043
暗がりに据えられたベッドと小さな丸椅子。ベッドにはまだ若い青年の体が横たわり、それを見張るように、頭部が牛の頭蓋に置き換えられた長駆の男が本を片手に、椅子へと腰を降ろしていた。
そして徐に、閉じていた青年の目が開かれ、上体を起こした。
「……成功したか」
「危なげなく、新しい体はどうですか? ヘンリー」
「若いな、以前の体とは比べ物にならない」
ヘンリーと呼ばれた青年の呟きに、男は組んでいた足を解き、本を閉じて立ち上がる。その眼窩に宿る青白い炎がヘンリーを見据え、やれやれと言った様子で溜息を吐いた。
「……予め準備していたからいいものを、まさか一息で命を取りに来るとは。もう少し猶予があるものだと思っていましたよ」
「私に憎悪が向くように仕向けたのだ、あれも想定内さ」
「あなたって人は…………まあ良いです。それよりも、あなたの消えた後はどういった展開で事が進むのでしょう?」
「被検体の制御は全て私が行っていた。如何に魔導工学に優れていようと、今の奴らにどうこうできる力はない。滅ぼされるか、滅ぼすかの二択だろう。尤も――」
――――どちらが滅んでも私達の利になるようにしてきたがね
そう言ったヘンリーの顔は年に不相応な仄暗い感情を帯び、クツクツと気味の悪い笑いを漏らした。
「《エーテル》を用いた人体複製技術など、過ぎたる力ですからね。用が済んだのなら滅んでもらわねければ、世界の調和が崩れます」
「それも副次的な結果だ。本命は依代となる肉体を、受け皿を生み出すこと。本体に細工は出来なかったが、あちらの人形には確かに因子が宿った」
「ええ、では後は我らが上位者が目覚めるのを祈りましょう」
使命感を宿した二人の目は闇を見つめる。
「「――悪徳の王の名の下に」」
しかして、善と相反す者たちは動き出した。ただ一つ、世界に存在する光が強くなりすぎぬように、闇は密かに調和を取る。
なればこそ、生まれるのだ――この世界に絶対の悪が。
◇
――――剣と剣が交わされ、高い金属音が幾度と奏でられる。
重い鉄の感触に腕が痺れ、肌を掠めるその熱は高揚を与えた。相対する少女の剣を打ち、払い、時に鍔迫り合い、致命から避けていく。
万全とは言えない状態から、準備運動ができてようやく体が温まってきた。
フュンフの振るう剣は些か鋭いが、それでも私に届くにはあまりに力量が同じ過ぎる。私が選ぶであろう場所へ剣を振るい、足捌きもまるで何もかもが同じ。予め定められた演目として剣を打ち合わせているようにも思えるほどだった。
良く言えば白熱拮抗しており、現実としては平行線を辿っているとしか言わざるを得ない。
「「埒が明かない」」
二人口を揃えてそう言えば、対面する少女は眉根を寄せる。そして私の頭上を超えるように飛ぶと、部屋の出口へと走った。間を置かず、私もそれを追って廊下へと出た――――
「――ッ」
直後に喉元へと振り抜かれる剣を体を反って躱す。
逃げたふりをして出口で張っていたフュンフは、剣を振り抜くより先に避けられた事を悟って舌打ちを漏らした。しかし、そこからの行動も早く、二度牽制に刃を振ると再び廊下を駆け出す。
壁を蹴って曲がり角を跳び、一足に距離を離される。追う私も[斬空波]を放ってみるが、全て同じ技で返されてしまった。
手の内が同じというのがこれ程までにやり難いとは、少し予想外だ。
「おおう!?」
と、そんな事を考えている合間にも、前方からは絡み合った機械の交々が降ってくる。
どうやら、廊下に置かれていた計器やらを切り抜いて投げて来ているらしい。それを中心から両断し、置き去りに走り抜ける。背後からは爆発の音が轟き、熱風が背中を摩った。
追われる立場が私なら多分同じ事をやるだろう、という変な信頼の元駆け抜けたから良かったものを……。
「あんまり建物に被害を出すな……っと!」
その後も二つ、三つと宙空へ放り出され、道を阻む鉄の塊を切り捨てる。全部高そうな設備だったが、修繕費がどれだけ嵩むかは考えない。多分経理部門は悲鳴を上げると思うけど、やったのは私じゃない。
「……いや、一応私なわけだし、言い訳は考えておいた方が良さそうだな」
ともかく、一々被害を気にしていたら戦いにならないだろう。ゆえにこうしてフュンフが外へと向かっているのは、ある意味では僥倖と言えた。
「人気のない所へ……か」
憎悪に浸った彼女が果たしてその通り動くかは不明だが、広い空間に出れば人気のない所へ誘導する事も叶う。私としては、ようやく踏みしめた外の世界での第一歩は……平時であって欲しかったけど。
『出口だ、見失うなよ』
師匠の声の通り、少し開けた通路から先から白い光が漏れていた。丁度視界の先でフュンフが扉という四角い仕切りを抜けて外へと飛び出し――置き土産とばかりに出入り口を切り裂いて崩落させていく。
『全く、手癖の悪さも一緒とは……』
「いや、私も多分同じことするけどさぁ!」
私は抗議の声を上げながら、瓦礫を尽くみじん切りにして出口を手ずから作り出す。彼女が豆腐のように石材を斬れるなら、私にも同じ芸当が出来るって寸法よ。
「う――――」
そうして外にでてふと、一瞬頭上から差した陽光に目を細める。何処か懐かしい匂いと、秋特有のひんやりとした風に足が止まりかけた。知らない筈の世界に望郷の念が沸き起こって、目頭が熱くなる。
