014
この世界に来てから24年目。
4年間剣を教わり、然るべき準備を終えて地上に立つ私は、視界の先に見据えた蠢く粘性生物を前にして顔を引き攣らせていた。
緊張から手は震え、乾燥する唇を舌で湿らせる。
ようやく巡ってきた好機は突然で、なんの予兆もなく砦の前にアシッドスライムの群れが押し寄せて来た。凡そ三十はくだらない数だ。奴らがどういう理由でここを訪れるのかは不明だが、これを逃せばまた数年は待つ羽目になる。今日、ここで計画を実行するしかないのだ。
『不安か』
「当たり前だろう、命が掛かってる」
『その心構えは寧ろ好ましいが、それでもやるのだろう?』
私は今から自分よりも強いであろうスライムと戦い、殺されるかも知れない中で勝たなければいけない。不安なんて曖昧なものじゃなく、明確な死の恐怖が心を鈍らせているのだ。あれだけ計画を立てて準備して、勝算があるからこうしてここに立っているというのに――――
私の根が臆病で怖がりの痛がりな、ただの一般人であることを再認識させられるよ、全く。何の意味も無いことを分かっていても、掌に人の字を書いて飲み込みたくなってしまう。
更に私の緊張を更に高めるような事態が起きていた。アシッドスライムのレベルが以前見た時よりも軒並み上がっていたのだ。
平均して70あればいい方だったのが、一番低い個体でレベル80という表記を見た時は目眩がした。当然この二十年で多少なりともレベルが上がっていてもおかしくはないと思っていたが、下限が以前の上限になるとは思ってもみない事態である。
こちらも当初の計画より大幅に戦力を強化出来たとは言え、もしかすると予定通りには行かないかも知れない。それはレベルの差だけに非ず、私の想定外の行動をあちらがして来る可能性があった。
元々私が最初の標的にスライムを選んだのは、奴らの行動パターンが極端に少ないことに起因する。
高度なAIによって幾通りもの行動パターンが存在するAAOにおいて、スライムだけは大まかに多くて三種類しか行動に違いがない。意思の存在しないスライムは攻撃されても反射的に捕食行動を行うのみで、プレイヤーを意図的に襲うことがない……という設定に基づいているからだ。
刺激を受けるとその方向に身体を伸ばすか、有機物を取り込もうと波のように全身を使って覆いかぶさる以外に行動パターンがない。マグマスライムやダークスライムなどの亜種のみ、有害な体液を撒き散らす行動が確認されている。
それ故に高レベル帯のスライムは、それよりも下のレベルのプレイヤーたちがレベリングに使い屠られ続けてきた。入るのにレベル制限が無い地帯であれば、低レベルのプレイヤーでもスライムを狩れる為、サブキャラでパワーレベリングをすることも多々あった。
「……三種類、なんてものじゃないだろうな」
しかし、ここはゲームの中ではなく現実。スライムの行動パターンが一律なわけないし、もしかすると意思を持って襲いかかって来るかも知れない。
それでもやらなければならない。
結界を調べてどうにか通り抜ける方法がないか探すにしても、今のレベルで下手に歩き回れば確実に死ぬ。解除するならば、イルウェトに棲まう魔物たちよりも強くならねばいけない。つまり、私に残された活路は、奴らを倒してレベルアップすることだけだ。
作戦は『安全な距離から[斬空波]を打ち続けて体力を削り、MPが半分を切ったところで接近戦に持ち込む』という至ってシンプルなもの。その分相手の行動に対応するリソースが多く、不意の事態でも対処できる筈だ。[斬空波]の消費MPは3、自動回復も込みで打てるのは50回と言ったところだろう。
直ぐ傍に浮かぶ師匠に見守られる中、私は見晴らしのいい平地へと移動した。そこで周囲に何もいないことを再度確認してから、砦の周囲を這い回るスライムの一体に狙いを定める。
剣を抜いて震える手を鎮めるために一度深呼吸をし、それから覚悟を決めるために空いた手で胸を軽く叩く。
『失敗すれば死ぬ』『まだ早いんじゃないか?』『もっとレベルを上げてからでも遅くはない』『今日は止めておこう、次の機会にすればいい』
