68 日本自治州 州都釜石市
岩手県釜石市
リアス式海岸で太平洋を望む東北地方の中核都市。
三陸漁場と呼ばれる豊富な漁業資源に富みながら、日本における近代製鉄発祥の地となった、歴史ある都市である。
スフィダンテの契約者である犀潟智也の世界では、第二次世界大戦後は製鉄業が飛躍的に発展して現代に至る、東北の雄と呼んでも過言ではない都市の一つなのだが、今……目の前に見える景色はいささか違った。
確かに都市部の海岸線に沿って製鉄工場やコンビナートなどの近代工業施設がズラリ並ぶのだが、何か生気が感じられない。
日本を代表する製鉄会社がフル稼動しているような、活気に満ちあふれる光景ではなく、何処と無く古臭くて味気無い世界が広がっているのだ。
更に言えば、釜石市の高台から海を見下ろすと、巨大な港湾施設が確認出来るのだが、そこには軍艦らしき船がズラリと係留されていたのである。
【ソビエト社会主義共和国連邦 日本自治州 州都釜石市】
今目の前に見える世界は、我々の知る釜石市ではない。第二次世界大戦後にソビエト連邦に占領された、分断国家“日本”の今の姿。
戦後、国際社会の舞台に復帰する事が出来ずに、共産主義経済圏において極東の防波堤となった日本が存在していたのだ。
そしてこの釜石市は、ソビエト連邦 日本自治州の州都。西日本にかつて存在した日本共和国を併合した後も、日本列島の中枢として機能していた。
色とりどりに街を飾る、企業の広告看板が一切存在しない街。
鉄筋コンクリートのビルや木造の長屋、一件一件の家屋すらも前時代的な雰囲気を醸し出す古ぼけた街並みの中、中心街を通り抜ける一台の車がある。
まるで旧東ドイツで生産されていた共産圏の代表車……ボール紙で作られたと嘲笑された『トラバント』のような車が、後部座席に女性の軍人を乗せて一路港湾に向かって駆けている。
味気無い街を抜け、港湾にある巨大な軍施設にたどり着いたその車は、駅舎のように横に広い建物の前で停車した。敷地の中で一番大きな建築物の前でだ。
『ソビエト社会主義共和国連邦 日本自治州 極東艦隊総司令部』
建物の入り口脇には長々とした名称の看板が据え付けられているこの施設は、日本自治州軍における海軍兵力の総本山。海上戦力と巡空艦戦力の運用を一手に引き受ける中枢である。
「ご苦労、宿舎には電車で帰るから」
前時代的なフォルムの「新車」から降りた女性将校は、運転手役の兵士をねぎらいながらドアを閉めて艦隊総司令部の入り口に向かう。
季節は十二月に入りいよいよ本格的な冬が始まったのだが、今日は朝から陽射しに恵まれたのか幾分穏やか。コートの襟を立てなくても、首筋が凍てつく事は無い。
その女性将校が艦隊司令部の入り口に差し掛かると、直立不動の衛兵二人は有無も言わずに敬礼する。
衛兵たちが敬礼をビシリとキメる理由は簡単、彼女のコートの襟に高級将校を意味する「大佐」の襟章が飾られているからだ。
更に言えば、大佐の襟章を付けたうら若き女性が艦隊総司令部へ出入りするとなれば、衛兵どころか海軍兵士一人一人が思い当たる人物は、たった一人しかいないのである。
ーー日本自治州軍が有する二隻の巡空艦、その内の一隻で歴戦の勇者と言われる巡空艦『あさま』の現艦長は、自治州軍初の女性高級将校。それもとびきり美しい美女であるーー
自治州海軍内で囁かれるこの話は、末端の兵士でも知らぬ者がいないほど。
やがて囁かれる話にはどんどんと根拠のない話が取って付いて、やれ人妻だのバツイチだの将軍の愛人だのと……たった一人しかいないはずなのに話は膨らみ、様々な人物像が語られるようになっていた。
だが、そんな噂など何のその。渦中の彼女は噂に一喜一憂する事無く、毅然とした態度で日々の軍務を果たし、自分の理想とする「軍人としての在り方」を全うしていたのである。
“円熟味を増してもなお気高く、険しく、それでいて目を逸らす事の出来ない美しい人”
兵士たちからそう評される彼女が、艦隊総司令部に入って行く。
衛兵たちの緊張に包まれた敬礼に対し、凛とした態度で返礼する注目の女性将校。
彼女の名前は九条 沙苗、言わずと知れた巡空艦『あさま』の艦長で三十六歳独身。
本日は日本自治州軍の艦隊総司令部を監督する上部組織、ソビエト連邦側の監視組織である『赤軍総監部』から呼び出しを受けて、出頭したのであった。




