003
突然背後から聞こえた声、それも男のものに私は息を止めて体を石のように硬直させた。それでも頭だけは目まぐるしく思考を続け、声の主に悟られないようにゆっくりと平静であるように見せながら振り向く。
『ほう、吸血鬼か』
その先にいたのは、なんとも奇妙な存在だった。人の形をしているものの全身が黒く不定形で、輪郭がゆらゆらと揺らめいている。瞳があるであろう部分には代わりに二つの赤い光が備わっており、その双眸は私をジッと見つめていた。
これは私も見たことがある、レイスというゴースト系の種族だ。プレイアブル化はされていなかったが、NPCに何人かいた記憶がある。
「えっと、誰……ですか?」
『我はグリムガーン、そこの男の成れの果てだ』
私がそう尋ねると、その人物は部屋の隅に座る死体を指してグリムガーンと名乗った。
グリムガーン……グリムガーン……うーん、やっぱりそんな名前聞いたことないし、しかもレイス化してて元の姿も分からない。作中に登場していたかの判別は不可能だろう。理性が残っていて、私を襲いそうにないことだけが救いか。
『して何用だ小娘、物資の補給ならば他を当たれ。ここには死体しかない』
「いや別に泥棒しに来たわけじゃ……」
敵意もなく悪意もなく、ただグリムガーンは私を見てそう言った。
『ではなんだ、敗残兵ではなく、ただ道に迷っただけの一般人とでも言うのか?』
「まあ……極端な話、そういうことになる……かな」
突然自分が知らない土地で目覚めることを指すのなら、多分彼の言う通り私は道に迷ったのだろう。どこから来たのかも、どうやって帰ればいいのかも分からないのだ。そういう点で言えば多分迷子より酷い。
『ありえんな、ここは滅びた土地イルウェト。到底余人が立ち入れる場所ではない』
「イルウェト?」
その地名はどこかで聞いた事がある。確か、公式設定資料集のワールドマップの項で、未実装エリアにそんな名前の場所があったはずだ。ルグリアとほど近い場所にある、本編より凡そ二百年も昔に戦争によって滅びた、魔族達の国――――つまり、ルグリアの人たちが研究している土地である。
「オワタ……」
『その様子だと、一応は知っているようだな』
どうやら私の予想は完璧に悪い方向で的中してしまったようだ。AAOにイルウェトがまだ実装されてないことを考えると、ここが現実という可能性は更に増したと言える。
「あの牛の魔物も、下手すればレベルは150を超えてるってやばすぎる……吐きそう……」
安全に敵を狩れるレベルの下限が"90"という、当時にすれば超高難易度エリアであるルグリアが秘境であれば、イルウェトは推奨レベルも敵の平均レベルも不明の魔境。
少なくとも前者よりは難易度は高いことが確定している。到底私のようなレベル1の初期職業で立ち入っていい場所ではない。
『ふん、ここに来るまでに良く死ななかったものだな』
「た、偶々逃げ切れたんだ……本当に運が良かったんだな……」
多分一撃でも貰っていたら即死だったはずである。レベルが20離れているだけでも、私のHP120を一発で吹き飛ばせるほどステータス……つまり強さに差がある。それが100も離れてみろ、オーバーキルもいいところだ。
しかし、自分で言ってて悲しくなるな。未実装のエリアに居て、自分がアバターの姿で生きていて、そしてあり得ない程絶望的な状況にあるとか考えただけで吐くわもう。このゲーム胃薬とか無かったっけ?
唯一の救いは私が超の付くほど美少女であることと、取り敢えずの安全地帯を見つけたことだけだろう。これでおっさんアバターで荒野を彷徨う羽目になっていたら完全に発狂してた。
「はぁぁ……もうダメだ……外怖い……死にたくない……」
現在地が分かって更に絶望が増したので、もう一歩も外に出たくない。
仮にもしこれが現実だとしたら殺されれば死ぬし、怪我をしたら痛いのだ。誰が好き好んでそんな危険なことをする? もう一生ここに引き篭もって過ごすのも辞さないぞ、私は。グリムガーンも敵対NPCじゃないっぽいし、隅っこでジッとしている分には許してくれるだろう。
『お前、何をしている?』
「……世界と対話してる」
早速部屋の隅に三角座りして宙を見つめ始めると、グリムガーンがどこか引き気味に声をかけてきた。
『何故……そんなことをする?』
「……世界とは自分であり、自分とは世界。私という個が滅びゆき、我を失って世界と溶け合う時を待ってる。この世の全ては無であり、即ち人の生も無。私は無になるんだ」
『そうか……』
時々こうしてただなにもない虚空と向き合い、そして無常さを想うとなんとも言えない気持ちになる。世界という果てしない概念と比べれば自分の今までの人生も、これからの悩みも全てが些末なことのように思えて心が安らぐのだ……。
会社でこの話をしたら同僚に凄い心配されたけど、別に病んでるとかじゃないんだよな。ただ、ボーッと雲を眺めてると同じで、私にとって一種の瞑想に近い行動だと思ってやっている。元々精神の波をコントロールする術を手に入れる為の訓練で得た副産物的なアレだが、今では心の安寧を得るための大事なルーティーンなのだ。
『目が虚ろだぞ、本当に大丈夫か』
「……帰りたい」
