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17-2

南の三番停船所は商業地区といわれている西地区に程近く、殆どの下船した乗客はフェリス国の王城の背後に聳え立つクガン山に背を向けて西地区に向かって歩いていく。

 シドは背を向けて去っていく乗客たちを一瞥した後、遥か遠くのクガン山の頂を望み、城の先端に掲げられ、風に靡いている剣と獅子の意匠を施されたフェリス国の国旗に視線を移し目を細めた。


 クガン山の若葉のような黄緑色を背景に、森の深い緑に囲まれている白亜の城は太陽の日差しを浴びて煌めいている。

 その美しさに、フェリス国民のみならず、国を訪れた者たちも感嘆のため息を零す。国民なら誰でも自慢に思う景色を前に、シドもまた、ため息を零した。


 どんなに悩んでいても、城の美しさを見れば悩みは吹っ飛ぶと言われているほどの景色はフェリス国の重みと優雅さをもって、ただ静かに佇んでいる。

 これから訪れるウィルフズ家の当主に何を言われるかは解らないために散々不安と迷いを感じていたシドの心は城の景色を眺めていくと自然と落ち着いていくような気がした。


 暫く眺めていたシドはいつまでも突っ立っていられないことを思い出し、瞬き一つして動き出すことにした。

「さて……たどり着けるかなぁ……?」

 前回来たときはリエッタの複雑な説明を受けて何とかたどり着いたが、あれからもう何日も経っている。ウィルフズ家までたどり着く目印など殆どうろ覚えだ。どうして、貴族街は高い塀の壁に、表札がないのだろう。いや、防犯のためだと言うのは解るが、初めて来る人に優しくなさ過ぎる。

 シドはリエッタに教えてもらった貴族街に点在しているはずの目印を記憶の底から引っ張り出し、辺りを見回しながら慎重に歩き始めた。


 同じような所を三回くらいぐるぐる回り、仕舞いには目的の場所ではない門に二回もついてしまい、門衛の人に睨まれてしまった。三度目通ったらとっ捕まえると目が雄弁に語っていて、とても怖かった。

 何とか見覚えのある目印を見つけ、ウィルフズ家にたどり着いたシドは安堵のため息と共に空を見上げると、太陽が真上に差し掛かろうとしていた。


「……どれだけ迷ったんだろう、僕」

 あまりの貴族街の迷宮ぶりに内心ドン引きして、半ば呆然と呟いたシドに前方から声が掛かった。

「うん? 何のようだ……、ってお前さん、若様んところの」 

「え? あ、はい。ヴァリアス様のところで働かせて頂いてます。シド・シシリーです。……えーっと御当主様に会いに着たんですが……」

「ああ聞いているよ。……まさか、本当に続けるなんてなぁ」

前回会った時はどこかピリッとした雰囲気でシドを見ていたはずなのに、今日の守衛の男はうんうんと何度も頷いて向ける視線はまるで孫のがんばりを喜んでいるような気配だ。しかも、道に迷わなかったかと優しく聞いてきた。


「は、はぁ」

 あまりの対応にシドがおっかなびっくり、目を瞬かせて頷いて答えると、守衛は口の端を持ち上げるように渋く笑い、門を開けた。

「さ、どうぞ」

「あ、はい。ありがとうございます」

 軽く頭を下げて門を通り、数歩歩いたあと立ち止まり、シドは後ろを振り返った。丁度、守衛がゆっくりと門を閉じ、閂をかけていた。


 守衛は門が閉じられたことを確認すると、シドの方へ体ごと向き直り、視線を合わせた。

「玄関に着いたら、執事のアラン様に取り次ぐように言えばいいぞ」

「解りました」

 守衛の言葉に頷いて返し、もう一度頭を下げてから、シドは玄関に向かって歩く。屋敷の玄関に着いてノッカーを叩くと直ぐに扉が開いた。中から出てきた執事はシドを確認すると直ぐに目元を緩ませた。

