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1-4

『そうそう、シドちゃん。いい忘れていたけど、この屋敷の坊っちゃんなんだけど、ちょっと怖い噂があるんだけど、気にしないでね』

 所長室で仕事について話していたとき、補足としてバーフィアが言っていた事を、ふとシドは思い出した。

『? 怖い噂って?』

『坊っちゃんの周りって、よく不吉なことが起こるのよ。それで、ついたあだ名が『不吉伯爵』。実際、死人が出たとか出てないとかって噂よ~』

『……どっちだよ』

 シドの疲れきったツッコミに、バーフィアは、ほほほほ~、と脳内を揺さぶるような低音の高笑いでさらにシドをぐったりとさせた。

 その日は、そんなに動いていないのに、なぜか次の日腹筋辺りがピキピキ攣った。バーフィアと対峙する為、知らず知らずに腹の辺りに力を込めすぎていたのが原因だった。

 

 自称乙女恐るべし。


 いや、今思い出すのはそこじゃないだろう。

 シドは自分で自分の思考回路にツッコミをいれた。

 落ち着けと言わんばかりに、一度深呼吸をした後、シドは意を決して屋敷の中に入っていった。


 屋敷の中は、一歩踏み出すたびに白い綿のような埃が舞った。広い玄関ホールは良く見ると、あちこちに蜘蛛の巣が張っている。まだ昼前だというのに、窓についているカーテンというカーテンは閉じられ、カーテンがかかっていない小窓などは木の葉や屋敷の壁を縦横無尽に蔓延る蔦の葉が光を遮っているため、屋敷内は全体的に重苦しい暗さだ。

 本当に、こんな所に人が住んでいるんだろうか。

 もしも、こんなあれ屋敷に住むのなら、ここまで荒れ果てる前に、玄関くらいそれなりに掃除はするのに。


 シドはあまりの荒れ具合に、人が住んでいないのでは無いかと疑ったが、バーフィアの紹介状は何度見てもこの住所であっている。

 シドはそうっと息を吐いて、声を上げた。

「すみませーん。誰かいませんかー?」

 声が屋敷を木霊する。少し経っても、誰かがやってくる気配はまるでなかった。


 まるっきり幽霊屋敷の態に怯えたシドは背を丸め、まるで泥棒のように抜き足差し足で人を探すことにした。

 玄関ホールは正面に左右に分かれた、二階へと上がる階段があり、一階の行き来は、左右の奥まった所にある通路からのようだ。

 シドはとりあえず、そうっと右の通路のほうへと歩いていってみることにした。

右の通路にも蜘蛛の巣が張り、埃が床に積もっていた。

 通路には左右にいくつかの扉がついていた。


 誰もおらず、昼だというのに薄暗い。こんな場所を怖がらない人間は少ないのではないだろうか。

 シドは段々と積もっていく恐怖に身を震わせながらも、人を探してゆっくり、恐々と歩いていると、背後から、ぽん、と左の肩を軽く叩かれた。

「ぎゃあーっ!!」

 恐怖が口から飛び出しかと思った。絶叫が通路を駆け抜ける。

「……な、ななな、なに!」

 心臓を押さえながら、シドは背後を振り返った。その先には、両方の耳を押さえて、苦悶の表情を浮かべ、歯を食いしばり、腰をかがめているメイドがいた。


「あ、あの?」

 シドは苦しそうなメイドに慌てて、手を伸ばそうとした。

 メイドは両耳を塞いでいた手を外し、拳を作って身体の横に持っていき、きっと眉を吊り上げてシドに怒鳴り声を上げた。

「う、うるさ~い! 勝手に屋敷に入ってきて悲鳴上げるのはどういう了見よ!」

「ご、ごめんなさい」

 伸ばした手を引っ込めて、シドは手と手を合わせて合掌し、顔の前に持ってきて謝った。

「あんた!」

 ビシッとメイドがシドを指差す。

「はい!」

 メイドの気迫に圧され、シドは両手を合うわせるのをやめ、軍人のように直立不動の体勢になる。

「何者か名乗りなさい。ことと次第によっては、この幽霊屋敷の洗礼を受けさせるわよ!」

(あ、やっぱり幽霊屋敷なのか、ここ)

