掻く。
「あたしたち、早過ぎた?」
「そうかもしれないわ。でも、集合まで後30分もないし……このまま待ちましょうか」
「だね。まあ、下っ端の学生が最後に来るよりマシかぁ」
アンナが小さく息をついた瞬間、背後から足音が聞こえて2人は思わず振り返る。
彼女たちの視線の先には、2人の反応に少し驚いたように足を止めるユリウスの姿があった。
ソニアは少し目を丸くしつつ、ユリウスに向き直って口を開く。
「クロイツァー大尉?」
「えっと……おはようございまーす」
そう言う2人に、ユリウスはそのまま歩み寄る。
「ああ。お前たち、随分と早いな」
「いや、大尉も早くないですか?」
そう首を傾げるアンナに、ユリウスは呆れ気味に口を開く。
「あのな……誰が車両の貸出手続きをしたと思っているんだ?」
ユリウスはそう言いながら、近くに停めてあった2台の車両を指差した。
「あっ、言われてみればそうでした……」
アンナが気まずそうに頰を掻いた瞬間、少し遠くからこちらに呼びかける声が聞こえてくる。
「ソニアちゃーん!アンナちゃーん!!」
ソニアたちがそちらに目を向けると、ヴェルナーが大きく手を振りながらこちらに向かっているのが見えた。
その後ろではギルベルトとラルフ、シュテファンの3人が少し呆れた様子でヴェルナーに目を向けながら歩いている。
「全く……ヴェルナーは朝から騒がしいな」
ユリウスが小さくため息をつくと、ヴェルナーは「すんません……」と頭を掻いた。
ギルベルトはその様子に苦笑いしつつ、ユリウスに声をかける。
「だいぶ早ぇけど、全員揃ったみてぇだな。大尉、もう出るか?」
「そうだな。早い方が道も空いているだろう」
「同感ですね。どう分かれるか、もう決められてるんですか?」
シュテファンの言葉に、少し考え込むユリウス。
(ソニアとベーゼはペアにしておいた方が良いだろうな。担当指導教官の俺も同乗するとして、バランスを考慮すると──)
「俺とシュテファン、ソニア、ベーゼの4人、ギルベルトとヴェルナー、ラルフの3人で分けようと思う」
そう判断したユリウスの言葉に、ヴェルナーは納得がいかないように「えぇー!?」と声を上げる。
「俺、ソニアちゃんとアンナちゃんと一緒が良いんすけど……!」
そう文句を言うヴェルナーに、ユリウスは鋭い視線を向けた。
「却下だ。大体、今回お前はギルベルトから指導教官としてのイロハを叩き込まれるんだからな。原則ギルベルトと組んでもらうぞ」
「……じゃあ、ベルクマン准尉と俺とソニアちゃんたちで──」
そう言いかけたヴェルナーの頭に、ギルベルトの手刀が飛ぶ。
「痛っ!」と声を上げて、ヴェルナーは不満気にギルベルトに視線を向ける。
そんな彼の様子に、ギルベルトは小さくため息を漏らしながら、再度ヴェルナーの頭を小突いた。
「あのな……下心満載のお前を、嬢ちゃんたちと同乗させるわけねぇだろ!」
「そんなぁ!俺、移動結構楽しみにしてたんすよ!?」
そう訴えるヴェルナーの肩を、ラルフはポンポンと軽く叩く。
「諦めなよ、ローデ少尉。そもそも大尉とソニアちゃんたちは原則セットなんだし……少尉の入る隙なんてないでしょ?」
ラルフの言葉に、ヴェルナーは渋々口を開いた。
「……わかったっす」
ヴェルナーの言葉に苦笑いしつつ、ギルベルトはソニアとアンナに向き直る。
「じゃ、嬢ちゃんたちはまた後でな」
「はい。ベルクマン准尉もお気をつけて」
ソニアは一旦ギルベルト組と分かれ、車に乗り込もうとする。
ユリウスはそれを素早く止め、ソニアは何事かと彼を見上げた。
「大尉?」
「お前な、先に席を決めるべきだろう?」
「あっ、そうでした……」
ソニアは扉に伸ばしかけた手を引っ込め、気まずそうに頰を掻く。
そんな彼女の様子に、シュテファンはクスクスと笑った。
「まあ、ソニアさんはどちらにせよ運転できませんし……とりあえずは後部座席で良いんじゃありません?」
「まず決めるべきは、運転手ですよねー」
そう言うアンナをじっと無言で見つめるユリウス。
その視線に彼女は(あ、これは……)と少し冷や汗をかく。
「えっと……あたし、ですか?」
「ベーゼは無事免許を取れたんだろう?それなら何の問題もないはずだ」
ユリウスにそう言われたアンナは、気まずそうに頰を掻く。
「それはそうですけど……でも、まだ慣れてませんし──」
「運転しなければ、いつまで経っても慣れないからな。まずはお前が運転席に座れ」
「はーい……」
アンナは渋々運転席に乗り込み、ユリウスはシュテファンに向き直る。
「シュテファン、ベーゼのサポートに回ってやってくれるか?」
「そうくると思ってました。了解です」
シュテファンはニコッと笑うと、そのまま助手席へと姿を消す。
ユリウスも後部座席のドアを開けると、ソニアに声をかけた。
「ソニア、乗れ」
「えっ?あ、はい……ありがとうございます」
そう礼を言いつつも、ソニアは少し考え込む。
(私の方が、上官にドアを開けて差し上げるべきだったんじゃ……?)
