040
震える自分の呼気が耳朶を掠める。口の中が渇いて、舌が顎に貼り付く。視線が定まらずに、あちこちに飛んで――見下ろした先に自分の手が映った。
「嘘だ――――」
体が考える事を拒絶して、濁った水が脳みその中で淀むような感じがする。血の気がしない、首筋の裏が痺れて胃がムカムカして仕方がない。耳に入ってくる言葉を理解して尚、目の前の現実を認める事ができずにいた。噛んだ唇から鉄の味がする。ざり、と心の中で何かが擦れた。
「嘘だ、嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ」
何度そう繰り返しても、瞳に映る白皙の少女はただ黙して水に揺蕩う。柔らかな夢に浸って、この地獄から逃避しているのかもしれない。
「――――いや」
それは私だ。
身を刺すような痛みに苛まれて感情を乱し、膝をついているのは私だ。それだというのに何故、彼女は同じように苦しんでいない? どうして何も知らぬような顔で、眠っている?
頭の隅に痛みが走って、噛み合わない歯の根が鳴った。
「お前は、私だ」
自己の証明はなんとすればいい、私を私たらしめるのは――私の意思しか無いというのに。何故、"私"の前に"私"がいるのだ。
私は、誰だ。
◇
悪趣味な実験の産物である人の姿をした何かの首を手に、見上げた先にいる男を睨む。人よりは強いが、それで私を倒せるわけでもなく。遊び相手として放たれた怪物は5分と経たずに床へと沈んだ。
その光景を見下ろす白衣の男は素晴らしいと言わんばかりに手を叩き、鷹揚に背を向けてその場を去る。それと同時に、部屋の奥にあった大きな扉が開かれた。
通れ、と言っているのだろう。相手の指示に従うのは気に食わないが、なぜだかこの先に行くべきだと私の本能は告げていた。こういう時は感覚に従うのが吉と昔から決めている。
少し薄暗い廊下へと足を踏み入れ、ヒールの音を響かせながら進む。先程まで通ってきた廊下よりかなり狭く、時折噴き出した蒸気が頭上を掠める。
ソフィアたちは無事なのかも心配だが、相手はこちらがこうしてやって来る事を予期していたような口ぶりだった。分断されて一人になった私がこうして、何か不穏な気配のする廊下を歩いているのも予定通りということ。
目的の真たるところは分からない。私を再び捕らえたかったのかも知れないが、それならばあんな回りくどい真似をしなくてもよかった。
「不気味だ」
何かを見落としている気がする、私に関する何か大事な情報が欠落している。
相手は私を何処かへと誘導して、何かをさせたいのか――あるいは見せたい? しかし一体何を、私に見せて意味があるものとは……。
そんな思案を巡らせている間にも体は廊下を渡りきり、次なる部屋の扉へと辿り着いていた。近づくと横へとスライドする類の扉のようで、足を止める事無く部屋へと滑り込む。
「何だ、ここは……?」
先程までの鬱屈とした廊下から一転、かなり広い空間へと出た。天井も高く、部屋の中央に置かれた巨大なカプセルから螺旋状に段差が配置されている。
カプセルには透明な液体が充満しており、人のような物が体を丸めて浮かんでいた。それは少女だった。長い白銀の髪に、白く滑らかな肌。伏せられた睫毛まで白く、透明で儚げな印象を抱かせる少女が眠っている。まるで、"私"にそっくりな少女が――――
「まさか……」
同時に視界の端に見えた書類を咄嗟に手に取り、そこへ刻まれた《パンドラ計画》という文字へと目を走らせる。ページを捲ると、そこには《複製体の生成について》の項が載っていた。
「『……《パンドラ》の細胞と胎児、あるいは魔物の遺伝子を組み合わせる事で、ある程度オリジナルの性能を再現した複製体の生成に成功した』だと……?」
更に先のページへと進むと、『オリジナルの膂力を人体で再現する為に肉体が肥大化した』という研究結果を見つけ、あの地下通路でみた《グラキニオス》を思い出した。あれも、私の細胞を利用して作られた複製体だったらしい。
紙を捲る毎に奴らの非人道的実験の詳細が明らかになり、私の顔は歪んでいく。奴らは私の因子と人間の体を利用して、兵器を作ろうとしていた。それも何十年も前からずっと。