 うっかり心中で納得してしまった。


「ぼ、僕は今日からここで掃除係として働くことになっているシド・シシリーです」

「掃除係?」

「はい!」

 頷いて肯定するシドに、メイドは胡乱げな眼差しで下から上まで無遠慮に眺める。

「まあ、そうよね。いい加減この屋敷も掃除位してほしいのよね。面倒すぎるのよ……だいたい……」

 メイドはシドをジロジロ見た後は、俯いて自分の世界に没頭しているのか、ぶつぶつと何かを言っている。

 シドはどうすればいいのだろう、と思ったが、顎に手を当てて俯いているのをいいことに、メイドを失礼がない程度に観察した。


 甘栗色の長い髪を一括りのお団子にし、縁をフリルがさり気無くついた小さな室内帽の中にいれて、項をみせている。

 服は黒のドレス。スカートの丈は膝下より少し長めで、首の周りにはきっちりと糊付けされた白のカラーとモスリン地の胸当てのついた白のエプロンが清潔感をかもし出している。エプロンは肩紐の外側にフリルがつき、裾をよくよく見るとエプロンと同じ白色の光沢のある糸で花や葉の刺繍が施されている。両手首の袖口は折り返されており、ラピスのカフスが光っていた。


「あ、あのー」

「…………はっ!」

 遠慮したような声だったが、メイドは夢から覚めたかのように目を大きくしてシドを見て固まった。

 メイドの顔立ちは大人の中に幼さが混ざっているような愛らしい顔をしていた。ぱっちりとしたこげ茶色の瞳に低めの鼻。唇は潤いがあり薄紅色をしている。化粧っ気はないが、肌は健康的に日焼けしているので下手に化粧で素地を隠すより、活発な女性に見える。


「……あなたは?」

 シドの質問に、固まったままだったメイドは、ぱちりと瞬きを一回して動きを再開した。

「わ、私? 私はこの屋敷のメイドのリエッタよ」

 胸に手を当てて、背筋を伸ばして答えたリエッタに、シドは伺うように声をかけた。

「リエッタさん?」

「そうよ。あなたは、年下みたいだけど、シドって呼んでいい?」

「はい。って、リエッタさんって幾つ……」

「シド! 女性に年齢は聞くんじゃないわよ!」

 最後まで言わせず、強い口調でリエッタが遮る。

「す、すみません」

シドは、しまったと顔に書いて、慌てて謝罪する。女性に年齢や容姿はタブーだと父親に注意されたことが多々あるが、つい口が滑ってしまう。年や格好のいったいナニがいけないのか、いまいち良くわかっていない男の子なのだ。


「まあ、年上なのは確実ね。……いいこと、今度私の年を聞こうものなら……」

「…………」

 続きを言ってくれない。一体、聞くと何が起こるというのか、シドは沈黙が増えるたびに嫌な想像が刺激されるのを感じた。

「……き、聞かないように気をつけます」

「そうしなさい」

 リエッタは腕を組み真剣な表情で、一つ頷いた。


「そうだ。リエッタさん。僕、この屋敷の主人に挨拶をしたいんですが……」

「ああ、そうよね。今日から働くなら、ご主人様に一応顔合わせしておいた方がいいわよね」

「はい。斡旋所の紹介状も渡さないと、なんで。……? 一応って?」

「うちのご主人様の噂、知ってて来たんじゃないの?」

 リエッタが首をかしげて聞いてくるが、シドも彼女の言っている意味がわからず、首をひねった。

「知らない? 『不吉伯爵』って」

「あ、ああ。斡旋所の所長に聞きました。あれ? でも、それって坊っちゃんの方じゃぁ」

「やだ。この屋敷に住んでいるのは、噂のご主人様だけよ」

「え? でも、坊っちゃんが住んでいるって……」

(あの、自称乙女は確かに、坊っちゃんって言ったよな?)


