2-3
部屋の中は静寂に包まれていた。時折、外のほうから鳥の囀りが聞こえる。落ち着いた雰囲気をかもし出す室内に、変に強張っていた身体の力がいい感じに抜けてくる。
「ふう……。ほんと、すごいなぁ」
余裕が出てきたのか、シドはまだ誰も来ないようだったので、改めて部屋の中を見回す。
調度品はどれも妙味のある品々ばかり。シドには一生縁のない代物だ。
ふと、シドが座ったソファの正面にあった暖炉の上、オーバーマントルに目がいった。そこには東国から輸入された一対の白磁の花瓶があった。花瓶はまるで、貴婦人が腰に両の手を当てているような姿で滑らかな曲線美を表現しており、大輪の花で構想された唐草模様が花瓶に華やかさを与えていた。
その女性的な印象を受ける一対の花瓶の中央に、でんと幅をきかせるように置かれていたのは、大人の拳ほどの大きさの硝子の置物だった。
シドはその硝子の置物を見たとき、美しいがどこか無骨な印象を受けるものだと思った。
フェリス国では硝子は貴重品に入る。庶民の家で見る硝子といえば窓ガラスくらいだ。だから、シドは硝子で出来た置物を客が来る部屋にぽんと置いてあることが信じられなかった。
「………はあ…」
あまりの贅沢に開いた口がふさがらなくなる。
硝子の置物は翡翠の形をしていた。鋭く細長い嘴、羽根や頭部は翠色。背中には一本のアクアマリン色の線が引かれている。濁りもなく、気泡も殆ど見られない。
あまりに見事な細工にシドは暫し見とれてしまった。
「待たせたね……」
「……はっ!」
ぼうっと翡翠を見ていたら、扉が開いた。シドは慌てて立ち上がる。
入ってきたのは壮年の男性だった。
男性はシドを一瞥し、右手を部屋のソファのほうへ差し出して、穏やかな声をかけた。
「ああ、かまわないよ、座って楽にしてくれ」
「あ、はい」
シドは言われるままにもう一度座った。男性もシドと顔を合わせて一人がけのソファに腰を下ろす。
失礼にならない程度に上目使いで、ちらとシドは男性を盗み見た。
壮年の男性は白いシャツに濃紺のモーニングコートを着用していた。すらっとした体型だが、モーニングの上からでも判るくらい筋肉がついている。髪の色は赤茶色。髪の長さは、首が隠れる程度の長さで、整えられている。口元には笑みを浮かべ柔和そうな表情をしているが、ヴァリアスにそっくりの少し濃い目のアイスブルーの瞳の奥でシドを見定めているかのように眼力に迫力があった。
「はじめまして。私は、オーリス・ウルフィズ。ヴァリアスの父で、ウルフィズ家の現当主だ。……君が、息子の屋敷で働いてくれるんだね」
穏やかな声色だが、凄みがある。人を従わせてしまう声、とでもいえばいいのだろうか。
シドは当主の声を聞いただけで、心臓が跳ね上がった気がした。
「は、はい。えっと、ここに斡旋所からの手紙が……」
ソファに座ったまま、少し腰を浮かし、慌てて懐を探るが、手は空を掴むだけ。右のズボンのポケットにも、左のポケットにも入っていない。
どこに手紙が行ったのか、と焦ったシドの頭にポンと映像が浮かんだ。
「あ! ……ヴァリアス様に渡したままだった……」
「うん? 息子の屋敷のほうに先に行ったのかい?」
シドの呟きにもにた小声に、オーリスは小首を傾げて聞いてきた。
「は、はい。斡旋所の方からはヴァリアス様の屋敷へ行くようにと言われていたので、ここに来る前に行きました」
斡旋所の紹介状を持ってくるのを忘れてしまったことに、シドは顔面蒼白になりながらもオーリスの質問に答える。
その姿はまるで肉食獣に見つかって震えている栗鼠のようだ。オーリスはそんな印象を脳裏に浮かべてしまい、苦笑した。
「……そうかい、気にしなくていいよ。君は、シド・シシリー君で間違いはないかね」
「え? は、はい。そうです。」
「そうか。いや、実は、君の紹介状はすでに貰っていてね」
「紹介状を?」
職業斡旋所からの紹介状は働きたい人間についての簡単な人物評価が書かれている。それを働く側の人間が斡旋所から預かり、雇い主の元へ持っていき、簡単な面接のようなものを行って仕事を任せるかどうかを決める。普通、その紹介状は一通だけのはずで、労働を求めている者が知らない内に雇い主のほうへ渡るようなことはない。
一体どういうことだろうか、とシドが怪訝な表情になってしまうのも無理のないことだ。
「ああ、カーネリアン斡旋所の所長に直接人選を頼んだのは私でね。君が了承をしてくれたその日のうちに紹介状を同封した手紙をくれてね。君なら間違いないと太鼓判を押してくれたよ」
オーリスはまるで長年の難問が解決したときのような穏やかな笑みを浮かべた。
「は、はあ」
なぜ伯爵はバーフィアに直接頼んだんだろう、とか紹介状を送っていたんなら俺がもっていく必要はなかったんじゃないだろうか、などと疑問に思ったがシドは何も言えず、曖昧な返事を返すにとどめた。
「息子に会ったんだね。どうだったかな?」
「……え? えっとヴァリアス様ですか? その……」
見事な引きこもりですね。なんていえるはずもなく、シドは軽く俯いて、しどろもどろになりつつ、なんと言おうか頭を回転させた。
「お、落ち着いている方だと思いました……」
「……確かに、昔から落ち着いている子だね。むしろ、感情をあまり動かさない子だったかな」
シドの答えに、オーリスは口元に弧を描くが、どこか苦味が加味されているように見えた。
「?」
内心首をかしげた。シドの想像する貴族は感情をあまり見せず、優雅に笑っているような印象を持っていたからだ。ヴァリアスは笑うことはなかったが、落ち着いた貴族に見えた。なのに、侯爵はそのことをなぜか嫌そうに思っている風に感じられたのだ。
疑問に思いはしたが、一平民、ましてや雇い主に聞き返すことではないと思い、シドは沈黙を守ることにした。
「……そうそう。バーフィア所長に聞いたが、君は『不幸少年』と言われているそうだね」
「……へ?」
言葉が数秒頭の中に染み込んでこなかった。
「あ、え? そ、その……」
(それは言ったらだめだろうーが。不幸ファンクラブ一号め!)