そんな考えが浮かぶが、今回を逃したら二度とこの場に立てないような気がした。きっと次も同じように先延ばしにして、延々とそれを繰り返し続ける。絶対に勝てるようになっても、及び腰で現実から逃げ続けることは容易に想像出来た。
だから、今日、今ここに立っている私がやらなくてはいけないんだ。
そう心の中で何度も繰り返し言い、いよいよ剣を構えて下段から大きく振り抜いた。その行動自体は空を切り、次いで生じた斬撃が標的にしたスライムへと放たれる。
三日月状のそれは命中すると、どろりとした肉体を弾け散らせ――――直後にスライムは反射的に攻撃が放たれた方向へとその身を波のように蠢かせながら移動を始めた。この時点で他のスライムに動きは……無い。第一関門は突破、取り敢えず一対一へと持ち込めたようだ。
可能性として、一匹攻撃したら全部襲ってくるなんてこともあり得たので、少しだけ気が楽になる。後はこのスライムを群れから離してHPを削り切るだけだが、今ので一体どれほどのダメージを与えられたのかは分からない。とにかく間髪を入れずに[斬空波]を放ち続ける。
私の知っている80レベル付近のスライムのステータスと、今の私のステータス差でざっくりと計算してもWSで30ダメージ入れば御の字だ。これが現実であることを加味すると、当たり所も当然存在して――――
「来たな」
その時、突然スライムの動きが変化した。
攻撃が当たる度に体を高波のように変化させて徐々に私へ迫っていたスライムが動きを止めたかと思うと、その体を震わせ、粘体を周囲に飛び散らした。想定していた行動の一つだったのだが、予想よりも弾速が速い。
「避け――――」
不可避。射程範囲外と思われた私まで届いたそれを、不覚にも肩に受けてしまった。
「あっ……ぁあ、いぎっ!!!?」
『小娘ッ!?』
痛い、痛い痛い痛い。
激痛に悶えながら必死に肩にへばり付くその粘体を払い落とすと、服ごと肉が溶かされていた。これは、拙い。皮膚は焼け爛れ、意識が飛びそうになるほどの痛みと熱が思考力を奪っていく。
表示したままだったステータス画面ではHPが50程削れていた。この激痛でたった50ダメージということは、HPが半分も削れたら戦闘不能ということになる。ゲームでは1残ってさえ言えばどうとでもなったがこれは現実――――ダメージは物理的な損傷と痛みになって襲ってくるのだ。
『来るぞ、前を見ろ!』
「な……」
師匠の声で我に返り顔を上げ、既に間近にまでスライムが迫っていることを悟る。
どういう理屈か不明だが、今飛ばした分裂体で私の位置を補足したようだ。やはり予想外の行動をしてきた。スライムがそんなことをするなど聞いたことがない。
「クソッ、この……!」
広げた全身で私を飲み込まんとするスライムの攻撃を辛うじて避け、剣を叩きつける。なれど、動きを止めることすら叶わず、スライムは再度体をうねらせ攻撃の準備に入った。今度は予め余裕を持って距離を取るが、衝撃で飛び散った肉片が素足に跳ねて痛みが走る。
「ぐ……露出の多い装備が嫌いになりそうだっ……」
たった一つのイレギュラーで作戦が崩壊して、思わず悪態を吐きたくもなる。これだけ準備してきたのに、全部が無駄になった気分だ。
『落ち着け小娘、まだ立て直せる。予定よりも早く接近戦に持ち込まれただけだ。相手の動きをよく見て躱し、反撃を叩き込むんだ。貴様なら出来る』
「……分かった」
背後から聞こえる師匠の声は、この状況であっても私を平静に戻してくれた。肺の空気を一度すべて抜き、呼吸を整える。痛みを無理やり意識の外へ追いやって、集中力を高めていく。
腹式呼吸を意識して、足は肩幅、軸足を後ろに、肩の力を抜き、剣先を地面に触れさせる程腕をだらんと垂らす。
「ブラッド・ソウル」
そして、私は実戦で初めて使うであろうスキルの名を口にした。
【TIPS】
[AI]
AAOではNPCやモンスターは高度なAIにより実際の生物と程近い思考力を有しており、サーバー上で蓄積されたデータを基に様々な行動を起こす。その中で例外的に知性が著しく低いか、存在しない類のモンスターのみ行動に一定の規則性が存在する。スライムや、低位の植物系モンスターなどが代表。