12.プリメラ・リンドオール(裏)
令和2年、とってもお世話になりました。
区切りの関係で、今回はちょっとお話が長めです(1万2千文字程度)
『柳のような無敵の精神力とか、そこまでできるのは逆に奇跡とか、姉達にはよく褒められました。プリメラの頭の中には四季折々の花が一年中咲き誇っているんだろうね、なんてお兄様にも言っていただいたことがあります。わたしにはもったいない言葉ですが……素敵でしょう?』
違和感はあった。
ただの『拍子抜け』だと思っていたそれが、次第に胸を締め付けてくる。
『ったく、本当に使えないわ……私の妹は、どうしてどっちも、こんなに不出来でクズなのかしら』
姉に慕われているように話したプリメラと、冷めた目で吐き捨てたアクエリアの言葉がすれ違う。
では兄は? 父は? 母は? どうしてプリメラは王女でありながら、外交のひとつの駒として帝国に送り込まれたのだろう。
『あの方は王族で最後の良心だった。せめて隣国での生活に幸あれと、そう思ったのだ』
ジルドの言葉をもっと真剣に受け止めるべきだった。
この国で、はたしてプリメラは幸せだったのだろうか?
『クレア……これ、プリメラへのフォロー要るか?(小声)』
『いらない。というか必要ない。狙ってやったのだったらとんでもない策士だし、何も考えずにやったのならとんでもないド天然だわ(小声)』
いつだってクレアは、プリメラに『拍子抜け』させられてきた。
これまで一体幾つの、ささやかな違和感の断片を見過ごしてきたのだろう。
『それにしても、先日のあなたを見てしまうと目を疑いますね。お淑やかな立ち振る舞いがここまで自然にできるとは……人を見る目には自信があったんですがね』
『七年間も猫の皮を被ってきましたもの、自然にもなりますわ』
『もはや演技ですらないのでしょうね……自然に言葉と表情が出てきているような印象を受けます。あなたが隣国からの刺客なら、見破れる気がしませんね』
レイロランドにそう答えたのは、他ならぬクレア自身だった。
嘘を吐いているのとは感覚が違う。普通の伯爵令嬢ならばどう答えるかと、もうひとつの自分を捏造っているようなものだ。
『無邪気な笑顔……やっぱり何度見ても、演技には見えねぇんだよなぁ』
そう考えて思考停止していた自分が腹立たしい。
苛立ちに任せて、近くの机にクレアは拳を思いきり叩きつける。
どうしてプリメラが、自分と同じだと考えなかった!?
他の奴ならともかく、自分だけは気づけたはずだったのに!!
「ようやく目が覚めたみたいだね、クレア嬢」
薄暗い空間の中、男の声にクレアは振り返る。
目を覚ましたときクレアがいたのは、部屋と呼ぶにも粗末な、例えるならば物置きのような場所だった。
古びた机と、縄の跡が付いた椅子。あちこちに飛んでいる黒ずんだ染みは血だろうか。ベッドなどと言う上質なものは無く、カビの生えた布団だけが埃をかぶっている。何年も使い古された羽ペンと燭台。数日もいれば気が狂ってしまいそうなこの場所で、クレアは一冊の本を見つけていた。
『わたしが少しでも長く わたしでいられるために』
書き出しにそう綴られた日記帳。
その日のささやかな出来事に紛れて、時折目をそむけたくなるような自暴自棄な言葉が書き殴られたそれには、確かめるように何度も自分の名前が丁寧な文字で記されていた。
プリメラ・リンドオール、と。
日記を握った指に自然と力が籠る。怒りで臓腑が煮えくり返りそうだった。震える唇を噛みしめて、釣り上がる目元を左手で隠して、クレアは大きく息を吐く。
「あら、ラビティオ殿下……ここはどこですか?」
「ここは部屋だよ。第三王女がかつて使っていた部屋だ。信じられるかい? 平民だってもっとマシな場所に住んでいるというのにね」
そう言ったラビティオの声は、どこか苦し気に聞こえた。
