041 Chapter5.おはよう
素晴らしい、と白衣の男――ヘンリー・フォン・サミュエルは笑った。その笑みを見つめる《fünf》――フュンフの顔は感情が抜け落ちたように平らで、声が届いているのかも怪しい。
「ここまで大変だったろう?」
労いの言葉を掛けるヘンリーは、心底そう思っていた。何せ、実験体がここまで思い通りに動いて、こうして真実に辿り着いたのだ。完璧な形で実験を進めてくれた相手を労るのは、彼にとっては当たり前の行動であった。
「改めて、私はヘンリー・フォン・サミュエル。《パンドラ計画》の主任であり、キミの産みの親だ。お帰り、我が子よ」
「おまえ、が……」
掠れた声で言葉を紡ぐフュンフに、ヘンリーはますます得意気に口角を釣り上げる。
「そう、ここで種明かしをしてしまうと、全部私が仕組んだことなのだ。キミの心臓――いや、胎児の体と言った方がいいかな? それを持ってソフィアが研究所を脱走することも、キミが彼女を助けてジャックに匿われるのも、全部」
――――あの用心棒だけは予定外だったが
此処に至るまでの殆どは、自身の計画の内だったとヘンリーは語った。
全てはクローンである自分のデータを得る為の実験。そう告げられたフュンフの目は昏い色を宿し、眼前で眠る"オリジナル"を見上げる。
「最初の四体は自分がクローンであると知ると、途端に精神が崩壊して使い物にならなくなってしまってね。だから今回は少し趣向を変えてみたのだ」
「だから、私に、自分がオリジナルだと……思わせるために……」
「正解だ。ある程度自我を獲得して、自律的に行動した後に真実を知った場合どうなるかを、私は知りたかった」
――――それによりオリジナルとの差異が生まれる可能性があるからだ
ヘンリーの言葉を聞き終えたフュンフの視線がソフィアへと向く。
彼女は同様に驚愕の表情を浮かべて、ヘンリーの言葉を聞いていた。つまり、ソフィアはキャストでは無いということ。なれど、その横に立つジャックの顔は、それとは裏腹に全て知っていたような雰囲気を伺わせた。
「すまないフラン……いや、フュンフ。彼の言っている事は全て事実だ」
「実験にしてもある程度のリアリティは必要なのでね、事情を知っている人間に彼女を手引きさせたのだよ。気付かなかったろう?」
よく考えれば、不自然な程都合のいい協力者ではある。逃走用の地下通路を知っていて、更には隠れ家まで用意してソフィアを迎え入れた。
だと言うのに、道中ではまるで適度に危機に陥るように帝国兵が襲ってきて、あまつさえ逃げていた方向から挟み撃ちにされたのだ。そんなことは予め逃げる方向を知っていなければ出来ない。
その上、ソフィアが逃げ込んで来た翌日にすぐ行動を起こすのも不自然だ。本来ならもっと慎重に立ち回るのが普通であると少し考えれば分かる。フュンフは予め用意していたような周到さに、疑問を抱くべきだったのだろう。
研究所入り口で起きた悶着も、フュンフにしてみると違和感の塊だった。それが全て仕込みと言われれば、納得せざるを得ない。
全ては、自身がどう行動するのかのデータを取る為のものだったのだから。
「それで、どうだ? こうして自分が作られた存在だと知った感想は?」
「……そだ……嘘だ……」
ヘンリーの問いに、フュンフはただ小さく息を漏らすのみ。否、小声で、何か同じ言葉を呟き続けていた。この世の全ての絶望を綯い交ぜにしたような、酷く濁った双眸でオリジナルの姿を見つめながら。
「私は偽物なんかじゃない……違う、私はフランチェスカだ、本物だ……」
実際、その内心では自分が作り物であることに対する絶望と、こうなるように仕組んだヘンリーに対する怒り、多少なりとも信じていたジャックに裏切られた悲しみの感情が吹き荒れていた。
昨日からの短い時間ではあるものの、自分が本物であると信じて疑わなかった。本物と違わぬ記憶も人格も有していながら、それが偽りだと言われて納得できるはずがない。ゆえに事実として目の前にいる"本物の自分"とのパラドックスが起きて、フュンフはその矛盾に耐えられず発狂の寸前にいた。
なれど、それは当たり前の反応と言えた。誰しも自分の目の前に自分と同じ顔の人間を連れてこられ、「お前はこの人間の模造品だ」と言われれば似たような反応を示す。
"自分が自分でない"という矛盾を認められず、精神の崩壊を起こしてしまう。
フュンフにとって、フランとしての記憶も同じく彼女のものだ。
その記憶に従ってルークを助けた事も、ソフィアと言葉を交わした事も全て本物である。昨夜までの行動は全て、フランチェスカとして行った。だが、もしここで自分が偽物だと認めてしまえば、それも嘘になってしまう。
少なくともフュンフはそう考えていた。
「ゔ、あぁああぁあああッ!!!!」
全身を揺さぶるような絶叫が部屋に響き渡り、フュンフの髪が染み出した灰色の汚泥に染まり始めた。それに呼応するが如く、カプセルを破壊して実験体が中から這い出してくる。それらは一様に彼女の周囲へと移動を始め、明らかにフュンフの声に従っているようだった。
