69 叔父の助言
「ソビエト連邦 日本自治州」
この世界に存在する日本は、我々が知るところの近代史とは全く違う分岐点を経て、2020年に至っている。
平行多次元世界においては、小さな揺らぎが大きなうねりとなって、次々に新しい世界を生み出している。
その揺らぎとは、人々のちょっとした思考変化であったり、些細な思い付きが具現化したりと……願望や強い意志による無数のif (イフ・もしも)がバタフライ効果となって世界軸・時間軸に揺らぎを発生させ、泡状の平行多次元世界に新たな世界を誕生させるのだ。
このソビエト連邦 日本自治州も、第二次世界大戦前までは、我々の住む世界と同じ歴史を辿っていた。
しかし、破られるはずであった独ソ不可侵条約が遵守され、ナチスドイツがソビエト侵攻を行わなかった事で、揺らぎは分岐に昇華して、新たな世界軸を誕生させたのである。
分岐したその世界においての大日本帝国は、我々が知る歴史教科書の内容とは全く違う末路を辿る事となる。
第二次世界大戦末期、アメリカ軍が沖縄に上陸したのちに広島と長崎に原爆が投下され、日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏に至ったのが我々の知る歴史だが、この世界では本土決戦が行われたのだ。
アメリカ軍の沖縄占領後も日本は抵抗を続け、とうとう西日本方面から上陸したアメリカ軍と、樺太・北海道に上陸したソ連軍に対して、残された日本人は悲惨な闘いを繰り広げた。
爆弾を積み込んだ漁船や釣り船は、敵の艦船に向かって海上特攻を仕掛けては海に果て、竹槍を持った婦人会の奥様方や子供たちは機銃掃射に倒れて行った。
やがて広島と長崎に続き、大阪と名古屋に原子爆弾が投下され、北東からソ連軍、南西から連合軍に挟まれた政府は、松代大本営で敗北を宣言したのである。
つまり日本列島はアメリカ率いる連合軍と、ソ連軍に分断して占領され、そのまま分断統治が始まったのだ。
東日本はソビエト連邦 日本自治州として、そして西日本は日本共和国として戦後の歴史を刻み続けたのだが、今現在、日本共和国はその名称を歴史の教科書でしか見る事が出来なくなっている。
何故ならば、リバティ・ギアを率いたソ連軍の大攻勢により、日本共和国は滅亡したのだから。
日本列島は、自治州と言う名ばかりの権利を与えられつつ、実質的にソビエト連邦の領土と化したのだ。
その日本自治州の州都、つまり実質的な首都である釜石市に、日本自治州の極東艦隊総司令部がある。
駅舎のように横に長い三階建ての豪華な建築物のその一角で、昼食時間直前の空腹をコーヒーで誤魔化す壮年の男性がいた。
廊下の壁に『自治州艦隊 参謀部長』と掲げられたその部屋。
戦後積み重ねて来た共産主義体制により、逼迫した経済事情で豪華とはいかないものの、古びた執務机と来客用の応接セット一式が据えられた、落ち着きのあるその部屋で、男性は執務机から離れて、コーヒーカップを片手に窓の外を見詰めている。
物思いに耽っているのか、それとも窓から見える景色を楽しんでいるのかは本人だけが知るところ。案外、今日の昼食は何にしようかと思案しているのかも知れないが、そんな静寂をノックの音が台無しにしてしまう。ーー誰かが訪問して来たのだ
「誰か? 」
見事な白髪を短髪にまとめたその男性は、扉の外に立っているであろう人物に問いただす。
すると、外から聞こえて来たのは女性の声。聞き間違える事の無い、親近感を覚える声ではないか。
(同志川端艦隊参謀長殿、九条が参りました)
「おお、沙苗か。入りなさい」
扉の向こうから川端艦隊参謀長と呼ばれた男性は、誰が訪問して来たのか気付いた段階で、あっという間に厳つい表情が緩む。
そして執務室に入って来た九条沙苗が凛々しく敬礼すると、久しぶりじゃないかと笑顔で返礼しながら、彼女をソファに座らせる。
「昼メシ前だから、ウォッカと言う訳にも行かないな。コーヒーを入れよう」
川端はコーヒーサーバーを手に、淹れ立てのコーヒーをカップに注いで九条に出してやる。
「同志参謀長殿、ご無沙汰しております」