「この国は異常だよ。魔力を持たない平民には生きる価値が無い。魔術が使えない貴族は一族の面汚し。そして四大魔術の素養が無ければ王家の恥ときたものだ。プリメラは本当に賢い子でね……思い返せば五歳の頃には、今のような屈託の無い笑顔を振りまいていた。それがどれだけ異常なことか、俺はここ最近まで気付いてやれなかったんだ」
確かにそれは異常だ、そうクレアも感じた。笑顔で波風を荒立てないという技術は、泣くことも、言葉で訴えることも、全て諦めた先にあるものだからだ。僅か五歳の女の子が、その表情をすることが板についているというのは、もはや子育てでも教育でもありはしないのだから。それでも……
「気づかなかったのですか、十五年も同じ城の中で育ったのに」
「兄弟と言えども、玉座を巡って競う相手だ。互いに殺し合った時代もあったとかで、必要以上に顔を合わせたりはしないんだ。廊下ですれ違う以外は、月に一度顔を合わせれば多い方なんだよ。でもね……」
ラビティオがふと、誰もいないはずの所へ小さく手招きをする。
すると、まるで霧でも晴れたかのように、十歳ぐらいの男の子と女の子がそこに現れた。
「その子たちは……」
「『影』と『幻』の魔術適正のある子供達だよ。村で迫害されていたところを、プリメラが保護して秘密裏に匿っていた子達だ。全部で八人いたらしいのだけれど、保護できたのはこの二人だけでね……君をここに連れてくるのは、俺が無理を言って協力してもらったんだ。この子達を責めないであげてほしい」
「保護……ですか」
「ああ。そうしなければ迫害に遭うか、貴族達の良いように使われるかのどちらかだからね。そして俺もプリメラのためにこの子達を利用した。そのことに関しては言い訳はしないよ」
「その子達が納得してるのならば、それは単なる利害の一致ですわ、殿下。それにあなたが彼らにとって都合の悪い存在ならば、既に消されているか逃げられているはずですもの」
「そうだね。せめてそう在れるよう努めることとしよう」
そんな話をしながら、クレアは頭の片隅で、『六人』というどこかで聞いた数字を思い返していた。今思えば、クレアが子供の掏り程度に後れを取ったのも、そういうことなのかもしれないと考える。
「ときにクレア嬢。君にひとつ相談がある」
「はい、何でしょう?」
「やっとだ……やっと見つけたかもしれない幸せなんだ。だから……」
縋るような目で、搾りだすような声でラビティオが言う。
「ヴィンセント殿下を、プリメラに譲ってはくれないだろうか」
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『四大魔術の素養が無いだと……一つも無いのか、王家の血筋だというのに!!』
『はい……プリメラ様の魔力計測で確認できたのは、氷の属性のみです。通常ならば少ないながらも水か風の属性が観測されるものなのですが、それさえも……』
『何たることかっ!! 恥だ……こいつは王家の恥だ!! このことの口外を禁じる! 社交の場にも必要以上には出さん! 今すぐ倉庫にでもブチ込んで来い!! こんな奴にはドレスも部屋も食事も与えてなるものかっ!! こんなクズでも死なれては困るから、残飯でも生ゴミでも適当に与えておけ!!』
楽しみだった大きなケーキを目の前で床に落とされて、大泣きしたのを今でも覚えている。
泣きながらぐちゃぐちゃになったケーキに手を伸ばし、口に運んだとき、舌の上に血の味が広がった。父に暴力を振るわれたのは、それが初めてだった。
四歳の誕生日。
その日、プリメラという少女の日常は、暗い闇へと閉ざされた。
『お父様……お母様っ……』
明かりが蝋燭ひとつしかない蜘蛛の巣だらけの倉庫で、プリメラは必死に扉を叩いた。手が痛くて、指が痛くて、それでも打ち付ける角度を変えて延々ずっと呼び続けた。
今ここから出られなければ、ずっと出られないような恐怖感を幼いながらに感じていたんだろうとプリメラは思い返す。
ようやく扉が開いたと思えば、知らない侍女が二人、椅子を持って入ってきた。腕を縛られ、口に布を噛まされ、下着を脱がされて捲ったスカートごと椅子に身体を縛られた。