 所長は外見的には視界の暴力だが、仕事はきっちりしている。情報に偽りはないはずだが、どういうことだろう。シドは、困惑した表情になったが、リエッタはその謎が解けたのか、ぽんと手を叩いた。

「ああ、そういえば、ご主人様はまだ十七歳だから、坊っちゃんといえば、坊っちゃんよ」

「へ? じゅうななさい?」

 屋敷の主なのだから、てっきり髭の生えた壮年の男だと思っていた。シドは自分とそう歳の変わらぬ主人だという事に驚いて、間の抜けた声を出した。

「そうよ。ご主人様はウィルフズ家の嫡男で、お名前はヴァリアス様。実しやかに囁かれている渾名は『不吉伯爵』。御歳十七歳って、これらは言ったわね。まあいいわ、こっち、ついてきなさい。ご主人様の所に案内するから」

「あ、はい」

 踵を返して、歩き出したリエッタの背に返事を返し、シドも後に続いていく。


 リエッタを先頭にシドは玄関ホールへ戻り、二階へと続く左右に分かれた中央の階段を左に上がり、そのまま、二階の左の廊下を歩いた。

 二階の廊下は薄気味が悪かった。

 一階のように日が当たらないだけならまだしも、現屋敷の主の趣味か、はたまたその前の屋敷主の趣味か、廊下には転々と蜘蛛の巣が張った主の合図があれば動き出しそうな存在感のある甲冑や、今にも咆哮をあげそうな魔物を模った石造の首。意匠を凝らした模様の大きな壷から覗く気味の悪い青銅の手など、怪奇、怪異、奇妙な像や意匠のタペストリー、絵画などが飾られている。そこに、裂けた重厚なカーテンが窓を覆っているため、恐ろしい想像ばかりが頭を巡る。


 このまま、魔王の元に案内されてもおかしくない。そんな恐怖の想像をしていたシドの思考は、廊下の奥に辿り着いた時に、メイドの声で霧散した。

「ここが、ご主人様の書斎よ。たいてい、ご主人様はここにいらっしゃるから」

 一番奥の部屋の扉から少し横に逸れた所に立ち、手を掲げて扉を指し、リエッタが教えた。

「え? ま……いえ、ここですね」

 うっかり、魔王の部屋じゃないのか、と聞きそうになった。シドは、自分の口がすべる前に止められたことに、横を向いてこっそりと胸をなでおろした。


「『ま』ってなによ? ……まあいいわ。ほら、さっさとノックしなさいな」

「え、もう?」

「もうってなによ」

「こ、心の準備が……」

 一町民たるシドが貴族に出会うことなど、一生に一度在るだけでも奇跡のようなものだ。

 平民にからすれば、貴族とはそれほど、雲の上の存在。王族にいたっては神様のようなものなのだ。そんな存在に、これから会うのかと今更ながらに、緊張してきた。

 シドは、胸に手を当てて、気分を落ち着かせるためにも深く深呼吸する。

「……トロいわ」

 何度も深呼吸しては一向にノックをしようとしないシドに苛立ったような声を上げ、リエッタは掲げていた手を拳にし、扉を叩く。

「え?」

 彼女の行動が読めないシドは手を胸に当てたまま、その様子を見ていた。


 リエッタはそのまま、きびきびとシドの方へ歩き、シドの真後ろまで来ると、そのままドンと力いっぱい、シドの背中を押した。

「ぅおい!」

 予想もしていなかった行動に、シドはなすすべなく、そのまま二歩勢いに押されて足を進め、二歩目の足が空を蹴り、前につんのめる。その絶妙な合間に、閉まっていた扉が内側から開かれた。