「これは……まさか、実験体を操って!?」
ジャックとソフィアの顔が驚愕に彩られ、ヘンリーは何処か嬉し気に辺りを見回す。
「あ、ぁ、ああ。そうだ、お前は偽物だ、私こそが本物の"フラン"なんだ」
そうして偽物、あるいは本物である彼女が起こす行動は一貫して同じ――――
「お前が死ねば、私が本物だ」
つまり、"自分ではない自分"を殺そうとする。
「成程、そういう帰結になるか! 確かに言われてみれば当然だ、残った者が本物である! して、どうするか、お前一体どう動――――」
「その前にお前は、死ね」
そう叫ぶヘンリーをフュンフは灰に染まった髪の合間から睨みつけ、次の瞬間には――男の頭部が捩じ切れて首が宙を舞った。
ぐちゃ、ともぐしゃ、ともつかない水音を立てて地面に落ちたヘンリーの顔は目も口も見開かれ、そして自分が死んだことに気付かない内に命を終えていた。残された体は首から血を噴水のように噴き出し、その場に崩れ落ちる。
「殺すさ、全部、私が」
血に塗れた手でその行為を成した張本人は、静かにそう呟いた。
「……ッ!」
「博士!」
残されたジャックとソフィアは顔を青褪めさせながら逃げようとするが、背後には既に自由の身となった実験体達が包囲している。
「……身から出た錆って言うんだろうね、こういうのを」
「あ、ああ……やめて、お願い……」
《パンドラ》の細胞が移植された魔物は、欠陥を抱えているもののどれも異常と言えるまでの強さを得た。それに到底単なる研究者である二人が適うはずもなく、じりじりと狭まる囲いの中に追いやられていく。
眦に涙を浮かべてへたり込むソフィアは、背後に立つフュンフを見上げて「止めてくれ」と懇願する以外にできず、ジャックはただ自業自得だとでも言わんばかりに頭を振った。
それをフュンフは、ただの一言も言わずに見ていた。
ソフィアにとって、数時間前まで和やかな時を過ごしていた相手が豹変したに等しい。自分が助け、また助けられた少女が、まるで屠殺される豚を見るような目でソフィアを映している。
「どうして……どうしてこんな事をするんですか……!?」
「裏切ったからだ」
「私は本気で貴女を助けようとして、それがこんな事に加担しているなんて知らずに……」
「知らなかったからで済むのなら、こんな事にはなっていない。分かるだろ? だから、死んでくれ。全部、死ねばいい。お前たちも、あの偽物も――――」
氷のような声音で告げられたその言葉に、ソフィアは思わず口を噤む。彼女の中に憎悪しかないことを理解して、頬に涙が伝った。こんな形で終わることは望ましくなかったのに、彼女が人を殺すところなど見たくなかったのに。
ソフィア・クレイシアスは、フュンフと呼ばれた少女を助けたかった。ただそれだけで、彼女を自由にしてあげたかった。
「ごめんなさい」
最後に絞り出せたその一言に、フュンフの瞳が微かに揺らぐ。
「もう遅い――――」
そして、直後に背後で何かに亀裂の入る音がした。
「なんだ!?」
次いで微かな水音が地面を跳ね、《Pandora》の眠るガラスの棺が金切り声を上げて砕けた。ぱしゃり、と水の浸る床を何かが踏みしめ、大きな呼気が空気を震わせる。
「――――ごめんなさいに対して、もう遅いは無いだろう、なあ?」
『謝って済む問題ではないかも知れんが、少なくとも此処で殺すのは無し寄りの無しであろうよ』
状況に比較して妙に呑気な声音が響き、水の抜けたカプセルの中から少女が姿を現した。
少女は濡れた白銀の髪を靡かせ、真紅の瞳を細めて笑う。彼女が虚空に指を踊らせると、淡い闇のような膜が裸体を覆い――直後に傷だらけの鎧装束と二振りの刀剣が顕現した。
フュンフに瓜二つ、《パンドラ》と呼ばれた吸血鬼の少女は堂々たる態度で複製体を見据えた。その背後、フュンフの目に黒く靄がかった不定形の人型の存在が映る。
彼女が現れただけで場の空気は染め直され、ソフィアたちを囲む実験体は身動きを取れずにいた。プレッシャーが重力という現象を伴って現実に作用しているかの如く、誰もが生唾を飲み込むことすら躊躇してしまう程の威圧感が彼女にはあった。
そう、つまりは――――
「おはよう、もうひとりの私。おいたはそこまでだ」
正真正銘、本物のフランチェスカが目を覚ましたということに他ならない。
この頃誹謗中傷を含んだ感想が数件送られてきており、目に余るものは此方で削除という対応を取らせていただきました。
頂いた感想は返信こそできておりませんが、全て読ませて頂いております。作者も人間ですので、その中に強い言葉を使われた感想があれば普通に傷つきますし、読むのにもパワーがいります。
感想を頂けるのはとてもありがたいことですが、具体的な改善例のない批判などはできれば控えて頂きたいです。今後の展開についても作者なりに考えておりますので「なんでこうなるの?」と思っても、生暖かい目で見守って頂けると幸いです。
重ね重ねお願いしますが、相手を不快にする言い方、強い言葉はできるだけ控えていただけると助かります。