扉の閉まる音と共に、再びの暗闇。
もう自分は何処にもいくことはできないのだと、そのとき理解した。
その侍女達は時折現れては、プリメラの口に無理矢理に水と残飯を押し込んでいく。
扉はもうすでに、プリメラにとって出口ではなくなっていた。
泣くと殴られた。嫌な顔をすると殴られた。喋ろうとすると椅子を蹴り倒され、痛がると水と残飯を顔にぶちまけられた。
時間の感覚が無くなって、それでも侍女達がいつも以上に来るのが遅いと感じたことがあった。食事を二回続けて食べそこなったときだ。
次に侍女達が入ってきたとき、前触れも無く椅子を蹴り倒されて野菜の皮や腐った果物が相変わらず床にぶちまけられた。
空腹で意識朦朧としていたプリメラは、働かない頭で必死に野菜の皮と腐った果物を食べた。
美味しいと感じた。
だから、『ありがとう』と言った。
そうしたら追加で残飯をくれた。顔に投げつけられたけど。
そうか。こうすればよかったんだ……
だからプリメラは、その侍女達に笑顔を向けるようになった。そうしたら次第に暴力を奮われることが無くなった。当時はこれが正解だから殴られなくなったのだと思っていたが、今思えばただ気味悪がられていただけなのだろう。
プリメラが大人しくなったと判断されたのか、一人でトイレに行くことが許可された。
自分が閉じ込められて、僅か十日しか経っていなかったことに驚いたが、声に出さないように我慢した。
その後、食事を自分の手で食べることが許可された。下着を返してもらえた。替えの服をもらえた。洗濯することが許された。
時間だけはたくさんあったので、練習していた笑顔を披露した。『ありがとうございます』とお辞儀をすると、王女に頭を下げさせられたことが甚く気に入ったのか、侍女達は部屋を掃除するための濡れ雑巾をくれた。顔に投げつけられたけど。
肩書は王女。けれどプリメラは、自分が『高貴な魔力を持たない王家の恥』で『市民を騙す下種な悪女』だと教えられた。否応なく社交場に出るときのマナーを叩き込まれ、それ以上に笑顔を捏造ることが上手になっていった。
だって、捏造らないと笑えない。
よほどのことが無い限り、心は動かなくなってしまっていたから。
倉庫の中で一人でいるときは、ただひたすらに自分の魔力で小さな氷の結晶を作った。細かくしたり、作ったことの無い形を作ったり、色々な状態に並べ替えてみたり。その時間だけは無心になれたのだが、楽しかったのかと考えると、良く分からない。当時はそんなことを思ってはいなかったからだ。
やがてプリメラは、残飯を持ってくる二人の侍女が、姉のアクエリアの指示で動いていたことを知る。アクエリアがその二人の侍女と共に、瓶で服を洗っているプリメラへ声を掛けてきたからだ。
『ねぇねぇ汚いわね。汚らわしいわね。肥溜めみたいな臭いがするわ。ふふっ……私が洗ってさしあげるから、感謝しなさいな!』
アクエリアの手から勢いよく水が放たれた。
危険を感じ、咄嗟にプリメラも氷の粒子を作って集めたが、それらは一瞬で弾き飛ばされて、プリメラは庭の端まで吹き飛ばされた。
『ほぉら、汚れが飛んでいったわ。やっぱり服じゃなくて、あなたそのものが汚れているのね!! もっとよ、もっと洗って差し上げますわ! 立ちなさい、感謝しなさい、笑いなさい!! あなたはそれが得意でしょ!? 精霊様に選ばれなかったあなたは、それぐらいしかできないんでしょ!?』
悔しさなんて無かった。悲しさなんて無かった。痛くても顔が歪まなくなったのはいつからだろう。とうの昔すぎて忘れてしまった。
だからプリメラ・リンドオールは、馬鹿にされても痛くされても、こうして笑うことができた。それはとても便利なことだ。
『はい、お姉さま。ありがとうございます』
その返事が気に入らなかったのか、表情を歪ませたのはアクエリアの方だった。
そのあと服も身体もボロボロになるまで、水の魔術を散々打ち付けられた。
