058
カラドの司教、その中でも指先と呼ばれる十人は特別で、《朽ちぬ者》としては珍しい固有名詞のあるネームドエネミーだった。
更に《セト》《オーン》《テラ》《ガーダ》の四人は、クロニクルクエストのストーリーにも深く関わっている。一度殺しても他人の肉体に憑依して現れ、幾度となくプレイヤーたちを苦しめ――そして楽しませた。
メタい事を言うと、何度も戦える相手として設計されたレイドボスである。
「受肉した……」
その内の一人が今、目の前にいた。フィクションではない、本物の邪気を放ちながら私達を睥睨している。フュンフの体を乗っ取って、現世に顕現してしまった。忌避すべき邪悪の眷属が、肉体を持って。
【馴染む、実に馴染むぞこの体……素晴らしい】
セトは今や二対になった腕を動かし、満足げにそう呟く。
「お、おい……なんだあれ、フュンフじゃねえのか……?」
「イモータルだ、もうあれは人間でも吸血鬼でもない」
戸惑うルークに淡々と事実を述べた私も、正直言って動揺が強い。ここまでのこと全て、仕組まれていた可能性が生まれたのだ。
【ヘンリーにはここまでの依代を用意してくれた褒美を取らせねばな。よもや吸血鬼の肉体を使えるとは、僥倖以外の何物でもない】
それと同時に、ヘンリーという男の行動に納得も行った。わざわざ手間を掛けて、フュンフの憎悪を煽るような行動をしたのも、全てはこの時の為。カラドの司教復活こそが、奴の目的だった。
彼女の中にあったのは私の因子だけではない。カラドの、イモータルの因子が負の感情を膨らませ、私や帝国を憎むように仕向けていたのだ。可能性として考えてはいたが、それも偶然要素が重なっただけだと思っていた。
つまり、セトの復活は想定外である。
【貴公にも感謝するぞ、フランチェスカ。私がこうしてここにいられるのも、全ては貴様が主神の審判を耐えきり、祝福をその身に宿したからだ。そうでなければ、こんな上質な肉体は手に入れられなかっただろう】
「……そりゃご丁寧にどうも」
主神の審判とは――恐らく、魔王城で受けたあの熱風だろう。そして、審判を耐えた私は祝福された、イモータルの因子、トロンのエーテルを与えられたということか? いや……分からない、情報が少なすぎる。
【本来ならばその体を貰いたかったのだが、生憎と忌まわしき剣神の加護が邪魔をしている。まあ、ここで殺して、然るべき時に他の司祭の依代として使ってやろう】
――――拙い、これは非常に拙い。
《泥人》なんかのフィールドに湧く雑魚と違って、セトは多人数で攻略することが大前提のボスとして作られている。今ここにいるのは私となこさんだけ。幾ら上位プレイヤーだとしても、たった二人でこれは倒せない。
【それにしても、この場所は息が詰まるな。月の匂いが満ちている。どれ、場所を変えようか】
「ッ!?」
セトがそう言って上を見上げた途端、周囲の景色が変わった。閉塞感のある地下ではなく、風のそよぐ開所にいる。辺りの建物を見るに、ここは帝都の一角だ。
【これで少しは戦いやすくなったろう】
「強制転移……!」
レイドボスとしてのセトが扱うギミックとして、プレイヤーの強制転移があった。
ランダムで戦闘エリア内の何処かへと転移させられ、その場所へと攻撃が降ってくるのだ。プレイヤーは転移の予兆を見て、防御もしくは移動によって回避する準備をしなければならない。
ただ、その予兆の確認も本来複数人でやるべきことであり、今のも私が気付く前に転移していた。
「目に注意しろ! 転移は六つの視線の先だ、障害物が有る場合は、顔の両目で見なきゃ飛ばない! その他は飛ぶ方向の目以外が閉――――」
【成程、私の力について少しは知っているようだな。貴公、さては旧き吸血鬼か? ならばやはり貴公から先に殺そう。そこの雑魚二人と犬は後だ】
「……ッ」
イモータルのレイドボスと戦ったことのないなこさんへ向けて叫ぶ私の目の前に、気付けばセトの姿があった。ああそう言えばこれはゲームじゃない、一瞬たりとも目を離してはいけなかった。