 そこからは、時がゆっくりと動いていたようにシドは思えた。扉を開けた人物は迫り来るシドに、驚いたように目を見張ったかと思うと、軽やかに足を動かし、扉を開いたまま身体を横にずらす。まるで一流ホテルのドアボーイのような動きだった。

 そのまま、シドの視線はドアボーイよろしく横にいる人物に向けたまま、重力に逆らうことなく、床に近づいていく。その時になってやっと、シドは「あ、ぶつかるな」と頭の隅で呟いた。

 次の瞬間、顔面に激痛が走った。

「うげぃん」

 反射的に、顔を庇うことをド忘れしていた。視線が右側にあったので、主に左の顔面が痛い。苦痛に呻いていたシドの耳に、右側にいたであろう人物が遠ざかる足音が聞こえる。部屋の主は、シドの安否を確認することなく、部屋の奥でなにやら軋む音を立て、紙の擦れる音を鳴らした。


 痛みに呻きながらも、うつ伏せになった状態から顔を上げた。目の前には、重厚な書斎机が鎮座していた。机しか見えなかったので、シドは両腕で体を支えて、さらに、上のほうへ視線を移す。

 机の向こう側に、横に向けた革張りの椅子に腰掛け、手に持った本に視線を落としている青年がいた。

 青年。おそらく、メイドが言っていたこの屋敷の主、ヴァリアスであろう彼は、シドに一切視線を向けることなく、紙の擦れる音とともに本のページをめくる。


黒色のズボンに白いシャツ。両手は黒い皮手袋をしてる。貴族といえば、幾重も刺繍をした煌びやかな服装を思い浮かべていたシドだったので、貴族とは思えない無造作な格好が一番に目を引いた。

 大人びた雰囲気を漂わせているが、まだどこか少年のあどけなさが顔に残っている。すっとした切れ長な瞳はアイスブルーで、細い眉に高い鼻。薄い唇は一文字に結ばれている。蜂蜜色の髪は肩甲骨辺りの長さでゆるく三つ編みにされ、血のように暗い深紅のリボンで毛先ちかくが結われている。髪の滑らかな光沢がカーテンの隙間から漏れる太陽の光で輝いていた。


 他の場所と違い書斎のカーテンだけ染みも裂けた部分もないのが、妙に不思議に思えた。書斎の机上には手紙のような物と、何も書かれていない洋紙。三冊の本が無造作に置かれ、机の端辺りに羽ペンにインク瓶。それに、今にも咲き出しそうな花の蕾の形のランプシェードからは揺らめくことのない赤い光が煌々と燈っていた。蝋燭の明かりではない。おそらく、魔道具だろう、と考えつつシドは膝を床について立ち上がる際に、感心して眺めた。


 魔法石と呼ばれる、魔力を帯びた石を加工して作る魔道具は高価な物が多いので、一般人にはまず手にすることが出来ない代物。魔道具をこんなに近くで見たのは初めてだ。

 立ち上がったシドは、服についた埃を軽く手で払う。


 部屋の両側には嵌め込み式の木製の本棚が並び、天井一杯まで革張りの装丁された本が並べられている。本棚から入りきらない本も本棚の前に詰まれ、一部は雪崩が起きていた。

 シドから見て右側の奥に扉がある。どうやら、隣の部屋へと続いているようだ。


 青年は先ほどから、一定の間隔で本のページをめくっている。シドは顔の痛みもひいたので、青年に対して口を開いた。

「あの、ヴァリアス様ですか?」

 普段より小さな声になってしまったのは、この屋敷の雰囲気に飲まれてしまったからかもしれない。

「…………」

 目前にいる青年は何の答えも返さず、視線も動かそうとしない。

 本のページがもう一枚捲られた。

 反応のないことに、シドは瞬きを一度して戸惑った。


 リエッタがここに主人がいるといったから聞いたのだが、もしかして、違ったのだろうか。それとも、この人物は自動制御の人形だろうか。

 隣国のハラース国では魔法石と発条で動く人形が完成したと、国一番の発行部数を誇るフォーシーズン新聞が半年くらい前に取り上げていたのを思い出した。好事家の主人が早速買ったのだろうか、と首を傾げたくなった。それほど、青年は動かず、また、肌が青白いために人形に見えたのだ。決して、幽霊のようだと思ったわけではない。


