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庭の掃除はまだまったくの手付かずだ。庭を探検してみたいと思ってはいるが、当分無理そうだ。
家に埃が少し積もっているだけなら「人間埃じゃ死にゃしない」と名言を豪語できるが(掃除の有無は別として)、明らかに埃の量が多すぎて名言も裸足で逃げる。埃を吸い込んで噎せて窒息するかもしれない、と又聴きの人なら笑える話かもしれないが、実際に目にしているシドからすれば恐怖の対象になっても可笑しくない位だ。そんな訳で屋敷の中を最優先にしているので、しばらく幽霊屋敷の噂は消えることは無いだろう。
やることは山積みで、掃除係りは自分ひとりだけ。
すべきことがありすぎるために、ちっとも掃除が進まないような錯覚から今日も今日とて、焦燥感を覚えながらも、シドは慣れた足取り玄関では無く、その横へと道を逸れて茂った木々の間を身軽に通っていく。ついた先は、最近出入り口に使っている調理場の勝手口だ。玄関を最初は使っていたが、そこから調理場に行くのが面倒に感じ、勝手口から入ったほうが早いので遠慮なく使わせてもらっている。
「……無用心だよな」
シドは手を置いた勝手口のノブをそっと捻りながら、そう、独りごちて扉を開けた。実を言うと、鍵がどこにあるのか判らないので、玄関と調理場の勝手口、それに他にもある外へと続く扉は施錠されていなかったりする。そのことを知ったのは通いだして四日目の時だ。いつも扉の鍵が開いていることに気がついたシドが何気なしに先輩メイドに訊ねて発覚した。
どうやら、シドが来る前から鍵はかかっていなかったようなのだが。ご近所は大丈夫と言わんばかりに玄関に施錠をしない庶民から見ても、さすがに防犯意識が無さ過ぎると心配になり、リエッタに聞いたところ、「鍵なんて必要ないわよ。どこからでも入れるし便利よ?」と良くわからない理屈で一蹴されて終わってしまった。おかげで、ほぼ毎日屋敷の中に入るとき、心臓に悪そうなドキドキ感がある。泥棒と鉢合わせなんてした日には悲鳴を上げて逃げられるだろうか、と。
今日も屋敷の中には、人の気配がしない。そのことにほっと胸をなでおろしだ。いや、本当は屋敷に人がいないのは貴族の体面などからしてどうかと思うのだが。ここでは、そのほうが良いのだ。
シドは開けた扉に身体を吸い込ませるようにして、するりと入り、持ってきた鞄を調理場の机に置いて、中から制服を取り出して着替える。
着替えが済んだ後は、シドは調理台の上を確認しに行く。数日前から新たに増えた行動だ。
台の上を見て、シドはにんまりと笑う。
「昨日の分はきちんと無くなっているな。よしよし」
この間リエッタに相談して実行に移した成果にシドは嬉しくなった。
食事をおろそかにしているヴァリアスに仮にも使用人のひとりとして何が出来るだろうかと考えたシドは、帰り際夕食を作ってから帰るようにしたのだ。シドの視線の先には、トレーの上に空っぽになった皿が置いてあった。
最初は食事に手もつけなかったのだ。それがだんだんとサラダだけが食べられていたり、次にはサラダとパンが無くなり、昨日からは皿の上が綺麗になって完食しているのだ。
なんだか、野生動物を手懐けているような気がしないでもない。
幾日か前にリエッタとそんなような話をした気もするが、仮にも仕えている主人に対しての感覚ではないと理解しつつも、シドは感動を覚えて鼻の奥がツンとした。
うっかりと零しそうになった涙をなんとか押さえこみ、笑み崩れた顔のままトレーを手に取り、洗い場に持っていき皿を洗う。洗い物を終えたら、布巾で皿を拭いて食器棚に戻す。その一連の作業を鼻歌を歌いながら軽やかに済ませ、シドはパンと気合を入れるように手を叩いた。
「さて、今日も掃除をしますか!」
屋敷内はシドの努力で埃がなくなり始めていた。調理場に隣接している食料を貯蔵しておく部屋はぴかぴかに磨かれ、最近では本邸から送られてくる食材を置いて置けるようになっていた。玄関ホールや二階のヴァリアスがいる書斎に続く廊下は完璧といっていいほど、今や埃一つ無い。欲を言えば、窓から見える景色と廊下に置かれている置物の数々のせいで未だにどんよりとした空間になっていることだが、まあ、文句は言えない。
