001 Chapter1.転世
はっきりと、それでいて余韻を残さない目覚めだった。
「……?」
肌を撫でる温い風に閉じていた目蓋を開けば、緋色の太陽が頭上を照らしていた。直前の記憶が一瞬無かったものの、すぐにAAOのアップデート中に寝てしまったのだと思い出し、一人得心が行ったように息を吐く。いつからここに居たのかは分からないが、どうやら知らぬ間にログインしていたらしい。
数度瞬きをしたのちに改めて周囲を見渡せば、赤茶けた禍々しい大地に枯れた木々が乱雑に伸びていた。呻き声にも聞こえる風の音と、遠くに見える山脈の上で巨大な鳥が金切り声を上げていてなんとも不気味さが煽られる。
「……ここは、AAOのマップか?」
ログインしたのならここはAAOに存在するワールドマップの一部のはずだが……。
見慣れた筈の光景に俺――――いや、AAOの中だと"私"か。とにかく私は、どうにも違和感を拭えずにいた。まず、今いるこの――――荒廃して色味もエグいまるで地獄のようなエリアは、まるで見たことがない。AAOを8年やっている人間が言うんだから間違いない。
そして先日ログアウトしたのは林の中ではなく、私が所有する城の自室だった。
"ログインした際に特定のエリアに飛ばされる"と言った不具合は過去にあったので、もしかするとそれに引っかかってしまった可能性はある。
しかしもう一つの違和感はどうしても不具合で片付けられるものでは無かった。
それは鼻腔へと届く土の匂い、風が運んでくる湿った空気だ。
VR技術が進歩した現代とは言え、匂いや温感などを再現するには未だ至っていない。加えてグラフィックがリアル過ぎる、というよりかは完全に本物にしかに見えなかった。
AAOはリアリティを追求したゲーム。マップも相応に作り込まれ、現実のような美麗と雄大さがある。私が初めてこのゲームをプレイした際も、その美しさに興奮して暫く景色を眺めていたほどだ。
しかし、どうやっても仮想現実という限界はあるわけで、よく観察すれば本物との見分けはつく。それを前提にして目の前の景色を見ると、どうにも作り物とは違う現実味を感じるのだ。
試しに近くにあった木に触れてみると、ザラついた樹皮の感触が掌へと直に伝わってくる。足元の土を掬い上げ、鼻先を近づければ少し焦げたような土の香りが鼻腔に巡る。
「おん……」
おかしい、普段なら匂いもしない上、木に触ったところでここまで明瞭に感触が分かるはずがなかった。
どうなっているのか困惑が広がる中、私の中に一つの可能性が湧き上がってくる。これが先程行われていたアップデートの内容なのかもしれない、と。
確認する方法は簡単だ。ゲーム内でメニューを開き、そこから運営からのお知らせのページへと飛べばVR内でも情報は見れる。
私は空中に指先でルーン文字のような物を描き、魔法陣めいたエフェクトを伴って半透明のディスプレイを表示させた。これがAAOのメニューを表示する方法であり、エフェクトなどは課金及びゲーム内で手に入るアイテムを使用することで変更が可能である。
因みに私の使っているものは世界観やリアリティを損なわず、かつタイムロスが無くお洒落にメニューを開けると人気の課金エフェクトだ。これ一つで税込み850円、運営もアコギな商売してますわ。
そうしていつも通りメニューが表示され、【Gear】や【Item】などと言った表記の中からお知らせのタブを探すが、一番下まで視線を巡らせたところで目当ての物が無いことに気付く。それどころか他にも幾つかあったタブも消えており、その中にはログアウトボタンも含まれていた。
思わずメニューをなぞっていた指が止まり、首筋に氷を当てられたような寒気が走った。
このゲームを終了するのはプレイヤー自身がゲーム内でログアウトする以外に、GMへとメッセージを送って外部から切断してもらうか、第三者が接続しているPCからログアウト処理する方法がある。だが、その肝心なGMへメッセージを送るためのメニュー欄が開けず、ログアウトボタンも消失しているのだ。
「どうなってんの、これ……」
これがもし全体の不具合で、プレイヤー全員のログアウトボタンが消失していたのならまだいい。このご時世であればすぐニュースになり、全体へのお知らせとメールが送信されたあと運営側がプレイヤーをログアウト処理するはずだからである。
「……いや、私には告知もメールも見れないんだった」
しかし、しかしだ、私のみの問題であった場合、少し状況は変わってくる。現実世界の私は一人暮らしで、すぐ会いに来れる距離で家族も知人もいない。どこかで他のプレイヤーを見つけて、代わりにGMへとメッセを送って貰うしか解決方法はないだろう。
とは言っても、私は良く分からない場所にいる。マップも表示できないのでこれがAAO内のどの辺りに位置しているのかは不明だが、明らかに普通じゃない場所に飛ばされていることは確実だ。しかも、ここがアプデで追加されたエリアでないことを私は薄々察してしまっている。
仮にこれがアプデの新エリアであったなら、もっとプレイヤーで賑わっているはずだ。しかし、視界には人っ子一人いないどころか、大地は枯れ果て空は不穏な赤黒い雲が覆っている。もう可能性としてはなんかのバグで開発中に残ってたエリアに飛ばされたか、私だけテストサーバーにいるかぐらいだ。
◇
途方に暮れる私は、それでもとにかく他のプレイヤーを探そうと歩き始めた。