「ヴァリアス様、でよろしいですか?」

 今度は少し大きな声で聞く。その声音には戸惑いが多分に含まれていた。正直、これで否定されたり、反応がなかったらどうすればいいのだろう、と心の中で半泣き状態だ。


 沈黙が落ちた。青年の本を捲る指は止まり、シドも呼吸を潜める。壊れ物を割らないようにと細心の注意が払われているような、ぴんと張り詰めたような緊張感が部屋を支配していた。


 先に動いたのは、驚くことに青年だった。ちらりと視線をシドに送ったのだ。その冷たい蒼色の瞳に、瞬間シドの身体が緊張し全身に力が篭った。まるで、何者の存在も拒む吹雪のようだと思った。

「疾く、去ね」

 最高級の弦楽器のような深みのある雑音のない声で、部屋の主はシドを拒絶する。


 つかの間、何を言われているのか解からなかった。数秒後、言葉が脳に染み込んで、やっと理解したシドは、あまりの言いように瞬間的に頭がかっと熱くなるのを感じた。

(……落ち着け、俺。仕事第一、仕事第一)

 鼻で息を吸い、ゆっくりと息を吐く。


 相手は、貴族。平民であるシドをどうこうするのは簡単だろう。そんな存在に文句を言うことなんて出来はしない。それに、ここで、仕事を放り出したら、唯でさえ仕事を完遂できない不幸少年の名が、さらに広がってしまうような気がする。そうなれば、出来る仕事がなくなり、兄弟たちを養うことができない。シドは、今の言葉は聞かなかった、と言い聞かせて心を落ち着かせた。


「僕は、シド・シシリーです。掃除の仕事の求人を聞いて、カーネリアン仕事斡旋所から紹介状を持ってきました。こちらのほうには、連絡が行っているかと思うのですが……」

「…………面倒なことにな」

 億劫そうに言いつつ、彼は両手で持っていた本を右手のみで本の背を包むように持ち、パタンと音を立てて、開いていた本を閉じる。そして、机の上に置いてあった手紙に左手を伸ばした。


 そのまま、横向きになっていた椅子を前に戻し、本を机の上に置き、左手に持っていた口の開いていた手紙の中身を取り出す。手紙の内容をもう一度確認するかのように、さっと目を通してから、青年はシドを始めてひたと視線に捕らえた。

「確かに、斡旋所から掃除をする者が来ると実家から聞いている。私は、ヴァリアス。ヴァリアス・アニィ・ウィルフズ。お前は私が他者になんと呼ばれているか、知ってここに着たのか?」

「え? えっと……不吉伯爵って呼ばれていると聞きましたが……」

 シドの答えに、ヴァリアスはくっと暗い笑みを浮かべた。

「知っているなら、話は早い。不吉なことに遇いたくなければ出て行け。私に、関わるな」

 一瞬馬鹿にでもされたのかと思い、カチンときた。しかし、貴族相手に怒鳴るなど出来るはずもなく、シドは鼻息荒く呼吸し、気分を落ち着ける。


 呼吸を繰り返していくうちに、ふと、別の可能性が頭を掠めた。まるで、心配しているようだと。しかしそれは、彼の今の表情とは似合わず、気のせいかも知れない、とシドは考えを思考の海へと逃がす。

