3/8 記憶②
直後、密室のはずの部屋に風が吹いたかと思ったら、俺は後ろの壁に背中から叩きつけられていた。勢い、そして首に掛けられている手と相まって、肺から空気が吐き出され、新たに酸素を取り入れることもままならない。
掠れたような呻き声しか出せない俺に、殺意の込められた眼差しを向けるエフィ――いや、俺の父方の祖父であるティオビ・テアマット。
その姿は俺が見慣れた侍女のエフィでしかないが、思い返せば、おじいちゃんとエフィを同時に見たことはない。
そこまで遠方に住んでいるというわけではないが、おじいちゃんは一月に一度程度はこの家にやって来ていた。隠居した爺は暇なんだと口癖のように言っていたが、それは真実であり、真実ではない。
「……どこで気付いた?」
口調がエフィのものではなくなる。そしてその発言は、俺の推理が妄想なのではないということの裏付けと同義のものだった。
自分自身でも半信半疑だったくだらない仮説は、どんな物語よりも奇妙な現実として俺の足元を急速に固めていく。
不安で不確かだった。恥ずかしいだけの結果に終わるのではないかと思った。
だから、賭けたのだ。
「くっ、くくく、別に気付いてたわけじゃない。前に父さんから、昔のおじいちゃんは最近と違ってプライドの高い人だったって聞いたことがあって、もし俺なんかに図星を突かれたら、取り乱すんじゃないかって思っただけ……」
「…………」
「まさか、そこまで衝動的に激昂するとは思ってなかったけどな、くくく――ぐぁ……!」
首に掛けられている手に力が入る。俺を黙らせるためか、あるいは感情を制御できずに暴力という形で発露しているだけか。
どちらでもいい。どちらにしろ、今の状況が全てだ。
俺に煽られて、感情を制御できないまま暴力を行使する。それがおじいちゃんの本性であり、俺が信頼してきた、あのエフィという侍女はこの世のどこにもいなかった。それだけが真実なのだ。
「……それで? 私の正体を暴いて、挑発して、何が目的だ? まさか、ただ本当のことを知りたかっただけなどとは抜かすまいな?」
目の前の老人は、俺の首を絞めているという自覚があるのだろうか。訊かれても答えられないってのに、俺の返事を待つんじゃねえよ。
俺の無言に少し首を傾げると、まるで今思い出したとでもいうかのような顔で、少しだけ力を弱めた。気道はまだ狭められているが、声を発するくらいは問題ないくらい。
こうも完璧に調整されると、まるで人の首を絞め慣れているんじゃないかと思ってしまう。
これは、邪推だろうか。
「……それも、あるけどな。でも、どっちかって言うと、俺が知りたかったのは、おじいちゃんが俺の日記をどのくらい鵜呑みにしてるかの方だよ」
「……鵜呑み?」
「まさかだけど、日記に書かれてる内容が全部真実だなんて、そんな絵本を信じる子供みたいなこと思ってたわけじゃ、ないよな?」
眉間に皺が寄るが、今更もう遅い。
結局のところ、日記に何を書くかなど俺の胸三寸次第なのだ。誰かが読んでいるかもしれないという可能性に思い至った時点で、俺は日記に馬鹿正直な胸の内を書くことを止めた。
信頼できない語り手。
しかもそれが日記なんて媒体だったなら、嘘なんて吐き放題だ。
「それこそ、馬鹿正直に侍女として仕事してるのが、仇になったな。お前の予定を把握するのも、その裏で動いて、日記に嘘書くのも、全部簡単で、拍子抜けだったよ」
「…………」
「まあ、昨日の日記をいつ読むかはわからなかったし、実際、日記を手に持ってる現場を押さえられるかは賭けみたいなものだったから、綱渡りな計画だったのは違いないけどな……」
それこそ、ここ数日ネガティブなことを書き続けた成果が実を結んだと言えるだろう。
さらに言えば、家の中でも雰囲気を暗くしてみたり、溜め息の回数を増やしてみたり、送別会に行きたくないというようなことを遠回しに呟いてみたりした。
こんな大根役者の即興演技がどこまで通用するかは甚だ疑問だったが、おじいちゃんとしても、まさか疑われているだなんて思っていなかったが故の油断だろう。
そういう意味では、俺の演技は無意味だったとも言えるが。
何せ、エフィがこの家で働き始めてもうすぐ十年だ。そんな侍女と、祖父が同一人物であるという真実に、まさかよりによって俺が辿り着くなんて、万に一つも想定していなかったに違いない。
「……どれが嘘だ? それこそ、私には判断のしようがない。ドロア嬢に声を掛けられたところまでは真実だろう?」
「惜しい、もうちょい先だ。俺がペンを壊したところまでは本当だよ。壊れたペンを見た時に、ふと思ったんだ。もし誰かが俺の日記を読んでたら、辻褄が合うなって。父さんを誘拐したのは、ドロア嬢が俺に接触しようとしたからだろ?」
「…………」
「アッセクア家が兄貴の話を知っていることを、あの段階で父さんに知られると何かがまずかった。その何かが何なのか、具体的に知る由は俺に無いけど、概ね、『深刻社』に関わる何かってところか。勘だけど、俺の勘もなかなかどうして、馬鹿にしたもんじゃないらしいし」
「…………」
「残念だったな。父さんはあの時、問題が起こったって報告しに来たのがお前だってはっきり覚えてたよ。日記には、書かなかったけどな。ははっ――うげっ……」
目の前の嘘吐きを馬鹿にするように笑うと、僅かに首が絞まる。
プライドが高い、というより、心に余裕がないだけなのではないかと思う。苛立っている顔ではない。むしろ、追い詰められているような。
短絡的に暴力に訴えた、というのも、そうしてみると見方が変わってくる。俺に犯行がバレてしまったから、強行的な手段に出ざるを得なかった。
どちらにしても、俺のやることは変わらないが。
「……俺が日記に、『深刻社』からの連絡は本当は無かったって書いたのは、そうすれば犯人が何かしら、焦って雑な動きをするんじゃないかって期待してたからだ。随分雑に、父さんの記憶を弄ったみたいだな」
「……ストールアは、憶えていたのか?」
「断片的に、だけどな。退院した記憶と、いつの間にか家にいたって記憶が混在して、父さん自身混乱してたよ。父さんが連絡を受けた記憶と、お前から聞いた記憶が混在しているのと同じように」
「……ちっ、金で雇うような奴はこれだから……」
お前だってアッセクア家に金で雇われているようなものだろうに、という言葉が喉から出かかったが、すんでのところで飲み込む。
多分、この人の中ではそれとこれとは別の話として扱われているのだ。あるいは、自分と他人とを、完全に切り離して考えている。
そうでなかったら、俺の侍女として――俺の祖父としての、なんとも歪な二重生活を、こんなに長く続けることなどできるはずがない。
「……だから俺は、あんたが望んでるんだろう報告の中に、一つだけ真実を混ぜた。まあ、それに関しては、空振りだったみたいだけどな……」
「…………」
「……二月末に父さんを解放したのは、兄貴の謹慎を解かせるためか?」
その質問で訪れる、今までと質の違う沈黙。
別におじいちゃんは兄貴のことを特別大事に扱っていたわけではない、と思う。少なくとも俺から見ている限りは。
俺たち兄弟に対して平等であったし、贔屓するということを嫌っている素振りさえあった。だから、もしそこに理由があるなら、アッセクア家と何かしらの関係があるのだ。
そう、例えば。
「兄貴が当主になれば、婚約破棄の件で強請れる、からか?」
おじいちゃんは、俺から顔を背けた。