そう思いつつソニアも後部座席に乗り込み、続いてユリウスも彼女の隣に腰掛ける。
「シュテファン、道は把握しているな?」
「はい、バッチリです」
そう答えたシュテファンはアンナに向き直った。
「僕が道案内しますので、ベーゼさんは運転に集中していただいて大丈夫ですからね」
「了解でーす!じゃ、出発進行〜」
アンナは努めて明るく振る舞いつつも、緊張に手汗を滲ませつつハンドルを握る。
深呼吸してからギアを入れると車はスムーズに動き出し、ホッと息をついた。
助手席のシュテファンは、そんな彼女の様子をじっと眺める。
その視線に気付いたアンナは、躊躇いがちに口を開いた。
「あのぉ……そうジロジロ見られると、ちょっと緊張しちゃうんですけど」
「あっ、すみません。ベーゼさんって、思いのほか慎重なんだなぁと思いまして。もっと直感型なのかと……」
申し訳なさそうに頰を掻くシュテファン。
そんな彼に、アンナはニッと笑って声をかける。
「あたし、これでも昔から慎重派なんですよね〜。何より今は、あたし以外に3人乗ってるわけですし……運転手として、危ないことはできないじゃないですか」
そんな言葉にシュテファンは少し目を丸くした後に、少し納得した表情を浮かべつつ顎に手を当てた。
「なるほど、流石は看護学部なだけありますね。人の命の重さを常日頃から意識してるってことですか……尊敬します」
「へっ!?いや、そんな尊敬だなんて大袈裟ですよ〜」
少し照れ臭そうに笑い飛ばしつつ、運転を続けるアンナ。
そんな彼女の様子を、ソニアは後部座席からじっと覗き込んだ。
(1週間の合宿でこんなにスムーズに運転できるようになるなんて……私、やっぱり運転に向いてないんじゃないかしら…?)
