前編
「──長谷川さんや、少し話を聞いて貰えませんかね」
そう言われ白衣を来た野暮ったい男──長谷川は頬をかいた。
彼に話しかけたのは菊川という植木職人だ。この菊川という植木職人はとても腕が良いとの評判で、名家の九条院家の植木の手入れを任される程なのである。
本来ならば、冴えない学者風情の長谷川とは縁のなかった男なのだが、昨年の春、九条院家の相談事を解決した礼として桜の苗木を貰った事が縁で知り合った。だが、長谷川は植物学者ではあるものの、桜──名家に植えられる様な立派な桜──の手入れなどした事がない。その事を伝え辞退しようとしたところ、九条院家の方から定期的に職人を寄越してくれる様になったのだ。その植木職人こそ、この菊川という男だったのである。
因みにその時の苗木は現在『長谷川植物研究所』の庭先に植えてあり、春を迎えた今、1つ2つと愛らしい花を咲かせている。
その桜の花の手入れをしながら、菊川が憂い顔をしていたので、何かあったのかと訊ねた次第である。
「──何かお困り事ですか?」
長谷川は菊川を応接間に通した後、茶を淹れながら訊ねた。
「いやね、大した事ではないのですよ。少しばかり気に掛かっている事がありまして。つまらん世間話として聞いて下さいな」
菊川は苦笑いを浮かべて話し始めた。
✤✤✤
菊川の家の営む植木屋は下町にあり、その隣には一人暮らしのかやという老女が住んでいる。かやは早くに夫を亡くし、未亡人となったそうだ。しかし、夫亡き後、婚家とは上手くいかず、早々に追い出され今に至るまで一人暮らしをしていた。
「かやさんはずっと一人暮らしをしておりましてね。何かと不自由だろうと、妻があれやこれやと世話をやくもんだから、私も色々と気に掛けていたのですよ」
それが一週間前の事、かやの元を背広を着た身なりの良い客人が尋ねて来たそうだ。
「──蓮見かやさんのお宅はこちらですか?」
「そうだが、今留守みたいだよ?」
しかし、生憎かやは外出中で家にはいなかった。それを伝えると彼は礼を行って帰って行った。
「かやさん、随分と身なりの良い客人でしたが、ご親戚ですか?」
「さぁ? 一体誰なのかしら?」
かやが帰って来てから、その事を訊ねると彼女には心当たりがないらしく、首を捻ったそうだ。
その3日後、空き巣騒ぎが起きた。
✤✤✤
「──物取りですか? 物騒ですね」
「盗まれたものは無かったそうなのだが、部屋の中にあった盆栽の鉢が一つ割られていたらしい」
「もしや、その客人をお疑いですか?」
菊川はこくりと頷く。
「証拠も無く疑いたくはないんだがな。此処のところ妙な事も多くて」
「妙とは? 物取り以外にも何かあったのですか?」
「落書きさ」
「落書きですか?」
菊川の言に長谷川はこてんと首を傾げた。落書きなどただの子供悪戯ではないかと思ったからだ。菊川の家は下町には子供も多い。その考えが伝わったのか菊川はひどく真面目な顔をした。
「俺も最初は子供の悪戯だろうと思っていたんですがね。子供らに聞いてみたところ子供等は背広姿の男が描いたって言うんですよ」
そこで菊川達はどんな男が描いていたのか聞いてみたそうだ。それがかやを尋ねてきた男の特徴とよく似ていたのだ。
「──落書きのあった周辺で、その特徴の男を見たって言うのが他にもいましてね」
「なるほど」
「それで俺らは泥棒か盗みに入る家を物色していたんじゃないかって思ってな」
そう言って長谷川を伺うように見た。長谷川はこの時、何となく嫌な予感がした。
「長谷川さん、かやさんの家を訪ねてきた男が泥棒かどうか確かめてくれねぇか?」
長谷川は予感が的中した事に内心で溜息を吐いた。
──また、面倒事か……。