3/8 記憶③
できれば、ここで顔を背けることはしないでほしかった。
それは遠回しでもなく、俺の発言を肯定しているようなもので、おじいちゃんに対して積み重ねてきた信頼の全てが、今確かに、音を立てて瓦解し始めているのを感じる。
事情があるのだろう。何か、実の孫を脅迫してやろうなんて非人道的な決心をするに足る事情がきっとあるのだろうと思う。
それでも、それは。
「……帰って来た母さんは、当日に俺の部屋に来た」
おじいちゃんの顔が俺の方を向く。その顔は驚愕に染まっていて、つまり俺の日記を信じていたのだろう。
帰って来てから顔も見ていないという、俺の根も葉もない嘘を。
「誰にも見つからないように、だけどな。実家で頭が冷えて、俺に謝るために帰って来たんだと。蔑ろにしてごめんって、平謝りされた。母さんの偽物かと思ったくらいだよ」
信じられないとでも言いたげに歪んだその顔の輪郭が、少しだがぼやけている。自身の姿を偽るために使用していた阻害系の魔法が、集中を乱されたことで消えようとしているのだろう。
母さんが実家に逃げるだろうと予想できたのは、おじいちゃんが母さんにそういう悪印象を抱いていることの証明でもあり、それならばここまでの驚愕を見せるのも、無理からぬこと、なのだろう。悲しいが。
「……兄貴とヒルドの件は、あんたの仕業か?」
「……なに?」
「兄貴を唆したとか、ヒルドに何か吹き込んだとか、そういう話だよ。目的のために、婚約を破棄させたのか、婚約破棄が起こったから、目的を設定したのか、どっちなのかって話だ」
「……ふん。残念だったな、私はオートスの一件には関わっていない。お前からすればそれが最後の希望だったのだろうが、あれはあの二人の意志によって行われた裏切りだ」
俺は、その言葉に――安心した。
「……そっか、よかった」
「……そこは、絶望するところではないのか?」
「これ以上、あんたに失望したくない。だから、よかった」
俺の言葉に、顔を一瞬だけ歪めたように見えた。だが、エフィとおじいちゃんの顔が入り混じっている現在、その歪みが感情由来なのかどうかの判断は、俺にはつかなかった。
つかなくて良かったのかもしれないとも、少しだけ思うが。
「……不義が、嫌いだ」
「……え?」
「不貞が嫌いだ、昔からな。より正確に先程の質問に答えるならば、オートスがやらかしたから、私は今回のことを思いついた。お前の恨みを絶やさないことと並列して、清算させる準備を進めていた」
おじいちゃんは三十年ほど前におばあちゃんと離縁したそうだ。この話を聞いたのも父さんからで、思い返してみればおじいちゃんは、自分の過去を俺に語ることなど滅多になかった。
何か後ろ暗いところでもあるのか、なんて思ったことはなかったが、離縁と関連はないだろうと安易に考えられるほど楽観的な性格ではなかったし、何より――おじいちゃんはおばあちゃんの話を一回すらしたことが無い。
おじいちゃんと母さんの仲が微妙に気まずいような空気だったのは、そういう過去が関係しているのだろうと思ってはいたが、そうか、だから。
「あんな奴がテアマット家を継ぐというのが、どうしても看過できなかった。私が守って来た、私が託され、私が託した家が、どうしようもなく穢れると思った」
「……じゃあ、何でさっさと兄貴の不義を告発しなかったんだ。アッセクア家に情報を持ち込むんじゃなく、公の場で晒すなりなんなりすれば、今頃兄貴はこの家から追い出されてたはずなのに」
「失望したからだ。アップリテルにも、テアマットにも。お前に日記を書かせ始めたのは、侍女では知ることが難しい現状を逐一知るためだった。三日と続かない可能性も加味して、実際には色々と手を打ってはいたが、結局一番上手く行ったのは日記だった」
まあ確かに、我ながら人に勧められた日記がこうも長続きするとは考えてなかった。それだけ、腹に据えかねる思いがあったのか、あるいは、俺の性に合っていたのかはわからないけれど。