まずはじめに、私単体の細胞を培養して、それを受精した卵子へと移植し成長を促進、オリジナルとほぼ同じスペックのクローンを五体生み出している。それらの内四体は様々な理由から失敗作として破棄され、残された一体も完全には復元させず、半端な状態で保管していた。
その次に行われた実験で、人体に私の細胞を埋め込んで強化人間を作ろうしたらしい。
「その結果が……あれか」
[吸血鬼]の、それも《エーテル》という殆ど未知のエネルギーを含んだ細胞に人間が適応出来る訳も無く、殆どが肉体の崩壊を起こすか暴走で処分。私が戦った個体は全て、適応したが知性を失った失敗作らしい。
それからも魔物の肉体を使った実験や、同じ《パンドラ》細胞を移植された個体同士の交配などが行われている。ルグリア人ならやりかねないことだが、それにしても自分の細胞でクローンを作られたとなると、どう感情を表現すればいいかわからないな。
他の書類も無いかと部屋の中を探すと、時折実験体と思しき個体が生命維持装置の中にいるのを見つけた。個体差はあるが皆一様に肌が青白く、銀色の髪を持ったものもいる。
捉えようによっては、これは私の遺伝子情報を持った子供とも言える存在だ。実感はないものの、実験体として使われてしまった事には哀れみを持ってしまう。
そんな中、一つだけ空の生命維持装置があるのを見つけた。人型の実験体が入る物よりもかなり小型で、抱えて持てる大きさの物だ。その中心に据えられていたであろうカプセルは無く、ただ《fünf》と刻まれたプレートが、それが何であるかを示している。
複製体ロット、《eins》から《fünf》と呼称された五体は、私の姿を模した存在だ。そして、最後の型番である《fünf》だけが保管され、他は破棄されたと――
「……ッ!」
では、何故ここにその《fünf》がいないのか。
その続きを考えようとした私の頭に、鋭い痛みが走った。思わず立っていられずに膝をつくと、足元に何かが落ちているのを見つけて目を細める。
「こ……れ、は……」
そこに落ちていたのは、《ソフィア・クレイシアス》と書かれた研究所職員の身分証。何故それがこんな所にあるのかと考えて――また痛みが襲う。
「い……や」
彼女はこの研究所に勤めていたのだから、別に何もおかしいことなどはない。
大方逃げる最中にでも慌てて落としてしまったのだろう。何せ、私の心臓は彼女が研究所から持ち出したのだ。恐らく私もここにいて、故になにも矛盾は――矛盾があるはずがない。
耳鳴りが酷く、断片的な映像が幾つもフラッシュバックする。何かを忘れているような気がしてならない。
「私……は」
私はここにいて――では、あのガラスの水槽に眠るのは一体誰なんだ。
「あれは――――」
あれは私のクローン、私の細胞を培養して作られた偽りの生命体。では、あれは私ではないのか? そうだ、私は此処にいる。ならつまり、あれは私以外の何者なんだ?
「ぐっ……」
おかしい、何かがおかしい。
歯車の間に何かが挟まって動かないみたいに、目の前にあるものが噛み合わない。あれは《fünf》か? 違う、《fünf》はここにいたはずだ。
私は震える体をなんとか律して、部屋の中心へと向かう。足を引き摺るように階段を登り、手すりに体を預けて生命維持装置の操作盤がある正面へとやって来て――そこに書かれた文字に目を瞠った。
「――――嘘だ」
このカプセルに刻まれている文字は《Pandora》。
つまり《fünf》ではない。《eins》でも《zwei》でも《drei》でもなく、これは《Pandora》だ。その文字が意味する所を理解して、私はどういう表情をしていただろうか。
体から体温が消えて、途端に手足の感覚が無くなる。自分の吐いた息が空気を震わせ、視界に灰色が映り込んだ。それと同時に、背後で拍手が鳴った。私が振り返ると、そこにはあの研究者と――ソフィアたちが立っていた。
「素晴らしい、私が伝えるまでもなく真実に辿り着いたか」
「お前はっ……!」
「それでは改めてお帰り、私の愛しい実験体」
その顔は喜色に染まり、口角は愉悦に歪んでいた。私には男の顔が――――
「《fünf》」
悪魔のように見えた。