052
惨憺たる有様の研究所内にて、魔晶石に宿る光が暗色の木材を照らす部屋の中、恨めしげな碧眼が一人の男を睨みつけている。
「……裏切り者」
ソフィア・クレイシアスは口を固くへの字に曲げてジャック・フォン・オズワルドを見る。その目には猜疑心が籠められ、どうにも収まらない怒りの矛先を向けているようだった。
逃げ出した先で実験体をやり過ごした後、二人は研究所へと戻ってきていた。主にソフィアがジャックに、ヘンリーの研究について問いただす為にだが。
「悪かったと、さっきから言っているだろう。僕だって本意ではなかったさ」
「嘘です。そうやって嘘を吐いて、フラン――フュンフ様を騙したんです。最低、人の心が無い悪魔、倫理観ゼロのマッドサイエンティスト、地味眼鏡、童貞」
「あの、最後の二つは関係ないよね……?」
疲れたように溜息を吐いたジャックも、そう言われるだけの仕打ちをした自覚はある。人工的に生み出したとは言え、一人の女性の命を弄んだのだから。
彼女は複製体、フュンフに少なからず情を抱いていた。それを意図してあのような目に遭わせて、よもや全て仕込みだったなどと言われれば、同僚であろうとも信じられなくなるのは当たり前である。
「国の為になると思ったんだ」
「……言い訳ですか? 鬼畜眼鏡さん」
「き、きちっ…………ああ、言い訳さ! 理由は……きみも知ってるだろ、20年前の悪夢を」
「《炎猿ウーコン》、でしたか。幼心に聞いた覚えがあります。帝国兵が何百人も死んだと」
「僕の兄さんもその部隊にいて、帰ってこなかった。もしクローン兵の技術が確立出来れば、もうこの国の兵が死ぬことはなくなる、そう思ったんだ。それでも……奴を信じた僕が愚かだった事に変わりはないけど」
「その為に関係のない誰かを犠牲にすると」
「少数の不幸で多数の国民が助かるのなら、それは帝国にとって正しいことだ」
ジャックの言葉に、ソフィアはその厳しい目を緩めないまでも反論はしない。
ただ、それがある意味で正論であることを理解し、その上で軽蔑していた。立派な理想の下に、どれだけの死体を積んだかを知っているからだ。ソフィア自身も真実を知った今、その自覚があった。
「いっそもっと自己中心的でいた方がマシでしたね、貴方も、私も」
「そうだね、全くもってその通りだ」
「別に同意は求めてません」
「あ、そう……」
「その点、あの男の素直さだけは認めるべきでしょう」
そう言って眦が少し腫れた、碧い瞳が細められる。
ヘンリーの実家は取り立てて目立つ功績もない、政治にも関わってこないような男爵家だった。
それだけに情報があまりないのだが、所内でのヘンリーの評価は変人だが有能。ジャックの《エーテル変換理論》もヘンリーの助言で完成している。実験体の制御方法を確立したのもヘンリー、鎮静溶液を生み出したのもヘンリー。
そしてなにより、クローンを生み出す技術を発見したのもヘンリーだ。
「……あれ?」
ふと違和感が――ボタンを掛け違えたような違和感が、ソフィアを襲う。家の鍵を閉めて出てきたか、蛇口が開けっ放しになってなかったか、それらに似た絶妙な不安が脳裏を過ぎった。
「……そう考えたら、あの計画の殆どは室長が実行していたんですね」
「ああ……確かに、複製体の創造などは僕や一部の人間にしか明かされていなかったし、その研究員も実際に何かしたわけじゃない。と言うか、彼以外に出来る人間がいなかったんだ」
「おかしいですよ、それ」
「おかしいね、これは」
一つ気付けば、無数に違和感が湧いて出てくる。
「そもそも、人体を細胞単位で複製する理論も方法も、10年前までは確立されてなかったですよね? いつの間にか不自然に、湧いて出てきて――あの男が計画を主導しはじめてからのような気が……」
「それを言うなら実績もない無名貴族の彼は、いつ研究室長になったんだ? 確か、10年前までは違ったはずだけど……」
「ちょっとサミュエル男爵家について調べてみるよ、何かが変だ」
「私は研究所の今までの記録を全て洗ってみます」
二人は口々にそう言い合い、浮上した違和感――最早異常の正体を確かめる為に立ち上がった。
◇