魔術で何度飛ばされても『ありがとうございます』と笑顔で言い続ける。だってそうしなくてはいけないのだから。
痺れを切らしたアクエリアがプリメラに蹴りを放ち、それを最後にプリメラは立ち上がれなくなった。身体が限界になったのだ。
それでも去っていくアクエリアを見ながら、終わったことを理解しながら、解放されたという安堵の思いさえも湧いてこなかった。
自分は人間として壊れているのではないだろうかと、そのときようやく思い至ったことを、今でも覚えている。
それから先も、アクエリアからの嫌がらせは終わらなかった。
笑顔が上手になるにつれて、プリメラが社交の場へ引っ張り出されることが増えたが、それが気に入らないようで、アクエリアからの悪意は次第に強まっていった。
『あんたには綺麗なドレスも豪華な馬車も不釣り合いなのよ。ねぇ、そう思わないかしら?』
そんな言葉と共に、七歳になったプリメラは自分の誕生パーティへ向かう途中、走行中の馬車から蹴落とされた。
ごんっ!と壁に頭をぶつけたのは、ドレスだけでも守ろうと咄嗟に地面を凍らせたからだ。ついーーーっと滑って、そのまま建物にぶつかるまで止まれなかったのだ。
プリメラが頭を押さえながら辺りを見回すと、そこは荒んで生気の無い街並みが広がっていた。どうやらプリメラは、わざわざ馬車を貧民街へ迂回させた上で、血の繋がった姉に蹴落とされたらしい。
そのために御しやすい御者や従者の根回し、会場へ遅刻しない出発時間の根回し、朝になって突然プリメラの乗る馬車が変更になったことも……あの姉、相当に暇なんじゃないだろうか?
ドレスなんてものを着ていたからだろう、住民たちはそそくさと建物の中へ隠れてしまった。貧民街の者達にとっては貴族や王族と触れ合っても、良いことなど何一つないのだから。
『あんた……大丈夫?』
『あら、心配してくださるのですね。ありがとうございます』
背後から声を掛けられて、反射的に笑顔を作る。
声の主は痩せ細った少女だった。少女が自分と似た目をしていると感じて、しかし自分が貧民街に住む人間のような目をしているのだと気づいた。
『別に。隠れそびれたから、貴族様のご機嫌を取りに来ただけだよ。ほら、汚ぇ手でよければ貸してやる。立てるか?』
『まぁ、ありがとうございます』
『貴族様も大変なんだな。馬車から蹴落とされたりさ』
どうやら最初から見られていたらしい。
『ふふっ、あなたほどではありませんわ』
そう答えたのは、その手に僅かに感じる少女の魔力が、今までに感じたことが無いほど異質だったから。
そして何より、魔力を持っているというのに、貧民街で生活しているという事実。たとえ平民であろうとも、魔力があれば重宝されてそれなりの仕事に就くことができる。幼いとしても、手元に置きたいという商人や職人は後を絶たないだろう。それをわざわざ隠すというのならば、可能性は二つしかなかった。
魔法使いか、呪詛遣い。
この国では生まれたその場で命を絶たれるはずの子供である。
『名乗るのが遅くなっちゃいましたね。わたしはプリメラ。あなたは?』
『ミサよ。ってかさっきの、王家の馬車でしょ? さすがのアタイも王女様の名前ぐらいは知ってるっての。敬意なんか持ち合わせちゃいねぇけどよ』
『んー、まぁそれもそうですわよね』
それからプリメラは街までの行き方をミサに尋ねた。本当は道順を教えてくれればよかったのだが、ミサは街の入口までプリメラについてきてくれた。
『ミサ。わたし、うっかり首飾りを落としてしまいましたの』
そう言いながらプリメラは、まだ自分の首に掛かっていたネックレスを外すと、ミサの手に乗せる。
『これはもう、拾ったあなたのもの。どうしようとミサの自由です。身なりを整えて、お仕事を探すのも悪くはないんじゃないかしら?』
『は? いや、あんた何言ってんの?』
『ふふっ。わたし、たぶん感謝しているんです。どうせお城に戻ったら返さなくちゃいけないものだから、だったらあなたに拾われた方が何倍もいいかなって思っちゃったんです』