「不吉なんて、曖昧な事を言われても怖くありません。僕は、仕事をさせて頂きたいのです」

 シドの強い口調とまっすぐの視線に、ヴァリアスは暗い笑みを引っ込めた。

「必要な金は払ってやるからこの屋敷から出て行け、といってもここにいるつもりか?」

「愚問です。僕は、仕事をしにきたのですから。仕事をせずに報酬はもらえません」

「金のために命を投げ出すか? それこそ、愚かだろう?」

 小馬鹿にした表情でヴァリアスが言う。

「命を投げ出しにきたつもりはありません。労働の対価として給金を得にきただけです」

 感情的にならないように、シドは声を硬くして返した。

 シドは言い終えた後、そっと細く息を吐き感情を抑えようと努力した。

 そんなシドの様子を無言で見ていたかと思うと、ヴァリアスは喉の奥で嗤った。

「だったら好きにするがいい。私は知らん」

 ヴァリアスは、手で遊んでいた手紙を机に置き、読みかけていた本をもう一度手にとり、人差し指で小口を一度なでてから、ページを開いた。


 話は終わったとばかりの態に、シドは今までの怒りが、肩透かしを食らったかのように急速に削がれた。

 そして、はっと仕事をするにあたって大事なことを聞かねばならないことを思い出した。

「あ、あの……掃除って、どこからどこまでなんでしょう?」

 まさか、この屋敷全部だろうか、いや、全部なんだろうな、と思ったが念のため聞いておかねばと思い恐る恐る聞いてみるが、屋敷主は顔を上げてくれない。

「お前を雇ったのは、父上だ。我が本家、ウィルフズ家に行って就労内容を確認すればいい」

 それ以上話すことはない。そう語るように、ヴァリアスは掌を動かし、追い払うようなしぐさをした。

 屋敷の主に下がれと言われれば、雇われたシドは出て行くしかない。


 シドは、口元を引きつらせ、かろうじて「失礼しました」と声をだし、気まずい思いを抱きつつも一礼して書斎から辞した。

 廊下に出て、書斎の扉を閉じる。数歩後ろに下がり、やっと肩の荷が下りた。

 ほうっと肺の空気を出し切るような盛大なため息を吐く。

 ほんの数分の対面だったはずなのに、『不幸』が起こって徹夜で森の中を熊から逃げて走ったときのような疲労感が襲ってきた。

「これから、あの家主様と顔を合わせるときがあるのか……やっていけるのかな?」

 取り付く島もなさそうな、人嫌いと見た。


 シドは胸に手を当て、心の中で「お金、お金、お給金」と三回唱えて心を落ち着かせる。兄妹のためだと思えば、何とかやっていけるはず。自分はお兄ちゃんなんだから、下の兄妹は守らなければならない。

「よし。取り合えず、まずやることは決まったな」

 自分に気合をいれるように独り言を言って、シドはメイドに案内された道を戻る。途中、気味の悪い甲冑と眼があったような気がしたので足を止め、さっと窓の方へ視線をそらしたら、やる気をそぐような鬱蒼と茂った草木が見えた。


