源
私の命の源は子である。
この子を育てる。そう思っていると、自分のすべてを絞り尽くして捧げなければいけない気がする。
それが責任というものか。
地方でのんびりと、責任とは無縁の生活を送ってきたが、どうもこれ以上生きるには子が必要なのだとか。
そりゃ、一人で生きていけない子の保護者は私になるでしょうよ。
可愛かろうが、可愛くなかろうが、そんなものは関係ないのだ。
この子を死なせたら、私の責任になる。
だから、生き延びさせる術を考える。
自分を削る。
パートナーも私も、世間では優秀なほうだ。
この子も一定以上は優秀な子になるだろうから、本人が望めば、教育に投資しようと考えていた。
そして月日が経った。
子育てにはお金がかかる。自分の収入だけではとうてい足りないことがわかった。パートナーの分も含めたって、十分な生活はできない。
世代間で金銭感覚は違うので、幸いにもお世話は親に手伝ってもらえるが、金銭面は自分たちで考えていくしかない。
子が成長すると、私は老いる。親も老いる。
若いうちに産んで、育てる。それしかない。安全策などとって後回しにしていたら、子どもを守る体力までなくなってしまう。
私自身への投資などもう考えられない。やるべきことをやって、必要最低限な中でできるだけ休むしかない。自分と子が生きるために。
子どもっぽい大人を相手にしている暇などない。育たないものは最低限で、育つものが最優先だ。
自分たちで何ともならないものは、お金を使うしかない。私が潰れるわけにもいかないのだ。
醜い姿を晒しても、子の成長と将来を守る。
そのために削れる私など些細な問題だ。
私は子のために生きなければならない。
それなのに、ああどうして。
子どもは自分で死に向かってしまう。
私よりも早く死のうとする。
そんなのはだめだ。あってはいけない。
感情と思考を分離させる。
子を生かすために、私も社会の歯車となろう。
考えないことは愚かなことじゃない。必要ないことは考えない。
とにかく強く。強く。
生き残る強さを付けて、それを金にする。
大人とはそういうものだ。