そんなことを考えるソニアの肩に、ポンと大きな手が置かれる。
くるりとソニアが振り返ると、隣のユリウスが少し呆れ気味に彼女に視線を送っていた。
「えっと……大尉?」
ソニアが首を傾げると、ユリウスは小さくため息をつく。
「ソニアは知らないだろうが……免許取得合宿は、期間中朝から晩まで教習漬けなんだぞ?」
その言葉に目を見開くソニア。
「えっ?そうなんですか?」
「当たり前だろう。そのくらいでなければ、1週間で免許を取るなんざ土台無理な話だ。午後数時間だけのお前と比べるな」
ユリウスの言葉を受け、ソニアは少し無言で考え込みながら後部座席に腰掛け直す。
(ということは……私がまともに運転できるようになるまで、少なくとも1ヶ月以上はかかるってことよね?夏期休暇の終わりまでに、きちんと運転技術が身につけられると良いんだけど──)
少し不安に思うソニアの背を、ユリウスはポンと軽く叩く。
「あまり心配するな。そもそもソニアの場合、正式に免許が取れるのは来年だろう?まだ時間は十分にある、ゆっくり覚えていけば良い」
「ありがとうございます」
少しホッとした様子のソニアは、ふと窓の外へと目を向ける。
車はいつの間にか見知らぬ道を走っており、ソニアはパラっと地図を開いた。
そんな彼女の手元を覗き込んだユリウスは、地図上のある地点を指差す。
「今はこの辺りだ」
「えっ?もうこんなところなんですか?アンナの運転がスムーズだからかな……」
「お前はそう言うが……目的地はここだからな」
そう言いながら、指を目的地付近まで滑らせるユリウス。
「まだまだ距離がありますね」
「ああ。とりあえず、まずはこの地点で1度休憩を取る予定だ」
ユリウスの指し示す場所のすぐそばに水色で塗られたエリアがあり、ソニアはふとユリウスの方へ顔を上げた。
「……ここの近くにあるのって、湖ですか?」
「いや、海だな」
「海……」
少し目を丸くしてポツリと呟くソニアに、ユリウスは(ひょっとして……)と気付いて声をかける。
「ソニア、海は初めてなのか?」
その言葉に、ソニアはコクリと小さく頷く。
「話を聞いたり、写真で見たりしたことはありますけど……実物を見たことは無いんですよね」
「なるほどな……」
ユリウスはそう呟くと腕を組んで考え込む。
(外泊が初めてともなれば、確かにあり得ない話でもないか。となると……)
そんなユリウスの様子に、ソニアは首を傾げるのだった。
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──
出発から1時間半ほど過ぎた頃、運転席のアンナはハンドルにもたれかかりながら深くため息を漏らす。
「いつになったら動けるんですかぁ?これ……」
彼女の目の前には羊の群れ。
ちょうどこの辺りで移牧中だったらしく、一行はしばらく足止めを喰らっていた。
車の周りをズンズンと歩いていく羊や牧羊犬たちを、ソニアは物珍しそうに眺める。
「本当に文字通りの大移動ですね……こんなの初めて見ました」
「まあ、ツェントルムでは見る機会もないだろうな。田舎では日常茶飯事だったが……」
ユリウスの言葉に、ソニアは田舎の光景を思い浮かべてみる。
何となくのどかで落ち着いたイメージに、ソニアはついフッと微笑んだ。
そんな彼女の様子に、隣のユリウスは首を傾げる。
「ソニア、どうした?」
「あ、いえ……これが日常茶飯事となると、移動するのも大変そうだなと思いまして」
クスクスと笑ってそう言うソニアに、ユリウスもついつられて笑ってしまうのだった。
動物たちにぶつかられ、度々揺れる車内でひたすら待っていた4人。
ようやく群れが去っていくと、アンナはやれやれと車を再発進させた。
「やーっと出発できた……」
そう呟くアンナに、ユリウスは声をかける。
「ベーゼ、もうしばらくしたら休憩ポイントだ。そこで停めてくれ」
「了解でーす」
その20分ほど後、ユリウスの指示に従ってアンナは車を停める。
4人で揃って車から降りると、アンナは深く息をついて伸びをした。
「んんー、やっぱ長時間運転すると疲れますねぇ……」
「あはは、お疲れ様です。でも、免許取り立てとは思えないくらいスムーズでしたよ?」
「えっ?本当ですか!?いやぁ、頑張った甲斐がありましたよー」
楽し気に話すアンナとシュテファンを横目に、ユリウスはぐるりと辺りを見回す。
ソニアはその様子に首を傾げた。
「大尉?」
「いや……ギルベルトたちもどこかで足止めを食らっているのかもな。追いついてくるまで、しばらくここで待つとするか」