「フゥッ!」
『フラン!』
コマ送りのような緩やかな認識時間の中で視線を落とせば、手刀が腹部を突き刺さっているのが見えた。
鳩尾がとても熱い、痛みが脳を伝って全身から脂汗が噴き出す。それでもこの程度、余裕で動ける。強く歯を噛み鳴らすと同時、その腕を二刀で乱切りにした。
セトはどこか意外そうな顔をしながら、血飛沫を上げる腕を即座に再生させる。骨の生成から筋肉、神経の接合まで恐らく1秒も掛かっていない。
【おとなしく死ぬ気はなさそうだな】
その言葉とともに、大振りの蹴りが側頭部を狙う。体を逸らして避けた途端、見えている景色が突然切り替わった。
「まずっ……」
――――目眩ましのフェイント
視界を遮るように振られた蹴りの本命は私の転移。何処へ飛んだのかは、胸元に打ち付けられた足裏を見れば分かる。蹴りの進行方向、最後のインパクトが乗る瞬間の位置へと飛ばされたのだ。
「ぐっ……!」
地面へ叩きつけられ、全身に凄まじい衝撃が走った。視界が回転して、セトの姿が遠ざかっていく。蹴り飛ばされた私の体が止まったのは、家屋を数件突き破った先にあった屏を破壊して漸くだった。
「くっ……そ」
衝撃に耳鳴りが止まず、物音に集った人々の声が遠い世界の事のように感じられる。
背骨をやられて、膝と手を着いたまま起き上がれない。再生までが嫌に長く思える、切った口より先にそっちを治せ、早く立ち上がらせろ。
「――――」
正面から足音が聞こえ、顔を上げるともうセトがいた。直後、四つん這いになっていた筈の私は転移し、奴の手に胸ぐらを掴まれ――――
「ゔっ……!? おぇ……」
再度鳩尾を強打された。嘔吐感が胃の底からせぐりあげ、食事の必要のない体からは黄色い胃液が吐き出される。セトは私が吐いたのを確かめてから、もう一度殴った。
年季の入った鎧は砕け、残った布地ではその拳を押し止める事ができない。肌から内蔵へと伝わる痛みは、どれだけ鍛えていようと――猛烈に痛い。
「やめろ、やっ!」
腕を掴み、そこを支点に体を持ち上げて足を首に絡ませた。正面から肩車しているような形になり、マウントポジションを確保して拳を振り上げる。
【ほう……思った以上に痛みに強いな、それでこそ殴り甲斐があるというものだ。もっと私を楽しませろ】
「チッ……」
だが、直ぐに転移で背後に回られ、掌打が飛んで来た。それを腕で受け止め、顎を目掛けて拳を振るう。素手同士の応酬は転移のあるあちらが有利だが、冷静になって防御に徹すれば受けられないこともない。
心剣流は戦場で戦う為の武術故に、剣を失った場合にも戦えるよう、拳術や武の基礎的な心得もあるのだ。
足技を絡めつつも距離を取る機会を狙い、側転と後転を用いて大きく後ろへと飛び退く。追撃はなく、セトは空手にも似た構えを維持したまま笑みを浮かべた。
【良いな、貴公。強い、生物としては望外に強い。成程、今の世にも強者はいるものだ。武人として、これほどの喜びはないぞ】
「……ああ、そういえばお前は、そういう奴だったな」
私の知っている設定でも、セトは根っからの武人だ。
無限の命を持つ生物やそれに等しい寿命の種がいる世界で、人間という短い寿命の種族であることを枷とした男。その強くなりたいという妄執のみで、魂の変質に抗った十人の内の一人。
老いて死ぬことの無くなった身で、全ての時間を費やし最強を目指した武人の頂点。司祭と言うよりかは、もっと単純な生存欲求と最強への渇望を持つ――
【そしてどうやら貴公、私と同類のようだ】
「ある意味では、な」
強さを追い求めるという点で言えば、彼と私は同じ穴の狢だろう。
とはいえ、セトはあまりに邪悪過ぎる。強さのためなら、他者を一切鑑みない。弱者に生きる価値がないと本気で思い込んでおり、人を殺して強くなれるのなら、一切の躊躇なく実行する慈悲のない男だ。