所内外の資料を掻き集め、該当するものだけに絞って目を通した数刻後。ジャックとソフィアの両名共が、重苦しい雰囲気で顔を見合わせていた。
「あの……じゃあ、私からいいですか?」
「ああ、構わない」
ソフィアは一枚の植物紙を手に、ジャックを見やる。その目は先程までの恨みがましいものではなく、何か縋るような雰囲気さえ伺わせた。
「結論だけを先に述べますと、サミュエルという名の貴族はこの帝国にはいませんでした」
「そんなことだろうとは思った」
サミュエル男爵家、その全てが欺瞞であり――ジャックに関しては尚更、そんな貴族家があったと当たり前のように認識していた事自体がおかしいと思えた。
そもそもヘンリーの肉親どころか、親縁に一度たりとも出会っていない。気付けばサミュエル家とヘンリーについての記憶が芽生え、当然のように接して来たが――今にして思えばゾッとする。
「催眠の類いか、精神攻撃の魔法で僕らの認識を書き換えていたのか……?」
「どちらにせよ、室長――元室長がこの国の人間では無いことは明らかです。他国の間諜でしょうか?」
「いや、あの技術力を持つ以上、国という単位の相手じゃあない。もっと違うなにかだろう。それとこれは、10年前の記録の一部だ」
ジャックが暗い面持ちで取り出したのは、人事異動に関する書面だった。
そこには『第二研究室の室長が事故によって亡くなった為、ヘンリーを代わりの室長へと抜擢する』という旨の文章が書かれていた。
「ネビル・フォン・スーウェン、彼の実家は北部領土の執政官の家系だね。三男のネビルは家を継がないから学院へと進学してきて、僕もそこで彼と出会った。それで、一緒に研究所へと就職した後、僕が彼を室長へ推薦したんだ」
ジャックの顔から色が失せ、乾いた唇を噛み締めて血が滲む。
「親友だった」
「……残念です」
その一言に、色々な思いが籠もっていた。ヘンリーへの激しい怒りと、知らない間に親友を失っていた悲しみ。ともすれば、ジャックは感情を制御できない程の激情に飲まれてもおかしくない状況だったが、それでも平静を保っていた。
――――彼女も、似たような思いだったのだろうか
気付かされて実感する深い絶望を前に、ジャックの脳裏にはフュンフの顔が浮かぶ。
きっと自分とは比較にはならない、絶望の度合いも違っただろう。それでもジャックには、少しだけ彼女の気持ちが分かったような気がした。だからこそ、ここで怒りに任せて何かをする気にはならなかった。
「それでだ、ヘンリーが実際何者なのかという点についてだけど、一つ手がかりを見つけた――というか思い出したんだよ」
「手提げ金庫ですね、この中に手がかりが?」
ジャックが次に取り出したのは、取っ手が付いて持ち運びの出来る金庫。さして大きさは無いが、鍵は魔力による認証術式。
「僕のデスクの奥に入っていた、ネビルのものだ」
設定された人間が触らなければ開かないそれは、ジャックも今日に至るまで忘れていたものだった。恐らくヘンリーの死を境に戻った記憶が、金庫の存在を教えてくれたのだ。
「ですが、ネビル氏が既に亡くなっているのなら、開けられないのでは……」
「いや、それもどうやら大丈夫らしい」
そう言ってジャックは、円形に並ぶ記号の中心に親指の腹を当てる。術式が魔力を検知し、白い塗料で描かれたそれが淡く発光した。そして数秒の間の後にカチリ、となにかが開く音がした。
「これは、僕に宛てられた遺品のようだから」
「え!? それってつまり、ネビル氏はこうなることを予期していたということになりません!?」
そうなる、と無言で頷いたジャックは金庫の上蓋を開く。まず姿を現したのは、一枚の紙に殴り書かれた『忘れるな!』という文字。
それは、ジャックにとっては親友が自分に向けて放った言葉に見えた。警句の下にはネビルサインと、この金庫の中に入っている物のリストが記載されている。
中でも事の経緯を記した手紙は『絶対に読め!』と赤い血文字で書かれていた。それを見てジャックは手紙を手に取る。封蝋を破ると、中には手紙にしては多すぎる便箋が。その書き出しは、
――――拝啓クソッタレな親友へ
ネビル・フォン・スーウェンの正真正銘の遺書であった。