第六話 過去の夢
チリンチリン
「こんばんは」
テーブルを拭いていると、ドアに付いていた鈴が鳴る。
レストランに入ってきたのは、俺と同い年くらいの少女。
「あの、店の人はいるかな」
「……どちら様? 悪いけど、もう閉店の時間だ。みんな帰っちゃったし」
「えっと、ひょっとしてお手伝い?」
「バイトだ。とにかく、飯なら別の日にしてくれ」
俺は皿を片付けながら、少女を追い払おうとする。
しかし、彼女は引き下がらなかった。
「そこをなんとか。二倍の代金でどう?」
「だから、もう片付けを始めたんだ。店に残ってるのも俺だけだし」
「そう……無理言ってごめんね」
少女は残念そうな顔で引き返す。
よく見たら髪がブロンドで、高そうなドレスを着ていた。
もし大企業の令嬢だったりしたら、レストランの評判が落ちるかもしれない。
このままだと後味が悪いし、俺は少女の腕を掴んだ。
「きゃっ! な、何?」
「俺が作るよ。さ、座って」
「う、うん」
綺麗なテーブルを探し、てきぱきと整える。
俺が引いた椅子に、少女はおずおずと座った。
「ドリンクは?」
「えっと、コーヒーで」
「背伸びしなくてもいいと思うけど」
「し、してないよ! ブラックコーヒーください!」
俺は厨房に行き、オレンジジュースをグラスに入れて運んでくる。
ついでに制服のポケットからマッチを取り出し、ろうそくに火を灯す。
「あれ? その、コーヒーは……」
「メインディッシュは俺が適当に作る。この時間だし、フルコースとかは勘弁してくれ」
「え? あ、うん」
戸惑う少女をよそに、俺は急いで料理を始めた。
なるべく早く作れるのがいいだろう。
鍋で米を炊き、その間に食材を集める。
醤油、サーモン、マグロ、イクラ、シソ、キュウリ、ネギ。こんなところかな。
丁寧にアレンジし、少女の席まで運んだ。
「ほら、召し上がれ」
「えっと……どんぶり?」
「海鮮丼だ。君、見たところお嬢様みたいだし、こういうのは初めてなんじゃないか?」
「ありがと……いただきます」
俺は向かいの席に座り、少女をじっと見つめる。
無理をしているような、疲れた表情だ。
「ど、どうして座るの?」
「別にいいだろ、他に客もいないし」
「恥ずかしいよ……」
「料理の感想も聞きたいしな」
年は離れてなさそうだし、遠慮する必要はないだろう。
少女はフォークとナイフで刺身を切り分け、サーモンをご飯とともに口に含む。
彼女が咀嚼する様子を、俺は緊張した面持ちで見守った。
実は海鮮丼、作るの初めてだったからな。
「これ、美味しいね」
「……それはよかった」
本心からの言葉だとは思うが、あまり美味しそうに食べてないな。
無表情の俺が言うのもなんだが、なんだか表情に元気がない。
「あのさ、君。何か悩んでるのか?」
’「えっ? ……あ、ごめんね。暗かった?」
彼女は箸を止め、悲しそうに笑う。図星か。
「話くらいなら聞いてもいいが」
「えっと、不愉快な気分にさせるかもしれないよ?」
「いいよ。俺、感情とか鈍いし」
俺も目の前の少女みたいに、落ち込んだり苦しんだりしたい。
叔父さんが亡くなってから、無感情に磨きがかかってしまった。
「私は名家の生まれで、何事にも完璧が求められるの。できて当然で、できなかったら怒られる。痛いのが嫌で、ずっと頑張ってきた。でも、何の見返りもなくて、心が折れそうで……」
「…………」
黙って話を聞く。お嬢様といえば苦労知らずなイメージがあったが、逆のパターンか。
俺もなまじ顔がいいせいで、よく失望されたっけ。
「私は羨ましいの! 成功したら褒められて、失敗したら慰められる。そんなみんなが……羨ましいんだ」
「羨ましいか。そうか、羨ましいか」
「あ、ご、ごめんなさい……」
バツの悪そうな顔をしながら、海鮮丼に目を移す少女。
どう取り繕っても、やっぱり普通の女の子だ。
「気にするな。見返りがないのに続けてきた君は、素直にすごいと思う。親に理想を押し付けられて、下手に成功するほど理想は高くなっていく。必死に頑張ったのに、それが当たり前になったら辛いよな」
「へ……」
「人間、誰もが天才ってわけじゃない。どれだけ練習しても、いつかは壁に当たる。それでもな、練習しないよりは百倍マシなんだ。絶対自分のためになる。だから、その、なんだ……頑張れよ。応援してるから」
「…………」
なんだか偉そうなことを言ってしまった。
俺だって、ほとんど何もしてないくせに。
「自分を信じろ。他人が憎くなっても、逆に他人から妬まれても、続けることに意味がある。文句を言わせないほどの才能を身につけろ。傲慢になれないほど自分を鍛え抜いて、誰にも嫉妬させないほど圧倒的な実力を示せ。それこそ恵まれた才と環境を持つ強者の義務だ」
「圧倒……」
「清い心でそれを続ければ、人に尊敬されるような人間になる。せめて親離れするまでの数年間、頑張って見ればいいさ。きっとその先には、すごい景色が見えるはずから」
「尊敬される……?」
なぜだろうか。いつになく饒舌だな、俺。
人のことなんてどうでもいいはずなのに、なぜかこの子だけは放っておけない気がする。
「人生の価値、その指標の一つとして『生涯でいかに世界を変えられたか、世界に貢献できたか』というものがある。何も残さずに死ぬくらいなら、せめて人間らしく足掻くんだ。医者になって命を救ったり、芸人になって人々を楽しませたり、ブログや本でも書いて誰かの心を変えたり。なんだっていい、世界に良い影響を与えるための努力をすることこそに人生の意味がある。学校も稽古も、そのための地盤なんだ」
「ぁ……」
「もし一人になっても、俺だけは君の味方でいてやるよ。成功した暁には、今の君みたいに悩んでいる人に手を差し伸べてやれ。人間は心持ちだけで大きく変わる、生きる芸術そのものなんだ。だから……」
しまった、語りすぎたか。半分くらい叔父さんの受け売りだし。
変な人だって思われたらどうしよう。
ガタッ!
「私、頑張る!」
「お……? お、おう」
少女は決意したように立ち上がり、すすり泣きしながら走って店を出て行く。
ふわりと舞う金髪に気を取られていると、後で食い逃げされたことに気づいた。
(あ……どんぶりも持って行かれた。仕方ない、お代は俺が肩代わりしておこう)
せっかく鳥のように飛び立った少女を、止める気にはなれないしな。
はばたけ、小さな若人よ、空高く。咲け、華奢な蕾よ、幅広く。
俺も凡人なりに、見えないところから見守ってやるからさ。
後片付けを済ませ、鍵を閉めてオーナーの家に帰る。
らしくないことをした気がするが、叔父さんなら笑って褒めてくれただろう。
「ふふ……」
叔父さんとあの少女のことを思い出すと、俺は不思議なことに笑っていた。
これが笑うということなのか。なんとも心地いい。
難攻不落のポーカーフェイスが崩れた、数少ない瞬間だった。