 シドが来るときに通った表の庭なのだが、上から眺めると、心なしか幽霊屋敷にふさわしいようなどんより感が漂っているように見える。

 ああいう庭も、掃除の対象なのだろうか、と遠い目をしてくじけそうになった。

「いや、やる前からがっかりしたらだめだな……落ち込みたいけど……」   

 泣き言を漏らしたくなるほど、この屋敷は掃除人に優しくない。

 止めていた足を再び動かして、シドは掃除の件は一旦頭の隅において、メイドを探すことにした。

「……リエッタさん、どこにいるんだろう……」

「呼んだ?」

「うひぃ!」

 背後からの突然の声に驚いて、シドは変な声を上げて、横に逸れる。うっかり逸れすぎて、廊下の端に行き、窓に肩と勢いがついた頭がぶつかりそうになった。


 心臓がばくばくとうるさい音を立てている。声のした方向へ身体を向け、背中を窓に張り付かせ、シドは目を極限まで見開いて固まった。

 後ろから声をかけてきたのはリエッタだった。

 彼女はシドのあまりの驚きように、ばつが悪そうに、頬をかいていた。

「あ~、ごめんね? そんなに、びっくりするとは思わなかったのよ」

「り、リエッタさん……お、驚いた」

 てっきり幽霊かと思った、とは口に出せなかった。

 心臓を落ち着かせるように一度、深く深呼吸をした。心音が多少落ち着いてきたところで、シドは胸に当てていた手をそっと下ろした。

「ほんと、ごめんねぇ。……ところで、ご主人様にあった感想は?」

 いたずらが成功した子供のように口元が歪みつつも、軽く謝罪された。なんだか、楽しんでいるようなふしがある人だ。

シドは可愛らしく謝られ、怒ることも出来ずに、愛嬌のある同僚に苦笑した。

「そうですね……感想といわれても、たいした話は出来ませんでしたし、正直けんもほろろの応対、としかいいようがない感じでした」

「でしょうねー。なにせご主人様、今までの使用人とも同じような反応だったから」

 あはは、やっぱりねー、とリエッタは笑いながら教えてくれた。

「そういえば、他の使用人って……」

「いないわよ」

「え? いないんですか?」

 リエッタのあっけらかんとした答えに、シドは驚きを隠さず聞き返した。


「最初、ここにご主人様が来たときは、何人かいたんだけどね。その人たちは次々とやめていって、最後は食料を運ぶ人が定期的に来るだけになったのよ。おかげで屋敷、庭は荒れ放題。まあ、最初から荒れていたんだけど、更にって感じ?」

 困るのよねー、と肩を竦めるメイドに、シドは呆けたような顔になった。

「き、貴族ってそういうもんでしたっけ?」

(僕が想像していた貴族はもうちょっと優雅で、使用人がたくさんいて騒がしいような印象があったのに……)

 まるっきり、正反対の静寂な屋敷に来てしまったようだ。

「まあ、そのやめていった子達も、不吉伯爵の呪いの所為? みたいなんだけどね」

「え? それって……」

 メイドの聞き捨てならない一言に、シドは呆けていた表情を引き締めた。

「ところで、あんた。何か私に用があったんじゃないの?」

 言いたいことは言い切ったのだろう。リエッタはこの話はもうおしまいと言わんばかりに、話を強制終了して、自分の聞きたいことを聞いてきた。


 シドの家で女性は母親と三歳の妹しかいないく、女の子の友人もほとんどいない。乙女の知り合いはいるが、自称なので女子とは言い切れない。そのためか、女子のかわいい物に対しての感覚や、天気の話を話していたかと思えばおしゃれの話に急変するような、急な話題転換は時折ついていけない。

 急なことで思考が停止して、シドは何を言うべきか忘れてしまった。

「? 用がないなら、私行くけど?」

 リエッタは表情が動かなくなり、飾られている鎧の様に固まったシドに怪訝な顔になった。

「……っは。あります、あります、用が!」

「そう? で、なに? 先輩が教えてあげるわよ」

 先輩メイドは、自分の腰に両方の手を当てて聞いてきた。

「ヴァリアス様のご実家のウィルフズ家ってどこにあるんですか?」

「は?」

 腰に手をあてたまま、先輩は呆れ顔になった。


「いや、ヴァリアス様が実家で雇ったんだから、そっちにいって仕事内容とか聞いて来いって……」

 シドは慌てて言い訳じみた事をいうと、リエッタは頭を斜め下に傾け、こめかみに一指し指を当てて軽く揉むような仕草をした。

「別に、仕事内容を知らないのは仕方が無いわ。詳しくは雇い主に聞くほうが今の主流だと思うから。でもねぇ……私が呆れたのは、仕える方のご実家を知らないことのほうよ」

「え? 普通分からないんじゃ?」

「アマいっ!」

 シドに向かってビシッと指が指された。

「へ?」

「真の使用人とは日々の暮らしにおいて主人に不快な思いをさせることのないようにする、これ唯一つ! ご実家の家族関係やご友人。主人の好み等々、情報収集は当然の仕事よ! 使用人であるなら、そこんとこに常に目を光らせてなさい!」 