「よせやい、二人の時ぐらい堅苦しいのは無しだぜ」
「ふふ、ではあらためて“叔父さま”、ご無沙汰しております」
「まさか沙苗が来てるとは思わなかったよ、元気でやってるかい? 」
社交辞令の言葉が行き交うも、それらはよそよそしい言葉ではなく、近しい者たちが重ねる会話。
方や艦隊に随行する参謀部の責任者、そしてもう一方は巡空艦の艦長であるのだが、高級将校同士の面談とは思えないこの二人。
実は、九条沙苗は川端少将の姪っ子なのだ。
「兄貴は元気でやってるか? 」「秋田の冬は寒いだろ? 」「新潟の軍港は快適かい? 」と、ひとしきり沙苗の身の回りに気を遣い、やがて川端は本題を切り出した。
「今日はあれかい? どうせ赤軍総監部にでも呼び出されたんだろ? 」
川端が赤軍総監部の名を口にしながら、露骨に嫌な顔をするのには理由がある。
赤軍総監部とはつまり、自治州軍に対して「ソビエト本国」の意向を押し付ける上部組織。各部隊にいちいち口を挟んで来る政治将校のようなものであり、実働部隊の兵士たちに好かれる訳が無いのだ。
その辺については九条も散々煮え湯を飲まされて来たのか、叔父の表情に迎合するように苦々しい顔を作る。
「七月の佐渡ヶ島沖侵攻作戦についてグチグチ言われました。敵船二隻撃沈は戦果として扱われないと」
「なんだそりゃあ! あさまの立派な武勲じゃないか、何を考えてるんだ赤軍は」
「どうやら、本国はあの作戦行動自体を無かった事にしたいようですね。そう言う空気が伝わって来ました」
ソ連軍側が闇に葬りたいとする作戦とは、契約前で地中深くに眠っていたスフィダンテの回収と、佐渡ヶ島沖にあるレアアース採掘基地の占領作戦。
自治州軍側から参加した巡空艦あさまは、現地海軍の艦艇二隻を撃沈させると言う華々しい戦果を得たが、ソ連軍本体のウラジオストク艦隊は戦果がゼロでリバティ・ギア・アレスタイプも撃破されると言う惨憺たる結果に終わっている。
本来、独裁国家や共産主義国家など恐怖政治を行っている国は、敗北の事実を隠すために、擬似的な英雄を輩出させて世間の目を誤魔化す傾向にある。
この件に関して言えば、唯一敵軍に損害を与えた現地自治州軍の英雄として、巡空艦あさまが称賛を受けてもおかしくないのだが、あさまの戦果すらも隠蔽する動きがあるらしいと、九条は感じていたのである。
「沙苗、君の耳に届いているかは知らんが、君の遠征後にもう一度作戦が行われているんだ。それが原因かも知れないな」
「私の……あさま出撃の後に、別の作戦が発動したと? 」
「あくまでも噂だがな。だがこっぴどくやられたらしい」
ざまあみやがれと不敵な表情を浮かべつつ、人差し指を立てて口に充てる川端。
幼い頃からずっと自分を可愛がってくれて来た叔父の愛嬌溢れる仕草に、九条はクスクスと笑った。
「二隻撃沈が正当に評価されるなら、沙苗は今頃自治州軍初の女性将官になっていたんだが」
「私はあさまが気に入っております。出来る事なら、このまま船乗りで一生を終えたいのですが……」
「何を言ってんだい。沙苗は女性初の将官どころか、女性初の艦隊総司令官になる器だと思ってるんだがね」
「叔父さま、買いかぶり過ぎですよ。私は与えられた軍務をこなすのみ。生涯最前線の軍人でありたいと思っています」
もったいねえなあと、川端が口を尖らせていると、ちょうど正午を知らせるラッパが鳴り響いた。
「おっ、昼だ! 沙苗、メシ行くぞメシ! 」
コロコロと表情を変える川端を前に、この愛すべき叔父は変わってないなと、微笑んでうなづく。
「ここの士官食堂はな、油麩丼が美味くてな。沙苗も一度試してみなさい」
両者は立ち上がり、執務室から廊下へ出ようとする。
そのまま廊下へ出て士官食堂へ向かうのだが、その際に川端少将は驚くべき内容を九条沙苗に耳打ちした。
参謀長の執務室には盗聴器があるからとでも言いたげな、廊下を移動しながらの何気ない一言。
(沙苗、身辺に気を付けろ。最近赤軍情報部の動きがおかしくてな、お前の名前がたびたび出てるらしいんだ)
地下でうねる政治的陰謀の渦が、九条沙苗に迫っていたのである。




