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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

兄の恋人

作者: 安純蓮

 線香の匂いが鼻につく。充満したそれは故人にはあまりにも不似合いで、それでも血と消毒の匂いよりずっとマシだった。

 疲れた顔の両親が頭を下げる。お悔やみ申し上げます。オクヤミモウシアゲマス。何度も聞いた言葉が頭の中をぐるぐる回る。式は段取りの通りつつがなく進んだ。読経の向こう側、写真の中の兄は溌剌と笑っている。あの日だって同じように笑っていたのに、箱に納められた兄は綺麗すぎる微笑みを崩さない。夢でも見てるみたい。母がこぼした。それなら寝返りのひとつくらい打ってくれればいいのに。昨日押した指の跡が化粧で埋められている。白い肌、黒い髪、白い花、黒い服、白い照明、黒い幕。いつの間に世界はモノクロになっていたのだろう。

 すべてが背景と化した葬儀場。ただひとり、焼香へ向かう男に視線が吸い寄せられる。兄と同じ制服。名前も知らない兄の親友。少し跳ねた髪を揺らしてゆっくりと三回、丁寧に焼香をあげた。長いまつげが揺れて、一瞬泣いているのかと思った。深々と頭を下げる。しっかりと足を踏みしめて出口へと向かう。座席に戻ることなく、外へ。

 立ち上がると母が私の手を握る。

「大丈夫?」

「……ちょっと外の空気吸ってくる」

「……そうね。車が出る前に戻って来なさい」

 たくさんの目が私を映す。かわいそうな子と誰かが言う。素敵な人だった、すばらしい人だった、なんて惜しい、早すぎる、代わってあげたい。言葉の中を抜けて、腫れていない目を追う。

 ロビーを抜け、自動ドアを出る。少し行けば凪いだ海が見える。コンクリートに塗り固められたその先、申し訳程度に残された砂浜に男が座っている。

「ねえ」

 声を掛けるとあたりを見渡して、それからこちらを見た。やっぱり腫れていない。私と同じ泣いていない目。

「……こんにちは」

 おおよそ状況にそぐわない挨拶とともに頭を下げられる。淡い色の髪がまた小さく揺れた。

「ねえ」

 この男のことを知っていた。両親よりも少しだけ。

 いくつか浮かんだ続きはどれも不適切に思えて紡ぐのをやめた。冷たい風が吹き抜ける。だから冬が嫌いだった。兄が好きだと言ったから好きになろうとしたけれど、今また嫌いになった。

 二人黙ってどれくらい過ぎただろう。遠くから人の声が聞こえてくる。ああ、式が終わった。

「行かないと」

 そう言った男は動かない。兄の身体が行く場所に男はついてこられない。

「ここで待っていて」

 ようやく吐いた言葉はそんな要求だった。返事も聞かず、背を向ける。人影の向こうに黒いバンが待っている。






 火葬場から海は見えなかった。ソファも自販機もある案外と過ごしやすいロビーで待っている間に兄は骨と灰になった。ここが喉仏になります。太くて立派な骨をされていますね。きっととても活発に健康に過ごされていたんですね。スタッフの話に両親が頷く。手渡された箸でつまんだ骨は驚くほど軽かった。お兄ちゃんを家に連れて帰ってあげようね。祖母が嗚咽をこぼしながら言う。祖父が背中を撫でる。骨壺に兄だったものが納められていく。その横で私はビニール袋に灰を詰めた。家族が気付かぬうちにポケットにしまう。後ろにいたスタッフがこちらを見たけれど、何も言わなかった。

 すべてが終わると、歩いて海に戻った。両親には祖父母と、祖父母には両親と帰ると嘘を吐いて。何台もの車に抜かされていくうちに日は暮れ始めて、けれど急ぐことはなかった。火葬場から見えなくなったところでポケットから袋を出す。兄と道を歩くのはきっとこれが最後だ。繋げない手を揺らして進んだ。


 砂浜の上、男はまだ待っていた。けれどさして驚きはしなかった。たいして話したこともないのに、帰るなんて一つも疑わなかった。何時間かかっても、何日かかってもそこにいる気がしていた。

 男は私の手を見て、それから私を見た。はじめて目が合った気がした。

 カバンから手のひらサイズの巾着を取り出す。兄がくれたお土産。

『青も赤も可愛くて、両方買っちゃった』

 笑った顔がまだ鮮明に残っている。兄だったものを入れて、一つは男に。共犯だ。

 男は何も言わず、灰を取り出して海に撒いた。私も撒いた。

『いつか俺が死んだら、海に撒いてほしいな』

 そんな縁起の悪いことを言うから、こんなことになってしまったんだ。ばかだ。兄はばかだ。

 軽い灰は手から簡単に零れていく。海に落ちる瞬間を見届けようと目を凝らしたが、風に流されて何一つ見えなかった。詰めた灰がなくなると男は巾着を逆さにして振った。私も巾着とビニール袋を振った。できるだけ多く、海へ。

 全部撒き終わったあとも、しばらく立ったまま海を眺めていた。男は今更「よかったの?」と訊いた。

「よくなくても、もうやっちゃったから」

「それもそうだ」

 男がほんの少し灰のついた巾着を握る。

「これ、貰ってもいい? あいつが妹に買ったのは知ってるんだけど」

「いいよ」

 これは兄が私を愛してくれた証。けれど迷いはなかった。

「だって、付き合ってたんでしょ」

 兄の恋人が目を見開く。ぐっと結んだ口元が震えるのがわかった。

 両親よりも、兄の友人よりも、兄のことを知っていた。私は兄が大好きだったから。ほかの友達と雰囲気の違う親友。話すたびに出てくるあいつという代名詞。少し開いたドアの向こう、重ねられた唇。付き合ってるのと訊いた時、兄はそうだと言った。隠さない、けれど密やかな恋だった。両親にも、兄の恋人にも、ずっと黙っているくらい守られるべき恋だった。

「……うん、そうだよ」

 乾ききった瞳から思い出したように涙が零れる。

「そうだよ。俺たち、付き合ってたんだよ」

 親友として葬式に参列した兄の恋人。恋人として焼香をあげられなかった兄の恋人。最期のお別れをさせてもらえなかった兄の恋人。

 わんわんと声をあげて泣く兄の恋人を見てはじめて私も泣いた。ついた膝に石が刺さるのも気にとめず、二人抱きしめあって泣いた。海は青く凪いだまま、兄はもうどこにもいない。

本当は続きがあるのですが、蛇足な気がしたので短いですが読み切りにしました。いつか書くかもしれません。

遺灰を海に撒くときにはいろいろと決まりがありますが、幼い彼女たちは知らなかったのだと思います。

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