ここは外の世界だ、紛うことなき外なのだ。
「感動、って感じの顔だな」
「――」
柵の上へと立ったフュンフにそう言われ、私は何も返せずに息を飲む。彼女の背に広がる広大な街と平原を前にして、この状況であっても何か言葉が語れようか。
否、蒼天の直下に新緑の海が広がり、その中に営まれた人々の郷。クリーム色と赤褐色の煉瓦が連なる景色を見て、私は確かに達成感と充足感に浸っていた。
「これが、外の空気」
「そうだ、そしてお前が最後に吸う空気だ」
肺を満たす空気でさえも爽やかで、先程まで戦っていたとは思えない程の幸福が体を満たす。
なんて、素晴らしいんだろう。ただ生きているだけで、こんな幸せな気持ちになったことはない。私を閉じ込める檻も無く、行こうと思えばあの地平線の先までだって行ける。
「やっぱり、頑張って正解だった」
だから、ここでもうひと踏ん張りして、後顧の憂いを断って世界を見に行こう。困っている人がいれば助ける旅をして、そのついでに私が楽しむくらいしても許される筈だ。
「なんでそんな幸せそうな面が出来るのか、甚だ理解が出来ないな」
「誓ったから、"善くある"と」
善であるには、あまり感じた事に嘘を吐いてはいけない気がする。
あくまで体感だけど、素直に笑い、怒り、泣き、悲しむ――そういう感性を忘れずに生きた方が自分の為にもなると思うのだ。少し擦り切れて失ってしまった部分もあるけど、ありのままでいる事は世界に正直であることだと思っている。
「だから、お前も悪い物ばかりを見るなよ。人間にはそれ以外の面があることは、知ってるだろう?」
「ああ、知ってる。だからこそ私は"悪"を肯定しよう、悪であることはまた生物として当然のことだ。何が悪い? 元々そう善人でも無かったお前が綺麗事しか言わない偽善者になったように、私……いや、"俺"は元の人間性を取り戻しただけだ」
そういう事を言いたいんじゃない――という言葉を飲み込んで、私は地を蹴った。
踏み出した足は、一瞬で彼女の前まで運んでくれる。なれど、彼女も同じ速度で私から離れていく。フュンフは立っている事を放棄して仰のくと、宙空にその身を委ねた。
段々になっているらしいこの都市は、層ごとに相当な高さがある。それを自由落下して下層へと向かうのを、後から追いかけていては追いつけない。ゆえに、私は同じように柵を超えて、崖へと足裏を着ける。
『あっ、おい待て! 我を置いていくなーーっ!!』
そうして垂直に崖を駆け下り、落下するフュンフへと追いついた。
「もう少し人の話を、聞けっ!」
並走出来るようになればこっちのもの。そのまま壁を蹴って飛び込むと、流石の彼女も空中での姿勢制御は難しく――私に捕まって空中での取っ組み合いが始まった。
「うおっ!?」
絡み合った腕が剣を振るうことを許さずに、私と彼女の鼻先がくっ付く程に近く寄せられる。
「フュンフ、お前はさっき私と違うと言ったな!?」
「そうだ、俺はお前のような偽善者とは違う!」
「それだよそれ! 矛盾してる! 本物になりたいのに本物とは違うと言ってる! つまり、私とは違う自我を持った一人の吸血鬼なんだ! 分かるか!?」
「分からない! 一向にお前は殺すべき存在で、今も俺の存在を否定してる!」
そう叫ぶ彼女の言葉は心の底から私を憎悪しているようで、正面から向けられた悪意に怯まなかったわけではない。だが、それが本音だとして、他にも違った感情は籠もっていた。
「だからだ、困惑してるんだろ? 生まれたばかりで、自分が何者かも分からず。ただ記号のように刻まれた記憶が体を動かしてる。けれどそうじゃない。その事は一旦忘れて、生まれてから自分が何をしたかを思い出せ」
「……ッ!」
ここに至るまで、少なくとも半日は彼女が生まれてから時間があった筈だ。その間に何もしなかった訳ではあるまいし、あのソフィアという女性とは少なからず仲が良かったように見える。
だからこそ憎悪が膨らんだとも言えるが、それ以上に彼女が生きた時間は私には無い物だ。
「……それが、どうしたっていうんだ」
「お前が何者であれ、過ごした時間はお前だけの物だ。本物や偽物で括れない、そういう物を得ている筈だろ?」
「……関係ない!」
フュンフはそう言うと私を振りほどき、再び二人の距離が離される。そして地面へと達しようとした直前に[空渡]を使って勢いを殺して、建物の屋根へと着地した。私も同じように隣の建物へと降り立ち、互いに視線を交錯させる。
「お前には一生分からない」
「分かるさ」
「そういう所が分かってないって言ってんだよ……ったく、もう萎えた。出直す」
「あっ、ちょ――」
「その無駄な努力に免じて、人間はこれ以上直接殺さないでいてやる。あくまで直接だからな、助けるなら早く行った方がいいぞ」
諦めたような表情でそう言葉を吐き捨て、彼女は私に背を向けてその場を去った。一瞬追いかけようかともしたが、出来ずに伸ばされた手だけが虚しく空を掴む。幸いにして彼女は宣言通り、市街地とは逆の――外壁へと向かう方向の屋根を伝って行った。
『優先順位は分かっておろうな』
「うん」
ゆえに、先程から聞こえる悲鳴や銃声に向かって歩き始めた。私の誓いは無辜なる人々を守ること、それを履き違えてはならない。
「街の人を助けよう」
それに彼女はまた私の前に現れるだろうから――必ず、何があっても。