「はい、どちら様で……おや、シシリー君」

「あ、こんにちは。あの、ヴァリアス様の屋敷で継続して働くための書類を持ってきたんですが……」

「おお。そうですか、そうですか。……ところで怪我の具合はどうですかな?」

「は、はい。おかげさまでもう大丈夫です。ちょっと痕が残っていますが痛みとかはもうありません」

 問題がないことを知ってもらおうと、シドは前髪を掻き揚げ、怪我のあったところを見せる。

執事は薄くなった傷跡を見て、ほっと胸を撫で下ろす様に息を吐いた。


「それは、良かった。……ああ。私めとしたことが、さ、入ってください」

 執事は自分の体を半身ずらし、扉を手で押さえて入室を促す。その一連の動作は滑らかで、洗練されているため違和感が一切なかった。

「あ、お邪魔します。……あ!」

 促されるように、屋敷に足を踏み入れたシドは、ふと怪我をしたあの日に荷を運びいれに来たマークに言われた言葉を思い出した。

「どうかしましたかな?」

 声を上げて、立ち止まったシドに執事は不思議そうに聞いてきた。


 嫌味な感じに言われた言葉は記憶から呼び出されても不快な気分を感じさせ、それでも言っていることは正しいと思うので腹立たしさも感じてしまう。どんな表情をすれば良いのかわからなくなったシドは硬くなった顔を執事に向けた。

「あ……その。すみません。えっと、使用人は裏門から入らないといけないんでした、よね」

「はて? 若様にでもそう言われましたかな?」

「いえ。その、マークさんに教えていただきました……」

 段々と視線を下に落とし、声の張りも落として話すシドに何かを感じた執事は、苦笑を浮かべ、シドに優しく言った。

「ええ。確かに、使用人が表玄関から入るのはあまりよろしくはありませんね。使用人足るもの、屋敷の影のようであれと教えるところもあるそうですからね」

 執事の言葉に、シドは口惜しいような、恥ずかしいような気持ちになり、ますます俯いてしまう。自分が使用人として雇われたというのに、基本的なことを殆ど知らない。そのことに気がついてしまった。


 すっかり俯いてしまったシドに、執事はなおも柔らかい口調で言葉を続ける。

「適材適所、臨機応変ですよ」

「え?」

 執事の言葉の真意がわからず。きょとんとした表情でシドは顔を上げる。すると、執事は茶目っ気ある顔でぱちんとウィンクをした。

「知らなかったことを恥じるのではなく、知った後何もしないことを恥じなさい。と私めも新人の頃に先達に教えてもらいましてね。シド君はちゃんと仕事をしていますよ。そもそも、まだ良く解っていないシド君に何も教えず気づけというほうが酷です。必要なことは少しずつ教えていますとも」

「……」

 執事のアランの言葉にシドは心持ち落ち着きを取り戻した。


「ともあれ、若様の屋敷は荒れ放題。裏口に行くのも大変なのは重々承知。ましてや裏門なぞ私めもどこにあるのかわからない状態です。自分でも解らないところから入れなどと誰が教えられましょう」

「アランさん……」

 自分はまだまだだ。そのことが解っただけでも、成長しているのだろうか。

 シドは執事のフォローに感謝し、頷きを返した。

「その……がんばります」

 他に何か言うことがあったのは頭で解っていたのに、そんな簡単な言葉しか言えなかった。


「ええ。若者はまだこれから、始まったばかりですからね。解らないことや疑問があれば気兼ねなく聞いてくださいね」

「………はい」

 優しく微笑み、幼子に言い聞かせるように穏やかな言葉をくれたアランに、羞恥か嬉しさか良く解らないけれど、かあっと熱くなるものがシドの頬から身体に流れ、まともに顔が見れず俯きながら返事を返した。

「あ、そ、そうだ。その書類を持ってきたんですが……」

 執事の孫を見るような暖かい眼差しに耐え切れなくなったシドは手に持っていた書類を顔の前に持ってきて、無理やり話題を変えた。


 執事は有能さを発揮し、間髪いれずにシドの話題転換に乗ってきた。

「おや。そうでしたな。怪我に関しての労務災害と契約書の変更でしたな」

「そ、そうなんですか。……その、どういう書類かは良く聞いてなかったんですが……」

「だめですよ。自分の雇用条件なのですから、ちゃんと確認しないと。カーネリアン斡旋所で説明はしているはずだとおもいましたが……」

 片眉を跳ね上げ、斡旋所の不手際かと疑念を隠しきれない執事の表情にシドは慌てて言いつくろった。これでもカーネリアン斡旋所には世話になっている恩がある。

「その、手続きに必要な書類とは聞いているんですか……なんていうか、斡旋所の独特の雰囲気には長居をすることが出来ない魔法が掛かっているというか、下手に質問するとこちらの寿命が吸い取られるような気がすような、しないような……」

 恩義を感じて、執事が抱いた悪い印象を払拭しようとしたはずなのに、言えば言うほど、なんだか可笑しな事を口走っていた。


(あれ? 変だな『恐怖』と『生命力吸収』の魔法が掛かっているような魔窟の説明になってないか?)