『なるほどね……じゃぁおまけで教えてやる。馬車乗り場はこの門を入って少し進んだ広場だ。舞踏会に行くんだろ?』
『ええ。社交の場は苦手ですけど、お姉様の顔が見たいんです。わたしが綺麗なドレスのまま会場に入ったら、どんな顔をするのかなと思いまして』
『ハッ……良い性格してんじゃねぇか、あんた』
『ありがとうございます……褒められたんですよね?』
このとき、どうしてあんなことを言ったのだろうと、疑問に思った。
プリメラは壊れていて、何も感じないはずなのに、と。
舞踏会の会場入りをしたプリメラに、案の定、アクエリアは露骨に嫌そうな顔をした。
それにプリメラが笑顔で応えると、一層アクエリアの表情は悔し気なものになる。
『手が滑っちゃったわ……でも、ねぇねぇ、お似合いじゃない?』
プリメラのドレスにわざとワインをかけて笑ってきた。いつものことだ。
『アクエリアお姉さまこそ、ドレスは大丈夫ですか?』
プリメラは姉を心配するような態度をとった。いつものことだ。
けれど社交の場だからか、アクエリアは『ふんっ!』と顔を背けて、そしてプリメラに背を向けた。
それだけ? そう感じた。
だからプリメラは、使用人達が『替えのドレスを』と言ってくれているのを振り切り、アクエリアに追いついて、そして小声で言った。
『偶然の振りをするなんて、意外と小心者なんですね』と。
『プリメラのくせに!! あんた生意気なのよっ!!』
頭に血を上らせたアクエリアが、プリメラの頭にパスタの大皿を叩きつけた。
トマトソースで髪が真っ赤に染まり、割れた陶器の破片が飛び散った。
『アクエリア様、おやめください!!』
『あぁ!? ねぇねぇアンタ、たかが使用人の分際で、誰にモノ言ってんのよ!?』
それにはさすがに……と、周囲の貴族達も引いていた。
ほんの少しだけプリメラは、このとき自分の心が動いたのを感じた。
だからといって、プリメラのとる行動は変わらない。
ただ少しだけ、自分の行動の結果を想像して、ほんの数秒後の未来を待ち遠しく感じた。
プリメラはパスタを乗せたままの頭を小さく下げると、貴族達に言った。
『皆様、お気になさらないでください。いつものことですから』
『いつもの……』
『……こと?』
普段は高慢な姉が、周囲の反応に表情を青ざめていた。それをプリメラがまじまじと見てしまったのは、単に珍しかっただけではなかったように思う。
それからプリメラは、『そろそろ時間ですので』と壇上に登る。
この日はプリメラの誕生パーティだった。だからプリメラは練習したとおりに堂々と、パスタを頭に乗せたままスピーチを行った。
やがて、『国王や王妃はどうしてアクエリア様を止めないんだ』『どうしてプリメラ様を着替えさせないんだ』と、小声が囁かれ始めた。
国王グレゴリオは一度プリメラを睨んだのち、『着替えて髪も洗ってきなさい』と言った。
『でも、いつもなら、わたしに着せるドレスなど無いって……ん?』
今日の主役であるはずのプリメラは、衛兵達に両腕を掴まれて、ダンスホールの外まで引きずられていったのだった。
そして誕生パーティの三日後。
アクエリアの手先である意地悪侍女達が来る頃。しかし扉を開けると、代わりに意外な人物が得意げな顔で立っていた。
『よぅ。あんたの言った通り、就職することにした。今日からアタイがあんたのメイドだ。よろしくな!』
『えっと、よろしくおねがいします……えっ?』
『呆けた面してんじゃねぇよ。アクエリア第一王女様が妹を貧民街に捨て去ったことを拡散すって脅してやりゃぁ、衣食住全部支給のナイスな職場に見事採用ってぇわけよ。ついでに性格悪そうな侍女二人もクビにしてやったけど……よかったか?』
『はい……問題無いです』
『だよな! ところで侍女て何すりゃいいんだ? あととりあえず、言葉遣いとかも色々教えてくれよ。「です」とか「ます」とか、貧民街育ちじゃ使ったこと無ぇんだわ』