そう言ったユリウスは、隣のソニアをじっと見つめる。
「……ソニア、こっちに来い」
「あ、はい……」
「シュテファン、俺たちは少し向こうまで行ってくる」
「了解です」
ユリウスはシュテファンに声をかけると、ソニアを連れて車から離れる。
彼の後ろを歩いていたソニアは、ふと目の前の光景に声を上げた。
「わぁっ……!」
どこまでも続く青い水平線に目を奪われるソニア。
(これが海?キラキラしてて、すごく大きくて……とっても綺麗だわ)
珍しく興味津々な様子の彼女に、ユリウスは思わずフッと笑ってしまう。
ソニアは目を閉じて深呼吸する。
「……何だか不思議な香りがしますね」
「『潮の香り』というやつだな」
「潮の香り……」
ポツリと呟きながら、目を輝かせて海を眺めるソニアを、ユリウスは微笑ましく思いつつ見つめた。
しばらく2人並んで海を眺めていると、背後からザワザワと声が聞こえてくる。
「お、大尉と嬢ちゃんはこんなとこにいたのか」
くるりとソニアが振り返ると、ギルベルトたち5人が揃って歩いてくるのが見えた。
「はいっ!ここから海がよく見えて……波の音もよく聞こえるんです!」
笑顔でそう言うソニアは、ハッと自分が柄にも無くはしゃいでいることに気付く。
「あ、えっと……ツェントルムでは、こんな光景見られないなと思いまして」
平静を装いつつそう述べるソニアの様子に、ギルベルトは(素直にはしゃげば良いものを……)とやれやれと口を開いた。
「どうせなら、休憩がてら全員で下まで降りてみるか?」
「えっ?」
ギルベルトは、少し目を丸くするソニアの背後の方を指差す。
その方向に振り返るソニア。
視線の先には下へと続く階段があった。
「良い案っすね!海なんて久々っすよー」
目を輝かせるヴェルナーを、ラルフは素早く牽制する。
「流石に泳ぐのはダメだよ?」
「まだ水温低そうですもんねー。浅瀬でちょっと遊ぶくらいなら大丈夫そうかな?」
アンナはそう話しながら、他の隊員たちに続いて階段の方へと向かっていく。
急な展開に動きを止めているソニアに、ユリウスは声をかける。
「ソニア、お前は行かないのか?」
「あっ……私も行きます」
ソニアはハッとした様子でそう言うと、いそいそと階段に向かい、ユリウスも彼女に続く。
「結構急だな。足元に気をつけろよ」
「は、はい……」
ソニアは手すりに掴まり、足元に注意しながら1段1段急な階段を降りていく。
下に降りるにつれて潮の香りがどんどん強く、更に空気が僅かに湿っぽくなっていくのを感じた。
階段を降り切ると、少し狭い砂浜の向こうに一面の海が広がっている。
青い水平線が、朝日を受けて銀色に瞬いていた。
「間近で見ると、迫力が違いますね」
「気に入ったか?」
「はい。まさか、海が見られるなんて思ってもみなかったですし……」
ソニアはそう言いつつ、先に降りていたアンナたちの方へと視線を向ける。
アンナはヴェルナーとシュテファンと共に3人で浅瀬で何やらはしゃいでおり、ソニアは思わずフッと笑ってしまう。
(私も、足くらい浸けてみようかな)
思い立ったソニアは素早く靴と靴下を脱ぐと、波打ち際に移動する。
冷たい海水にそっと両足を浸すと、不意に背後からユリウスの声が聞こえてきた。
「転ぶなよ。ずぶ濡れになるぞ」
「はい、気を付けま──」
そう言いかけた瞬間、波の引く力が想像以上に強く、ソニアは足を取られてしまう。
(えっ……?)
驚きつつも、彼女はそのままなす術なくぐらりと後ろに体勢を崩す。
「ソニア!」
その声と共に、右腕がぐいっと強く引かれ、背中を支えるようにして抱き止められる。
ユリウスの厚い胸板に思わずしがみついたソニア。
彼の腕の中で、ソニアの心臓はバクバクと音を立てていた。
驚きと安堵、そして少しの恥ずかしさが混ざり合い、なかなか言葉が出てこない。
「ビ、ビックリしました……ありがとうございます……」
何とかそう言葉を絞り出すと、ユリウスは小さくため息を漏らす。
「全く、お前は言ったそばから……」
彼はやれやれとそう言いつつ、ソニアの体勢を整えさせる。
「すみません、波がこんなに強いなんて思っていなくて……」
シュンと肩を落とすソニアの頭に、ユリウスはポンと軽く手を乗せた。
「転ばなかったならそれで良い。次からはもう少し気を付けろ」
「はい……」
そう答えると、ソニアはまた転ばぬようにと波打ち際から離れる。
少し早くなった鼓動を深呼吸して落ち着けつつ、ユリウスの隣で再度海を眺めるのだった。