 仕舞には、自分で言って、自分で首を傾げてしまうほどだ。

 二人の間に暫しの無言の静かな風が吹いたのはどちらもカーネリアン斡旋所がどんな場所かを理解しているからだろう。

「……おほん。では、書類を預かります。実を言いますと今日は旦那様がご不在で、書類は預かって置くように言われています。後日、カーネリアン斡旋所より、更新した契約書が届けられるかと存じます。バーフィア所長はその辺については信頼できる御仁ですから。ええ、その辺に関しては、ですが」

 執事は、妙に念入りに、その辺は、を強調して強引に話を終わらせてしまった。シドも執事ほどではないが空気は読めるので、無言で頷いて了承を返して話を終わらせることに同意した。 下手につつくと藪から蛇ではなく、カラフルな斡旋所からバーフィアが出て来かねない。


 全力で回避できることは回避する。それが『不幸』にあわない第一歩だ。自衛は大事だろう。シドはそのまま、すっと執事に書類を手渡した。

「では、よろしくお願いします」

「はい。確かにお預かりします。そうそう。ついでに、新しい服の支給と若様の屋敷に必要なものなどがありましたら教えてください」

「え、でも」

「遠慮は無用ですよ。初めの時に言いましたが、服が汚れた場合は支給します。別邸であっても、ウィルフズ家で働く使用人足るもの身だしなみには気をつけて下さい。……とりあえず、五着ぐらい用意しますか?」

 有無を言わさない口調で言われ、シドは頷こうとしたが、最後の台詞ではっと止まった。支給された服はどれも手触りが良く高いものだというのが判る。そんな高いものを仕事着だからと五着も用意されたら平民の心臓に悪い。


「そんなに良いですよ!」

「ですが、汚れた場合の着替えは多いほうがよろしいでしょう。……ああ、五着といわず十着くらいのほうが良いですか?」

 にっこりといい笑顔で言われ、シドはぶんぶんと首を横に振った。

「そ、そんなにいりません。五着でお願いします……………あれ?」

 首を横に振るたびに自分の長い髪が尻尾のように揺れて、自身の腕辺りを叩いていたのも気にならずに慌てて否定したが、言った後に自分の言動に気がついた。

「では、用意しておいた五着を持っていってくださいな」

 ほっほっほと好々爺のように笑う執事に、シドは口元を引きつらせた。


(用意しておいたって、初めから五着渡すつもりだったのか。というか、なんだろう、あの笑みは朗らかな感じなのに背中がぞわっとしたような?)


 執事のほうが何枚も上手だったことを見せ付けられて、ぐうの音も出ない。

「では、服は使用人用のホールの方でお渡ししますので、ついて来て頂けますかな」

「……は、はい」

 シドは埒が明かないそうな問題だと、そうそうに考えを放棄するとにした。

 執事はシドの返事を聞いてから踵を返し、歩いていく。シドはその後に続こうと歩み始めようとすると、カツンと上の方から硬質もの同士がぶつかって立てるような高音で乾いた音が響く。その音に吸い込まれるようにシドは顔を向けて、ぎょっと驚いて呼吸を止めた。二階の廊下へと続く手すりに黒い人影がいたのだ。


「これは、奥様」

 そばにいた執事は二階のほうに向かい、優雅に一礼した。その言葉と動作で、シドは二階の人物が誰だかわかり、慌てて執事に真似て頭を下げた。

「ほう、また来たのか田舎者」

 黒のヴェールに顔を隠した奥方は、靴音を立てずに階段を一歩ずつゆっくりと下り、シド達に近づいてきた。

 カツンッと最後に一度だけ足を鳴らし、奥方は立ち止まった。一拍の後に、シドの内側にずんと響くような声がかけられた。

「面を上げよ」

 凛とし奥方の声は女性らしい甘く耳に心地よい声であるはずなのに、まるで歴戦の戦士のように意思の強い重さを伴った声で、戦士でもない人間には逆らう気持ちが微塵も思い浮かばないほど硬質だった。


 当然、一掃除係りの使用人のシドは反抗する気もなく、ちらりと同じように頭を下げていた執事の方を横目で見る。執事が顔を上げるのを視界に入れると同時にシドもまたそれに習って、顔を上げた。

「奥様、一言言っていただければこちらから参ります」

 執事は女主人に二階から足を運ばせたのに、己の不甲斐無さを滲ませて、苦言のような小言を言う。すると、奥方は手に持っていた扇で口元を隠し、硬質な一言から一変し、鈴を転がすような愛らしい微笑を零した。


 寸分機嫌のよい笑みを聴かせた奥方は、ヴェールで隠れた目元をすっと細める感じを与え、艶やかな唇を隠していた扇をビシリッとシドの目前に持って来た。その鋭い扇の軌道にシドは反射的に肩を跳ねさせ、半歩身を後ろに引いて驚いた。