『………………』
どうやらミサは、就職するからにはきちんと仕事をしようとしているようだった。
意外と素直な人なのかもしれないと、プリメラは思った。
こうしてミサが来てからは、プリメラの城内での活動の幅は広がっていった。
少ないながらもドレスを調達できるようになり、視察には馬車を借りることもできるようになった。
国中の村々を回って肥料や資金を援助したり、忌子(魔法や呪術の素質を持った子供)が生まれたら秘密裏に保護することを伝えて回ったり、迫害されている異端魔術の素養のある子供を保護して回ったのも、この頃からだった。
ミサのお陰で、アクエリアからの嫌がらせも格段に少なくなった。
部屋は相変わらず倉庫のままだったけれど、少しだけ物は増えた。
『貧民街育ちにこの狭さは慣れたものですが、プリメラ様はこの部屋は窮屈ではないのですか?』
『わたしにとっても慣れたものです。それよりも……ふふっ、ミサこそお城の中は窮屈そうね。敬語を使うときは相変わらず眉間に皺が寄っているわ。もう二年も経つのに』
『毎日食べ物にありつけるというだけで天国ですよ。わたしが普通の人間の生活を送れるなんて、以前は思ってもみなかったです』
『うーん。貧民街生活から王宮侍女って、むしろ普通の生活をすっとばしている気もするんだけど』
ミサとも軽口を叩き合えるぐらいにはなった。ミサの働きはとても勤勉で、プリメラ付きにも関わらず、侍女達からの信頼も厚いらしかった。『プリメラ様にはもったいない』なんて噂を何度小耳に挟んだことか。それでもミサが『プリメラ様がいい』と言ってくれたときは、死ぬほど本気で嬉しかった。
誰からも見捨てられた自分を、それでもミサは選んでくれた。
だから何としてもミサだけは絶対に守ると、そう心に決めた。
けれど、それがこんなに早く来るとは思ってもみなかったのだ。
『十歳の誕生日、おめでとう。出来損ないのプリメラ……ふふっ』
十歳の誕生パーティで告げられたのは、城内の人間達が五年間隠してきたプリメラの秘密だった。
『王位継承権第五位? 国王の娘? ねぇねぇ、四大魔術の素養も無い癖に、その肩書は身に余るんじゃないかしら。
五年間も国中を騙した最悪の女……もう十分調子に乗ったでしょう? ちやほやされたでしょう? だけどそれは、あんたじゃなくてちゃんとした王女様に与えられるものなのよ。
ほら、私の言葉が嘘だというのなら、火でも水でも風でも土でも構わないわ。ねぇねぇ、早く王族として相応しい魔術を使ってみなさいよ。できるものならね!!』
『――――――っ!!』
アクエリアの言葉に、プリメラは会場から逃げ出した。
必死に廊下を駆け、馬車へと走った。間に合え……間に合えと心の中で祈りながら、自分が誰よりも守りたいと願った少女の元へ。
『あら、プリメラ様。どうされたのですか?』
平静を装いながら、目の奥には真剣な光を灯して、ミサが聞いた。
もう自分の隣は安全ではなくなった。
そしてミサは――魔法使いは、この国で存在を知られれば殺されるのだ。
だから……
『ミサ、今すぐ逃げて!! どこでもいいから、この国の外へ!!』
驚くミサに、プリメラは必死で言葉を叫ぶ。ミサも戸惑っていたし、プリメラの傍に残ると言ってくれたが、それも言葉でねじ伏せた。
何を言ったのかなんてはっきりとは覚えていない。感謝してもし足りない彼女に、心にもない酷い言葉もぶつけたように思う。
それでもミサは最後に、
『では約束です。いつかまた会いましょう』
『ええ。お互い生きて、必ず!』
そうプリメラと言葉を交わすと、馬に跨って走り去っていった。
プリメラもまた大急ぎで城まで戻ると、自由にできる金と金品を全て掻き集め、保護していた八人の子供達へと渡した。
全てを伝え、魔法や呪詛、希少魔術を使えることを隠し、自分がもう守れなくなったことを告げた。
いつかこんな日が来るとは思っていた。だからリサからは路地裏で生きるコツを、プリメラからは読み書きと計算を教えていた。