「同類とて、お前は倒さなければならない」
【当然、武人同士が見合って、ただで事が終わるはずもない】
腰を深く落とし、構えを取る。それを見てセトもプレッシャーを放ちながら、間合いを図り始めた。二人の間に見えない緊張の壁が生まれ、静の攻防が交わされる。
だが、
「――――なに?」
そんな空間は、彼の後頭部にぶつかった小石によって破壊された。軌道の先を見れば、そこには怒りに顔を赤くした初老の男性が立っている。他にもよく見ると私とセトを、この周辺の住民らしき人々が囲んでいた。
「お、お前らこんなところで暴れやがって……! 街が滅茶苦茶じゃねえか!」
「おい、アイツ腕が四本あるぞ!?」
「さては昼間の奴の仲間か! この化け物め!」
「家壊しやがって、弁償しろ!」
「どうしてくれんだ!」
「相手が化け物だからって、俺たちゃ黙っていねえぞ!」
そう口々にがなり立て、ある者は酒瓶を、ある者は果物らしき物を投げつけた。セトは忌々し気にそれを避けるか、拳で払い落としているだけだったが――その目には殺意が籠もっている。
だから、私は人間に被害が出ないよう、逃げるかセトをここから引き離すかしようとした。注意の言葉を口に出そうと息を吸い、いつでもセトを止められるように奴との距離を詰めた。
カン、という音と共に側頭部に軽い衝撃が走り、足が止まる。
「で……出ていけっ、化け物!」
地面を転がるのは、アルミに良く似た金属の缶だった。
投げた人間も、その視線の向きを見れば、明らかに私を狙っていたことが分かる。その顔には僅かな恐怖と怒りがあり、集まった人々の感情と同調して昂ぶっていた。
「……おかしいな」
私は、彼らの為に戦っていたのではなかっただろうか? それが何故、あんな目で見られているのか分からない。まるで、化け物――その口が言うように、本当に得体の知れない物を見ているようだ。
内側から沸々と嫌な感情が湧いて出てくる。フュンフに言われた時と同じ、粘ついた黒い感情がぞわりと這い回る。
――――仕方がない、彼らは一度怖い目に遭っているのだ
それはそうだろう、こんな短時間に身近で危険な事件があれば過敏にもなる。それで興奮したり攻撃的になったりするのは当然のことだ。
――――だからと言って、助けようとしてくれている相手に石を投げるか?
同時に事情を知らないとはいえ、状況も把握せず敵ではない私を攻撃する人間を、助けようとしていることに疑問を持った。
セトと目が合い、その目が怪訝に細められる。
【愚かだな。身の程も知らず、ただその場の感情のみで動く人間というのは】
ああ、確かにその通りだ。
それでも、私の体は動いてしまう。
【貴公も、そんな人間と同じだというのか】
最初に石を投げた男へ肉薄したセトの前に立ちはだかり、放たれた拳を両の腕で止めた。骨が軋んで、痛みに涙が出そうになる。
「正直っ、分からない……けどっ!」
【迷い、か。心の迷いは肉体を鈍らせ、技を錆びつかせる。それは武人として最も愚かな行為だ、フランチェスカ】
セトの言う通り、私は迷っているのだろう。発端はフュンフの言葉だが、自分でも段々と今の在り方に疑問を抱きだした。果たして本当に、これが私にとって正しいのかが分からない。
【ならばその迷い、私が消してやる。その後、改めて死合おう。それまで、ここでおとなしくしていろ】
「消す……?」
【固有術式――呪手縋絡】
そう唱えた途端、足元から無数の腕が生えて私の体に絡みつきはじめた。蔦のように伸びたそれが首を掴み、瘴気に満ちた空気を吸って意識が遠くなる。
「な、に――」
肉体が弛緩して力が入らない。脱力した私の体は腕に絡め取られ、その場にうつ伏せで倒れ伏す。意識は混濁しているが、それでも完全に気を失ったわけではない。視界の先では、私を置いて野次馬へと向かうセトの姿が見える。
「やめ、ろ――」
私の言葉は虚しく空気に融け、暫くしてからその余韻を塗り潰すように絶叫が響き渡った。