「よい。我はこの田舎者にちいっとばかりようがあるのじゃ」

「僕に、ですか?」

「そうじゃ。簡潔に聞こう。田舎者よ、我が子に近づく目的を述べよ」

「え?」

 突然の質問にシドは目を丸くする。


 奥方は、シドに突きつけていた扇を自分の口元にゆっくりと戻し、軽く小首を傾げた。

「シシリー夫妻が今行方不明だということは聞き知っておる。そのために、田舎者が家のために稼ごうとしておることもな。傍から見れば家族思いのよい子じゃ。……そんな田舎者がなにゆえ不吉と呼ばれる者の元へ行く。妾は解せぬ。仕事なら他にもあるであろう」

 ぞくっと背中が震えた。

 夢心地に陥りそうなほど、優しげに目元を細め、扇で見えない口元には、蠱惑的な笑みが浮かべられているであろうと推測できるほど、美しい顔をシドに見せているはずなのに。

「そ、それは……」

 シドは奥方から発せられる、威圧に言葉が詰まった。これが、貴族という上に立つものの気迫なのだろうか。ただの一般人、それに大人にもなりきれて居ないシドは、直ぐにでも逃げたい衝動に駆られたが、奥方の言葉が妙に引っかかった。


 奥方は確かに言った。ヴァリアスを我が子と。そして、その我が子に近づく目的を聞いてきている。それは、判った。一見、シドの安否を案じているように聞こえるが、我が子とヴァリアスを呼ぶ奥方からは彼への心配が言外に多分に含まれているのを肌で感じた。

 シドは、何を言うか束の間迷う。そして、同時に安堵も感じた。

 ああ、この人はヴァリアスを見捨てては居ない。あの人は一人じゃないんだ、と。

だからこそ、真摯に向き合わなければならないと、まだ、自分でもしっかりと一つになっていない、けれども芯の部分はいつの間にか出来てしまっていた気持ちを吐露しようとする。


 シドはごくりと喉を鳴らし、そろそろと言葉を口に出した。

「……僕は、近所では『不幸少年』と呼ばれて、本当に、可笑しな不幸にあってます。その不幸の所為で誰かが傷つくのは嫌だし、不幸に会わなければって思います。でも、不幸は消えないし、原因もわからない……」

 シドは一旦言葉をとめて、視線を左右に揺らし、自分の言いたい言葉を捜す。


 そんな彼の姿に、奥方は訝しげにまゆを寄せて、苛立ちを表すように扇の中骨を一間、パチッと音を立てて折った。

「なんじゃ? 自分の不幸を嘆きたいのか? 同情でもしてもらいたいのかえ?」

「いえ。そうではなくて。……なんて、言えばいいんでしょうか。僕は……」

 シドはそれ以上の言葉が見つからず、一旦口を閉ざしてしまった。


 弟妹たちには同情か、はたまた、別の何かか、と言ってはいたものの、正直今日まで自分がヴァリアスに対して抱いている感情がよく判らなかった。でも、もやもやとしていた心中はゆっくりと形になっていき、今にも零れそうになりそうなのに、喉につっかかっている。


言葉に出来ず、ぐっと喉を鳴らして押し黙ってしまったシドに、奥方は優美な動作で扇を口元から下ろし、薄ら笑いを浮かべたが、その瞳の奥は仄暗く、シドに対して見切りをつけたと暗に言っている表情だった。

 その表情を見た瞬間。シドはかっと頬が熱くなるのを感じた。そう、この感情は同情じゃない。見下すような、悲哀を含ませたような同情とは違う。


(だって、この感情はもっと暖かい……)


 今までずっと渦巻いていた感情が一つにまとまったような気がした時、まるで天啓が下りてきたかのように、シドの胸中に熱いものが満たされた。

 シドはカッと目を見開き、拳を握り締めて声高に叫ぶように言葉を発した。

「そうっ! 仲間意識です! 彼と僕とでは不幸と不吉と起こることは違うけど、誰かが自分の所為できづつくという恐怖は一緒。だから、僕は彼の、ヴァリアス様の傍に居たいと思ったんです。だって、ヴァリアス様は僕の不幸が起こっても平然としていてくれたんですよ? 普通、驚くでしょう? 引くでしょう? そんなことがないんですよ! 家族以外で普通に接してくれた人は貴重なんです。ヴァリアス様はあの屋敷で一人なんです。仲間はほうって置けないじゃないですか」