けれどそれらは生きる助けになっても、まともに生きていける確証にはならなかった。
きっとこれからはまた、惨めな日々が続く――その確証があった。
ミサと出会う二年前に戻るだけだと自分に言い聞かせたが、それはミサと過ごした自分ではないと思い直した。
『……日記帳』
露店で見かけたそれを買い、プリメラは王城へ戻った。
順番なんてどうでもいい。この楽しかった二年間を思い出して、少しずつ書いていこう。だってもう、日記に書きたいような楽しい日々は終わったのだから。
そう考えて、だから最初のページにこう綴った。
『わたしが少しでも長く わたしでいられるために』
いつかミサと再会する日まで、このプリメラ・リンドオールでいられるように。
それから四年半。以前にも増して、憚られることなくプリメラは虐げられた。
誰もプリメラの味方はしなかった。そう国王から命令が下されたからだ。
暴力的で残酷と噂される国王と、溺愛されている長男ブレイズと長女アクエリア。使用人達が彼らの言葉を蔑ろにできないのは当然だった。
痛い身体で、楽しい思い出を綴った。
『ほら、笑顔の作り方だってちゃんと思い出せるわ』
心の限界が来たら、汚い言葉を吐き出してページを埋め尽くした。
『ほら。辛くても、笑顔の作り方だってちゃんと思い出せるわよ』
次第に楽しかった頃の気持ちを思い出せなくなっていった。
けれどこの日記帳があれば、自分がどうやって話して、どんな反応をしていたかをしっかりと思い出すことができた。
『ほら。何も感じなくても、笑顔の作り方だってちゃんと思い出せるわよ』
プリメラ・リンドオールは、こうやって笑っていた。
プリメラ・リンドオールは、こういう話し方だった。
だけど知っている。
この、胸にぽっかりと穴が空いたような気持ちを、寂しいというのだと。
プリメラが何をしても笑うようになると、『壊れてしまったようね』『気味が悪い』などと言われるようになり、次第にプリメラへの興味も薄れていったようだった。
食事を忘れられることもあったが、夜間に足を忍ばせれば場内を歩き回ることもできた。城内を歩くたびにミサとの日々を思い出しては、日記にまた少しずつ追記していった。
情報収集のために軍議室の部屋の前で聞き耳を立てても、気づかれることは無かった。あの部屋を発見したのも、そんな徘徊の一環でのことだった。
そして唐突に、隣の国への留学が決まった。
三年前に戦争をした、ロシュヴァーン帝国。和平のための人身御供のつもりらしいが、ここより酷い場所などあるものかと思った。
けれどそれでも、王城で会った少年に温かく迎えられたことは意外だった。
「初めまして、プリメラ王女殿下。第一皇子のヴィンセントです」
「ご丁寧にありがとうございます。プリメラ・リンドオールと申します」
「長旅お疲れのことでしょう。部屋を用意していますので、こちらへどうぞ」
皇子自らが案内してくれて、王城の廊下を歩いた。ヴィンセントはプリメラに気さくに話しかけてくれた。
プリメラが王城で過ごすうち、作り物の笑顔の下の、ぽっかり空いたところに、次第に少しずつ温かいものが湧いてきているのを感じた。
ヴィンセントはプリメラといると楽しいと言ってくれた。
時には悩みも打ち明けてくれて、プリメラも彼の力になりたいと思った。
学園が始まって、ヴィンセントの婚約者のクレアという少女に会った。素敵な人だと素直にそう感じた。
けれど最も驚いたのは、そのクレアの元で、ミサが侍女をしていたということだった。まさかこんなに早く再会できるとは思ってもみなかったから、思わず声を漏らしそうになったのを覚えている。
その日の深夜に、早速ミサに会いに行こうと思っていたら、夕方に『休みを貰うことができたので』とミサの方から王城に忍び込んできた。
四年半分の積もる話を聞いて、四年半分の辛かった思いを聞いてもらった。
そしてクレアの話を聞いた。