「……うーん。そろそろホールとかも掃除し始めたほうがいいかな?」
この屋敷は一階が水廻りや使用人の部屋といった仕事をするための部屋が並び、二階が主人やその家族が過ごす部屋や客室、貴族といえば欠かせないパーティができる食堂兼ホールがあった。先に掃除を済ませるのは使用人用の部屋より、主人が行き来するような二階を中心にしたほうが良いだろう。シドは、今日からホールがある書斎とは反対の通路のほうを重点的に掃除しようと決めた。
シャツの腕を巻くりあげ、掃除用具が置いてある部屋へと向かおうと踵を返した時、シドの背後から声が掛かった。
「おはようございます」
「え? あ、おはようございます」
慌てて振り返ると、庭に続く勝手口のところから、定期的に物資を運んでくれるマークが佇立していた。
「マークさん。今日は早いですね」
すでに何度か顔を合わせているマークに愛想笑いを浮かべ、シドが近づくと、彼は眉を寄せて、何か言いたげな表情のまま口を噤んでいる。
「? どうかしたんですか?」
「……いや。今日の荷物はこれだけだから」
元気の無い声で返し、マークは近づいてきたシドの横をすり抜けるようにして、木箱を一つ、テーブルの上に置いた。
「あ、はい。いつもありがとうございます」
この屋敷で出会う数少ない使用人仲間だ。シドは妙な親近感を勝手に抱きつつ、嬉しそうに笑ってテーブルへ寄った。
マークが一歩後ろに引いたので、シドは木箱の前に立ち、蓋を開けて中身を確かめる。いつのも食材や日用品がぎゅうぎゅうに入っていた。ざっと確認するように視線を動かしていると、ややあってからマークが重そうな口を開いた。
「ところでさ、いつになったら裏門が通れるようになるわけ?」
「え?」
シドは一瞬マークの言いたいことが判らなかった。
「はあ。言おう言おうと思っていたんだけどさ。普通使用人って裏門を使うもんなんだよね。なのに、君掃除係りって言っていたはずなのに、なんで裏門の辺りを掃除してないわけ? おかげで俺、正門から入ってるんだけど。これって、結構外聞が悪いんだけど、そこんところ判っている?」
「えっと……すみません。その、裏門がどこにあるか判らな無くて」
突然言われたことにシドは戸惑いを隠せず、困惑した表情になりながら答えた。マークとは最初に言葉を交わしてからあまり友好的な話が出来なかった。というのも、早く帰りたがっているマークは毎回必要最低限の話しか出来ず、使用人同士の情報交換をかねての無駄話なぞしたことがない。そんな相手からのいきなりの駄目出しにシドが驚くのは無理も無い話しだ。
そんなシドを尻目に、マークは今までの態度を崩し、まるで虫けらを見るような見下した目つきに豹変させた。
「ほんとさ、旦那様もなに考えてるんだか。こんな平民の素人を使用人にするだなんて。まあ、ご子息様のせいで、ちゃんとした使用人が雇えなくて仕方ないのは理解しているつもりなんだけどね」
ため息をつきながらマークが零した言葉に、シドは一瞬にしてカッとした熱いなにかが体中を巡った。
「なにが、言いたいんでしょうか……」
シドを知っている人間からすれば、驚いたかもしれない。低く淡々とした声が出ていた。
『不幸少年』と呼ばれ、数々の他人から見れば笑えそうな不幸を体験し、仕事をことごとくクビになっていたシドからすれば、十日以上も仕事を続けさせてくれているウィルフズ伯爵は神にも等しい存在だ。そんな、ありがたくて足を向けて眠れないような人を貶めるような言動は許しがたい。身体の中を巡り続ける熱いものを押さえるかのように拳を握りしめた。
気づかれないように、苛立ちを覚えた心を落ち着かせるように細く息を吐いた。すると不思議なことに、乖離したように冷静になっている自身の一部が醒めた目で目の前の人物を観察していることに気がついた。
怒りを感じているシドの視線など気づいていないのか、それとも気にも留めていないのか、マークは話を続けた。
「なにがって、今言っただろう。ほんと唯の平民って頭の回転が遅いね。私の家は代々使用人の家系でね。心得って言うのは子守唄代わりに聴いていた身としては、君、ぜんぜんだめだよ。ぜんぜん」