「……………は?」

「………ほ?……」

 ぽかんと貴族の女性にあるまじき表情で奥方は固まり、空気のように影を薄くしていた執事は、思わずといったふうに声を漏らした。


 はあ、はあ、と全力疾走したような荒い息遣いが、玄関のホールに木霊する。束の間、誰も声を発せず、興奮したシドの息が一定の間隔で三者の耳に入るだけだった。

「…………あっ……」

 貴族様の屋敷の玄関ホールで熱く語っていたことに、今更ながら気がついた。はっと正気に戻ったが、もう遅い。言ってしまった言葉は取り消すことは出来ず、玄関ホールにうわんとのこる余韻が耳に残っているようだ。


 段々とこみ上げてくる羞恥心に、シドは頬を熟れた果実のように紅く染めていく。次には未熟な果実よりも青く顔の血の気が引いていった。


(あ、あれ? 僕、今、なにを言った?)


 貴族に対して、仲間意識だの、まるで自分と同じような扱いなど、本来なら絶対に不敬に当たる考えだ。シドは、そんな言ってはならないことを、声に上げてしまった。そのことに気がついてしまった。

「あ、う……そ、その……」

 不敬として罰せられても文句は言えない。そんなつもりじゃなかった、なんて台詞では納得してはもらえないとは解っていても、シドは先ほどの発言を補うような言葉はないかと混乱した頭で考えようとするが、何も浮かばず、ぐるぐるとした思考に流されてしまう。奥方も執事も何も言ってこないのが、またシドの恐怖心に拍車をかけた。


「………………はっ……」

鼻で笑うような息遣いが奥方から漏れた。その様子にシドはびくりと肩を震わせる。

「す、すみま……」

「……ふっ………あーははははっ!」

「……へぁ?」

 謝ろうとシドが頭を下げる途中で奥方が頤を解く。ホール中に響き渡る女性特有の高く、どこか甘さを含んだ声音にシドは中途半端な姿勢で驚き首を傾げてた。


「は、ははは……くふっ……はは」

 奥方は笑いが収まらないのか、腹を抱えるように笑い続ける。そんな奥方に困惑しながらも、シドは頭を戻し、この状態を収拾できないかと、ちらりと隣にいる執事に視線を向ける。

「…………」

 無言のまま、シドは泣きそうな表情になってしまった。視線を向けた先の執事は、横を向き、それは苦しそうに肩を震わせていた。シドが澄ました耳には、「ふくく……」とどう取っても笑いを押し殺したようなぐぐもった声が聞こえてくる。


(笑われている……いや、不敬罪ととられていないからいいのか? なんだか、理不尽な気がするけど……いや、でも……)


 困惑しているシドを尻目に、ひとしきり笑った後、奥方は笑いが尾を引いているのか、呼吸を微かに乱しながらも口を開いた。

「はははっ……はぁ。ここまで笑ったのは久方ぶりじゃ。……ふふ……ほれ、そう泣きそうな顔をするでない。まるで、妾が泣かしているようではないか」

 奥方は目じりに溜まった涙を細い指でぬぐい、半端に閉じられていた扇を開いて、口元を隠した。

「は、は……い」

 さっきまでの恐ろしい雰囲気はあっという間にどこかに行ってしまった奥方に、シドは戸惑いながらも返事を返して、ぎこちなく頷いた。


「ふふ。なるほどのぅ。納得したわ。田舎者は我が子をどうこうするとは考えておらんなぁ」

「そ、そうですよ。貴族様にどうこうなんて、恐いことできませんよ」

 シドが何を当然のことを言うのかという顔をする。

 そんなシドの言葉に、奥方は一瞬瞳に陰りを滲ませたが、直ぐに何事もなかったかのように力強い輝きを持つ瞳にもどり、悪戯を思いついたかのように、すっと目を細めた。

「そうじゃの。田舎者はただの阿呆のようじゃ。妾のいらぬ心配だったようじゃのう」

「あ、あほう………」

「うん? なんじゃ。貴族様の妾になんぞ言いたいことでもあるのかぇ?」

「うっ! ……い、いいえ……」

 くつくつと喉の奥で笑い、奥方は完璧にシドをからかっているようだが、シドは言い返せなかった。

「さて、田舎者。我が子の元に行く前に妾が茶に招待してやろう。光栄に思えよ? 妾が茶に誘う人間はそうそう居ないのだからな? アラン! 茶を用意せい」

「………はっ!」

 軽く息を吐き、笑いを収めたところで、ぱちりと扇を閉じて颯爽と踵を返し、歩いていく奥方の背に、アランが頭を下げて答えた。

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