ひょっとしたら、無意識のうちに感じ取っていたのかもしれない。誰かが俺の日記を読んでいると。だから、ここでやめるわけにはいかないのだと。
俺がああも明け透けに日記に全てを書いていたのは、無意識下での復讐だったのかも。
「ストールアは、私が不義を嫌っていることを知っていて、長男の不祥事を隠すことを選んだ。それを私に報告したのは、その上での許可取りのようなつもりだったのかもしれないが、そんなもの関係ない。私は、息子にそんな的外れな誠実さを教えた覚えはない」
「……今から俺が家を継ぐのは無茶だ。だから父さんは、兄貴のやらかしを隠した。これから先のテアマットを、守るために」
「そんな形で存続するならば潰れてしまった方がましだ! 誠実も正当も契約も守れない人間が、長きに渡り家を守っていけるはずがない! 貴族社会で不貞が誤魔化されがちなのは、そんなことをする人間は大抵、何もせずとも消えていくことが分かっているからだ!」
それは――おばあちゃんのように、だろうか。
「お前も書いていただろう、貴族なんてどこまで行っても野次馬だ。対岸の火事を楽しむような連中でしかない。隠蔽は遅かれ早かれ家を滅ぼす。ならば私が滅ぼしても同じだ。違うか?」
「……違うかどうかの判断は、俺には難しいな。日記に書いてたことは概ね本当だよ。怒ってないし、悲しくない。あの日俺がペンを壊したのは、疑われたからだ。冤罪を掛けられそうになったから。自分ことしか考えてない、視野が狭い奴の怒りだ」
「それだって、あの二人がしでかさなければ生まれるはずのなかった嫌疑だ」
「だから、俺は初めから何も持ってなかったんだって。頼れる兄貴も、賢い婚約者もいなかった。ついでに教えておくけど、ヘルデちゃんは無事婚約が決まったよ。家を継ぐことになって、いい感じだった幼馴染みとどうなるってところだったけど、婿入りしてくれることになったって、こないだ報告に来てくれた」
五日の日記に書いたことは半分本当で半分嘘だ。愚痴も聞いたが朗報も聞いた。姉の失態を正直に話しても、それでも自分と一緒にいてくれると言ってくれたと、嬉しそうに報告してきてくれて。
家格の問題もあって、家庭環境が落ち着いていないというのは事実だが、ヒルドが問題を起こさなければ嫁入りしていたはずの相手だ。アップリテル家の両親も認めざるを得なかったのだろう。
正面の顔が険しくなる。
「……おじいちゃん」
俺は、目の前の人に掛ける言葉を持っていない。きっと、俺達は同じような境遇なのだ。ありえない誰かに裏切られた。
それでも、俺はまだ軽傷で済んでいて、おじいちゃんがどれほどの苦しみを今も抱えているのかなんて想像できやしない。どれほどの悩みを抱えていて、今回の行動がどれほどの覚悟と決意のもとに行われたのかなんてきっと一生わからない。
でも、だから。
「もう、兄貴に関わるのはやめた方がいい」
おじいちゃんは、眉間に皺を寄せると、そのまま俯いてしまう。
「何に金が必要なのかはわからないけど、もう充分だろ。アッセクア家にある俺の日記の写しを破棄してもらうよう、ドロア嬢に話はつけてある。だから、もうやめた方がいい」
「……お前は、どうするつもりだ」
「日記に書いたろ? 探索者にでもなるさ。幸い、おじいちゃんから魔法の才能受け継いでるみたいだし」
俯いたおじいちゃんの腕が、俺の首から離れていく。
とはいえ、実際には少し前から俺の呼吸は自由だった。正体を指摘した時のような敵意は瞬く間に霧散していて、現実と理想の間で葛藤し、復讐と理性の間で懊悩していた、見慣れた優しい人がそこにはいただけだ。
おじいちゃんは侍女服のポケットから何かを取り出すと、それを俺に差し出して来た。握られたそれを、俺は素直に受けとる。
「……懐中時計?」
「……念のための餞別だ。困ったことがあったら、これを思い出せ。まあ、信用するかどうかはお前次第だがな……」
「……おじいちゃん」
「――ありがとう、トーマ。すまなかったな」
そこで、俺の意識は途切れた。
最後に見たおじいちゃんの泣きそうな笑顔を、俺は死ぬまで、忘れることはないだろう。