クレアはミサの魔法のことも知っていて、『見破られて白状したら、味方になってくれた』だそうだ。
『完璧令嬢の皮を被った腹黒で、オフの日は女子力ゼロ』らしく、それ以上に『心に芯を持った、信頼できる人物』と言っていた。よほど心を許しているのだろう。
近いうちにリンドオールからの襲撃があると情報を得ていたので、警戒心を持ってもらうために、ミサと結託して一芝居打った。分かりやすく多重条件魔術式を使ったのも、魔術国家を警戒するよう促すためだ。
けれどそのとき、プリメラは初めてミサの魔法を目の当たりにした。
発動後は動けなくなると聞いてはいたが、あんなにミサが苦しむことになるとは知らなかったからだ。
『あ、あの……やっぱりクレアさんですよね?』
居ても立ってもいられなくなって、プリメラはクレアに声を掛けた。
『プリメラ・リンドオール……』
『その……あの馬車、アメストリア家の物ですよね。従者の方が怪我をされているのではないですか? よろしければわたしの馬車で……』
『……白々しい』
甲高い音と共に、プリメラの手が払われた。
クレアが本気でミサのために怒っているということが分かった。
咄嗟に顔を伏せた。ミサをこれほど大切に思ってくれたことが嬉しくて、それが顔に出てしまいそうだったから。
そういえば、表情を作らないで笑ったのは、いつ以来だったっけ……
だからプリメラは、クレアが死んだと報じられたとき、本気で悲しんだ。
クレアが生きていると知ったときは、本気で嬉しかった。
そしてクレアを襲ったのが自分の祖国だと知っているプリメラは今、意を決してここに来ていた。
「改めてご挨拶を。プリメラ・リンドオールと申します。突然の訪問にもかかわらず応対いただき、ありがとうございます」
帝国には英雄がいる。
ゼレニア・アメストリア――七年前の戦争の立役者であり、クレアの父である。
アポも無くアメストリア家の門を叩いたプリメラを、ゼレニアは丁重に迎え入れる。
応接間へ通され、プリメラが上品に礼をすれば、ゼレニアもまた真っすぐにプリメラへと頭を下げた。
「しかしてプリメラ殿下。護衛もつけずにいらっしゃるとは、お忍びのご様子とお見受けしました。要件を伺ってもよろしいですか?」
プリメラは頷くと、一枚の手紙をゼレニアへと差し出す。
「三年前の、我が国リンドオールとの停戦協定について、少し調べたら疑問が浮かびまして……帝国側が圧倒的有利だったのにもかかわらず、帝国から対等な条件での停戦協定を持ち掛けたと。ゼレニア様はおかしいと感じたことはありませんか?」
「もちろんあります。それとこの手紙に関係あると」
「ええ」
プリメラは頷くと、そして帝国では王家と一部の使用人しか知られていないはずの内容を口にする。
「皇后陛下と皇女殿下が、リンドオールに攫われて、人質となっているのです」
「なっ――――――!?」
「皇帝陛下はその件で脅迫され、停戦を受け入れざるを得なかったのだと思います。手紙には二人の軟禁場所と、クレアさんにお二人を救い出してほしいという旨が書いてあります。こちらをクレアさんに届けることはできないでしょうか?」
「ええ……何としてでも届けます!」
ゼレニアが強く頷くと、「それは頼もしいです」とプリメラは微笑む。
プリメラが礼を言って席を立つと、しかしゼレニアは僅かに考えたのち、プリメラを引き留めて言う。
「皇后陛下と王女殿下が救出されれば、再びこの国はリンドオールと戦争になります。プリメラ様はそれでも構わないのですか?」
ふんわりとした雰囲気。優しい笑顔。にっこりと微笑んだその口で、プリメラは茶目っ気の混ざったどこか幼さの残る口調で答えた。
「ええ、もちろん。わたし、あの国が大っ嫌いですから」
第三王女プリメラちゃんのお話でした。
せっかくの(裏)なので、プリメラに対する読者皆様の印象が変わってくれれば大成功です。
次回(令和3年元日分)から、一気に反撃開始です!
では皆さん、良いお年を!!