 分かった! と強い語気で言われ、シドは反射的に背筋を伸ばした。

「は、はい!」

 勢いに押されるように声がでた。敬礼もつけようかと思ったが、そんなことをすれば、茶化すんじゃない、と先輩メイドに怒られそうだったので、シドは心の中で考えるだけにとどめた。


 シドの返答に満足げに頷き、リエッタはずっと指していた人差し指を下ろして、腕を前で組んだ。

「そうそう、ご実家だったわね。貴族街にあるからちょっとここからは遠いわよ?」

 そう言いつつ、リエッタは道を思い出しているのか、視線を空に向ける。数秒たってから視線をシドに戻して口を開いた。

「貴族街は本道と幾本もの小道が屋敷を囲むように通っているの。目印を覚えれば結構簡単に覚えられる道なんだけど……」

 ちょっと困ったような表情でリエッタは言葉を切った。

「……道なんだけど、ですか?」

「しょうがないでしょう。泥棒よけにその目印を定期的に変えるんだもの、あの街。私だって全部覚えているわけじゃぁないのよ。まあ、その中でもこれだけは変えないっていう目印があるから、それで教えるわね」

 リエッタの説明に、シドは単純に、金があるところは大変なんだなぁ、と思った。

「ちょっと、聞いてる? 一度しか言わないわよ」

「あ、はい。聞いています」


「まず―――……で、歩いていくと赤煉瓦の壁の途中に小さな四角い花壇があって、その中央の壁に葡萄の木とそれを収穫している三人のレリーフがあるから探してみて。そして、そのまま進んで壁の角を右に曲がるでしょう。そこから、次の屋敷はどこからだよってツッコミたくなるくらい歩いていると、煉瓦の色がこげ茶に近い褐色いろに急にかわるの。そこからが次の屋敷になるから。その屋敷の壁を……そうね、貴族街ってわかりにくいし、門はどこだよって泣きたくなるくらい沿って歩いたら、向かい側に太陽の色のような橙色が入った赤い石壁が見えるわ。日差しを浴びるとキラキラ光る壁だからすぐにわかると思うけど、その赤い壁の屋敷がウィルフズ家よ。壁に沿って歩いていれば、門はいつか見つかるかもしれない、とだけ言っておくわ。……分かった?」

「わ、分かった様な、分からない様な……」

 とりあえず、貴族街はたくさんの壁に囲まれて迷子になりやすいところなのだろう、という事は理解できた。


 シドは不安そうな顔になったが、リエッタはシドの曖昧な答えが気に入らなかったようだ。

「……分かったわね?」 

 にっこり笑ってリエッタがもう一度聞いてきたが、その背後にはどす黒いなにかが蠢いているようにシドは感じた。

「……わ、わっかりましたー」

 シドは背をそらし、引きつった顔になりつつも小さな声でいいお返事を返した。

「よし。じゃあ、早速行ってらっしゃいな」

「は、はーい」

 逆らおうなどとはちっとも思いつかないほど、シドはりエッタの迫力にびびりつつ、猛獣から視線をそらさないようにして後ろに後退するように、ゆっくりとリエッタから離れていく。数歩後退してから、リエッタに背を向け、一階の玄関ホールへと続く中央の階段を心なしか早足になりながら降りていく。


 玄関ホールにたどりつき、今にも玄関の扉をあけようとしたシドの上後方からリエッタの大きな声が響いた。

「がんばってねー? 新人クン」

 何をがんばるのだろう、と疑問に思ったが、先輩からの応援にシドは声のするほうへ振り向いて元気に挨拶を返した。

「はい! いってきまーす!」

 玄関をでて、小走りに鬱蒼とした庭を抜け、シドはリエッタに教わった道順を復唱しながら貴族街のほうへ向かっていった。

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