薫という青年は優しくなれない自分が怖かった
「んじゃ、よろしゅー」
「はいはい」
柊薫は、マンションのお隣さんである奥さんの家で諸々雑用のアルバイトをしている。掃除洗濯などから、小学生の娘さんたちのお迎えや勉強の手伝いとか色々である。薫は気楽にやっていた。普段やっていることの、少し面倒になっただけの生活の一部だと考えることにしている。認知症の老人と格闘戦をするよりはずっと楽だ。我儘なお子様も、猫だと思えば怒りもしない。
ベビーベッドには、まだまだ喋ることはできないが最近歩き出す予兆を見せる女の子が寝ている。薫の腹に頭突きをしながら抉りこむようにうずくまるのが好きな危険なベイビーだ。いっときはお漏らしでオシメを汚すばかりするから再利用できる布のオシメをしていたが、最近は少し落ち着いてきた。なんとオマルでウンチすることを覚えたのだ。思わず感動してしまった。よく泣く泣き虫だが、やんちゃで元気の育っている。
薫は自分の娘でもないのに、寝顔を見て顔がほころんでいた。彼女の成長を一緒に見守ることは、悪いこともたくさんある。だがそれでも、トータルでは、とても幸福なことだと胸を張って言えた。一番に嬉しいのは、たぶん薫のことだろう、最初の言葉に「ガオー」と呼ばれたことだろう。この子供、月子の母である登美は絶望した顔を作って、薫をぽかぽか叩く騒動があった。
ベビーシッター、ということになるのだろうか?薫はなにも月子の世話だけでなく、登美の世話を見ることが多い。振り込みや住民票を代わりに手続きするし、掃除や食事の用意も数多い。登美曰く「すっごい信頼できるから」らしいが、薫は内心不安でいっぱいだ。
ただ、ちょっぴりひとりは寂しい。
「どうしたんだい、薫?」
“月子”が言った。
「ちょっとね、寂しいなぁ、てね」
「私がいるじゃない」
「ごめんね、そうだったね」
もし、結婚した相手の連れ子だったなら、虐待していたのだろうか?薫は月子の愛らしい、ちょっとだけお猿みたいな顔を見つめた。まだ幼過ぎて、男か女かもはっきりしない顔だ。だが自分から喜んで虐待したい、とは違った。自分の子ではないのに自分の子として育てようと察してしまったら、この気持ちも変わってしまうのだろうか?薫は怖くなった。自分の子でないと感じたとき、人間は残酷へと豹変してしまうのかという恐怖だ。可愛らしい。だがこれが憎悪を燃やす燃料になる変化の瞬間の存在。
薫にとってーー堪らなく恐ろしかった。
怖い。心がだ。簡単に変わってしまうのなら、何が自分自身だと断言できるのだろうか?あるいはそんなものは存在しなくて、薫と思い込んだ何かがいるだけなのか。薫は強い孤独を感じた。決して晴れることのない孤独だ。それは薫の心へと深く浸透した。
怖い。どうしようもなく。だが決してこの孤独を共有することはできない。「……」小さな命が、まだ始まったばかりのそれが、愛おしいと思う反面、憎らしいとも感じてしまう。誰からも、少なくとも今はまだ無価値であるはずなのに多くの人から望まれていられるコレが、どうしようもなく憎かった。
薫は……そうではなかった。
あるいは、本当に小さな頃は違ったのかも知れない。だが、望んだものになれないのは、実の子でも失望する、それだけのことだった。だからせめて、そんなことを感じていない今は、この他人の子に無条件の愛を。
薫は何もわからない幼児の寝顔から目を逸らし、仕事に戻った。勿論、この幼児のことを気にかけ続けて。