今まで不幸が原因で仕事をことごとくクビになってきたのに、最初から言ってしまうのは艱難辛苦を味わえといっているのか。あの自称乙女の不幸ファン。
「仕事のたびに、何かしらのアクシデントが起こってしまうと聞いたが、違うのかい?」
「……いえ。……そう、です」
(だめだ。クビ決定。絶対、働かせてくれないよ。僕だったら、こんな変わった不幸を背負った人間を雇ったりなんて……)
「なら大丈夫だね」
「そうダメ……え?」
シドはオーリスの言葉が刹那信じられなかった。目を瞬かせ、雇い主の顔を直視する。
雇い主たるオーリスはどういうわけだか、愁眉を開き口元に穏やかな笑みを浮かべていた。
「確認するけど、息子の所にいた時、君はなにか危険なこととかは起こったかい?」
軽く首を傾げて聞いてくるオーリスに、シドは視線を天井に向け記憶をたどる。
「いえ。少しの間だけ屋敷の方にいましたが、特に何も起こりませんでした」
「すばらしい。ぜひ、息子のことをよろしく頼むよ」
オーリスは本気で採用するようだ。そのことが判り、シドは段々と胸の内から歓喜が沸いてきた。自分の不幸な現象をしってなお、雇ってくれる場所があったなんて信じられない。
シドは居住まいを正し頭を下げた。
「出来る限りのことをしたいと思います。こちらこそ、よろしくお願いします!」
「ああ。期待しているよ」
シドの決意に、オーリスは軽く頷いて言葉を返した。
(さっきは悪口を言ってごめんな、自称乙女所長!)
今度あったら、ぜひお礼を言わなければ、と脳内にメモをしつつ、シドは採用された喜びに笑みを浮かべたが、ふと気になったことを聞いた。
「……ところで、仕事内容は屋敷の掃除と伺っているのですが……」
「うん? そうだったね。……元々、息子の屋敷が荒れ放題だったから、外観だけでも綺麗にしてもらいたかったんだが……」
「あの、失礼かもしれませんが、掃除だけなら斡旋所を通さなくても人を見つけられたのでは?」
「ああ、この屋敷の者を派遣すればいい問題、と思ったのかな?」
「はい。違うんですか?」
「そうだね。本来なら屋敷の者を息子の別邸に送ればいい話かもしれないが、行ってくれる人間がいなくてね。……まあ、仕方がない、と言えばそれまでなんだが……」
苦い物でも食べてしまったような表情でオーリスはため息をついた。
シドには、オーリスのため息の理由がいまいち理解できなかった。
「……ああ、そうだ。仕事の内容だったね。……そうだね、期間は一年間で、屋敷の掃除と息子の世話を出来る限りでいいからしてくれないかな? 勿論、その分の給金は弾むよ」
オーリスの提案にシドはすばやく脳内で給金の活用方法を算段する。当然といってしまえばそれまでだが、シドの選択肢に断るという文言は存在しなかった。
「はい、やります」
一も二も無く、大きく頷いて了承した。
「よろしく頼むよ。別邸での必要なことなどは、執事のアランに聞いておくれ」
そう言うと、オーリスは胸のポケットから小さな鈴を取り出した。鈴は、硝子のように透明で鐘形で中の玉はうっすらと発光した乳白色。もち手の部分のは棒状で、その周りを金の装飾が施されている。気品が感じられる一品だ。
オーリスが鈴を軽く揺らす。すると、リーン、リーンと余韻が残るが儚げな音色が二度響いた。その音は、耳心地が良く、シドはうっとりとした気持ちで聞き入ってしまった。
一体何故鳴らしたのだろうか、と音の余韻に浸りながら内心首をかしげていると、扉がノックされた。
「ああ、入ってくれ」
オーリスが答えると、先ほどシドをこの応接間に案内した男性が一礼して入ってきた。
「お呼びですか、旦那様」
「ああ。一年契約で彼を採用することに決めたよ。ついては、別邸についての注意事項などを彼に教えてやってくれ」
鈴を胸ポケットに戻し、オーリスは立ち上がる。それに釣られるように、シドも腰を半分浮かした。
「畏まりました」
執事は主人の言葉に一礼して答え、身体を横にずらし、左手で扉を押さえた。
「すまないね、シド君。この後予定が入っていてね。採用通知の書類は帰りに渡すから。後の詳しいことは彼が話すよ。……息子を頼んだよ」
「は、はい」
シドの頷きながらの返事に微笑を返し、オーリスは執事が押さえている扉から出て行った。