「っ……なにが、どう駄目なんでしょうか」
マークの言っていることにシドは反論できなかった。確かに、使用人として働くのは初めてだし、先輩、と言えるはずのリエッタは結構放任主義で、本家で頼まれたのは掃除を中心をした仕事内容だ。
使用人のマナーを未だに良くわかっていないのは十分承知している。裏口を使用人が利用するというのも、マークに言われて初めて知った位だ。きっと、本宅の使用人からすればマナーがなってないと駄目だしされる程度なのだろう。だが、だからといって、主人への悪口とも取れる事を滅多に姿を見せないが主人の令息が住んでいる邸で言ってもいいのだろうか。
シドの頭に段々と叫びたくなるようになるほどの熱が溜まっていく。歯を食いしばり、何も言うまいと自身に言い聞かせなければならないほどに、心臓の辺りに言葉にならない言葉が積もっていくのがはっきりと分かった。
「まあ、君の態度はきっちり本邸のほうに報告させてもらっているけどさ。ほんと、なってないよね」
マークの多分に含まれた呆れ声に、シドの沸騰しそうだった頭から、瞬間的にざっと血の気が引いた気がした。
(…………そうか……)
大分荒れ果てているが、ここは貴族の屋敷。窃盗や主人に対しての暴力行為などはあってはならないことだ。本邸では執事が他の使用人を監督しているようだが、この別邸では執事も目が届かない。だから、マークが食料を届けるついでに、シドが信頼に値する使用人かどうか監視の役も負っていたのだ。
そのことに、今更ながらシドは気がついた。それと同時に、先ほど言っていたことを本邸のほうにも伝えているのかも知れない、ということに思い至った。
(嫌なやつ)
率直にそう思ってしまったのも無理は無いかもしれない。いつもは、食料や日用品を届けるだけで、シドと碌に話そうとせず、なんどかお茶に誘っても直ぐに帰ってしまうのに、一体どんなシドの態度を本邸に報告しているのか。そう考えると、二度とお茶に誘って一緒に世間話でもしたいなんて思えないと思った。ぐっと言葉こらえているシドにマークは追い討ちをかけるように言葉を続けようとする。
「だいたい、君は……」
「……そこまで言うのなら、お前が私の屋敷で働くといい」
唐突にシドの背後から声がした。その声は聴いたことがあるが、めったに聞けない人物の声。シドが慌てて上半身を捻り、振り返った先には調理場の戸口で腕を組み、物憂げな表情で肩を戸の縁に預けていた屋敷の主がいた。
「……ヴァリアス様?」
書斎から出てきた彼を始めて見た。シドはいるとは思っていなかった人物の登場に驚きのあまり掠れた声がでた。
「ひっ……」
シドの耳に短い悲鳴が聞こえた。捻っていた上半身を戻し、声の元へと顔を向けると、マークが顔面蒼白で震えている。先ほどまでの威勢のよさはどこかに行ってしまっているではないか。
誰も声を発しない中、カツカツとシドの背後から重みのある足音が近づいてくる。ある程度距離を置いて、止まったその音は、たった三人しかいないために広く感じていたはずの調理場を一気に息苦しく狭い場所に錯覚させるような威圧感があった。
「たしかに、お前の言うとおり、これは使用人としての心得は教わっていないなぁ。……どうだ? この屋敷に勤めて指導してみるか?」
今までの人形めいた感情の篭らない声とは違い、この言葉にはマークを挑発するように嫌味が込められているのがひしひしと判るほどだ。そのことに、シドは内心驚きを隠せなかった。
「あ、いえ、その……し、失礼します!」
マークはヴァリアスに話しかけられたことで、いつでも気絶できそうなほど血の気が引いている。何とか言葉を振り絞り、これ以上この場所にはいられないといわんばかりに、屋敷主に背を向け、逃げるように走り去ってしまった。
シドはぽかんとした表情で事態が飲み込めなかった。
いつもと違う様子のヴァリアスに、使用人の態度をどうこう言っていたはずのマークは一礼も屋敷主に返さず出て行ってしまう。
(何がどうして、こうなるんだ!)
誰か説明してくれ、と誰かに声を荒げて言いたくなったのは仕方が無い。けれでも、誰かはいないので、誰も答えてはくれない。シドは混乱する頭を宥めるのに必死で暫く言葉が出なかった。




