1.婚約破棄(表)
楽しんでいただけたら幸いです。よろしくお願いします。
「あなたとの婚約は破棄させていただく!」
セントアンジュマリア学園の廊下に声が響いたのは、日差しが次第に暑さを増してきた六月のある日のことだった。
四限の授業を終え、多くの生徒が食堂へと足を向ける中、アメストリア領伯爵令嬢のクレアの姿もその中にあった。
品行方正。眉目秀麗。礼節正しく、身分を鼻に掛けることもしない。それがクレアの学園内での評判だった。ちなみに『眉目秀麗』とは男性に使われることの多い言葉だがその通りで、背は女性としては平均より僅かに高く、凛とした顔立ちであることから、一部の女生徒からも憧れを抱かれるほどである。
生徒達の作る人の流れからクレアを引きずり出したのは、彼女の婚約者だった。
ヴィンセント・ロシュヴァーン第一皇子。
藍銅鉱のような澄んだ青い瞳に綺麗な金の髪をした、学園屈指の美青年である。
家の格に差こそあるものの、皇帝も親族もお似合いだと囃し立て、二人が卒業する時を待っている。そこに一切の過言がないほど、両家の期待を背負っている。
そのはずだった。
「そんなっ……」
しかし、突然の婚約破棄。
それも学園の生徒達が大勢行き交う前で宣言され、さすがのクレアの顔にも困惑の色が見て取れた。
「ヴィンセント様。どうしてそんなことをおっしゃるんですか?」
クレアの声は、今にも泣きだしそうなほどに震えていた。気が付けば周囲の生徒達は足を止め、しかし誰もクレアを助けようとはしない。
クレアが何かを言おうとして、しかし言葉にならずに唇だけが僅かに動く。
それでも縺れる足で、縋るようにヴィンセントの袖に手を伸ばし……
「は、放せっ!!」
拒絶の言葉と共に、ヴィンセントがその腕を引く。
それと同時にガタンという大きな音。クレアが足を縺れさせて壁に身体をぶつけ、そのまま床に倒れたのだ。
周囲からの冷ややかな視線。それは伯爵令嬢として相応しくない姿で床に蹲っているクレアよりも、その原因を作ったヴィンセントの方へと向けられていた。
「済まない、さすがに今のは……」
「ひぃっ!」
ヴィンセントは基本的には誠実な男だ。彼はクレアに手を差し伸べる。
しかしそれは、クレアをただ怯えさせただけのようだった。頭を腕で守るようにして、クレアは後ずさる。
凛としていた普段のクレアの姿は、もうどこにもなかった。
それでもここで引き下がっては、クレア個人に留まらず、アメストリア家にも迷惑が掛かる。壁に手を這わせて立ち上がると、クレアは目の端に涙をためながら言った。
「あの、その……わたし、ヴィンセント様に嫌われるようなことをしましたでしょうか?」
ヴィンセントの表情が途端に険しいものに変わる。
「身に覚えがないというのか?」
「あの……仰ってる意味が……」
そのとき、一人の少女がヴィンセントの袖を掴む。
ふんわりとしたブロンドヘアに、翡翠色の優し気な瞳をした小柄な少女の名は、プリメラ・リンドオール。隣国であるリンドオール王国の第三王女であり、春からセントアンジュマリア学園に編入してきた留学生である。
学園内でも人気の生徒で、交友関係も広ければ、自然と取り巻きのように振る舞う女生徒も出てくる始末だった。
「ヴィンセント様。あの……もうそれぐらいで……」
ヴィンセントはプリメラの頭を撫でると、再びクレアを睨む。
「クレア。君がこのプリメラに酷いことをしているのは知っている。彼女の教科書を破ったことも、校舎裏で彼女を恫喝したことも、『学園には男を漁りに来た』なんて噂を流したことも、全部君の仕業なんだろう? ひどい人だよ、君は」
「そんなこと、ない……」
「君はもっと聡明だと思っていた。残念だよ」
「………………」
クレアは言い返すことができなかった。
膝を床に落とし、肩を震わせて苦しそうに声を漏らした。
その細い指で顔を覆って蹲るクレアに、声を掛ける人はいなかった。
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本日中に投稿しますので、ぜひ(裏)も読んでください!
以降は明日より午後5時頃に投稿予定です。