実際は乾燥した地面と粘つく気味の悪い空気の充満する、世界の終わりのようなエリアを宛てもなく彷徨っているだけだが。それでも何もしないよりはマシだからと、そう自分に言い聞かせて歩を進める。
ここは見る限り、名前の付いた大きな都市がありそうな雰囲気ではない。となると隣接する別のエリアへと移動して、そこでプレイヤーを探した方が良いだろう。もしどことも繋がって無かったら詰みだが、それはそれで運営が異常を検知して見つけてくれることを願うのみだ。
そうして10分ほど歩いた先で、私は記念すべき第一村人と遭遇した。いや、厳密に言うとそれは人ではなく、牛とハイエナを合わせたような巨大で凶暴そうな魔物だった。
「グルルルルァ……」
「ひぇ」
ゲームとは思えない迫力に思わず悲鳴が漏れ、私は無意識の内に後退る。
こんな魔物見たことがないし、気を抜けば卒倒して倒れそうなほどの威圧感と、肌に刺すような殺意を感じた。えっ、これ本当にゲームだよね!? なんか凄い怖いんですけど……。
しかし、私とてサービス開始初期からやり続けているAAO廃人一歩手前。未知の魔物が現れたからと言って、即座に[逃げる]コマンドを選択するなど言語道断。インベントリから剣を装備していざ尋常に――――
「あれ?」
勝負と思ったがしかし、アイテムインベントリにはいつも愛用していたプレイヤーメイドの武器が無かった。昨日は偶然別のジョブで遊んでたから装備してなかったけど、倉庫に仕舞った覚えもない。なら一体何処へ? という疑問より先に、私はインベントリの中にあるアイテムを見てどういうことかを察する。
「鉄の直剣、ローポーション、毒消し、無料転送券、リセットポーション、これ初期、アイテム。全部、どうして」
インベントリにあったのは、全てゲーム開始と同時に貰えるアイテムのみ。つまり私は今初期装備であり、そうなるとまさか……。
「嘘でしょ……」
慌ててアイテムタブを閉じてステータスを開くと、そこに表示されたのは残酷な数値の羅列。
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[名前]フランチェスカ [クラス]剣士
[種族]吸血鬼 [性別]女
冒険者等級:未登録
称号:無し
Level:1
HP:120/120
MP:50/50
EXP:0/250
スキル:【再生】【活性】【高揚】
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レベルが1で、しかも職業が初期職業の一つである剣士。スキルも一切取得しておらず、完全にゲームを始めたばかりの[吸血鬼]と[剣士]の初期ステだった。名前がちゃんと私のもので、種族も一致しているのが余計絶望感を煽る。
これが別のキャラの名前だったらただの不具合だと思えたのに……。
まあ、声や目線の低さでいつも使っているアバターだと分かってはいた。中の人が男でこんな可憐な声が出せるのは、AAO内でも私くらいのもの。
元の声質もあるが、AAOにはボイスチェンジャー機能が備わっている。多様性という言葉の捉え方を間違えたのか、公式は誰でも違う性別、違う声でこのゲームをプレイできるようにしたのだ。そしてネカマたちは歓喜した。
私のこの声もピッチを調整し、柔らかさを足し、八時間掛けて完璧な本物の少女の声を再現した努力の賜物である。
「や、いまはそんな話をしてる場合じゃなくてっ!」
[鉄の直剣]を装備したものの、これで太刀打ち出来る気がしない。私は鞘から剣を抜くこともなく踵を返すと全力で走る。背後では牛の魔物が咆哮を上げてその鉤爪を持った前足を大地へ叩きつけ、そして私を追って駆け出した。
「グガァアアアアアッッ!!」
ゲームではエスケープ――――つまり一度も戦闘行為を行わずプレイヤーが逃走した場合のみノックバックや状態異常を無効化し、モンスター側はプレイヤーの凡そ0.8倍の速度で追ってくるので……システム上は絶対に逃げ切れる筈だ。
しかもある程度まで接近すると、攻撃の予備動作で立ち止まったりするため実際はもっと逃げやすい。なので私はそれを信じて走っていたのだが……一向に距離が離れないどころか、さっきより縮まっている。
「嘘でしょ!? なんで、待て待て!! 有りえん、有りえんって!」
それに、息を吸う度になんだか胸が苦しくて、足も踏み出す度に重くなっている気がする……。そもそもここはゲーム内なんだから呼吸の必要もないのに、私はどうしてこんな息を荒げて走ってるんだ……?
「うぐぅ!」
息も絶え絶えに目を瞑って走っていたからか、足元の段差につま先を引っ掛けて転んでしまう。こんな勢いよく転けたのは小学生以来で、擦りむいた手から滲む血と痛みに涙目に――――
「えっ?」
このゲームはダメージを受けると赤いポリゴンが霧散するエフェクトで表現される。部位欠損であっても、失われた箇所の断面はただのポリゴンで、流血する表現はスキルのエフェクトとイベントムービーの幾つか以外ではない。
それが何故、どうして、ありえない、なんで私は、手から血が。夢でも見ているのか? おかしい、どうなってる。これは……。
これは、現実なのか――――
【TIPS】
[ステータス]
オンラインゲーム及びロールプレーイングゲームに登場するキャラクターの能力などを指す。AAOにおいてはプレイヤーネーム、職業、種族、性別の他に身体能力や特殊な技能に相当する部分がデータ化されている。