昂ぶっていた心が落ち着いたせいか、段々と今まで起きたことを冷静に理解して悲しくなってきた。確かにAAOは何年もやり続けるほど好きだけど、こんな状況に陥ったら楽しいと感じる以前に恐ろしくなってくる。私にだって現実世界で生活があって、ずっとゲームだけをやってるわけじゃない。
仕事だってまだ任されたプロジェクトが途中だし、積んでる他のゲームもあるし、録画したアニメだって未消化だ。来週の週末に友達と映画に行く約束もして、次の三連休にはキャンプに行く予定だった。その為に道具も買い揃えて、川釣りを教えてもらうから釣具だって買った。
そしてなにより、ゲームとして楽しんでいたこの世界で苦しい思いをしたのが一番辛い。フレンドと馬鹿やって、装備揃えたり皆でボス攻略に頭を捻ったり、なにもせずボーッと景色を眺めているだけでも楽しかったのに、今はどうだ? 意味の分からない状況で、大好きだった世界に牙を剥かれた。
ログアウト出来ない云々ではなく、もう二度とあの生活に戻れないかもしれないと考えると、胸が詰まって息が苦しくなる。しんどい、泣きそうだ。
「家に帰りたい」
そんな言葉を口にしても、GMは助けてくれないし目も覚めない。まるで「ここがお前の現実だ」と世界に言われているようで、余計に心が辛くなる。
『残念だが、それは不可能だ。ここに張られた結界を抜ける術はない』
「……どういうことだ?」
私が絶望しているのは化け物が外を彷徨いているからであって、結界なんてものの話は初めて聞いた。そんな疑問が顔いっぱいに浮かんでいたのだろう、グリムガーンは少し間を置くと結界について語り始めた。
『外の惨状を見ただろう、ここには埒外の魔物がひしめいている。それを外界へと出さないよう、人魔の戦争の終わりに人類は結界にてこの土地を封印したのだ。ここにいる魔物の数が規定値まで減らなければ解けない結界でな』
そう言ったグリムガーンの声音は、諦観の念が強く籠もっていた。そして"人魔の戦争"だと言った、つまり人魔大戦。本編開始時刻より二百年前に起きた戦争である。やはりここはゲーム内の時間軸で言えば過去なのだ。
「……おい、それは何年前の出来事だ?」
『もう30年も昔になる、我が死んだのもその時よ』
30年、ということは今は本編が始まるおよそ170年前、世界が戦争から立ち直ろうとしている頃合いだろう。この頃に元魔族であった幾つかの種族が講和によって人類の仲間入りを果たし、その中に私の選んだ種族の吸血鬼もいる。
まあ、吸血鬼は特に一枚岩ではないので後々のストーリーで敵対勢力として闇側の吸血鬼が出てくるのだが……それは別にいい。
問題はすぐに誰かが助けに来ないという部分だ。私がグリムガーンに、戦争から何年経ったのか聞いたのはそれが理由である。
ルグリアへと到達可能になるのさえ、サービス開始から2年かかった。
プレイヤー全員で攻略していくグランドクエストの進行具合でマップも順次開放されるのだが、世界中の廃人がやる気になってプレイしても2年だ。
そして、8年経った現在でさえイルウェトの情報は然程出ていない。平行世界に飛んだり月の魔獣と戦ったり、巨大な機神と呼ばれるメカに乗って戦ったりしてたというのに……。
「普通そういうスタンダードな話って最初にやるもんだろ……」
故に最低でも170年は誰もイルウェトへは来ない。
仮にこの世界にも主人公と呼ばれる存在がいたとして、それもイルウェトへ関わってくる可能性は限りなく低い。もうはっきりと言うが、これは現実で、私は誰の助けも得られず永遠にここへ閉じ込められたままなのだ。
「は、はは……」
思わず乾いた笑いが漏れ、私の中に残された僅かな前向きさが心中から消えていく。
ゲームの設定が現実に反映されるのであれば、吸血鬼は老化による寿命がなく、食事や睡眠を取らずとも死ぬことがない。ただここでボーッとしているだけでも、100年も200年も生き続けられてしまう。
しかし、だからこそ悲しくなってくる。
そんな人生に何の意味がある? それこそ自己を喪失して、生きながらに死んでいるようなものだ。
外に出ようにも結界でどこにも行けない。かと言ってなにか出来るわけでもなく、ただこの穴ぐらで呆然と生き永らえるしかないのだ。まあ、グリムガーンと言う話し相手がいるだけ、まだマシなのかも知れないけど。
それでも私は、もう何をする気も起きなかった。
【TIPS】
[吸血鬼]
吸血鬼は人型種族、亜人に属する種族である。人魔大戦以前は魔族であったが、戦争終結後は指導者による変革により人類に仲間入りを果たした。吸血鬼は同種で交配し生まれる純血と他種との混血か、後天的に血を与えられて覚醒する陰血の三種に分類される。尚、フランは種族選択の時点で純血を選択した。
[レイス]
人型種族の死後に確率で魂が変質して生まれる突然変異種。基本的に自我が薄く生理的欲求を失っており、生物に危害を加えることはない。ただ、強い自我を持ち記憶が薄れたレイスは悪霊に、記憶を保持し自我の無いレイスは地縛霊になると言われ、前者は危険と判断されて討伐されてしまう。稀にこの二つを兼ね備えて生まれるレイスは、精霊や守護霊として崇められることもある。